2004年08月12日
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ケマル・アタチュルク資料より


ダーダネルス海峡戦
 英仏側は、味方の損害も大きいことを覚悟せねばならぬが、成功すれば一気にトルコを屈服させ得る大作戦、すなわち、小アジアとバルカン半島とを隔てるダーダネルス海峡を大艦隊で突破して、海路イスタンブールを突くという作戦を立てた。
 地中海から黒海への通路を確保するということは、対独戦で苦戦を続けているロシアへ、自由に兵器や物資を送る道が開けることを意味。
その上、英仏側に好意的なルーマニアへ、武器援助して参戦させ、東側からオーストリアを崩していく道も開けるはずであった。
つまり、ダーダネルス海峡さえ突破できれば、トルコ・オーストリア・ドイツ側に崩壊の連鎖反応を起こさせられると連合国は考えた。
 この大作戦の最高指揮者には、英国海軍大臣チャーチルが自ら買って出た。
 まさに「海峡戦争」が始まろうとする段階で、陸相エンヴェルが東部戦線から横槍を入れてきた。
すなわち、ケマルを格下げにして、海峡防衛に当たる全部の軍団に口出しできる地位から外し、ヨーロッパ側からエーゲ海に突出して、小アジア側との間にダーダネルス海峡を構成するゲリボル半島の、それも予備軍的な性格の強い一軍団のみを指揮させろというのである。
ケマルへの信頼を深めていたザンデルス将軍の抗議にもかかわらず、エンヴェルは横槍を押し通した。

自分が配属される地点こそ、敵が狙っている要地であり、総司令官のザンデルス将軍が自分を信頼しており、いざとなれば事実上の総指揮権を自分に委ねるであろうことを確信していたのである。
そして、ケマルのカンは当たった。
 1915年3月18日、5隻の戦艦を中心とする英仏連合艦隊は、長さ約60キロ、幅が2キロから7キロのダーダネルス海峡へ押し寄せてきた。
・・・・しかし、この日の艦隊突入は、トルコ側にどの程度の防衛力があるかを知るための、いわば「威力偵察」だったらしい。
 そして、やはり陸軍を投入してトルコ側の諸要塞を制圧しなければ、海峡突破は不可能であることを思い知らされた。
 そこで、英仏側は次のような作戦を立てた。
まず、トルコのヨーロッパ領から細長く伸びているゲリボル半島の、大軍が上陸可能な地点に一気に押し寄せる。
そして、起伏の多いゲリボル半島のあちこちに設けられているトルコ軍のトーチカを一つずつ陥れながら、海峡を見おろせるいくつかの高地を確保。
その高地に重砲を引き上げ、小アジア側のトーチカや要塞群を破壊し、次にゲリボル半島の海峡に面している砲台群を背後から攻撃し占領する、というのである。
そうなれば完全に海峡を制圧したことになり、艦隊は無傷で通過できる。
あとは内海マルマラを北上し、イスタンブールに艦砲射撃を行って、皇帝政府を屈服させるだけ。

 この大作戦は4月25日に開始された。
連合国は第1陣として4万の兵士をゲリボル半島の先端2ヶ所に上陸させた。
 この高地は、ちょうど日露戦争の旅順戦における203高地のようなものであり、ここを占領すれば、一望のもとにダーダネルス海峡とトルコ側の要塞群を見おろせるのである。
つまり、この高地に重砲を引き上げれば、海峡を制圧したも同じ。
 敵がアルブルヌ海岸へ上陸したとの急報を受けたケマルはただちに動員できる限りの部下をその方面へ投入し、自分自身も急行した。

しかし、この独断専行は英仏軍の意図をくじいた。
連合軍は予想以上の反撃を受けて水際にほぼ釘付けにされてしまった。
日没とともに夜陰に乗じて増援部隊が上陸したが、翌日も海岸に釘付けにされてしまったのである。
3日目、4日目と部隊の増援は続き、作戦も当初のジョンクバユル高地への最短ルートは険しすぎて大軍を投入できないから、北方の丘陵地帯を迂回する作戦に変更されたが、その方面でも前進は容易ではなく、その進み具合は1日で約100メートルに過ぎなかった。
 そして、英仏軍が1ヶ月後に約3キロほどトルコ軍の戦線を後退させたときには、上陸第1陣の部隊はすでに全滅しており、全兵員の半数以上が死傷という状態で、それ以上の前進は不可能になっていた。
 艦隊の海峡強行突破に失敗した英仏軍は、やはり陸軍による半島制圧しか手段はないと再決意。
そこで8月6日、10万という英仏軍が増援部隊としてゲリボル半島へ上陸。
戦局を一気に逆転させるつもりだった。
 8月9日の未明、英仏軍は新たな目標であるコジャチメン高地へ向けて進撃を開始。
 砲弾が雨のように降ってくる間、トルコ軍は塹壕に身を潜めて、ただ耐えに耐えているしかなかった。
 事実上の総司令官になっていたケマルは、小アジア側にいる砲兵部隊のいくつかを、ただちにゲリボル半島へ回すよう命令していたのだが、一日や2日で移動できるものではない。
そのため、飛んでくる英仏側の砲弾100発に対して、トルコ側が射ち返せたのは、せいぜい1発か2発。
 敵の意図に気付いたケマルは、近くの各前線へ伝令を走らせ、前線が手薄になる危険を承知の上で、可能な限りの歩兵部隊をコジャチメン高地へ集めようとしていた。
そして、ケマルのカンは当たった。
英仏側が砲撃を終わらせ、歩兵部隊を投入してきたとき、トルコ軍は凄惨な白兵戦を繰り返しながらも、ついに敵軍をコジャチメン高地へ近づけさせなかった。
ところが、英仏軍の最初の目標だったジョンクバユル高地の方は、逆にトルコ側に不利な形勢。
この方面のトルコ側の防衛力が手薄になったと判断した、英仏軍の最高司令官ハミルトン将軍は、予備軍の全てをジョンクバユル高地占領を目的として投入。
 コジャチメン高地をめぐって凄惨な白兵戦を繰り返していた頃、こちらも激戦の末ではあったが、ついにニュージーランド兵からなる部隊が、初めてジョンクバユル高地の一角を占領。
 急報に接したケマルは、コジャチメン戦線を維持できるぎりぎりの部隊を残し、手持ちの軍団の大半を率いて危機に陥ったジョンクバユル戦線へ駆けつけた。
これは相当に危険な賭だった。
もし、英仏軍が翌日もコジャチメン高地へ大攻撃を加えてきたら、どうなるか分からないから。
しかし、ここでもケマルの読みは当たった。
ジョンクバユル高地の一角の占領に成功したという知らせは、英仏軍首脳部の判断力を狂わせてしまい、やはりジョンクバユル高地の完全占領を最大目標にするべきだと、コジャチメン戦線の部隊へ移動命令を出してしまった。
ケマルは一晩中、自分が率いてきた部隊の他、近くの戦線から集められる限りの兵と火砲をジョンクバユル戦線へ集めた。
そして、夜明けと同時に反撃に出た。
戦闘は、まず双方の大砲の射ち合いから始まった。
だが、トルコ軍にとって幸運だったのは、英仏軍の占領した高地の一角への大砲輸送が、斜面が険しすぎるため思うように行かなかったこと。
そのため、トルコ軍の砲弾が尽きるのとほぼ同時に、英仏軍の砲弾も尽きた。
あとは歩兵による白兵戦しか方法がなかった。
砲火が静まると、ケマルは真っ先に塹壕から飛び出た。
その瞬間、敵の小銃弾がケマルの身辺に集中し、その一弾が彼の腕時計を砕いた。
しかし、ケマルは突っ立ったままで、右手を高く上げると、「全員、突撃!」と叫んだ。
ただちに、全トルコ兵は喚声を上げて突撃を開始。
彼らは自分達の司令官の勇気に感激し、先祖の騎馬民族の血を蘇らせ、危険をものともせずに敵陣へ殺到。
激戦は数時間続いた。
英仏軍は約2000の戦死者を残して、ジョンクバユル高地から追い落とされた。
 翌日の英仏軍の再攻撃も、8月21日の軍団新編成による再々攻撃も空しい結果に終わった。
この方面の戦闘で、英仏軍は約500名の将校と、約2万名の兵士を失った。
それに対してトルコ側の死傷者は、その10分の1ぐらいであった。

 ダーダネルス海峡戦の場合、もしも1915年に英仏軍によって突破されていたら、首都を海軍で突かれたトルコ帝国は、ただちに降伏していただろう。
そして、英仏軍が地中海から黒海への海上輸送ルートを確保できたため、ロシア帝国への大量の援助物資が輸送でき、ロマノフ朝は倒されなかったであろう。
それどころか、ルーマニアも、もっと早く連合国側に参戦し、ブルガリアは中立を守り、トルコの農産物に頼っていたドイツも大打撃を受け、第一次大戦は1916年の末までにけりがついていた可能性が高い。
 同時に、ケマルという、それまでトルコ国民にほとんど知られていなかったも同然の35歳の人物が、いきなり「首都の救い主」という英雄として、国民の前に華々しくデビューしなかったら、大戦後の「トルコ維持戦争」も、あるいは始まらなかったか、始まったとしても中心になる人物を欠いたため、線香花火のようなものに終わっていたかも知れない。
いかにケマルが軍事的、政治的天才であったにもせよ、「首都の救い主」という華々しいデビューの機会がなかったら、「トルコ共和国の父」になれるほど民衆の信望を一心に集めることは出来なかったに違いない。

 ▼トルコの降伏
 皇帝政府の降伏声明は、エンヴェル一派の軍首脳には秘密のまま、メフメット6世の命令で発表されたもの。
イスタンブールに迫りつつあった連合国の首脳部は、トルコが降伏しても、メフメット6世の身分と皇室財産の安全は保障すると、密約を提案。
そして、メフメット6世はその密約に飛びついた。
皇帝に出し抜かれたエンヴェル一派は、ハンガリアを経由してドイツに亡命。
 トルコの降伏を知った、ドイツ軍参謀総長ヒンデンブルクが、「事態は今や絶望的になった」と側近に語ったように、ドイツは大戦の後半になると、トルコの農産物に頼りきっていたのである。
 「大トルキスタン」復活を生涯の夢としたエンヴェルは、ドイツ降伏後、内戦が続いているロシアに潜入し、トルコ系諸民族を煽り立て、反革命運動を起こさせた。
初めの内こそ、数千人の兵士を率いて各地で華々しく戦ったが、やがて部下は少しずつ減り、戦うどころか逃亡の毎日を送らねばならぬようになった。
1920年の春、ウラル河に近い草原の雪がとけ出した頃、雪に埋まっていた彼の遺体が発見された。
彼だと確認されたのは、トルコ帝国の大将軍としての軍服と勲章からだったが、遺体は十数発の銃弾を受けていたという。
この大いなる夢想家は、結局のところ自分の夢に殉じたと言っていいだろう。

 ▼連合国のトルコ分割
 休戦協定を結んでから半月もたたぬ内に、イスタンブールに大軍を違法進駐。
何故違法かというと、休戦協定では、連合国側は戦時中に占領した地域にだけ軍隊を駐留させるという約束だったから。
そのことを皇帝政府が抗議すると、連合国側はロシア革命の影響からトルコを守るためだと説明したが、実際はトルコを分割し、連合国間で分配するための第1歩に他ならなかった。
 そのことが誰の目にも明らかになったのは、首都への違法進駐に続いて、英軍がボスポラスとダーダネルスの両海峡を「管理」の名目で占領し、フランスがシリアから小アジア南東部へ多大の兵員を送り込み、イタリア軍も地中海の主要港を電撃的に占領してしまったから。
全ては大戦中の、トルコ分割の秘密協定によるもの。
 この連合国側の意図に気付いたトルコ人の間で、たちまち大混乱。
ある者はイギリスのみを頼って、その保護国になるべきだと主張し、別の者はフランスに頼るべきだと説いた。
さらには、アメリカの委任統治国になって再生をはかるしかないという論者も現れる始末。
 しかしいずれにしても、トルコは自力では再生できないと考えている点で同じ。
だから、イスタンブールに帰った日から説き始めた、ケマルのトルコ自力再生論など、ごく一部の軍人は別にして、政治家や知識人からは見向きもされなかった。






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最終更新日  2004年08月12日 08時44分26秒
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