once 36 朝子の告白



二人はおそるおそる分厚い扉の中に入った。玄関ホールがあるところは洋館らしいが、内装はいたって和風だった。正面左には階段が伸び、そのわきには大きな壷に質素な花が活けられている。飾り棚には陶器でできた猫の置物が目を細めて寝転び、正面右には、長く広い廊下が延々と伸びている。天井が高いせいか、この空間はかなり現実離れしているように感じた。

さっきの若い女性の声が言った。『この正面の廊下をまっすぐ進み、突き当たったら右に曲がってください。一番奥の部屋に、宏信がいます』

「うっわぁ~~・・・どこからか声がする~。すごいねぇ、有芯」

有芯は、いっそう顔を強張らせた。「・・・・・お前、帰れ」

「・・・どうしたの? 急に・・・」

「だって、危ないかもしれない・・・」

朝子はくすりと笑った。「心配してくれるんだ?」

「・・・まあ一応・・・」

「大丈夫! 頼りにならない王子様は当てにしてないわ。自分の身くらい守れるって」

朝子はそう言うと、自分の拳にキスをし、にっと笑った。

有芯は朝子をチラリと見て、ため息をついた。顔はかわいいのに・・・言ってることがかわいくねぇ。

それにしても、長い廊下だ。まるで、これまでの俺の10年を象徴するかのように・・・。

無言で廊下を歩きだした有芯の顔を覗き込み、真っ青な顔色を確認すると、朝子は彼の肩をトントンと叩き、立ち止まった。

「何だよ・・・俺、今マジでいっぱいいっぱいなんだけど・・・誰かさんのせいで」

有芯が意地悪く言うと、朝子は彼を見上げ、微笑んだ。「ごめんね、許して。お詫びに勇気あげるからさ」

朝子はつま先立つと、有芯の前髪を上げ、彼と自分の額をくっつけた。

「目を閉じて」

朝子は言うと、今度は小声で、

「有芯が助けてくれなかったら、私はトラックに引かれてました。あなたの行動力、決断力、乱暴だけど優しいところ、大好きよ」

と言った。10年前にもしてくれた、舞台で緊張し過ぎないための、彼女流のおまじないだ。額を合わせて、良い所を言い合う。しかし、朝子がこれを男女構わず部員全員にやったものだから、当時俺は嫉妬に狂ったっけ・・・。

でも俺には、行動力なんてない。決断力だってない。そのおかげで先輩を傷つけたし、今だって迷惑をかけてるし・・・

そう思った瞬間、朝子にキスをされて、有芯は思わず目を開けた。彼女自身も、驚いて飛びのいた。

その瞬間・・・有芯に昨夜の記憶がよみがえってきた。


―――有芯、私、帰るね・・・

―――朝子・・・行くな・・・

―――お願い、泣かないで・・・。帰れないじゃない・・・ほら、もう寝よ?

―――・・・一人で寝たくない。

――― 一人で寝なくちゃ、ダメでしょ? ・・・分かった、じゃあそばにいてあげるから。ほら、手、握ってあげる。安心した?

―――うん・・・。

有芯はうとうとしだしたが、眠ることができなかった。先輩を抱きたい・・・そう思っても、体が言うことを聞かず、有芯は目を閉じたまま、朝子が帰ることがないよう彼女と自分を繋げている手を強く握った。
そのうち、意識が朦朧としだしたとき、朝子が口を開いた。

―――・・・有芯? 寝たの? ・・・私ね、この10年、ずっとあなたを忘れようとしてきたんだよ。結婚式の日も、子供を産んだ日も、「これで有芯を忘れられる」って、ほっとした。忘れられると思ってた。

朝子は、いとおしむように有芯の頬を撫でた。

―――・・・でも、やっぱり駄目だった。きっともう無理よ、あなたを忘れるなんて。・・・私、心の底で、ずっとあなたを愛しててあげる。・・・きっと死ぬまでね。・・・だから、

有芯は朝子と自分の唇が重なったのを感じた。触れた唇が塩分を含んだ水滴で濡れている。

―――悲しまないで。私を忘れて。

有芯の頬に、暖かな水滴の落ちる感触があった。

―――愛してる。・・・なんて、もう絶対言わない、から・・・。

朝子が、その手で握った有芯の手を、自分の頬に当て声を殺し泣いているのを、彼は目を瞑り朦朧としたまま感じていた。


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