2006年覚え書き-1

2006年覚え書き-1

★★長野・知事選「宴のあと」のあと
           吉川 徹
           多津衛民芸館主宰 元長野県望月町長


おとなしい馬は誰でも乗りこなせる。しかし名馬にはならない。暴れ馬を乗りこなせた時、
その馬は本当の名馬になる。そこには、馬と人との激しい葛藤があり、それを超えたときの
共感と感動があるという。長野県民は名騎手になれなかった。

田中県政は6年前、長く続いた官僚的県政への反発を背景に誕生した。だから、県政改革は
まず既得権との闘いとなり、そこには摩擦が生ぜざるを得なかった。

外郭団体への補助金は大幅に削減され、天下りはほとんど出来なくなり、県職員OBの既得権が
奪われた。公共事業の入札は元札の95%以上落札が常識だったが、郵便・電子入札の導入
などで70~80%台となり、土木建築業者の既得権が失われた。かつて県会議員は
地元とのパイプ役として活躍したが、車座集会などを通して県民と県行政が直接つながって
しまい、県会議員の活動分野が狭められた。

マスコミ関係者は記者クラブを通じて情報を独占できたが、「脱記者クラブ」で誰にでも
情報が同時に公開され、有力マスコミの記者たちの特権が奪われた。県下最大の労働組織は
労働委員の組合枠を独占してきたが、1名を他の労働組織に振り分けたことで反田中となった。
県関係の公務員は、給料を5~10%削減され、長年の闘いで勝ち取った「権利」を奪われた
という感情を拭い去れなかった。

田中県政改革は、規制緩和・効率化・産業活性化・格差社会という国政の改革とはかなり性格
を異にしていた。合併しない小さな町村を援助し、30人学級や託幼老所設置に力を注いだ。
そして、「公」の意味を問い、地域の「自律」、県民が主役の「行動する民主主義」を説いた。
実際に、今まで光の当たらなかった地域の小さな団体をも支援した。国政からみると、地方
おける「おまかせ民主主義」と「善政」は包括できるが、「自律」と「行動する民主主義」は
許容範囲を超えており、許せなかったのではないか。なぜなら、そこにはレジスタンスの
萌芽があるからだ。

そして今度の選挙は、この既得権を奪われた人たちの反田中連合が組織選挙を展開し、国政を
担う人たちがそれを支援した。既得権はその多くが自らの生活に直結する。だから真剣である。
一方田中支持派は、田中氏の登場で自分が直接の利益を得たわけではない。「公正」という
形での利益は見えにくい。日本全体が田中改革とは対極の方向に進む中で、風の吹かない
勝手連の活動はあまりにも弱かった。田中支持派も多くが「おまかせ民主主義」の域から
脱しておらず、楽観論の中にいた。

かつて田中氏を支持し、今回は反田中になったある識者は「政策はいい、手法が悪い」といった。
政策はいい、それは名馬への可能性である。手法が悪い、それは理想をかかげ、現実との間で
摩擦を起こすあばれ馬である。それを乗りこなせなかった長野県民は、「お気の毒様」と
言われてもやむを得ないが、私もその「気の毒な県民」の1人である。「目覚まし時計」を止めろ
と識者は言ったが、選挙が終わって初めて目が覚めた人もいる。

「行動する民主主義」というものが多数派になるのはまだ先かもしれないが、田中県政は、
県政への県民の関心を高め、自治について大きな問題を提起したことは事実で、今後は私たち
県民自身が「自律」してこの答えを探していかねばならない。新知事は「県政を後戻りさせない」
という。「手法」は変えても、田中県政の「政策」は後戻りさせないということなのだろうか。
「宴のあと」の後にくる光はどこから射してくるのだろう。


★★ 田中康夫氏敗退の長野知事選に思う
(2006年08月27日(月) 萬晩報主宰 伴 武澄)

田中康夫氏敗退の長野知事選に思う

             2006年08月27日(月) 萬晩報主宰 伴 武澄

 8月6日の日曜日、長野県知事選の投開票があり、田中康夫知事が前自民党衆院議員の村
井仁氏に敗れた。6年前、オリンピックによる大規模公共事業で財政が崩壊寸前の長野県に、
ヤッシーこと作家の田中康夫が彗星のごとく現れ県民の圧倒的支持を得て知事に就任した。

 素人に何ができるか、というのが大方の玄人の見方であった。県議会と役人との癒着に対
していつも批判的であったメディアでさえ、歓迎はしなかった。朝日新聞長野支局は田中知
事と全面対決の様相に入った。

 それでも産経新聞長野支局などは田中知事の一日を追う異例の「田中知事ダイアリー」を
書き続けた。脱ダムだけではない。何を言い出すのか、何をやり出すのか。田中知事の一挙
手は全国的関心の的になった。

 脱ダムはその発想からして大きな関心を呼んだ。防災にはダムが不可欠だという中央官僚
の論理に徒手空拳で手向かったのだから、喝采を浴びた。旧来にない発想と行動力で、土建
屋中心の日本の地方自治に相当程度風穴をあけてくれたのだと思う。

 記者クラブの廃止や知事の任期を3期12年に制限するという問題提起は並みの政治家に
はできない発想だった。無党派知事として作家からの転身だったから、手勢を抱えていたわ
けではない。長野県庁内では四面楚歌。そんな孤立無援の状態からの出発は初めから分かっ
ていた。

 田中知事に何もかにもできるはずはない。ただ旧態然の行政手法で赤字を垂れ流すしかな
い役人政治に田中知事なら何か仕掛けてくれるだろうと多くの県民は期待したはずだ。否、
多くの国民が期待した。僕もその国民の一人である。だからこの6年、何回か田中知事のこ
とをコラムに書いて応援した。

 ■育たなかった田中知事を支える県会議員

2000年10月16日「田中康夫知事誕生で思い出した桐生悠々」 と題してコラムを書
いた。以下その一部の内容である。

「よもやと思ったがそのよもやが起きた。田中氏が58万票に対して次点の池田典隆・前副
知事は47万票と予想外の大差がついた。昨夜、この結果を速報で聞いて長野県民がうらや
ましく思った。うらやましく思うのはこの1カ月県民の多くがわくわくするような時間を過
ごしただろうと想像したからだ」

「まず長野県民に求めたいのは性急な結果を求めてはいけないということだ。まず、県議
会議員の多くが土建屋体質を維持したままで、いまの県政がそう簡単に変わるとは考えられ
ない。そして何よりも長年のカルテル的治世によって多くの県職員が旧世代の基本ソフト
(OS)にフォーマットされたままであることを理解しなければならない」

「変革にはトップの交代は不可欠であるが、アメリカと違って長年、日本では官僚が多くの
政治的な意思決定に関わってきたため、一夜にして変革がもたらされるわけではない」

「官僚の仕事のやり方はそう簡単には変わらないし、議会と結託して知事のリーダーシップ
を棚に上げて行政を執り行う性癖は何も中央官庁だけの話ではない。むしろ地方官僚の方が
変革に対して頑固に抵抗するものなのである」

「そうした状況で性急な結果を求めれば、落胆しか待ち受けていないことをまず知るべきで
ある。自分たちで選んだ首長を長い目で育て上げるくらいの余裕がほしい。むしろ来るべき
次の県議選で田中知事を支える政策集団を輩出できるよう準備を怠らないことである」

 知事就任から6年を経てもなお、自らの政策集団と議会内応援団を得られなかったのは田
中氏自らの責任かもしれない。

 ■結果的に知事を窮地に陥れたマスコミ

 半年前に 「田中康夫を超えられるというのか」 というコラムを書いた色平哲郎さんに以下
のような内容のメールを送ったので紹介したい。

「田中知事に対してどうしてマスメディアが好意的でない理由をお教えしましょう」

「まず田中康夫が記者におもねらないことが大きい。次いで普段の接触が少ない。最後に地
方にいる若い記者のほとんどは社会部デスクに牛耳られて、事件事故が最大の関心事となっ
ている。この三つです」

「地方にいる記者の半分は半ば「研修中」で特ダネを書かないと東京にあがれません。問題
提起などに関わっている閑がないのです。残りの半分は東京に上がることを断念した記者で
す。彼らの多くは日々つつがなく過ごすことが生きがい。問題提起にはほとんど関心がない
のです」

「だから、日本の地方にいる大手マスコミの記者には日本の政治や財政が直面している危機
を理解している人材はほとんどいないと思います。三重県でも同じです」

「問題は、記者たちは日々、役人たちと付き合っているわけですが、記者側に問題意識がな
いため、というよりか自分で勉強しようとしないため、ほとんどの情報を役人に依存するこ
とになります。役人は圧倒的に多くの情報をもっているから仕方ない部分はあるのですが、
ここで記者たちは役人の発想に完全にフォーマットされていきます」

「役人を批判しているつもりでも「お釈迦様の手のひらにいる孫悟空」状態なのです。田中
康夫的発想はもう理解のかなたにあるといっていいでしょう」

 記者には批判の精神が必要だとされている。公共事業一辺倒だった時代は予算の無駄遣い
という形で県政批判していればよかった。こんどはその公共事業はいらないという考えの人
物が知事になった。それなら全面的に応援すればいい。だがそれでは記者の沽券にかかわる。
“権力”におもねるわけにはいかない。

 どう考えてもこの国の政治は変わらなければならないのに、本気で変えようとする政治家
に対しても“批判”してしまうのが記者の習性なのである。役人の格好の餌食となることを
知りながら権力の味方にはなれないというメディアの悲しい性がここにある。

 ■危機感を失いつつある日本

 予想通り、田中知事は仲間意識の強い県庁内で煙たがられ、県議会では四面楚歌となった。
田中知事の新しいアイデアがほとんど議会を通らないのだから、辛かったに違いない。県議
会と県庁を敵に回してよく6年間も戦ったものだと思う。ひとえに有権者の支持が支えにな
っていたはずだ。その点では小泉純一郎首相と似ていなくもない。

 その有権者が今回なぜ田中康夫離れをしたのか。直感的に思ったのは、景気回復である。
90年代後半からの日本経済は景気後退、金融不安、失業問題の三重苦だった。みんなが
「これではいけない」という危機感を持った。小泉首相もそんな国民の悲壮感の中から誕生
したし、長野県民も政治ど素人だった田中康夫に期待を寄せたのだ。

 それがこのところの景気回復である。貧富の格差拡大などとの批判もあるが、とにかく企
業業績は絶好調で、株価は上がり、失業率も大幅に改善した。6年前の悲壮感からすれば景
気は確実に回復しているのである。

 のど元すぎればなんとかではないが、危機が去ると有権者はもう「ふつう」の政治家を
選ぶものなのだ。どこの自治体でも議員といえば利益誘導型がほとんどである。その利益誘
導型議員で構成される議会が田中康夫的知事を容認するはずがない。改革志向の人物を県議
会選挙で当選させるには時間がかかる。

 田中氏には国民のためにもう1期やってほしかった。改革推進には有権者の後押しが不可
欠なのに、多くの有権者には我慢の持続ができないようである。

 願わくば、村井新知事が改革の火をともし続けて欲しいということであるが、選挙を支援
した母体が母体だけにほとんど無理であろう。

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★★ あえて勝利第1主義を採らなかった田中流選挙の美学と達観
(ちょいマジ掲示板 06/8/25(金) 19:14 )

あえて勝利第1主義を採らなかった田中流選挙の美学と達観

 田中知事はなぜ敗れたのか?

 マスコミほか議員HPや各種の市民HPでいろんなことが言われてきたが、戸田が分析す
るところを述べておく。これが最も真相を突いた分析であろうと戸田は自負を持っている。

 4年前は対立候補にダブルスコアで勝利した田中知事が、今回は約7万8千票差で敗れた
ことが「大差での敗北」と言われている。たしかに「田中離れ歴然」ではあった。
 しかし戸田の見るところ、田中知事であればちょっと選挙戦術に工夫をすれば8万票程度
の差は楽に逆転することができた。著名人を呼んで話題づくりと街頭大宣伝をし、辻元清美
や市民の党型の「全国ボランティア大結集選挙」を展開すれば、絶対に勝てたはずである。

 しかし田中知事は、あくまで「著名人田中康夫」ではなく「知事田中康夫」の実績判断を
市井の人々に委ね、その人々の見識と自発的な動きに期待する「田中流理想選挙運動」、田中
知事の言葉によれば「ウルトラ無党派」型選挙運動を頑強に堅持した。
 全国ボランティア・市民派の結集を呼びかけず、どちらかと言えば自粛姿勢を取り、街頭
動員もほとんどせず、候補者カーでは自分1人だけがマイクを握り続け、おまけに豪雨災害
対策でまともな選挙活動は全期間の後半分しかしなかった。

 いくら支援者や側近がヤキモキしようとも、田中知事はその「田中流理想選挙」スタイル
を変えようとはしなかった。そして田中知事の意志を変えることができる人は誰もいない構
造が頑として存在した。

 戸田が思うに、田中知事は自分の任期5年8ヶ月の中で車座集会に集まったりして自分と
語らい県政改革の思いを共有した数え切れないほどの市井の人々の見識に全てを賭けたのだ。
 そしてもしもそれで落選ならば、長野県民の見識はその程度のものでしかなかった、自分
のもたらした影響力はその程度のものでしかなかったと諦めよう、それ以外の部分で技術的
に票をかせぐやり方には見向きもせずに本筋一本で試そう、と決断したのだろう。

 客観的には「今回田中知事が再選されたら、反田中・利権勢力はさすがにタマが続かず内
部矛盾も起こって瓦解する」と言われていた。
 また「全国政治的に見れば、滋賀県知事選に続いて長野県知事選で自公候補が敗北すれば、
小泉自公政治に終止符が打たれ、安部政権はすぐに吹っ飛ぶ」ことは明らかだった。
 であるならば、理想型選挙に多少の妥協はしても「勝ちに行く」のが常道だと思う。戸田
であれ誰であれ絶対にそうする。

 しかし田中康夫はそれを潔しとせず、あくまで自分の美学を貫いた。それで敗けるならば
それも天命、現在の民度はそこまでのものと達観もした、と戸田は思えてならない。
 真の自治体改革推進の面からも、自公政権打倒の全国政治の面からも、全国民衆と活動家
の志気の面からも、今回の田中知事落選は大きな損失であり、残念でならない。

 もっとも、もっと長いスパンで見た時に、今回技術的工夫で辛勝するよりも「敗北を噛み
しめて再起する」方が良かった、ということになっていくのかもしれない。凡人には今分か
らなくても天才・田中康夫の直感はそう訴えたのかもしれない。
 いずれにしても、日本の民衆は今回の「敗北を噛みしめて再起していく」他はない。 

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★★ 「見識の高まった県民は今度は『しなやかに』村井を選択した」というウソ
(ちょいマジ掲示板 06/8/25(金) 20:56 )

「見識の高まった県民は今度は『しなやかに』村井を選択した」というウソ

 ある全国紙の長野県版で、今度の選挙結果を「田中知事登場によって県政に関心の高まっ
た県民が今度は『しなやかに』村井を選択した」というような記事が載っていた。
 その記事では、ある「普通の主婦」が紹介され、前回は初めての政治行動として田中知事
を支援したが、田中知事の「手法」に疑問が膨らみ、今回は「女性の勝手連的なもの」まで
作ってそのリーダーとなって村井候補を積極支援した、とされている。
 そして「もしも村井知事がダメだと分かったら落選運動を起こす」とものたまい、記者は
「民度の上がった長野県民はこういうふうに『しなやかに』知事を選択するようになった」、
と持ち上げていた。

 ウソをつきやがれ、と戸田は思う。
 この人は体よく自公・財界権力に踊らされただけなのに「自分が主役で活動した」と思い
込んでいる「勘違い屋さん」のひとりでしかない。
 田中知事支援で「運動デビュー」した人が、自分自身に独自で特別な力があると過大評価
して(自惚れて)反田中勢力におだてられ取り込まれていっただけで、村井が知事になった
後は御用済みで捨てられるだけ。

 田中知事だから自由に文句が言えたのであって、知事権力者になった村井にものが言えて
いくなんてことはまずあり得ない。
 村井県政が期待はずれになっても、軸になる人や理念がないから実際には何も運動を起こ
せずぼやくだけになるはず。 

 村井という男が「大日本帝国」が行なった侵略を「自衛行為」と偽る「教科書作る会」の
主軸である右翼連合=「日本会議」の長野県会長であることや、地方破壊のエセ改革の責任者
のひとりであった事等々、大事な事は何も知ろうとせずに支援したに違いない。
 「しなやか」どころか「反田中の言動をすることがかっこいい」かのように思い込まされ、
デマで踊らされた愚かな有権者のひとりに過ぎない。

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★★ 長野県知事選挙に思う(2006/8/8)

泰阜(やすおかむら)村長のblog「私はこう考えます。」 


長野県知事選挙に思う
 田中康夫氏が落選した。知事に対し好意的な地域といわれた下伊那でも14町村のうち、得
票で田中氏が上回った自治体は、4つに過ぎなかった。
 この選挙結果をみて、これは田中康夫氏の完敗である。
 今回、私は、田中康夫氏を支持すると表明をしてきた。ただ、具体的な選挙応援は、ほと
んどしなかった。それは、自分の選挙と同日選挙であったこともあるが、それより、何もせ
ず「県民」の判断をみたかったからである。

 泰阜村へ住民票を移したときも、それを受け入れたのは泰阜村長であるが、その行動が、
知事としてふさわしいのか、どうか、それは偏に県民の判断に待つ以外にない、と言ってき
た。
 つまり、それらも含め、田中康夫氏をどう判断するのか。現職の政治家は、毎日が選挙運
動である。地方の首長は、4年間選挙運動をやっているようなものであり、それが強みであ
ると同時に毎日見られているということは、悪いこともすべてさらけ出しているということ
でもある。
 したがって、今回災害で選挙運動ができなかった影響はない、と考えるべきであろう。
 事実、災害を受けた諏訪、岡谷では、知事をトップとした災害支援の対応が悪ければ、田
中氏の票が上回るようなことはなかったと思う。

 さて、敗因だが、リーダー(知事)として、組織の長として相応しい人物かどうか、とい
うところが争点になったからだと思う。
 私は、田中康夫氏が示す方向性、理念、彼の持つ勘性、情報力は人並み以上だと思うし、
すごい。さらに、政治家として、必要な庶民感覚を持ち合わせている。
 それから、人がいうほど悪人でもなく、純粋さも持っていると思う。
 いろいろ言われても、こんな時代彼のような感覚で引っ張っていっていいと考えていた。
それが支持の気持ちである。

 ところが、県民はそれを選ばなかった。泰阜村でさえ、4割は、村井氏に投票している。
 ただし、田中氏のような個性派は、感覚的にダメ、という人もいるし、もともと反田中と
いう人もいる。その皆さんは、ほとんど投票所へ足を運んだ。田中でいいじゃん、という人
が、どうしても田中でなければ、ということで投票所へ行ったのか、というと行っていない、
ということもあると思うが。

 それらを総合しても、組織の長、としてどうか。
 県職員からあんなに反感を受けるようでは問題。市町村の問題まで口をはさむ、市町村の
権限を無視している。こういった声は、ボディブローのように効いたことと思う。
 また、社会的な閉塞感もあり、どこかへ不満をぶつけたい、建設業の仕事が減ったのも田
中が悪い、田中が代われば、明るい時代がくるという雰囲気もあったのだろうか。

 私もこの13日から4期目が始まる。もう12年間も、村長をやってきた、つまり田中氏
より6年も前から、そして4年も長く、合計10年長く村長をやることになる。
 就任当初、あちこちと対立した。議会との対立もけっこう長引いた。それでも、ここまで
きたのは、一つには「運」である。次は、自分の思い通り(自分のためでなく村民のために)
に施策を実行し、それで評価してくれなければ辞めればいいという、諦観をもったことであ
る。
 でも、この二つは、田中氏も持ち合わせていたと思う。
 もう一つ、私にあったのは、馬鹿になれる、という資質である(と自分で思っている)。
 ようするに、抜けているのである。
 田中氏は、庶民感覚を持っていた。私は、庶民受けをしたと思う。

 課題山積の県政、郵政民営化に反対した村井仁新知事には、大いに期待している。
 田中氏落選で「泰阜村」は、大変ですね、という声も聞こえてくる。大変かもしれない。
しかし、泰阜村を県がみてくれるのではない。私は、泰阜村長として淡々と村民のために行
政を推進するだけである。
 それと、これで、静かな時期が訪れると思う。まさに、原点に返り、在宅福祉に取組み、
今度は村民が脚光を浴びるような村政運営のスタートを切れると思う。田中康夫的な発想も、
十分取り入れながら。

 田中康夫氏もこの結果を冷静に受け止めていると思う。私利私欲なく長野県に尽くしたつ
もりが、県民からノーと言われれば、静かに去るぐらいの覚悟はいつも持ち合わせていたは
ず。
 田中氏の知事として仕事の評価は、また10年後くらいに話題に上る時代が来るような気
がする。

 松島 貞治(まつしま ていじ)  http://blog.st203.net/soncho/









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