2-74 振り返らない



駅へと続く夜の地下道は、夏の空気が色濃く残る地上と違いひんやりとしている。冷たいタイルのオレンジ色はくすみ、小さなダンボールを前に置きハーモニカを吹く少年は、途中で手を止め薄いカーディガンを羽織った。

大きめの鞄を手に下げ、冷たいタイル張りの壁にもたれ途方に暮れている朝子を見て、一人の少女がそちらへ近づいていった。少女は10歳くらいだろうか、聡明そうな顔立ちで、赤と白のタータンチェックのワンピースを着ている。

少女は呆然と虚空を見ている朝子に話し掛けた。

「おばちゃん、もしかして迷子?」

「………そうかも、しれない」朝子はほとんど表情筋を動かさずにそう言った。彼女は持ち前の方向音痴振りを発揮し、道に迷ってしまっていたのだ。

面倒見の良さそうな少女は心配げに朝子の顔を覗き込んだ。「泣かないで?」

朝子は苦笑しようとしたが、苦笑すらちゃんとできる自信がない。自分が情けなさ過ぎて、嫌悪感のあまり立っているのもやっとだ。きっとおかしな顔をしているんでしょうね、と思いながらも、彼女は何とか、ゆっくりと言った。

「泣かないよ」

「ねぇ、私、迷子案内所に連れて行ってあげようか?」

なんていい子なんだろう、と思い、朝子の顔に僅かな笑みが浮かんだ。

「あはは、大丈夫よ。おばちゃんは大人だから、自分で何とかできるわ」

「でも、迷子かもしれないんでしょう? 大人の人に聞く?」

「……ありがとう。もう、大丈夫よ。それより……お嬢ちゃんの方こそ、もしかして」

朝子がそこまで言った途端、「雪乃~!」という声がこちらへ近づいてきた。

少女は青ざめた顔で叫んだ。「お母さん!」

「もう、心配したのよ……どこに行ってたの?!」

母親に抱き締められて、少女はみるみるうちに目に涙を溜めた。「ごめんなさい……!」

少女の涙をそっと拭うと、母親は言った。「さぁ、おうちに帰ろう」




有芯は突然大音響とともに居酒屋の椅子から床に崩れ落ちた。彼が手にしていたカクテルグラスと、そばにあったリキュール類の瓶が落ちて割れた。

智紀が割れたガラスを踏まないようにしながら大慌てで駆けつけた。「おいおいおい大丈夫か?! ったく飲み過ぎなんだよ、しっかりしろ!!」

智紀が有芯の両脇を抱え起こし、彼の額をベチっと音を立てて叩くと、有芯はうつろに淀んだ目をうっすら開き、智紀にしか聞こえないくらい小さな声で呟いた。

「朝子………」

智紀は苦笑すると、有芯を支え起こした。「本っ当に、分かりやすい奴だよ、お前は……」

有芯は智紀の顔を見た。その向こうに朝子の笑顔が幻のように浮かび、彼は呟いた。

「もう俺のことなんかを、振り返るな……朝子」




朝子は、母親としっかり手を繋いで地下道から歩き去っていく女の子の背中を見送ると、その場に座り込んだ。そこは椅子のない冷たいタイルの上だったが、彼女に椅子を探しそこまで歩く気力は一分も残っていなかった。

少女のお母さんが迎えに来てくれて、本当によかったと素直に思った。

そして、率直にいちひとの母として至らない自分を責めた。

耳の奥で篤の言葉がこだまする。

“俺なら腹の子を始末するな”

私のことじゃないと思って言ったのは分かってる。

でも…………篤は、やりかねない。

朝子は俯き、腹部に手を当て必死で涙を堪えた。

この子を失いたくない。家にいれば何をされるか分からない……怖い。

「有芯……」

朝子は誰にも聞こえないほどの小さな声で言うと、大粒の涙を一つ、落とした。

「さようなら………有芯」

もう二度と振り返らない。

朝子は歩き出した。どこへ繋がっているのかも、何もかも分からない未来へ。



once第二章 END




第二章、いかがでしたか?

よろしければご感想などいただけると今後の参考にもなりますしありがたいです。

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吉田なさこうへ愛のメッセージ(爆)


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