極限1・2・3・4・5


(本文より)
第1部は「極限」と題し、
生と死のぎりぎりの状況に置かれた人の心理と行動から
戦争の真実の姿を伝えたい。

筑田(つくだ)六郎さん(79)=札幌市
「空母は炎上、波間で樽が頼り。すがる兵を私は・・・」


両腕で抱え込んだ八升樽だけが、命綱だ。
乗り組んでいた航空母艦から大海原に投げ出され、
重油で滑る手で樽につかまった。
そのとき、この「命綱」に手を伸ばしてきた一人の兵から
無意識で身をかわした。
二人で分け合うには、樽はあまりにも小さく頼りなげだ。
重油まみれで顔の判別もつかないその兵は、
しばらくすると姿が見えなくなった。

海軍航空隊にあこがれ、
1943年(昭和18年)、18歳で志願兵となった。
早くに両親を失い、悲しむ人もいない身なら
早くお国のためにという思いもあった。
当時主流の爆撃機「彗星(すいせい)」の整備兵として、
空母「翔鶴(しょうかく)」に乗り組み、南方で訓練を繰り返した。

翌年6月19日、マリアナ沖海戦。
米軍の機動部隊を集中攻撃する”「あ」号作戦”の決行日だった。
帽子を振って出撃機を見送り、昼近くなったころ、
大きな衝撃が翔鶴を襲った。
右舷に魚雷4発を打ち込まれた。

積み込んだ弾薬類が誘爆し、あちこちから火が噴き出す。
すでに甲板は大きく傾いている。
火を逃れて走り回るうち、海に転落した。
腰か背中を強く打った気がしたが、それどころではない。
非常用の浮きとして積み込まれた八升樽を運良く手にし、
それにしがみ付くことしか頭になかった。
真ん中からポキリと折れ、大きくかしいだ翔鶴は、
燃えながら前のめりに海に消えていった。

何時間たったろう。
20~30人が吹き寄せられたように、
つかず離れずで波間に浮いていた。
嘆きや悲しみの言葉も、励まし合うことすらなく、
ただ無言。
そこにあるのは、自らの「生」への執着だけだ。
3千人ほどの乗組員がいたはずだが、
周囲にはほかに人影も見えなかった。

駆遂艦に助けられたのは、夕方近く。
ロープで引き揚げられ、
マグロのように甲板に並べられて水をかけられた。
すべては夢のなかのできごとのようだった。

樽に手を伸ばしてきた兵のことを思い出した。
陸上でなら、駆け寄ったかもしれない。
しかし、命綱が小さな樽だけという極限で生き延びるには、
こうする以外、なすすべはなかった。

【追想】

筑田さんに「戦友」はいない。
陸軍は本籍地ごとに「師団」に編成されるが、
海軍は出身地別ではなく、復員後はばらばらになるうえ、
翔鶴の元乗組員の生存者も少ないためだ。
筑田さんは戦後30年ほどたってから、
小樽出身の1人を訪ねてみたが行方はわからなかった。
「でも温めあいたいような、きれいな思い出ばかりじゃないですから」


『北海道新聞社許諾 D0504S81T0104(-'05.04.30)』


『戦禍の記憶 極限2-北海道新聞 H17年1月13日掲載』

井森あい子さん(87)=札幌市
「引き揚げ列車から坊や転落・・・母親無言 ただ涙」


緩やかに流れる大きな川に汽車が差し掛かったとき、
何かが列車から転がり落ちた。
その小さな影は、木の葉のように川にのまれ、
みるみるうちに遠ざかっていった。
隣でぼうぜんとその影をみつめる女性の手には、
いるはずの幼児の姿がない。
「奥さん、坊やは?」
尋ねかけて、はっとして口をつぐんだ。

追われるように旧満州(現中国東北部)のハルビンを出たのは、
1945年(昭和20年)8月15日の敗戦直後。
軍属の夫と6年ほど満州で暮らし、
2ヶ月前に娘が生まれたばかりだったが、
敗戦直前にソ連軍が国境を越えてきたためだ。

普段着のもんぺ姿で、背中に娘を背負って、
両手におむつを下げた。夫は仕事で別行動。
預金も宝石も着物も、
金目のものを持ち出す余裕はなかった。
ただ、夫の給料日直後で、
財布に月給がほとんど手付かずであることが
わずかな支えだった。

汽車があるところは乗り、なければ歩く。
食べ物を手に入れるのも一苦労。
ようやく汽車に乗っても満員。
屋根のない貨車にただ詰め込まれるだけで、
トイレがあるはずもない。
子どもが用を足すときには、
大人が外に向かって抱えていた。
幼児が汽車から落ちたのは、そんな時だった。

20代半ばに見えるその母親は、
4つか5つくらいの男女1人ずつの子どもの手を握り、
赤ん坊を背負っていた。
名前も知らなかったが、
同じ子ども連れということもあって、
親しみを感じていた。

たった1人の子どもですら、
守りきれるかどうか不安に襲われるのに、
彼女は3人の子どもの命を抱えている。
二人の子を生まれてすぐに病気で亡くしているが、
もしその子たちが生きていたら、
自分も彼女と同じく、
3つの命の重みに、
耐えかねていたかもしれない。
みんな死なせてしまうよりは、
1人でも2人でも助けたい-そう考えても、不思議はない。

一方で、母親ならわが子を手にかけるなど、
絶対にできないとも思う。
「落とすつもりじゃ、なかったのよね?」
肩を抱いて、慰めるように声をかけたが、
彼女はうなずくことなく、ただ涙を流していた。


『北海道新聞社許諾 D0504S81T0104(-'05.04.30)』


『戦禍の記憶 極限3-北海道新聞 H17年1月14日掲載』

山本光男さん(80)=岩見沢市
「心の中で「許して」と女性の脇を銃剣で付いた
              -中国人虐待 脳裏に」


函館出身の見習い士官が中国人に殺された。
分隊長は
「この集落の人間は皆殺しだ」と泣きながら怒った。
夜、家の戸を小銃でたたき、女性二人を連れ出す。
女性は恐ろしさのあまり震えている。
「山本ちょっと来い」。 
「山本参りました」。

分隊長は
「おまえ、まだ人間を突いたことないだろうから今、突け」
と命じる。
「自分は突けないのであります」
と私。
「山本、分隊長の命令は何だと思う。
 上官の命令は恐れ多くも大元帥(天皇)陛下の命令だぞ」

後ろで分隊長がにらんでいる。
私は仕方なく、心の中で「許して下さい」と謝って
女性の脇を銃剣で突いた。 
戦後60年たった今でもその時の女性の「グワ」という声が
脳裏から離れない。

この少し前、分隊長は畑で捕まえた男性を裸にし
後ろから刺した。
「痛い」という悲鳴から飛んできた17、8歳の娘が
「父は何も知らないから許して欲しい」と訴えたが、
分隊長に銃剣で胸を突かれ息絶えた。

1945年(昭和20年)5月から7月ごろにかけて、
中国の黄河の南方。
私は前年12月、
旭川の第7師団に入隊したばかりの初年兵だった。
当時、20歳。
第一線で日本軍人が中国人を犬猫同然に扱うのを見た。

後方からの食糧受け取りがうまくいかないと、
中国人集落から略奪した。
ある村は、他の部隊が襲ったあとだった。
上官(上等兵)は頭に来て、
ちょうど帰ってきた60歳ほどの中国人の腕を縛り、
棒で殴って「この穴に入ってイモを持ってこい」と、
室(保存庫)に押し込んだ。
上から火をつけた乾燥草を入れ、約50キロの石でふたをした。
老人が石を押しのけて上がり、池に飛び込んで逃げると、
上等兵はれんがを投げつけた。

セリの帰りに牛を引いた親子3人の男性が
日本軍に捕まった。
「腕組みしていて、ふていヤツ」という理由だった。
牛2頭は道端で打ち殺された。
親子は河川敷に引きずり下ろされ、
5メートル間隔に立たされた。
古年次兵は中国人1人につき10人ほどの初年兵に
銃剣で突かせていた。
心臓以外を突かせ、中国人が座り込むと、
無理やり立たせた。本当にむごかった。

【追想】 憎しみを理解

山本さんは、復員途中の中国・上海で、
「4、5歳の子供が後ろから
 安全かみそりで切りつけることがあるので、
 単独行動しないよう」注意を受けた。
「日本兵はひどい虐待をしたので、
 それぐらい憎しみを受けた」という。
空知管内栗沢町に帰り、親の後を継いで農業を営んできた。

「当時は、中国人や朝鮮人を人としてみない教育があった。
 今も首相の靖国神社参拝に反対するのが分かる」
と中国人の感情を理解している。


『北海道新聞社許諾 D0504S81T0104(-'05.04.30)』


『戦禍の記憶 極限4-北海道新聞 H17年1月15日掲載』

平野晴愛さん(84)=小樽市
「体重は半分に。敵は米軍ではなく飢えだった
             ウジ虫を奪い合い」


160センチ、60キロの甲種合格の体が、半分近くまでやせ細った。
32キロ。
この体からそぎ落とすことができるのは、命以外にない。
弾に当たって死ぬのは覚悟したつもりだったが、敵は米軍ではなく、飢えだった。

メレヨン島(現米国領ウォレアイ環礁)は、
西太平洋ミクロネシア連邦の20ほどのさんご礁の小島郡で、一番大きな島でも直径1、5キロ程度。
島には、現地住民500人ほどと、ヤシの実を採る日本企業の社員が何人かいるだけだった。

この島に1944年(昭和19年)春、約6500人の日本軍が上陸した。
日本軍が建設した一本の滑走路が唯一の軍事施設。
戦略上の重要度は低く、B29による本土爆撃が可能となるサイパンなどから
米軍の目をそらす"おとり"の意味合いが強かったようだ。

しかし、メレヨン島への米軍の攻撃は日本軍が陸揚げした食糧や弾薬の空爆が主。
南方戦線が緊迫を深め、物資の補給はなく、守備隊には「自活」の指令が出た。
1人50グラムのコメが一日の支給食糧のすべて。
それもすぐに底をついた。 
農耕班がサツマイモやカボチャを育てたが、さんご礁の小さな島では
大勢の兵を養うだけの実りは望めない。
畑ではたびたび盗難が発生する。犯人は数日でわかる。 
便が違うからだ。犯人には絶食の罰が下る。

「島の守り神」といわれていた1メートル級の大トカゲは、すぐにいなくなった。
人さし指ほどのカナヘビは、焼くと縮むので生で食べた。
熟れて落ちたヤシの実に付くウジ虫は甘味があり、奪い合うようにして食べた。

頭には食べることしかない。
ネズミの穴がどこにあるか、ヤシガニがどこに出るか。
故郷の思い出や家族の顔は浮かばなくても、正月に食べたぼたもちや母のつくる三平汁を夢に見る。

体力のない者、食べ物を確保する技術のない者から倒れる。
さっきまで話をしていたのに、気付くと冷たくなっている。
埋葬する穴を掘る体力もなくなり、放置された。

6500人の兵のうち、道内出身者の約1500人を含む約5000人が亡くなった。
空襲で死んだのは、100人程度で、ほとんどは餓死と病死だった。

【追想】

復員船第1号の「高砂丸」で、豆腐とネギのみそ汁を口にした瞬間、平野さんは死んだ仲間を思い、涙が出たという。
平野さんは、仲間の遺骨収集のため、これまでに12回、島を訪れた。
「現地住民に食べられる植物を教わるなど世話になった」ため、島の子供たちに文房具を贈るなど交流も続けている。
戦友会「全国メレヨン会」の事務局長でもある。


『北海道新聞社許諾 D0504S81T0104(-'05.04.30)』


『戦禍の記憶 極限5-北海道新聞 H17年1月16日掲載』

松村静夫さん(84)=函館市
「避難民集まる洞窟に米軍が火つけたドラム缶
                 沖縄戦 必死の生還」


軍隊では「天皇陛下万歳」と叫んで死ぬよう教えられたが、
実戦では「お母さん」だった。
旭川第7師団に入り、満州の山3474部隊に配属、
1944年(昭和19年)8月、沖縄本島に派遣された。
翌年4月1日、米軍が上陸した。

9日午後4時ごろ、小隊の30数人に「今夜、切り込みに出撃」の命令が下る。
みな無口だった。
写真を眺めて故郷の親や妻子を慕う。
肌身につけた写真以外のものは畑の土の中に埋めた。
満州で召集された兵士はみな妻子もちだった。
目から涙が流れていた。

夕闇が迫り、銃剣と手りゅう弾の軽装で出動した。
敵陣近くなると、照明弾がひっきりなしに上げられ、地面に伏せる。
山の頂上まで登った時、米軍が機関銃の一斉射撃を始めた。
中隊長の突撃命令が聞こえる。
「やられた」「お母さん」と叫んで倒れていく声があちこちから聞こえ、
大混乱になった。
倒れた戦友の軽機関銃を取り、前進する。また、突撃命令。
中隊長も小隊長も班長も撃たれた。
無我夢中で集合場所に着くと、小隊は戦死者10数人、けが4、5人に上っていた。

昼は、墓の中に隠れ、夜は、たこつぼ陣地を山の斜面に造った。
深さ1メートルの穴だ。木の枝で覆う。
砲弾がさく裂すると、生きた心地がしない。

たこつぼ掘り中に迫撃弾の至近弾で負傷して、野戦病院入りした。
この間に山部隊は総攻撃を開始、わずか2日間で数千人の死者を出した。

5月中旬、前線に戻された。
歩ける兵隊は島南部に閉じ込められた。
道路を歩いても身を隠す壕は見当たらない。
やっと部隊の集結場所を探し当てても壕は満杯で食糧はない。
暗闇の中に、松林の燃え残った幹がくすぶって見えた。
近づくと、天然洞窟で、すり鉢のような穴のそこで住民や兵隊が夕食を炊く煙だっ
た。
中には避難民2、3百人と兵士がいた。
入ってみたが、横になって寝る場所はない。
入り口真下の岩に腰掛けた。
6日目に米軍が、火をつけたドラム缶を投げ込んできた。

穴の奥へ潜った。
立って歩ける所はなく、川の流れに沿い、時には泳ぐ。
狭い所は高さ30センチ。
目の前に滝が現れ、ついに野戦病院の壕に出て、生き延びた。

【追想】 体験記を出版

松村さんは、この野戦病院の壕でも火のついたドラム缶を投げ込まれ、やけどした。
9月2日、米軍の捕虜になった。
収容所にいる時のメモを元に1995年に体験記を自費出版した。
沖縄戦の死者は住民約9万4千人をはじめ、道内出身の軍人軍属約1万千人ら計約20万人に上る。
道内出身者は都道府県別で沖縄に次いで多い。
「隠れる場所のない地域に住民と兵士が集結して、火炎放射器などで殺された。
 沖縄戦集結がもう少し早ければ、住民ももっと助かったのに」と話す。


『北海道新聞社許諾 D0504S81T0104(-'05.04.30)』



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