2-43 破綻する心



朝子は起き上がった。もう身体は動く。彼女は頭についているウサギの耳を取り投げ捨てると、彼を睨んだ。

「勝手なことばかり言わないで。調べたいなら調べればいいわ。私にはやましいことなんて何もないんだから!! それより・・・半年ちょっと前のこと、あなたはもう忘れたの?」

「・・・」

「あなたは私に次々いろんな服を買ってきては、無理矢理着せようとしてたわよね。嫌がってたら、あの時ついに私を殴って失神させて、意識のない私に着せたのよね、あのタンスの中のセーラー服!!」

篤は耳たぶを爪で掻くと舌打ちした。それを聞いた朝子の怒りが爆発した。

「何よ、チッ、て!! あなたは私を何だと思っているの?! 家政婦?! 売春婦?! それとも着せ替え人形?! あんなことされたら、あなたに抱かれたくなくなるのは当たり前よ!! それをいもしない男のせいにするなんて・・・もういい加減にして!!」

「いい加減にするのは君のほうだ!!」

篤は朝子のむなぐらを掴むと強く揺さぶった。

「君は家政婦でも売春婦でも着せ替え人形でもない!! 俺の妻だ!! 君はただ俺といちひとに暖かい食事と住み良い住環境を提供して、夜になったら夫の俺に、俺だけに身体を開いてくれればそれでいいんだ!! 夫が妻を自由にして何が悪い?! 女のくせに余計なプライドを持ってるからそんな無様な真似をさらす羽目になるんだ!!」

「あなたにとって妻っていうのは、自分専用の家政婦兼売春婦兼、着せ替え人形ってわけね。あなた・・・ずっと私をそんなふうに思っていたの・・・?!」朝子の声が怒りで上ずった。

しばらくして苦しさを感じ彼女が顔をしかめると、篤は我に返り、息が詰まるほどむなぐらをひねり上げていた手を放した。

「ごめん。・・・それに、言い過ぎた」

急激に肺に酸素が送り込まれ朝子は安堵したが、わけのわからない悲しみに心を占領され、後から後から涙がこぼれてきた。朝子の涙を見ると、篤は更に優しい声で彼女を諭した。

「俺だって無理して泣いてる君を抱きたくはないよ。俺は・・・君の身体だけが欲しいわけじゃない。・・・心を開いてほしいだけだ。君は、今も俺に心を閉ざしてる。俺は、明るくて優しい、太陽のような君が好きだ。・・・今すぐじゃなくてもいい、いつか、心から俺を求めてくれれば・・・その時に子供を作ればいいよ。・・・君が悪いわけじゃない。のど、苦しかったろう。ごめんね」

朝子は何も言えず、ただ泣きながら首を左右に振った。何一つ、彼女は言葉を発することができない。何か言おうとすれば・・・風船から空気が抜けると必ず小さくなってしぼむように、間違いなく私は壊れてしまう。

変わらず泣き震えている朝子に、篤は沈んだ声で言った。

「疑って・・・ごめん」

朝子は部屋を出て行く篤の背中を見送ると、声を上げ更に泣きじゃくった。

彼女は涙を拭きもせず、混乱する自分の頭を両手の拳で殴り続けた。

「バカ・・・バカ・・・っ!! 悪いのは・・・悪いのは、私よ・・・最低よ!! 私なんて・・・最低よ・・・・・っ!!」

どうしても篤に身体を許せなかった。

そのうえ、本人が十分反省し、もう忘れたいと思っているであろうあの出来事を蒸し返してしまった。有芯から話をそらすことができてよかったけど・・・。

でもこのままだと、証拠を作れないまま、お腹の子がどんどん大きくなる。

いちひと・・・・・

有芯・・・・・・・

この子を産みたい。この意思だけは絶対に変わらない。

どうしたらいいの・・・・・?! どうしたら・・・。

篤・・・私・・・・・私・・・・・!

朝子は滝のように自然に流れ落ちる涙で着々と広がっていく枕カバーの灰色のしみを見ていた。つわりで水もろくに飲めないのによくもこんなに涙を流せるものだと、彼女は無感動に思った。彼女の心は指に乗せたカバーガラスのように、油断した途端一瞬で砕け散ってしまいそうなほど追い詰められていた。

もうだめ・・・もうどうしようもない。

何かを得ようとすると、何かを必ず、失う。

私には何も選べない。・・・こんな私なんかに、何かを選ぶ資格など全くない。

消えてしまいたい。もう、終わりにしたい。

みんな私のことなんか忘れてしまえばいい・・・何もかも。

1時間ほど絶望の淵を彷徨い、朝子はやっと顔を上げた。もう、泣いてはいない。

「・・・決めた」

朝子は立ち上がると、おもむろにキッチンに向かって歩き出していた。




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