once 57 幸せな笑顔



二人は地元で評判だというちゃんぽんの店に入った。そこは赤い暖簾が掛かったごく普通の食堂で、デートする場所にしては色気がなさ過ぎた。有芯が、ムードを重んじる男であることを知っている朝子は、少なからず驚いた。

「なんか意外だなぁ、有芯が食堂に連れてきてくれるなんて」

「そうか? うーん、でも少なくとも、デートで食堂来たのは初めてだな。嫌だった?」有芯は心配そうに聞いた。彼は自分でもなぜかは分からないのだが、どうしてもここのちゃんぽんを朝子に食べさせたいと思ったのだ。

「ううん。じゃ私が1号~ということで」

朝子が有芯の手を握った。彼は彼女を抱き寄せ額にキスをした。そんな二人を店主がギロリと睨んでいる。

朝子は気まずさを感じ、有芯から少し離れた。「何か、暑いね」

「店員の視線がか?」

「違うよ。汗でベタベタする~」

有芯はニヤニヤしながら言った。「ここに来る前からから汗だくだっただろ」

「もう・・・やっぱり、ちゃんとシャワー浴びてくればよかった」

赤らむ頬を隠すように下を向いた朝子を抱き締め、有芯は囁いた。「いいだろ、どうせ帰ったら、また汗かくことするんだし」

朝子は有芯の熱い視線と、店員の冷たい視線を同時に感じ、冷や汗をかいた。

「ス・・・スケベ」

「そりゃ、男だから。それにお前が・・・」

有芯は余計なことまで言ってしまいそうになり、一瞬口を噤んだ。彼は悲しみが表情筋まで支配してしまう前に言葉を選んだ。「・・・いい女だから」

朝子は複雑に苦笑した。「最高の褒め言葉、ありがとう」

店員が二人の前に音を立ててちゃんぽんの丼を置くと、朝子は目を潤ませて感激した。

この土地名物のちゃんぽんは、たっぷりの野菜と魚介が乗っていて、濁ったスープの中に太めの麺がつやつや光りながら幸せそうに浸っている。

「嘘―おいしそうー泣けてきそうー!」

「・・・韻、踏んでる?」

朝子は呆れる有芯をよそに、本当に泣きそうになって喜んでいる。「ね、食べよう~早く! いただきまーす」

朝子は勢いよく麺を口に入れると、途端に「あちっ」と言い顔をしかめた。しかしすぐ後に、にこっと笑った。

「でも美味しい! 熱いっ! わぁーこれ、美味しい~あっつー!」

有芯は吹き出した。「熱いのと、美味しいの、どっち?」

「両方・・・はふー、有芯も食べなよ、美味しいよ、熱いけど」

「そうだなー、見てたら腹減った」

有芯は箸をとると、不意に笑い出した。

「お前、見てると飽きないな」

「なにそれ、どういう意味―?」

「いや、何でお前をここに連れてきたかったか分かった気がする」

朝子はもう有芯の話も聞かずに、ちゃんぽんをすすっていた。

泣き顔も可愛いけど、お前は笑顔が一番だよ・・・。そう思い、幸せな気持ちで、有芯は箸を進めた。





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