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背番号6(その5)その4からの続きです藤田平が19年もつけてた6番 その後は誰が着けたんでしょう?みなさんご存じよね そう和田豊さん 同じショートの選手です この人も現役時代ずっと6番を通してる そしてその次は金本さん! かと思ったら1年だけ外国人選手が挟まってるのね 和田豊 内野手和田は千葉県我孫子高校の1年時にサードとして夏の選手権に出場、日本大学に進むとショートを守り、3年時には東都大学春のリーグ戦で首位打者になっている。また4年時にはロサンゼルス五輪の代表入りし金メダルを獲得した。ただ、和田本人は教員になって高校の野球部で甲子園を目指したいという夢があった。ところが五輪代表になって教員試験が受けられず、ドラフトでタイガースに3位指名されたためプロ入りすることになる。引退した藤田とちょうど入れ替わりの入団で、守備位置もショートということで自然に「背番号6」を引き継いだ。入団した年は昭和60(1985)年。あの猛打炸裂で日本一になった年だった。バース、掛布、岡田、真弓などが居並ぶ強力打線を目の当たりにして、バッティングが非力な和田は「大変な世界に入ってしまった」と自信喪失するほどの衝撃だったという。 とはいうものの和田は1年目から公式戦に出ている。7月に一軍ヘ上がると39試合で49打数16安打2打点を記録しているが、すべてシングルヒットなのが和田らしい。2年目は8試合、3年目は54試合、なかなか一軍戦力になれなかったが、監督が村山実に代わった昭和63(1988)年にブレイクする。大野久・中野佐資とともに「タイガース少年隊」としてショートに抜擢された和田は、2番打者として当時の日本新記録となる56犠打を記録する。我慢して使ってくれた村山監督には感謝しており、この年から平成10(1998)年までレギュラーの座を守った。 平成11(1999)年に野村監督が就任。このとき和田は記者の質問に「監督が代わっても僕たちは変わらない」と答えたことが野村監督の耳に入り、干されていくことになる。和田としては「どの監督になっても、自分たちが努力することに変わりはない」というニュアンスで言ったつもりだったが、野村には「監督の言うことを聞かず、各々勝手にやる」のように聞こえてしまったようだ。野村から「変わらないからチームが弱いままなんだ」と叱責を受けている。本人の体の衰えも重なって出場機会は減っていき、平成13(2001)年には打撃コーチ兼任となる。どちらかと言えばコーチ業のほうに重きを置かなくてはならなくなり、自分の練習時間が減ったためますます打力が落ち、シングルヒットすらなかなか出ない状況に追い込まれていく。一軍コーチでありながら選手としては二軍落ちという屈辱的な立場も味わった。コーチ兼任を解いてもらい、完全に選手に専念してあと1年現役でやりたいと訴えたが認められず、この年に引退した。 現役生活17年間「背番号6」で通し、通算1713試合、5972打数1739安打403打点29本塁打、打率.291という立派な成績を残している。和田は入団した年にリーグ優勝・日本一を経験し、現役時代にもう一度くらいは優勝できるだろうと思っていた。しかし、それを見ることなく引退し、2年後にコーチとしてリーグ優勝にかかわることになった。 引退後はそのまま打撃コーチとしてチームに残り、星野監督、岡田監督、真弓監督の下で若手指導や参謀役として仕えている。コーチから監督時代は一貫して背番号86を着けた。 平成23(2011)年10月、真弓監督が退任すると、内部昇格の形で一軍監督に就任。ドラフト会議では競合した藤浪晋太郎を引き当て話題となった。 平成26(2014)年にはリーグ2位ながら第1ステージで広島を1勝1分けで倒すと、第2ステージの巨人に4連勝して日本シリーズに進出。一気に日本一かと期待されたが、ソフトバンクには1勝4敗と粉砕された。 平成27(2015)年、リーグ成績は3位だったものの勝率は5割を切って退任する。和田がすごいのは昭和60年の入団以来31年間、一度もタイガースのユニフォーム脱いだことがなかったことだろう。 その後も球団にかかわり続け、シニアアドバイザー、テクニカルアドバイザーを経て、令和5(2023)年、二軍監督として現場に復帰して、また背番号86を着けている。 デリック・ホワイト 外野手和田が引退した翌平成14(2002)年に背番号6を着けたのがデリック・ホワイトで当時33歳だった。メジャーで大した成績を残せず、韓国やメキシカンリーグでプレーしていたホワイトは、春季キャンプの半ばにテストを受けてタイガースに入団する。容貌がボクシングの世界ヘビー級王者だったマイク・タイソンに似ているとして、「虎のタイソン」とニックネームがつけられた。 実際に使ってみると、ダウンスイングのグラウンダーでゴロが多い。パワーがあっても打球が上がらないので必然的にホームランは少ない。開幕当初は連日ヒットが出て期待されたが、手首や足に慢性的な痛みを抱えており長続きしなかったため、田淵幸一打撃コーチも匙を投げる。 結局は73試合で220打数50安打21打点7本塁打の打率.227という成績で戦力外となり、1年でタイガースを去った。 まとめ 藤田さんの19年に続いて和田さんが17年 ふたりあわせて36年間も「6」を背負っていたんだね 特徴はちがうけど二人ともいい選手 藤田さんは天才タイプだったけど和田さんは努力家かな でもたぶん自分の能力をわかってたのよね 大きいのは打てないって だからわきに回ってバントとかでチームを支えたんでしょう 監督を4年やってるし真面目な人格者だとおもったら、週刊誌の不倫報道で赤っ恥 選手の前で陳謝したこともあるの 隅に置けないわね ホワイト選手はいつものことね 打てない人が多いのよタイガースの外国人選手はでもこの人はテスト入団だったので安く済んだんじゃない? えっ 2000万円? けっこうもらえるのね ちょっと心外かなその6に続く
2023年02月28日
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2代目のアイテム紹介💕 その2このカテゴリーでは2代目が手に入れたいろんなアイテムを紹介してます今回は第2回 では、次の写真は何だかわかる? これは電気炊飯器なのよね ちょっとおしゃれに「ライスクッカー」と呼びます 発売元は株式会社山善(YAMAZEN) このメーカーの本社は大阪にあるの よく言われる「ニッチ」な家電などが得意で 大企業が手掛けないような隙間を埋めてるんだよ ホームセンターで売ってる小型の家電でよく見かける 大きさがわかるように 我が家のキッチンを公開!左にある赤いのは5.5合炊き 右がこのライスクッカーです 高さ20センチ 直径16センチくらいね そのへんの棚に置いてあると最初は炊飯器とわからないので友達もびっくりしてました この商品は0.5~1.5合が炊けるの 赤いほうでは0.5合が上手く炊けなくて困ってたんだ 最近あまり食べなくなって1回に1合炊くと多すぎなのね 保温して2回に分ければいいじゃんって人もいるかもしれないけど 少量の保温はすぐパサパサになっちゃう 必要な分だけ炊き立てを食べるならこの小さいほうが便利なの いまは赤いほうは休眠してる それではふたを開けてみましょうね ふつうに炊飯器だよ これは0.5合のお米を炊く準備したとこ 操作方法は簡単 いますぐ炊くのはもちろん タイマー機能がついてて 2時間から12時間後まで1時間単位で予約できるのがとっても便利 それにふつうの炊飯のほかに「おかゆ」もつくれるよ 炊き込みご飯だってできちゃう 保温は炊きあがってから3時間継続してくれるし 一人暮らしの人ならこれで十分だとおもう 操作部分を拡大するね 写真でわかるように これは寝る前に7時間後にご飯が炊き上がるように予約したとこ そして朝7時ころ炊き上がりました この量ならだいたい20分ぐらいで炊けちゃうんだよ どうしても少し汚れるけど ふたや内窯は簡単に外せて丸洗いOKなのね いつも清潔に使えるよ 炊き上がったらチャイムで教えてくれるので 10分ぐらい蒸らしてからほぐしてやります お米に芯もないし 思いのほかおいしく炊けるのには驚き! もうひとつイチオシな理由があるんだけど 消費電力が250Wってとこね すごく電気代の節約ができるよ! 一般に5.5合炊きだと700から800Wなんだよ 半日保温するだけでもすごく電気使うし だから食べ切る量だけ炊いてすぐ電源切っちゃえば少しの電気で済むから経済的だとおもうんだ 2代目は非常用にポータブル電源(いずれ紹介するかも)をもってるんだけど AC出力コンセントが二口装備されてるの 最大出力は500Wで二口同時に使うときの上限は各250Wなんだ もし災害なんかあって停電してもこのライスクッカーなら使えるのよ 心強い! ポータブル電源といっしょにもっていけば キャンプとかバーベキューとかのアウトドアでも活躍してくれる このライスクッカーは「Yahooショッピング」で買いました(通販好きなのよ) 割引のときに買ったので価格は4480円(送料無料)でした 安いとおもわない? 山善さんには3000円台のもあるんだけど予約タイマーとかおかゆ機能はないのね ほかのメーカーさんにも安いのはあるけどやっぱり炊くだけなの だから一人暮らしの方には これ絶対おすすめ! では いただきます!ヤマゼン 炊飯器 1.5合 マイコン ブラック YJG-M150-B価格:4620円(税込、送料無料) (2023/2/24時点)DIESEL Bluetooth スピーカー ダブルサブウーファー 重低音 最大14時間音楽再生 2台スピーカーのワイヤレスステレオペアリング IPX7 防水 リストストラップ付 (ディーゼル ブルートゥース スピーカー、 ブランド ロゴ価格:15700円(税込、送料無料) (2023/3/1時点)
2023年02月27日
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ケラーってだめね💔2代目タイガース非公式サイトです2023年2月26日 オープン戦 日本ハム8-6阪神 名護 きのうのオープン戦見ました? 攻撃陣は森下君 井上君など若い選手が順調だし原口さんも代打でホームランが出て切り札として期待できそう!でもねえ 外国人投手が問題! まずブライアン・ケラー投手 いったい1か月近く何やってきたんだろ 調整できてるように見えない投げ方は藤浪君の悪いときみたいに上手と横手の中間で しかも一定じゃない 投げるたびに腕の振りが違ってるよ こういうのを再現性が低いっていうみたいね 要はバラバラなフォーム! これ明らかに投げ込みや走り込みをやってないのがわかるのね 監督さんも怒ってるだろうな 右打者に向かって危ないボールになったり、逆に指に掛かりすぎて外へ大きく外れる 滅多にホームベースの上に来ないじゃん これじゃあデッドボールやワイルドピッチ連発しそう フィールディングもカバーリングもモタモタ 前でも中でも後ろでも使えないわよ 続いてもうひとりのカイル・ケラー投手 たしかに去年の後半は働いたけど 今年はちょっと図に乗ってるんじゃない? 投げ込んでないからB・ケラー投手と一緒でフォームが固まってない岡田監督やコーチの声を無視して投げ込みしないなんて 裏を返せば首脳陣批判や造反ってことじゃない もう投げんでいいわ 今のようなら使えない! ビーズリー投手はよくわかんなかったなあ 清宮君に打たれたホームランは打ったほうが褒められるような一撃だったのよね 2人のケラーはもう見たくないけど ビーズリー投手はもう少し見てみたい この試合だけではまだ未知数って感じだった とおもったら今日 右足コンディション不良でキャンプ離脱して帰阪したって?!なんなのよ! ついでだからミエセス選手も 力任せに振ってるように見えるんだけどバット出てこないじゃん 今の様子じゃインコース高めの速いボールは打てない! 当たっても詰まるかファウルにしかならないわよ 初動で力が入りすぎてるのよ もっと自然体で振り出さないと 内角攻められたあと 外に逃げるゆるい変化球を体を伸ばして拾うようにヒットにしたのはうまかったけど これがストレート系ならファウルか三振してたんじゃないかな? シーズンに入ったらもっと厳しく揺さぶられるよでもしっかり当たったら飛びそうだし ムードメーカーにもなってくれそうだから もう少し見てみたいとはおもうわね ちょっとドランクドラゴンの塚地さんに似てない? 以上 まだ見たのは1試合だけなんだけど先が思いやられる 今年の外国人選手にはがっかり・・・ それに比べて、江越さんはすごかったよ 野球知ってるし なんでタイガースはこういう選手をレギュラーに育てられないのかなあ? 育ってるのに見る目がない? いらない選手じゃなかったとおもう
2023年02月27日
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アピール続く板山選手💕2代目タイガース非公式サイトです やってるねえ板山君!2023年2月25日のヤクルトとのオープン戦でまたまた強烈アピールよ3番ライトでスタメン出場 1回表1アウト二塁のチャンスを逃さなかったのはお見事カウントは1B-0S ヤクルト小川投手の140キロストレートをガッチーン!と捉えましたあ!打球はぐんぐん伸びて右中間芝生席への先制2ランホームラン!やったね! もともと中距離バッターなんだけど、こういう一発も打てるのよ 外野は新外国人のノイジー選手が出遅れてるからチャンス岡田監督は「ノイジーもケガしているわけやから、全然(板山にも開幕先発の)チャンスはある」って言ってるよ でも井上君も好調だし、もうだめかと思ってた高山さんもくらいついてるから オープン戦で調子を維持できるかどうかになってきたよね特に高山さんとは入団同期の8年目 お互い正念場とおもってがんばってほしいわ投手のほうで「おおっ?」となったのが現役ドラフトでソフトバンクから入った大竹耕太郎さんね 3回1安打無失点 三振を5つも取ってるのよ 全然打たれる感じがないの このひと化けるんじゃない? そうなったら現役ドラフト制度もこれから有効活用できるとおもうよ 好い前例になってほしい 本人は「こんなに環境が変わって活躍するんだなと思った。環境のせいにはしませんが、移籍をいいきっかけに変えたい」って ぜひそうなってほしい! 岡田監督と同じ早稲田大学出身 貴重な左投げだからホントにローテに食い込むかも 大活躍を期待してるよ!
2023年02月26日
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背番号6(その4)その3からの続きです地味だったその3から一転して、その4ではまず外国人選手が登場よ!ぱっとしなかったけど・・・そしてそのあとが藤田平さん 名ショートだった吉田義男さんのあとを受け継いでいくタイガースの生え抜きスターが19年間もこの番号を着けるの チコ・フェルナンデス 内野手昭和37(1962)年9月、吉田義男との鉄壁の三遊間を誇っていたサードの三宅秀史が試合前のキャッチボール中に小山のボールを左目に受け、あわや失明という大けがを負ってしまう。ここから掛布雅之が定位置として確保するまで10年以上、三宅の穴を埋められないことになる。昭和38(1963)年春、タイガース一軍はフロリダ州レイクランドシティのタイガータウンでデトロイトタイガースと合同キャンプを行った。初の海外キャンプである。ここで、攻守にわたって監督やスタッフの眼にとまる選手がいた。それがフェルナンデス。このシーズンは近鉄バファローズからベテラン児玉明利を獲得してサードを補ったが、とうに峠を越えており成績は低調だった。続く昭和39(1964)年はリーグ優勝はしたが、三塁手は固まらず頭の痛い問題になってきた。 そこで前年のフロリダキャンプで好評価していたフェルナンデスの獲得を思い立ち、デトロイトタイガースと交渉。昭和40(1965)年にデリンジャーコーチとともにタイガース入団が決まり、石田の引退を受けて空き番になった「6」を着けることになった。 次の写真で立っている背番号6の選手がフェルナンデス。ベンチに腰かけているのはデリンジャーコーチ。 フェルナンデスは来日の会見で「ホームランを40本以上打つ」と豪語したが、使ってみるまったく非力な打者で、わずか52試合の出場に終わっている。成績は111打数16安打8打点1本塁打、打率は.144とお粗末なものだった。スタメン落ちすると首脳陣批判など問題発言を繰り返したため10月に解雇されている。 藤田 平 内野手 藤田は市立和歌山商のころから、すでに全国に名を知られた超高校級の選手だった。昭和39(1964)年は春・夏連続出場、翌昭和40(1965)年の第37回選抜大会では「個人1試合2ホーマー」と「個人大会最多塁打」という2つの記録を作っている。この大会は24校が出場し23試合が闘われているが、大会全体で出たホームランはわずか5本、そのうちの2本が藤田。金属バット以前の、打球が飛ばない時代での1試合2本は注目されて当然だった。 同時代に高校生だった江夏豊は「高校野球をやっていた者にとって、藤田は当時のあこがれ」だったと語っているほどだ。決勝では、のちに大洋ホエールズのエースとして200勝投手になる平松政治がいる岡山東商と当たっている。この試合は1-1で延長戦になり、13回裏に岡山東商が2×-1とサヨナラ勝ちを収めたが、藤田は平松から2安打している。 秋のドラフト会議では2巡目でタイガースの指名を受け、ほぼ決まっていた明治大学進学をやめて入団した。ちなみに、1位は香川県土庄高校の投手・石床幹雄。甲子園出場はないものの各球団が注目する投手だったが5年で引退している。昭和41(1966)年、藤田は高校野球での実績を認められ、最初から一桁の「背番号6」を着けることになった。実際に当時の先輩たちが「誰に習ったんだ?」と目を見張るほど、攻守ともに完成されていたという。名ショートだった吉田義男に衰えがではじめており、藤田はどうしても欲しい選手だった。1年目から68試合に出ており、吉田をセカンドに追いやる形でショートのポジションに入るようになった。次の写真は吉田と藤田のツーショット。 2年目の昭和42(1967)年には131試合に出て完全にレギュラーになる。530打数154安打44打点16本塁打、打率.291という数字は高卒2年目20歳の選手としては目を見張るものがある。安打数はリーグ最多、しかも30二塁打、10三塁打もリーグ最多を記録した。ここから始まって昭和53(1978)年までの13年間連続で100試合以上に出場しレギュラーを守った。 昭和46(1971)年にはホームラン28本と自己最多を記録しているように、大きいのが打てる力もあったが、プレースタイルは中軸につなぐ役目をはたすためミートを心掛けていたようだ。そのため通算355本が示すように二塁打が多い。また、中堅選手となった27歳以降は年間20個程度と三振が極端に少なくなり昭和53(1978)年には連続208打席無三振という記録も作っている。併殺打も少ない。 昭和54(1979)年に一塁の守備で左足肉離れをおこし、治療が長引いたためわずか18試合にしか出れず、ほぼ1年を棒に振った。しかし、翌年に復活すると昭和56(1981)年には巨人の篠塚利夫と激しく争った末に、ギリギリ規定打席に到達してわずか1厘差の打率.358で首位打者を獲得する。昭和58(1983)年5月3日の巨人戦で2000本安打を達成。タイガース生え抜きで最初の達成者だ。昭和59(1984)年に体力の衰えを理由に現役を退いた。入団から引退まで背番号6を背負い続けたことは本当に素晴らしい。 フォームは力が抜けた自然体からの流れるようなスイング、まさにお手本だ。ゆったりと構えた位置がトップ。そこからスッと振り出していく。文字だけでは居合抜きのように感じるが力感はない。力みのないスイングだ。 選手としては、普段から無口で目立とうとしない、グラウンドでも喜怒哀楽を見せない淡々としたプレーぶりがかっこよくもあったが、闘志がないのかと歯がゆくみられることもあり、試合中に観客から「たいら~寝とんのか!目え覚ませ~」などと野次られることも多かった。 一方、道具を大事に使うこともまたお手本だった。掛布雅之も入団してすぐ藤田から「入団以来ずっと同じグラブを手入れしながら使っている。自分の手のようになっていて、もうこのグラブじゃないと獲れない」という話を聞いて感動し、自分も一つのグラブを大事に長く使ったという。 引退後約10年はコーチなどに就任することはなく、評論家、解説者として日々を送っていた。 平成7(1995)年、低迷が続く中村勝広監督からの招聘を受け二軍監督として現場に戻る(背番号80)。この年の7月に調整のためファーム落ちしてきた新庄との間で「正座事件」があったのだが、背番号5その6で記述したので省略する。 中村監督が成績不振により「休養」すると監督代行として一軍を指揮するが成績は17勝36敗と改善できなかった。そういう中で、選手を見る目は確かで、桧山の長打力を評価して4番に固定したり、関川の好打を生かすため外野手に転向させたり、チームを立て直す手立ても打っている。 翌平成8(1996)年には正式に一軍監督に就任。万年下位に慣れてしまった選手たちの精神力を鍛えなおそうと打った手は却って反発を買い、外国人選手の起用法ではフロントと意見が合わず対立を深めていった。 タイガースフロントは9月12日に行われた取締役会で藤田監督の解任を決定。同日、藤田を球団事務所に呼んで通告する。すでに記者会見の予告もされている状況だったが藤田は納得できず、オーナーへの直接面会を求めて立てこもってしまった。日にちをまたいで話し合いが続けられ、13日午後になって藤田が解任を受諾して決着している。 タイガースにとって生え抜きの功労者で名球会入りもした藤田も、生真面目で頑固な性格がわざわいして監督としてはうまくいかなかった。暗黒時代の低迷期の真っ最中だったのも運が悪い。 しかし、名ショートとして一時代を作った藤田のプレーヤーとしての輝きと記録は称えられるべきだろうし、色あせることはない。 まとめ フェルナンデスって何ナンデス? 全然役に立ってないじゃない コーチまでくっついてきたのにこの成績ってどうなの? タイガースにはこういう外国人選手が多いよね 藤田さんは天才的なところがある選手だったみたいね 高校出てきたときにほぼ完成されていたっていうのはすごいわ だけどそういう人にありがちな偏屈なところが監督になって裏目に出たって感じかしら 監督解任は悲劇的だったみたいね ホントお気の毒 その5に続く
2023年02月26日
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お買い物💕2代目タイガース非公式サイトですジェイアールナゴヤタカシマヤに行ってきました 皆さんロクシタンっていうブランド知ってる? 南フランスの化粧品メーカーなんだよ プロバンス地方で育つ自然にある植物などから抽出したエッセンシャルオイルやエキスをベースにした化粧品を作ってます 主力はスキンケア ヘアケア ボディケアの商品なんだけど バス用品 フレグランスなんかも手掛けているの 種類は少ないけどメンズ用品も用意さてれるわ高島屋のお店はこんな感じカラフルな商品がいっぱいよスヌーピーとコラボした商品は人気ね一番売れてるのはハンドクリーム 男性も買っていくよ すごくたくさんの種類が用意されてるので迷っちゃうな 2代目が今日買ったのはスヌーピーのハンドソープとハンドローションこの冬はちょっと手が荒れちゃってるからハンドクリームも一つだけ買いました 少量でよく延びるしさっぱりしててベタつかない 香りもいいよ ほかにも買い物してきたんだけど、人は少なかったです バレンタインも終わってイベントもなく 一段落してる感じ 地下の食料品(お菓子)売り場が混んでたかな ひな祭りが近いからそういう限定品が出てるんだ 近々「大北海道展」があるらしいので その時はすごい混雑だとおもうんじゃまたね
2023年02月25日
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背番号6(その3)その2からの続きです田宮さんや小山さんなど大物揃いのその2にくらべて その3は・・・すこしなじみの薄いっていうか知らない選手が続くんだけど お付き合いのほどお願いしますね 西出佐夫郎 内野手 西出は昭和32(1957)年に関西大学からタイガースに入団した右投げ右打ちの三塁手だ。といっても典型的な「記憶にも記録にも残らなかった選手」だろう。 入団前年、関学時代に大学選手権で優勝を経験している。この時はサードを守り6番打者だった。同時期に村山実がおり、このエースの力で勝ったようなものだったらしい。 タイガースに入って「背番号6」を着けるが、一軍の公式戦の記録は残っていない。1年で退団しているようだが理由も何もわからない。ということで現役時代の写真も探すことができなかった。 星山晋徳 内野手 星山は、愛知の名門中京商業(現中京大中京)の出身。昭和31(1956)年春の選抜大会に4番・ファーストで出場し優勝している。 昭和33(1958)年にタイガースへ入団。1年目から3年間「6」を背負っている。左投げの内野手なのでファーストしか守れないこともあり、藤本勝巳や同期入団の遠井吾郎というライバルの存在は大きな壁だった。 昭和35(1960)年は一軍に定着してはいるが、出場は62試合にとどまり、シーズン終了後、中日ドラゴンズへトレードされている。 タイガース時代の3年間で通算90試合97打数16安打4打点でホームランは無く、打率.165の成績しか残せなかった。打撃については、力はあるが体が硬く対応力に欠けており、率が上がらなかったという。 中日でも3試合に出場しただけ。1年限りで見切られ、昭和37(1962)年には国鉄スワローズへ移籍した。国鉄での4年間は打撃開眼してファーストのレギュラーとなり、昭和38(1963)年には自己最多の12本塁打を記録している。昭和40(1965)年限りで現役引退、この人の写真も発見できなかった。 石田博三 内野手滋賀県の大津高校出身。高校時代には投手として活躍し昭和31(1956)年の選抜大会に出場、前項の星山のいた中京商(優勝校)と1回戦で当たり、延長10回に惜しくもサヨナラ負けしている。 タイガースへは昭和33(1958)年に入団。高校時代に腰を痛めていたため、すぐに外野手へ転向した。最初にもらった背番号は「38」で3年間着け、昭和36(1961)に「6」に代えて5年間背負った。 最初の1年はファームにとどまったが打点王になり、2年目から一軍に上がっていく。ただし、一軍での公式戦は最多でも昭和38(1963)年の39試合で、控え選手で終わっている。 公式戦の通算成績は、実働6年で114試合30安打6打点1本塁打、打率.204という寂しいものだった。 引退後、昭和49(1974)年にコーチ補佐としてタイガースに戻るがすぐに退任してフロント入りし、査定部門で長く勤務している。最後は管理部長まで登り、選手との契約更改業務を主導した。 この人だけは写真が見つかった。この写真はコーチ補佐のときと思われる。 まとめう~ん なんていうのかな その3はみんな地味だよね 2代目はハッキリいってお手上げここまで背番号6は その2みたいに大物も着けてるんだけど、それも若手のころ一時的にって感じだしね~この3人は 当時リアルタイムでみてたファンも きっと「覚えてないなあ、いたっけ?」ぐらいの反応かもね 西出さんなんて公式戦に一度も出てないんだもん だあれもわかんないよさて、その4では「6」がトレードマークになった大選手が登場するよその4に続く
2023年02月25日
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愚痴は言わない岡田野球💕2代目タイガース非公式サイトです岡田監督の何がいいって 選手に愚痴を言わないことだよ2月23日の中日との練習試合 1回に1アウト一三塁になって大山さんの打席 カウント2B2Sから打っていったんだけど ショートゴロでダブルプレーでチェンジ 観客からは「ゲッツーだけはあかんていったやろ!」と罵声が上がりました でも岡田監督は何でもないような様子だったそうですそのわけは 「監督が『打て』と指示しているんや。選手は思いきって打てばいい。それだけよ。『打て』と言っておいて『ゲッツーは打つな』なんてバッティングの指示はないよ。変に右打ちみたいなことをする必要もない。『打て』と言われて打って、打てなかったら、それは監督の責任なんよ」 これってすごいとおもわない? ダブルプレーという最悪の結果になるかもしれないこともありとしたうえで、監督の責任でサイン出してるってことを宣言してくれてるんだよ 打てなかったとしても監督の責任であって 選手を責めないってこと 選手にとってこんなやりやすいことはないとおもうんだ 結果が悪くても監督が責任持ってくれるんだから安心してサインに従える プレッシャーのかかり方も違ってくるとおもうよ サインプレーはベンチの判断 選手は思い切っていけってこと 結果が出なかったとしてもくよくよするな 試合のあとの監督インタビューで「あのときあの選手が決めてくれてたら」とか愚痴って責任転嫁してる監督に比べたら天国みたい「『打て』はゲッツーも含めての『打て』なんよ」 最高ね! 岡田監督は野球というゲームの特質や選手の心理を深く知ってる感じ 今年のタイガースは期待できる
2023年02月24日
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オリンピック嫌いになりそう2代目タイガース非公式サイトです 突然でごめん これは先代が書き溜めていた下書きの中から発見した記事 2011年の4月に書いてんのよね 公開しないまま10年以上たってる なにかためらうことがあったのかな? それとも2回目の東京オリンピックがあったときに公開しようと思ってて忘れてたのかな? タイミングは変なんだけど、せっかく見つけたから公開してあげよう 先代怒るかな? 悲劇の日本シリーズ1964 大洋ホエールズ(現DeNA)とのし烈なデッドヒートの末、タイガースがセ・リーグを制したのが9月30日。甲子園での中日とのダブルヘッダー第1試合に12-3と大勝してのことだった。その24時間後、タイガースナインは休む間もなく、同じ甲子園で南海ホークス相手に日本シリーズを戦っていた。 レギュラーシーズン翌日からの日本シリーズ 雑誌発売は間に合ったのか? とんでもない強行日程はシリーズ史上初のナイターとなった。南海・スタンカ、阪神・村山実の両エースの投げ合いは、スタンカの3安打完封で南海が先勝。スタンカの出来もさることながら、阪神は主力選手の「優勝後のけが」が最大の敗因だった。 胴上げの周りにはファンが押し寄せて何が何だかもみくちゃ リーグ優勝決定の瞬間、甲子園のタイガースファン約2000人がグラウンドになだれ込んだ。選手に抱きつき、握手を求めて手を引っ張る...。外野を守っていた山内和弘、藤井栄治はベンチにすら戻れない。 山内は「ファンに左腕を引っ張られて、ヒジが痛くてしょうがない」。「左ひざを捻ってしまった。腰も痛い」とは藤井。他の選手も大なり小なり、擦り傷、切り傷など被害を受けた。 3番と5番の山内、藤井は前夜の中日戦で2人合わせて、4安打4打点も、傷だらけの体で第1戦のスタンカに挑み7打数0安打に終わった。 はしゃぎすぎたファンも疲れていた。30日のリーグ優勝決定の日、中日戦の観衆は3万3000人。ところが、晴れの日本シリーズ第1戦のはなんと1万9904人と2万人を割った。阪神と大洋のいずれが優勝するのか最終戦まで分からず、前売り券の販売ができなかったことも影響したが、当日券売り場に朝から並んだのは、わずか100人。 本当にガラガラのスタンド 「これじゃ、秋のオープン戦と変わらん。気合いが入らん」と気が抜けてしまったのは阪神・吉田義男遊撃手。集中力を欠いたのか、吉田は阪神唯一のチャンスとなった6回一死一、二塁で併殺打。5回には2点目のきっかけとなる失策も記録している。 10月1日は東海道新幹線が開通した日でもあり、東京オリンピック開幕が目前に迫っていた。開会式が始まる10月10日までに全日程を終える目的で、3月20日からスタートしたセ・リーグのペナントレース(阪神は21日に開幕戦)だったが、雨にたたられ結局第7戦が行われたのが、どうしても避けたかった10月10日だった。 3勝3敗での最後の決戦の観衆は1万5172人。アジア初の五輪という大イベントに日本シリーズは"大敗"。おまけに甲子園でスタンカに計3試合完封されたタイガースは以後21年間、勝利の女神に見放され続けた。 南海にとっても後から見れば最後の日本一となったが、国家的イベントのオリンピックの前に、マスコミは試合結果を簡単に伝える程度の寂しい扱いだった。 なんのこっちゃ 大阪球場のほうがようけ入っとるやないかい タイガースファンは五輪のほうが大事やったんか?笑うでホンマ追記 以上が当時の原稿なのね なんでそのころ書いたのか聞いてみたんだけど すっかり忘れてたって やっぱり覚えてなかったんだ しいて言うなら この年は真弓監督の3年目で マートン ブラゼル メッセンジャー スタンリッジと外国人に恵まれてたし 鳥谷 平野 新井貴 金本 さらに城島も入って打線が充実して前の年に2位になってる それでこのシーズン開幕のころはセリーグの優勝候補と言われてたのね 2009年の真弓監督1年目には道頓堀で行方不明だったカーネルサンダースも見つかって呪いもとけてた それで「材料はそろった 日本シリーズいけるっておもって書いたのかもしれん」だって でも結果は 統一球の影響をモロに受けて主力打者がそろって成績がガタ落ち 4位で終わってるの たぶんそれで原稿は忘れてしまって没になってたんだろって ふ~ん
2023年02月24日
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背番号6(その2)その1からの続きですああっ、また重要人物が出てきちゃったわよ。まず田宮さん。この人背番号がコロコロ変わってるんだけど、ここで来ちゃいました。それに大投手小山さんまで!この人も背番号は何度も変えてるのね。ここで一気に詳しく済ませちゃうね。 田宮謙次郎 投手・外野手 田宮は茨城県下館高校から日大を経て昭和24(1949)年に大阪タイガースへ入団している。高校時代は投手、左投げ左打ちで日大では投手と外野手を兼任し、打っては首位打者を獲得、投げてはノーヒットノーランも達成した万能選手だった。本当に戦前から戦後のこの時期は二刀流が多い。 タイガースでの1年目の背番号は「28」。翌年の昭和25(1950)年から2年間が「6」、昭和27(1952)年から昭和33(1958)年には「22」を着けている。 1年目の田宮は投手として34試合に登板しており、11勝7敗159回2/3を投げて防御率4.56という成績だった。ほかに野手として6試合に出ており、登板した試合を含め打撃成績は66打数12安打6打点1本塁打、打率.182である。 その後プロ入り4年目までは投手を続けたが肩を痛め、昭和25(1950)年が1勝2敗、昭和26(1951)年は0勝、昭和27(1952)年に0勝のまま投手を断念し、松木監督の奨めでシーズン途中から外野手に転向することになった。 この昭和27年の打撃成績は94試合190打数47安打34打点7本塁打で打率.247だったが、野手としてやっていける足掛かりになった。 写真は左から大津淳、吉田義男、田宮謙次郎 昭和29(1954)年、125試合に出場して初めて3割を打ち、実力が開花する。この年を含めて昭和33(1958)年までの5年間はセンターのレギュラーとして活躍、そのうち4シーズンで3割を越えている。タイガースでの最後の年となる昭和33年には打率.320で、球団では戦後初の首位打者に輝いた。 田宮はホームランはシーズン最高でも12本という中距離打者でミートが上手く二塁打、三塁打が多い。首位打者になった年は勝負を嫌がられ、リーグ最多の20回敬遠されている。また足も速かったので昭和32(1957)年には37盗塁も記録している。全くタイプは違っていたが藤村のあと4年間4番打者を担った。藤村という長距離打者の代わりがいなかったためであり、本来なら1番や3番に適していたと思う。昭和33年オフ、A級10年選手制度の「ボーナス受給権」を行使しようとしたが金額的に球団と折り合わず、やむなく「自由移籍権」を行使して大毎オリオンズへ入団することになった。昭和38(1963)年を最後に現役引退。引退後、昭和63(1988)年に村山実監督の1年目にヘッドコーチに就任してタイガースに復帰したが、シーズン中に村山監督と意見が合わず6月に退任、フロント入りした。OB会長を18年間つとめ、監督や指導者に厳しい意見を言いながら、選手たちを応援していた。平成14(2002)年には野球殿堂入りしている。 真田重男(重蔵) 投手(再掲)真田については、すでに背番号5で紹介しているのでそちら(タイガース背番号史 5の3)を参照。タイガース背番号史 5の3 | タイガース非公式サイト2代目 - 楽天ブログ (rakuten.co.jp) 小山正明 投手 この大物が、ここで出てきてしまった。通算320勝の大投手は背番号47のほうがオールドファンにもなじみ深いが、1番から順次記述してきたので登場順の関係でここで書かなければならない。 兵庫県高砂高校の出身の小山は、高校時代全くの無名。書道教師の父親が阪神の社長あてに入団テストを受けさせたいと達筆の手紙で懇願し、臨時テストでコントロールの良さを評価され打撃投手として入団している。月給は5000円、球団女子事務員の初任給8000円より安かった。 昭和28(1953)年、入団して最初にもらった背番号は「49」。これは監督やコーチも含めた当時のタイガースで一番大きい番号であり、まさに補欠といった扱いだ。しかし8月に一軍に呼ばれると、16試合の登板機会に恵まれ5勝1敗、防御率3.41の成績を残すことができた。そのうち先発も10試合あり、完投3・完封1を記録して、のちの片りんを見せている。 小山は「針の穴を通すコントロール」と言われたように制球力が持ち味で、球数少なくテンポがいい。そのため完投数が他の投手に比べて圧倒的に多い、まさしく「先発完投型」の典型的な投手だった。 1年目の成績が認められた小山は2年目から「背番号6」に代わり、昭和31(1956)年までの3年間背負う。普通は野手の背番号だがたまたま空いたからだと思われる。2年目は11勝の二けた勝利、この年のチーム最多勝でもあった。3年目は7勝と足踏みしたが、昭和31(1956)年には17勝13敗、防御率1.67の好成績でローテーションに定着する。 次の写真は「背番号6」がかろうじてわかる。WEB上を散々探してみたが、当時のユニフォームの前面には番号が入っていなかったので「6」が見えるのはこの写真以外みつからなかった。貴重です。お若い。 昭和32(1957)年は1年だけ「14番」を着けている。この年は援護に恵まれず15勝17敗と負け越しているが、防御率は2.38なので調子が悪かったとは言えないだろう。 初めて20勝を超えたのが入団6年目、背番号が「47」に変わった昭和33(1958)年だった。(この番号が小山にとってトレードマークになった)53試合に登板し24勝12敗252奪三振、防御率は1.69という抜群の成績を残した小山は、53試合のうち先発が34試合、そこで24試合に完投しているのが驚異的だ。仮に完投率というものがあるとしたら70.6パーセントになる。先発すれば7割を一人で投げ切っており、ブルペンは大いに助けられただろう。翌年からの数字もすごいので並べてみる。昭和34(1959)年 52試合20勝16敗 254三振 1.86 完投22完封8昭和35(1960)年 60試合25勝19敗 273三振 2.36 完投23完封7昭和36(1961)年 46試合11勝22敗 204三振 2.41 完投18完封4昭和37(1962)年 47試合27勝11敗 270三振 1.66 完投26完封13昭和38(1963)年 34試合14勝14敗 98三振 3.59 完投12完封0 毎年のように恐るべき完投数だが、特にリーグ優勝した昭和37年の成績は突出しており、先発40試合!、完投26試合、完封13試合、無四球10試合はいずれもリーグトップ。奪三振270もリーグ最多で文句なしの沢村賞受賞だった。 昭和36年は全く援護が期待できない打線を背負い、22敗とリーグ最多の敗戦を記録した。昭和38年にも成績が落ちているが、長年の勤続疲労と前年の優勝争いでの酷使が影響しておりやむを得なかったと思う。 昭和37年は沢村賞を受賞したがリーグMVPは25勝で防御率1.20の村山実が受賞しており、このころから不仲説が流れ始める。 また、その年の日本シリーズ第7戦では先発して9回まで無失点に抑えたが0対0で延長になり、10回表に1点を失った。小山はこれで負けを見切ってロッカールームに引き上げて風呂に入ってしまう。しかし10回裏に阪神が1点を挙げて追いつき延長戦は11回へ突入した。ところが投げ続けるはずの小山がベンチにいない。風呂の中だ。慌てて村山をリリーフに出したがホームランを浴びてしまい、その裏でシリーズは終わった。これも不仲説に追い打ちをかけたようだ。しかし、小山は実際には仲が悪いということはなかったと言っている。 貧打から脱出したいタイガースの藤本定義監督は大毎オリオンズの山内和弘に目を着けていた。昭和38年に小山が不調になると、小山を放出して山内と交換する画策を進めていた。山内は10年選手制度での巨人移籍を望んでいたようで、これを否とするオリオンズは小山とのトレードに乗り、エースと4番打者の交換という「世紀のトレード」が成立、小山は11年間在籍したタイガースを去ることになった。昭和39(1964)年、オリオンズに移った小山は30勝12敗、防御率2.47の成績を上げる。昭和40年20勝、昭和41年も20勝と主力として活躍、9年間在籍している。現役最後の1年は大洋ホエールズで15試合4勝4敗だった。 実働21年で通算856試合320勝232敗、3159奪三振、防御率2.45というとてつもない数字を残す大投手も最初は5000円のテスト生だったことを思うと信じられない。 引退後、タイガースでは3度にわたって一軍投手コーチを務めており、アドバイスを受けて成長した投手は多い。ベテラン投手の使い方も上手かった。 まとめやっぱり「背番号6ってすごいんだあ」って言いたいところだけど、田宮さんも小山さんも一時的に着けた番号で、みんなが認知してるトレードマークの番号じゃないのよねでもそういう人が着けてたってことが番号に重みをくわえていくんだよきっと あのひともこの番号背負ってたのかってね 6-3に続く
2023年02月23日
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守り勝つ岡田野球💕2代目タイガース非公式サイトです 2月21日は守備練習に多くの時間がとられたようね投内連携やダブルプレー 外野手の返球 パスボール対策などなど いろんな場面を想定しておこなわれましたメディアが伝えてくれる記事を見てると 岡田監督は欲張らず確実に一つのアウトを取ることが勝ちにつながるんだって信念があるように感じるのよねキャッチャーが後ろにそらしたとき ホームをカバーする投手が送球を受けランナーにタッチする練習なんてあまり見たことない でも梅野さんが言ってるけど投手にとって大事な練習なんだって 今までは形式的にタッチするだけでコリジョンルールを考えてまではやってなかったのねダブルプレーを欲張りすぎて悪送球するくらいなら1アウトを確実にとる 外野手も刺してやろうと欲張らず確実にカットマンに返すこれまで あわよくばアウト2つとか考えがちだったところを 取れるアウトを確実に取ることのほうが 一歩勝ちに近づくっていう考えなのよ 12球団でエラーが一番多いんだけど 「エラーを減らせ」とかやかましく言うとかえって委縮しちゃう岡田監督は 「ワン シュア」を心掛けて基本を反復練習すれば 考えなくても身体が自然に反応できるようになるとおもってるんじゃない?いいことだとおもうよ
2023年02月22日
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あなた自身がスパイとなってフォージャー家との極秘ミッションに挑む、ワクワクドキドキの謎解きラリー&ライブ・エンターテインメント・ショーが登場! WIS諜報員として本格的なスパイ任務に挑戦し、目の前に現れたロイドとヨル&かわいいアーニャと参加するスリリングでハートフルなエンディング・ショーに、大興奮! パークでしか出会えない、リアルな「SPY×FAMILY」の世界を楽しもう! 開催期間 2023年2月17日(金)~2023年7月2日(日) ※開催期間が変更になる場合があります開催エリア【パレスシアター】SPY×FAMILY シークレット・ミッション 先週から始まってるよ!期間長いから行きたいな
2023年02月21日
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背番号6(その1) 今回から背番6に移ります一桁の背番号は球団創設時からの古い番号なので有名な選手が着けてることが多いね とくにこの6番はタイガースでも重要な人たちが着けてるので注目 最初に着けた人からすごいんだよね! 景浦将 投手・内野手初代背番号6は、タイガースファンでこの人を知らないというわけにはいかない伝説のミスタータイガース景浦将だ。少年時代は剣道に没頭しており、野球を始めたのは松山商3年になってから。そこからみるみる力をつけ、昭和7(1932)年の選抜大会では優勝メンバーに人っている。その後立教大学に進むと二刀流で活躍したが、すぐに中退して昭和11(1936)年2月に大阪タイガースへ入団している。景浦の特徴は幼いころから剣道で鍛えた握力と手首で、これが1キロを超える重さのバットを軽々と扱い猛烈なスイングを生み出した。また守っては強力なスナップスローにも生かされていたという。4番サードだが投手不足から二刀流で活躍している。ウィキペディアにも太字で記されているように、最優秀防御率と首位打者のタイトルの両方を獲ったことがある選手は景浦が唯一で、投打にわたって優れたスーパースターだった。 身体が捻じ切れんばかりのスイングがとてつもない飛距離を生み出す。これが景浦の特徴だが、この理屈をのちに実践していたのが門田博光。門田が景浦を知っていたか意識していたかは今となってはわからないが、大きいのを打つには身体をちぎれるくらい捻らないといけないと言っていたのは事実である。景浦と同じように1キロを超えるバットを使っていたのも興味深い。 プロ野球の創世記から存在する読売とタイガースは、東西対決の意味合いも含め選手たちも対抗意識が高く、のちに黄金カードと呼ばれるようになるが、それに火をつけた最初の人が景浦だろう。 読売沢村はタイガース戦で球種を告げてから投球し手玉に取る。この屈辱に「打倒沢村」を掲げる石本監督のもと伝説となったプレート1メートル前からの投球を打つ特訓を重ねて、沢村に場外ホームランを浴びせたのが景浦。残念ながら、今のT―Gにこういうライバル心むき出しの雰囲気はない。 昭和14(1939)年、景浦は1回目の召集を受け除隊後は実家に帰って林業を手伝っていたが昭和18(1943)年に除隊されて現場へ復帰する。戦場で手榴弾を投げすぎて肩を痛め、守りはファーストしかできなくなっていた。 その後昭和19(1944)年に二度目の召集を受け、翌年フィリピンのルソン島で戦死してしまった。 エピソードとしては、当時の職業野球の選手たちによる遠投大会で144メートルを投げ、他を寄せ付けなかったというほどの強肩で、のちに松木謙二郎が「打者以上に投手の能力があった」と語っている。また、性格は温厚な人情家であり、いずれ監督になる器だったと残念がっている。 景浦は途中の召集を除くと5年間「背番号6」を背負って戦い伝説を作った。打者としては通算323試合1134打数307安打222打点25本塁打、打率.271。投手として通算56試合27勝9敗134奪三振、防御率1.57の数字を残す。首位打者1回、打点王2回、最優秀防御率1回のタイトルも輝かしい。 富樫淳 外野手 景浦が亡くなり、戦後最初に背番号6を着けたは富樫淳。 兵庫県武庫郡(現西宮市)鳴尾村出身!身近に大阪タイガースがいる環境で育ち、野球好きで少年期からタイガースの協和寮に入り浸っていたという。 関西学院中から平安中を経て法政大学に進み、昭和21(1946)年にタイガースへ入団する。背番号6は入団から引退まで4年間着けた。学生時代までは投手だったがすでに肩を痛めており外野手に転向している。 プロ入り後も肩の故障は続き、フルシーズン戦えない状態が続いた。タイガースで4年間プレーし、初年度には4番藤村の後ろの5番を打ったこともあるが、外野で膝に大怪我(当時フェンスがなく鉄線を張っただけだったがそこへ突っ込んで膝を負傷)を負って退場。その後は怪我とも戦いながらの現役生活となった。 昭和24(1949)年には肺結核を患い、回復が見込めないとして翌年引退している。野手としては通算169試合516打数135安打48打点の打率.262という成績でホームランは打てなかった。投手で3試合登板しているが、0勝0敗に終わっている。引退後は昭和31(1956)年の夏の選手権で、母校である平安高校の監督として優勝するなど、アマチュア野球の指導者として活躍した。 まとめ景浦さんはもう伝説ね! 先代の机には写真が飾ってあるよ 有名なのは巨人・沢村投手との勝負だけど、エピソードやいろいろな人の証言から、すごい選手だったのがわかる片手で軽くリンゴを握りつぶしたとか、ものすごい大食いだったとか、きっと日ごろから豪快だったのねえ 遠投144メートルって今の選手の誰もできないんじゃない?ホントに戦争はやめてほしい こんなすごい選手が亡くなってしまうなんて 沢村投手も戦死してる 戦争さえなければライバル対決は長く続いてファンも楽しめたのに・・・ 富樫さんは怪我するわ病気になるわ・・・大変な選手時代だったのね せっかく大好きだったタイガースに入ったのにね でもやめたあと高校や社会人の指導者で成功したのはよかった 野球はプロだけじゃないってことよね もっと広い世界なんだ6の2へ続く
2023年02月21日
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広大君が満塁弾💕2代目タイガース非公式サイトです2月19日は韓国サムスンとの練習試合が行われました キャンプも終盤 いよいよ実戦モードに入っていくんだよね単純に実戦に慣れていこうってことじゃなくて 開幕一軍メンバーへの振り分けを見極める時期が近づいてきたとも言えるわねそんななかで、広大君に好いかたちでホームランが出て正直うれしい 前の打席でも犠牲フライ打ってるから 1アウト満塁でもそれほど意識しないで思いっきり振れる場面だったのもよかったかも これは監督さんも喜んでるとおもう! ホームランは楽天との練習試合でもでているので実戦2本目なんだけど 伏線は紅白戦でタイムリーを打ったときに出た岡田監督の この一言だったようね 「そんなんいらんねん。ちょこ、ちょこ当てては、なんの魅力もない」 はい まったくそのとおり! 広大君の魅力は圧倒的な飛距離なのよ 何を期待されてるか自覚しなきゃ自分を見失うぞっていうアドバイスなんだよね 広大君はこの一言で吹っ切れたのか、今はしっかり振りぬくことを心掛けてるんだとおもう 結果に出始めてるし ますます期待感が高まってきたよ 2代目は、広大君に心配なとこがあったのね 去年ナゴヤ球場でのウェスタン中日戦を観にいったとき出てたんだけど 大げさに言えば ぽっちゃり感が半端じゃなくって なに? ちょっと運動不足じゃないの? みたいだったのよ スイングも気のせいかゆったりに見えるし 走るのもドッドッドッって それが今年のキャンプの体つきは 去年から見るとしぼれているなと感じることができてホッとしてるんだ まだもうちょっと引き締まるといいなとはおもうけど 飛ばなくなっちゃいけないしね ここは様子見ね外野は狭き門かもしれない でも持ち前のとびぬけた飛距離に確実さがついてこれば割り込んでいけるって 今の感触を忘れずに目指せ開幕一軍!
2023年02月20日
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ひとみん大好き💕2代目タイガース非公式サイトです アイテム紹介の「Bluetoothスピーカー」でちょっと紹介した あこがれの恵中瞳ちゃんについて 少し補足しておくね たぶん秋葉方面では超有名だとおもうんだけど 全国的にどうなのかなと 変に心配になってきて いつもかわいいひとみんの公式ホームページにのってるプロフィールはつぎのとおり 信じるか信じないかはあなた次第よ生年月日 :1988年10月16日星座 :てんびん座血液型 :A型出身地 :宮城県趣味 : 釣り お菓子作り 映画鑑賞特技 :魚の三枚下ろし(笑) 紙芝居(笑) ウスで、お餅つき(笑) 歌真似経歴 :《モデル》 靴のモデル 東京ファッションコレクション(専属) 14回 ネットモデル sweetselection街角美人 《タレント》 「ラブログ」 レギュラー (WLOOP放送局) 「スタートライン」 レギュラー(WLOOP放送局) 「SAMURAI天馬天平、只今参上!」 (Y-stage池袋放送局 ) 「松鶴家千とせの輪」(あさくさFM) 《歌手》 Gakkライブ 御姫様ライブ battle☆mix VOl 「電撃ネットワークのTOKYOスター誕生」(ムーパル) 「歌と踊りの祭典」(座高円寺2) 「千とせとあるきたい千住 」(ユーストリーム)HPは https://hitomienaka.jimdofree.com/ です みなさんぜひ訪ねてみてね もうめちゃくちゃ写真や動画がいっぱいだから楽しいよ ちょっと写真を拝借してご紹介しちゃいますめちゃスレンダー! スタイル抜群 かわいい!CDジャケットも素敵だよ 歌唱力もすごいんだ! 次のは こ これは ちょっと お人形メイクしてないの?!のせちゃっていいのかな?やばいかな?え~い のせちゃえ レコーディング中のショットなのよ もう可愛すぎて大好き!❤これからも応援するねっあこがれるなあ んじゃ またね️最近激痩せしてるみたいで心配なの だいじょうぶ?瞳ちゃん 新曲出したら教えて!このブログにコメント頂戴ね!
2023年02月19日
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背番号5(その10)その9からの続きです やっと背番号5の最終回にたどりつけたみなさん つきあってくれてありがとう西岡剛 内野手背番号7で書くのがいいのか迷うが、番号の順序で先に出てきてしまうのでここで詳述することにする。 大阪桐蔭高時代は通算42本塁打を記録した注目選手で、4番キャプテンとして平成14(2002)年の夏の選手権に出場している。 平成15(2003)年、ドラフト1位で千葉ロッテマリーンズに入団、在籍8年間を通じて背番号は「7」を着けている。 公式戦には1年目に7試合、2年目には高橋慶彦コーチの指導でスイッチヒッターに転向して63試合出場と順調に育ち、3年目以降の6年間はショートのレギュラーとして活躍した。高校時代はホームランも打てるスラッガータイプだったが、プロ入り後は俊足とミート力を生かし、盗塁王2回、首位打者1回のタイトルを獲った。 この首位打者獲得を手土産に、平成23(2011)年にメジャーに挑戦、ミネソタ・ツインズと3年契約する。1年目は開幕戦にスタメン出場するも開幕1週間で骨折して離脱。68試合221打数50安打19打点0本塁打に終わった。 2年目はキャンプで左手小指を負傷してマイナースタート。4月には右足の捻挫で故障者リスト入りなど思うようにならなかった。ようやく8月にメジャー昇格したものの3試合12打数0安打1打点で降格。3年目の契約解除を申し入れて9月に自由契約となってNPB復帰を目指すことに。 平成24(2012)年11月20日にタイガース入団が決まるが、態度はいたって謙虚だった。球団提示が2年総額4億円のところ自ら申し出て1億円を返上し出来高に変えるとともに、「ポジションは自分で獲る」と宣言して定位置確約も要求しなかった。少し前にFA宣言していた平野のことを気にかけていたのかもしれない。 最初の背番号は直前まで俊介が着けていた「7」、ロッテ時代に背負い続けた番号だ。平野が移籍したため、1年目の平成25(2013)年のシーズンはセカンドに定着し122試合に出場、497打数144安打44打点4本塁打11盗塁の成績でチームを2位に押し上げる。 ところが翌年からは24試合→50試合→55試合→32試合→25試合と散々な成績に終わっている。この間、平成26(2014)年は、開幕早々の守備で福留孝介と衝突し、左鎖骨関節脱臼、左右の肋骨2本の骨折という重傷を負って離脱したことが響いていてシーズンの大半を棒に振っている。平成27(2015)年は右肘の筋挫傷が長引き調子が上がることのないまま終わっている。平成28(2016)年は、最悪の年になる。左足裏に故障を抱えながら出場を続けていたところ、7月20に日の巨人戦で一塁に駆け込んだ際に左足アキレス腱を断裂。手術を受けることになり残りのシーズンを回復やリハビリに費やした。長引く成績不振と度重なる怪我により、契約更改では「契約してもらう立場」と言って金額も見ずにサインしたという。 平成29(2017)年は、ゴメスの着けていた「背番号5」に代えてセカンドにも再挑戦、心機一転を期したが守備に就いたのはわずか13試合。平成30(2018)年は、もはや素人が見ても戦力外で、開幕から極度の不振に陥り5月に登録抹消。9月に復帰したがもう気力も薄れており、活躍できないまま戦力外通告を受ける。11月にはトライアウトに挑戦したがオファーはなく引退に追い込まれた。西岡がタイガース在籍の6年間で打ったホームランはわずかに6本。ロッテ時代にゴールデングラブ賞を3度も受賞した華麗な守備も怪我の影響で鳴りを潜め、1年目こそそれなりに働いたが、後の5年間は本当に歯がゆかった。本人も納得できないだろうが、あまりに怪我が多くどうしようもなかった。 近本光司 外野手近本は兵庫県の淡路島出身、県立社高校から関西学院大学を経て大阪ガスに入社。平成30(2018)年の都市対抗野球で首位打者、橋戸賞を獲得する活躍を見せる。同年秋のドラフト会議では、藤原恭大、辰己涼介の抽選に連続して敗れたあとの外れ外れ1位で指名された。 初年度となる令和元(2019)年は、春季キャンプから一軍に抜擢され、走塁、バッティングとも高い評価を受けて開幕一軍を勝ち取る。その期待に応えて、近本は586打数159安打42打点9本塁打、打率.271の成績を収めるとともに36盗塁を決めて盗塁王を獲得した。脚力を生かしてリーグ最多の三塁打7本も記録、高山が持っていた新人の最多安打136を大きく上回る球団新記録も作っている。 その後も毎年3割前後の打率を維持しており、令和2(2020)年、同4(2021)年には盗塁王を獲っている。 特徴として、ポケモンキャラの「レジギガス」に例えられるが、毎年シーズン序盤は調子が上がらないということが指摘されている。キャンプで一生懸命やりすぎて反動で疲れが出るのか真相は不明。本人にもわからないのかもしれない。1年を通じて調子の波がなくなれば首位打者も獲れる実力がある。 背番号は退団した西岡の着けていた「5」を引き継いでおり、令和5(2023)年で5年目となる。過去、「5」をつけた選手の最長は藤本勝巳の10年。次いで北村9年、新庄が8年だ。近本には引退までしっかり背負ってタイガースをけん引してもらいたい。 まとめ いやはや10回までかかってしまいました 長かった~ 西岡さんは高校時代からスター選手で、ロッテまで順調な野球人生だったのに、メジャーに挑戦してレールを踏み外したって感じね 内野手がアメリカで成功するのはすごく難しいみたい バッティングが大谷君くらい打てればレギュラーになれるかもしれないけど 現在着けてるのは近本さん 4年で盗塁王3回はすごいね 盗塁できる 3割打てる力を持ってる 長打も打てる そのためか監督さんも1番か2番か3番か? 打順に迷っちゃう 岡田監督は何番で使うのか興味あるな これで背番号5は終了 次は6に進みたいけどちょっと休憩しようかな お疲れですっ!
2023年02月19日
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森下君の評価急上昇!💕2代目タイガース非公式サイトです ドラフト1位の森下君が一軍に合流して評価が上がってるね16日のフリーバッティングでは岡田監督もベタ褒め守備も含めてはやく試合形式で見たいね以下サンスポさんの報道から 岡田監督 「負けないスイングできるよなあ。俺は2軍のあん時、フリーバッティング見たからな。なかなかいいでって、バッティングコーチに報告したけどな、おーん。」「青柳のあのスライダーをちゃんと見極めとったよな。何球か外のスライダーとか、インコースに抜けてくるスライダーとかカーブもあったけど、アウトコースに決まるようなの、エエ見極めしとったよな、おーん」 「(K・ケラーの速い球も)力負けしないっていう、スイングの速さやろな。タイミングの取り方も、ネクストバッターズサークルで、ピッチャーのタイミングを合わすような、自分なりにやっとるよな。俺、何にも言うてないよ、はっきり言うて。おーん。そら大したもんやと思ったな、新人でな」カイル・ケラー投手 この日最速をマークした153キロを右中間へ二塁打され、「ちょっと甘いところにいってしまって。それでも、あれだけ強い当たりを打てる選手なので、非常にいいバッター。早くシーズンで見たいなと思うようなバッター」 というように、みなさんいい評価していますよ!実戦楽しみ!ケラー投手も順調に調整できてるみたいで期待持てそうだし沖縄でのキャンプは27日まで、もう3分の2が終わっちゃったのねいよいよ練習試合やオープン戦がたけなわに!今日からの日程は2月18日 対DeNA練習試合2月19日 対サムスン・ライオンズ練習試合2月23日 対中日練習試合2月25日 対ヤクルトオープン戦2月26日 対日本ハムオープン戦となってるよ どの選手がどんな起用をされるかも注目だね!よく見れば「タイガースカラー」のラムちゃんこれからはちょこちょこ登場してもらおう
2023年02月18日
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背番号5(その9)その8からの続きです 浅井良 捕手・外野手平野が去った翌年は、神奈川桐蔭学園で平野の同級生だった縁もあり、浅井が「5」を引き継いだ。浅井は、桐蔭学園から法政大学を経て平成13(2001)年の自由枠でタイガースに捕手として入団しており、最初の背番号は「12」で、平成19(2007)年には「8」に代え、平成25(2013)年に「5」となっている。選手として浅井の特徴は3つある。まず肩の強さ。大学時代の盗塁阻止率が8割越えという強肩は評判で、のちの外野手転向もこれがあったから。もう一つの特徴がノーコン。肩は強いが悪送球を頻発するため正捕手に届かなかった。第3の特徴は俊足。捕手としては珍しく足が速く代走にも使われている。盗塁はほとんどしないがベースランニングは速く、俊足は外野に転向しても守備で生きた。 ノーコンは致命的で、キャッチングの技術もあまり上手くなかったこともあって正捕手になれず、入団後は毎年40試合前後の出場にとどまった。平成20(2008)年には外野手登録に変わる。足もあって外野はどこでも守れたし、打撃面では初球から積極的に打ちにいける度胸があり、スイングスピードも速く、ときにホームランも期待できた。残念ながらレギュラーになるほどの総合力はなかったため、選手生活をサブ的存在として全うしている。現役最後の平成25年に「5」を着けたが、出場46試合、50打数11安打5打点1本塁打の寂しい成績に終わり、シーズン終了後に戦力外通告を言い渡された。現役続行をあきらめきれず、トライアウトにも挑んだが、獲得する球団はなかったため現役を引退している。 マウロ・ゴメス 内野手ゴメスは平成26(2014)年に1年契約でタイガースに入団している。マイナーリーグ(3A)の直近2年で連続20本塁打以上を打っている実績を買われたが、メジャー経験は1年37試合しかなく、未知数というのが1年契約の理由だろう。背番号は浅井の着けていた「5」を受け継いだ。前年不発に終わったコンラッドに代わっての入団なので当然長打が期待されるわけだが、キャンプからオープン戦を見る限りでは「また外れか」という評価だった。しかし、同時期に在籍したマートンからのアドバイスを素直に聞き入れ、開幕すると見違えるように打ち出す。開幕戦を皮切りにしてタイガースの外国人選手では初となる10試合連続安打を記録、連続出塁は27試合まで伸ばしてこれは球団新記録となった。併殺打は多かったが、ランナーを置いた打席はしぶとく、109打点を挙げて打点王に輝く。タイガースに在籍した外国人で初の「1年目100打点越え」となった。166三振を喫しているが、打率は.283、ホームランも26本と十分期待にこたえてくれた。この年には一塁手としてベストナインにも選ばれている。 打撃フォームはばらつきがあって「七色のフォーム」などともいわれたが、これは打席における対応力という点でプラスな部分もあり、バチーンッと真芯ではじき返したときはすごい迫力だった。しかし所詮は3割打てる打者にはなれない。平成27(2015)年が141安打75打点17本、打率.271 平成28(2016)年は127安打79打点22本、打率.255 1年目に好成績を挙げただけに、徐々に落ちていく傾向になったが、数字自体は極端に悪くなったわけではない。まだ来季もいけそうな感じはしたが、球団は3年目の終了後に契約延長はないことを発表して解雇している。 翌年に来たキャンベルが散々だったので、ゴメスを惜しむ声があったのは間違いない。ゴメス以降、令和4(2022)年までゴメスほど働いた選手は来ていない。 まとめ浅井さんはとびぬけた肩を持ってたのに残念だったのね 12年間控えで終わったけど、先代はいい選手だったって言ってるわ 特に不平も言わず、与えれた仕事をこなしてたって もっと光が当たる場面があればよかったんだけど・・・ゴメスさんはすごいんじゃないの? 打点王もとってるし 最近何年かの選手をみててもそこまでの人はいないわよ またこれからもこんなレベルの選手にきてほしいよその10に続く
2023年02月18日
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監督の評価高いよ💕2代目タイガース非公式サイトです 板山君がすごくいい感じみたいです実戦形式の試合で毎試合ヒットを打ってるんだよね 彼の力からすればこれくらいやれますもともと力強いバッティング 足も使えるし 守備も悪くない 野球センスは高かったとおもうんだけど、チャンスに恵まれないまま来てしまったよねことしは岡田監督がしっかり見てくれているし、えこひいきのない監督さんだから言ったことは実行してくれるよ!嬉しそうにみてる 15日に監督が語ったことを並べてみましょ 感覚的にはいいものがずっとある。試合は相手がいる中での対応。自分の中で確実にしていければ。板山は出すよ ええんやもん。使わなしょうがないよな。練習でもいい感じで打ってるし、それが試合でも出るしな。もうしょうがないやん、ずっと出さんと。 今まで外野もセカンドもファームでみっちりやってきたし ことしはビッグチャンスだよ 今の好調をつづけて 怪我にだけは注意してレギュラーつかんでほしい!
2023年02月17日
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背番号5(その8)その7からの続きです 濱中治(おさむ) 外野手和歌山県南部高時代はエース兼4番打者として活躍、甲子園組ではないが高校通算51本のスラッガーとの評価は高く上位指名候補になっていた。タイガースには平成9(1997)年、ドラフト3位で入団。1位は今岡誠、2位は関本健太郎だった。最初にもらった背番号は「66」で2年間着けている。タイガースの育成方針で1年目はほとんど一軍昇格はなく、ファームの4番に固定して経験を積ませているが、気がやさしく、強烈な競争心も感じられないまま、ずるずると4年間伸び悩んだ。平成11(1999)年から平成15(2003)年までは背番号を「25」にかえている。 野村監督の3季目に当たるプロ入り5年目の平成13(2001)年が転機になった。この年、登録名を「おさむ」に変えると大ブレーク。110試合ながら規定打席に到達して411打数108安打53打点13本塁打で打率.263の成績を収め、3年連続最下位だった野村政権下で唯一の光明となった。 平成14(2002)年には星野仙一の監督就任とともに田淵幸一が一軍打撃コーチとして入閣すると濱中につきっきりで「うねり打法」を伝授、夏場までに18本塁打を打つなど順調な成長ぶりをみせた。ただし、「うねり打法」が具体的にどういうものだったかは未だによくわからない。しかし、8月のナゴヤドームの中日戦の守備でダイビングキャッチを試みて右手親指を骨折してリタイアしたため102試合の出場にとどまり規定打席には達していない。それでも打率が初めて3割に届くなど中心打者への階段を一段登ったのは確かだ。骨折がなければ目標にしていた背番号と同じ25本は達成しただろうと思う。 問題の事件は平成15(2003)年におこった。濱中は4番打者として開幕から好調を維持し、5月には10号に到達、打点はセリーグ断トツと絶好調だった。それが緩みになったのかはわからない。 5月20日の広島戦で一塁ランナーだった濱中は、牽制球で頭から帰塁する際に右手でベースタッチに行き肩を痛めてしまう。この時は捻挫(実際は亜脱臼で抜けたがすぐ嵌まったらしい)の診断だった。慎重に回復の様子を見ていたが復帰は6月13日の巨人戦になる。この年は他に大きな差をつけて優勝した年だったが、6月時点ではまだそれほどの差がなく、「好調な4番打者」の復帰を急ぎすぎたきらいはあった。この試合で、星野監督はライトの守りについていた濱中に「獲っても投げんでいい」と告げていたようだが、巨人側は徹底して右打ちを仕掛けてきているように見えた。6回表、巨人江藤の打席で濱中がファウルフライを落球。その直後にホームランを打たれる。これに責任を感じていたのか、次打者阿部のライト線へのヒットを処理して全力で返球してしまう。その瞬間に右手がブラブラに。今回は完全に右肩が外れ、最低でも2か月の戦線離脱が決まった。手術を経てシーズン終盤に復帰して日本シリーズにも出場はできたが、55試合でホームラン11本の成績で終わった。平成16(2004)年、新監督に就任した岡田彰布の奨めで背番号を「31」に変更、掛布にあやかって気分を一新しようという計らいだった。しかし事態はさらに深刻になり、手術後の右肩が悪化して再手術。結局出場できたのはわずか17試合という最低のシーズンになってしまう。平成17(2005)年はリハビリを続けながら78試合に出場し微力ながらリーグ優勝にも貢献したが、肩の影響でドアスイングになり飛距離が出なかった。平成18(2006)年、登録名を「治」に戻し、背番号も「5」に代えるとようやく復調し、139試合に出場、486打数147安打75打点20本塁打で、打率も.302という素晴らしい成績を残している。 しかし翌年はけがに悩まされ、林威助や桜井広大にポジションを脅かされて62試合の出場にとどまりシーズン終了後、平野恵一とのトレードでオリックスに移籍することになる。このトレードは長年濱中を応援し続けてきたファンから猛烈に叩かれている。オリックスには3年間在籍したが平成22(2010)年に戦力外、平成23(2011)年にヤクルトに拾われて1年間在籍するが、5試合に出場したのみで現役引退した。結局、濱中がタイガースで背番号5を背負っていたのは平成18年、19(2007)年の2年間だった。その後は濱中とのトレードで入団した平野が受け継ぐ。 平野恵一 内野手・外野手 平野は神奈川桐蔭学園高から東海大を経て平成14(2002)年にドラフト自由枠でオリックスに入団している。首都大学リーグでは通算.321の好打者でショートの守備力も高く評価されていた。 オリックスでの1年目は7試合、2年目に53試合に出場、ショートからセカンドにコンバートされている。ショートではスローイングに難があったようだ。 平成16(2004)年に規定打席到達。レギュラーとなったが守備位置は内外野併用となる。平成17(2005)年はチームトップの打率.285を記録しているが、平成18(2006)年5月にファウルフライを追ってフェンスに激突し、選手生命にかかわるような大けがを負い、その後のシーズンを棒に振る。平成19(2007)年には復帰したが、故障に悩まされ58試合にしか出ていない。そのような事情から、このオフのタイガース濱中(プラス吉野誠)とのトレードにはタイガースファンから不満の声が上がったのもうなずける。実際は球団フロントが濱中の放出を決め、岡田監督は不満ながら渋々納得したうえで交換要員には平野を逆指名したという。平野の成績は低迷していたが岡田監督は一定の評価をしていたのだろう。 平成20(2008)年、タイガースに入団すると濱中の背番号5を継承。外野手登録だったが95試合でセカンドを守っている。これで関本はレギュラーポジションを失うことになった。 169センチの小柄な体だが俊敏で外野手としての守備範囲も広く、赤星とのコンビの好守で投手を援護している。また攻撃面でも356打数96安打21打点1本塁打ながら2番打者としてセリーグ最多の47犠打を記録するなど貢献した。 平成21(2009)年には、セカンドを79試合、外野も79試合を守る。足すと158試合になるので1試合に両方を守ることも多かったことになる。実は平野本人にとってこれは不満だったようだ。契約更改のときに、この守備掛け持ちに対するあまりの評価の低さに涙を流して抗議したこともあった。 平成22(2010)年には絶頂期を迎える。139試合で492打数172安打の打率.350を記録。ヤクルトの青木にわずかに及ばず首位打者は逃したが、犠打も59個でリーグ最多だった。これで押しも押されもしないタイガースの人気選手の仲間入りをしている。 平野に関して腑に落ちないのは、俊敏で足も速かったわりに盗塁が少ないことだ。タイガースに在籍した5年間で二けた盗塁が1度もない。20~30個は楽に走れる能力があったはずだが、いまだに納得できない。理由をお知りの方があったらぜひとも聞いてみたいものだ。 5年間の在籍時は内外野併用の状態が継続しており、平成22年をピークに成績は下降する。平成24(2012)年のもレギュラーの座は何とか確保していたが、シーズン終盤から嫌な声が耳に入ってくるようになった。 それは、メジャーへ行っていた福留孝介と西岡剛が日本に復帰する見込みで、タイガースがダブル獲りを考えているというショッキングな話だった。二人が同時に入ってこれば、福留はライト、西岡はセカンドに入ることがほぼ確実なので平野の守備位置はなくなってしまう。 居場所がなくなることを恐れた平野はシーズンオフになると11月10日にFA権行使を宣言する。 残留交渉で球団は、平野に対しては「FAしても提示条件は変えない」「平野君から要請があれば交渉する」と冷たい態度をとる一方で、福留や西岡などには大盤振る舞いの条件を出している。この当時を振り返ると、球団は功労者でありファンの支持もある平野を邪険にはできないため、交渉しているポーズをとっているが、戦力外と見ていて平野が退団を選択するよう仕向けている感じがした。どうしても西岡が欲しいがショートに鳥谷がいるためセカンドを空けないと来てくれないかもしれない・・・というのが本音であったのではないかと推察している。タイガースという球団にはこういう嫌な体質があると思う。 平野は阪神残留に見切りをつけてオリックスに移籍し、3年後に引退している。ただし、タイガースへの貢献や野球の知識、技術は高く評価されており、平成28(2016)年から令和3(2021)年までタイガースの二軍コーチに招かれ若手の指導に汗を流した。まとめ波乱の2人ですねえ 濱中さんは怪我がすべて 怪我するつもりでやってるわけじゃないのにホントに運不運ってあるんだね 入った時から将来の4番に育てる方針で大切に育ててもらったけど、一瞬のプレーですべてがかわってしまうなんて残酷 赤星さんがキャンプで強く指導していた「足からの帰塁」はあの試合で濱中さんの事故を目の前で見てたからじゃないかな 本音は「手から帰っちゃだめだ」の意味なのね 平野さんはすごく頑張ってくれた選手だったのね 内野と外野の守備のかけもちなんてすごく大変だったとおもう だって両方ともみっちり練習しないといけないでしょ レギュラーかかってるんだから それに先代の原稿にもあるんだけど 事情によってかんたんに切りすてるみたいなのはかわいそうだったよね そういうのがプロ野球だっていうなら厳しい世界なのねえ 背番号5がなかなか終わらない💦 まだ続くよ!その9に続く
2023年02月17日
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2代目のアイテム紹介💕 その1このカテゴリーでは2代目が手に入れたいろんなアイテムを紹介するね今回が第1回そんなの知ってるよっていう人いるかも でも笑わないでご容赦! では、次の写真は何だかわかる? これは「Bluetoothスピーカー」っていうの 発売元は 2代目が愛用してるファッションブランド「DIESEL」なのね だから一目見て衝動買い スピーカーは内蔵されていて音は360度に届くんだ 天板と底はサブウーファーになってます なので部屋の真ん中において逆さにしても、部屋のどの位置からでも同じ音が聴けるんだよね このスピーカーは別名「サウンドバー」って言うんだよ でもね スピーカーだけでは何もできないの スマホと連携して使うものなんだ まずスマホにミュージックアプリをダウンロードするのね 下の写真の2段目のいちばん左が「アップルミュージック」その右が「Amazonミュージック」というアプリ ほかにもいくつか使えるアプリはあるみたい スマホの「設定」でBluetoothをONにして スピーカーのスイッチを入れると自動的にペアリングしてくれます これで準備OKなんだけど問題があるのね アプリを使うことはできるけど 無料では聞ける曲数に制限があるの もう一つ 選曲してもランダム再生になっちゃって聴きたい曲がうまく聴けないのよね なので契約しないと自由に使えません 2代目は「Amazonミュージック」と契約してます 個人プランで月額1080円 これで1億曲以上が聞き放題・ダウンロードし放題できるのよ 2代目はiPhoneだけど このスピーカーはandroidにも対応してるのでご安心を で 次の写真のように使うんだけど スマホとスピーカーは半径15~20メートル離れても大丈夫 スピーカーは3時間でフル充電できて14時間使えますよ 防水でタフです アウトドアにもっていってコードレスで聴けるから 山の中でウグイスの声なんか流してみたい 鳥が集まってくるかも スマホとの比較でスピーカーの大きさがわかるよね すごくちっちゃいの ところで 上の写真のスマホ画面が気になる人いる? このアルバムは2代目のあこがれだった恵中瞳ちゃんの「鳥」 1988年生まれと公表してるけど怪しいらしいのね 60歳説もあります 愛称は「ヒトミン」 実態が謎の人なんですが見た目はかわいい! 瞳ちゃんは7枚のアルバムを出してるのね ジャケットはこんな感じ 特殊メイク? その中の この「鳥」には10曲目に「六甲おろし hitomin version」が収録されてるんだよ! 7枚のアルバムにはほかにもタイガースを応援する歌がいくつもあるんだ とってもかわいく元気よく歌ってるのでいつも聴いてますひとみん | タイガース非公式サイト2代目 - 楽天ブログ (rakuten.co.jp) スピーカーの価格はAmazonで9660円(楽天市場は高いの) ちっちゃくても音質・音量はかなりのもの サブウーファーの効果で重低音もボンボン響くよ 保証します ノーブランドなら類似品が2900円くらいから買えるよ!ただし音質は保証できないけどねDIESEL ディーゼル Bluetooth ワイヤレススピーカー ブランド ワイヤレス 防水 重低音 最大14時間音楽再生 リストストラップ付 ブラック レッド アウトドア ※当店限定1年保証※価格:9,900円(税込、送料別) (2023/12/6時点)楽天で購入
2023年02月16日
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背番号5(その7)その6からの続きです この背番号って この先も近本君までの間にたくさんの選手が着けてるんだよね その7まで来たんだけど もうちょこっとお付き合いしてね トーマス・エバンス 内野手平成13(2001)年、21世紀になったこの年、3年目の野村阪神は苦しんでいた。春季キャンプで赤星憲広、藤本敦士、沖原佳典、上坂太一郎、平下晃司、松田匡司、高波文一の7選手をF1セブンと命名して売り出したが所詮は小粒な選手ばかりで、赤星が盗塁王になったほかは不発。新庄というスター選手が抜けて人気も低迷し、スタンドには空席が多くなった。ダフ屋が半額くらいにディスカウントしてチケットを売っているのを見たことがある。 新庄、大豊泰明、トニー・タラスコが退団したことで、もうホームランも期待できない貧弱な打線を補強するため、イバン・クルーズとエドワード・ペレスという新外国人選手を獲得したが、両者そろって期待外れに。 特にサードを守っていたペレスが開幕から不振を極めたため、6月にデトロイト・タイガースの3Aにいたエバンスを緊急補強することになった。昨年まで新庄の着けていた背番号5で登録される。 結果的に成績は芳しくなく39試合出場で124打数30安打14打点2本塁打、打率は.242で打撃では戦力とならなかった。 タイガースでのエバンスの特徴は守備にあった。もともと練習熱心でノックも積極的に受けるし下手ではなく、守備固めだけの出場にも不満を漏らさないなど性格も好かった。そのおかげで低調な成績のわりに珍しく残留している。 平成14(2002)年には背番号が「59」に代わり、「5」は1年着けただけだった。せっかく残留できたエバンスだったが、星野監督に代わったタイガースは、ジョージ・アリアスを筆頭に大胆な外国人補強を断行したので押しのけられてしまって出番はなし。 エバンスは5月に橋本武広との交換で西武ライオンズへ移っていった。本来なら飼い殺ししたうえで解雇となるはずが交換要員になっただけでも奇跡的だった。スコット・マクレーンの戦線離脱の穴埋め要員として西武側から申し入れたトレードだったようだ。 ところが、西武では故障のマクレーンに代わってのスタメン出場に恵まれると、78試合に出場、242打数61安打45打点15本塁打とブレイクして、リーグ優勝に貢献する働きを見せ、日本シリーズにも出ている。しかし活躍は実らずマクレーンが復帰して結局は1年で戦力外となっている。一方タイガースは、出だしは好かったが新外国人のデリック・ホワイトが役に立たなかったため、「なんでエバンスを出したんだ!」と結果論でファンが怒ってしまうなど、後半戦で失速して4位に終わった。 沖原佳典 内野手 沖原佳典はアマチュア歴の長い選手で、愛媛県西条高から亜細亜大を経て平成7(1995)年にNTT東日本に入社して6年間在籍している。都市対抗で活躍し、平成12(2000)年のシドニーオリンピックに出場。この時はJR東日本にいた赤星憲広も代表チームメートだった。 オリンピックではスタメン・ショートとして2本塁打を打つなど活躍し、その様子を見ていた野村監督の目に留まって赤星とともにタイガースに指名されることになる。 平成13(2001)年タイガース入団、この時28歳になっていた。最初に着けた背番号は「8」で翌年から「5」に代わり、トレードに出されるまで4年着けた。実力を買ってくれた野村監督の下では1年過ごしただけになったが、F1セブンの一人として71試合218打数43安打14打点4本塁打の成績を残す。ただし、野村監督の期待した足のほうは2盗塁に終わっている。その後は藤本淳士とのポジション争いが続き敗れて控えに回り、さらに平成16(2004)年には鳥谷が入団してショートのポジションはなくなった。対左投手にはめっぽう強く、代打でも使われたが、平成17(2005)年の6月に東北楽天へトレードされ、平成18(2006)からは再び野村監督の下でプレーしたが、レギュラーになることはできず、平成20(2008)年に戦力外となって引退した。 前田忠節(ただとき) 内野手和歌山県出身だが高校はPL学園で、甲子園にも出ている。同期には福留孝介がいた。東洋大学へ進み平成12(2000)年、ドラフト3位で近鉄バファローズに入団する。近鉄時代は守備固めが中心の起用だった。前田はセカンド、サード、ショートのどこをやっても上手く、守備要因になりやすい要素があった。それに加えて各ポジションにライバルがおり、打撃面では競争に勝てなかったため、レギュラーに届かなった。平成16(2004)年、近鉄の球団消滅による分配ドラフトで東北楽天に入団したが、やはり守備要因に終始する。平成17(2005)年5月に沖原とのトレードでタイガースに移籍し、スライドで背番号5を着けたが、翌年から32番に、最後の1年は55番を着けている。 移籍しても、鳥谷、今岡、平野の内野が固定されている状況で、代走や守備固めしか出番はなかった。5年間で公式戦わずか24試合の出場で、最終年は一軍のゲームには出ていない。平成21(2009)年に引退。その後独立リーグやソフトバンクのコーチ、実業団のコーチなどを経て令和3(2021)年にタイガースフロントに復帰して現在スカウトを担当している。 まとめ 新庄さんが出ていったあとのこの3人は続けて冴えないんだよね エバンス選手はどうして西武で急に打ち出したんでしょうね?不思議タイガースへはシーズン途中の入団だったから1年目はむずかしかったとしても2年目に星野新監督になったのも痛かったわねえ 監督が代われば外国人選手も大きく入れ替えるから出番がなくなって・・・なんかかわいそうだったね 沖原さんや前田さんは守備はうまかったんだとおもうけど、時期に恵まれなかった感じ 打力のある選手とポジションがかぶっちゃって やっぱり投打のバランスが取れてないとレギュラー獲りはむずかしいんだ その8へ続く
2023年02月16日
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背番号5(その6)その5からの続きです球団ができた時からある番号なのでしかたないけど 背番号5を着けた選手は多いんだね 編集まとめるの大変 まだ先は長いの・・・ 新庄剛志 外野手西日本短大付属高校の新庄剛志は類まれなポテンシャルを秘めて、平成2(1990)年のドラフト5位でタイガースの指名を受ける。ファンだった巨人から3位までに指名があるといわれていたが空振りで、阪神や指名順には不服だったようだが、元阪神の投手だった渡辺省三スカウトの説得で入団が決まる。最初の背番号は「63」、金森が移籍したあと平成5(1993)年から「5」を着け、退団するまで8年間背負った。 1年目は腰痛に悩まされファームでも36試合にしか出ていない。このシーズンに自ら申し出て外野手から遊撃手に転向している。2年目の平成3(1991)年9月に初めて一軍昇格、巨人戦の代打で初打席初安打初打点を記録する。初スタメンは9月16日の広島戦で7番ショートだった。 歴史に残る「新亀フィーバー」を巻き起こすのは、平成4(1992)年のことだ。5月、サードのオマリーが負傷により登録抹消されると入れ替わって一軍昇格。26日の横浜戦で7番サードのスタメンで出場すると、第一打席で初球をホームランし、これが決勝点となってヒーローインタビューを受けることに。この試合から12試合連続安打して、完全に一軍戦力の一角を占める。オマリーの復帰に備えて、7月にはセンターを守るようになった。新庄に加えて、ヘッドスライディングを売りにした亀山の大活躍もあって、タイガースファンに大フィーバーが巻き起こり、チーム成績も上向く。 9月16日の広島戦でサヨナラホームランを打った後のヒーローインタビューで新庄が「優勝宣言」すると、調子に乗った中村監督の「お土産宣言」も飛び出した。結果はご存じの通り、最後のロードで総崩れの2位に終わったが・・・ 個人的には98安打46打点11本塁打の成績を残す。96試合で378打席と規定打席に届かなかったため新人王は同僚の久慈照嘉に譲っている。 こんな調子だと長くなりそうなのでちょっと走るね💦 とにかく翌年のキャンプも新庄フィーバーは続いていて、バレンタインデーにはトラック3台分のチョコレートが届くという伝説も残している。 平成5(1993)年に23本、平成6(1994)年も17本とホームランも増え2年連続のゴールデングラブ賞も受賞し、順調に育つと思われた新庄だったが、平成7(1995)年に大きくつまづいてしまう。原因の一つが山内打撃コーチの「広角打法」の打撃理論。全く理解できず、「自分は頭が悪い」と言って指導を受け付けなくなり、足の故障も手伝って成績は大きくダウン。そこに追い打ちをかけるように、成績不振で中村監督がシーズン途中で退任し、藤田平が監督代行になったの決定打だった。 騒動はシーズン終了後に起きる。要因の一つはシーズン中に二軍落ちした際に当時の藤田二軍監督から正座をさせられたこと。これは別メニューでトレーナーのマッサージを受けていたのを知らない藤田監督が練習をさぼったと責めたことだったが、それを伝えていなかったコーチの落ち度。 さらにシーズン終了後に藤田が正式に一軍監督に就任するとコテコテ昭和人「鬼平」の指導が始まり、故障が癒えないのに四国黒潮リーグに派遣されたこと、師と慕う柏原純一打撃コーチを解任したことなどで、もうこの監督と一緒に野球はできないと思うようになる。水面下では球団に対して横浜ベイスターズへのトレードも志願していた。(実際に畠山準との交換の話はある程度進んでいた)そして11月19日の契約更改交渉後の記者会見の場での「引退宣言」となった。「僕には野球センスがないって見切りました もう引退します」と言い残して帰ってしまったのだ。これには球団もあわてて、川島セリーグ会長まで説得に乗り出すなど大騒動になってしまった。新庄はスカウトの渡辺省三から説得されて引退を撤回したものの、藤田監督との溝はもう修復不可能で精神的に集中を欠き、翌年からは期待されたほどの成績を残せない時期が続いてしまう。 平成9(1997)年に吉田義男監督が3度目の就任。2年続けて130試合以上に出場しているが、打率は2割2分から2割3分と低迷する。ホームランは平成9年に20本打ったが、調子が不安定でやる気のなさも目立ち、それを不満とする私設応援団による応援ボイコットも起きた。新庄の打席になると鳴り物を止め、拍手も声援もなしという異常事態を巻き起こしている。平成10(1998)年には6本に激減した。 このころ先代は甲子園で何回かこのボイコット場面に立ち会ってるって 新庄さんの打席だけほんとにシーンとして異様だったって言ってるよ当時の雰囲気は やってるほうも見てるほうも殺伐としてたみたい 吉田監督がめった打ちされてる中ノ瀬投手(96年西濃運輸から入団)をさらし者にして替えなかったときも先代は甲子園にいってて「替えてやれよー」とか「最後まで放らせろ!」とか怒号が渦巻いて観客どうしで喧嘩まであったって ホントに暗黒だねえ・・・中ノ瀬投手はこれで精神的にアウト 次の年に引退しちゃってるああああああああ! それにしても長いっ!新庄さんエピソード多すぎ 平成11(1999)年、野村克也監督が就任する。新監督はタイガースの選手は意識改革が必要と言って「野村の考え」という冊子を使って講義を繰り返したが、新庄には通じなかったようだ。しかし、野村は新庄の才能を認めており、自由に任せたほうが伸びる子だと見抜き、細かいことを言わず放任する方針をとった。キャンプ中には投手の練習もさせたりしている。 エピソードとして有名な敬遠球サヨナラヒットもこの年だった。6月12日の巨人戦、延長12回裏の1死一三塁で投手は槇原。満塁策をとるため一球目から外角へ外してきたが、新庄には「バットが届く範囲」に見えた。 この年は野村監督が中日にいた柏原コーチを呼び戻していたのも背景にあるが、同コーチと新庄はかねてから甘い敬遠球を打つ練習はしていた。これには監督の了解も得ており、実際の場面では2球目に「打て」のサインが出たという。打球は大きく空いていた三遊間を抜けていった。 監督が代わってかわいがってもらえたおかげか成績も上がる。前年6本に減っていたホームランは14本打っているし、打率も5年ぶりに2割5分をこえた。 平成12(2000)年はキャリア中もっとも高い数字を残す。131試合511打数142安打85打点28本塁打で打率.278で試合数以外はすべて最高の数字だった。 阪神甲子園球場のラッキーゾーンが撤去されたのが平成4(1992)年で、ちょうど新亀フィーバーの年だ。それ以降、だれも30本以上を記録できなかった中で28本は立派な数字といえる。ある意味では不運で、ゾーンがあれば右打ちの新庄は40本以上打てる打者だったのではないかと想像できる。八木の幻のホームランだってゾーンなら入っていた。この年の8月にFA権を取得した新庄は、表面上横浜べスターズやヤクルトスワローズと交渉をしていた。これに対し、タイガースは5年12億円という複数年の条件を提示して引き留めを図っていた。ところが新庄は、12月11日の契約更改交渉後の会見で突然ニューヨーク・メッツ入りを発表する。当時のレートで契約金3000万円、年俸2200万円プラス出来高5000万円の3年契約だという。5年12億を蹴って?誰もが仰天したが新庄にはそんなことはどうでもよかったのだろう。アメリカという最高の舞台へのワクワク感でいっぱいだったに違いない。もうやめた!この先は本人の書籍などで詳しく読んでね新庄さんの成績だけをみるとそんなに大した選手じゃないよね なんですごい人気者なのかわかんない ファンに愛される選手だったのかな 新庄さんもファンを大事にしていたってことはあるんでしょうね今年のファイターズの一軍コーチには八木裕打撃コーチや山田勝彦バッテリーコーチが入ってるよね タイガース時代の同僚です こういう人脈を大事にしてきた人だってとこも人気の秘密なのかな きっと慕われてもいるのねでも先代は「タイガース時代の新庄は好きじゃなかった」っていうのよね もっとできる選手だったのに自分勝手で気分屋でダメになったって わからなくもないかなでも2代目は 新庄さんのお金に関して打算的じゃないとこは好きだな 背番号5の6回目は新庄さん一人で終わっちゃおう次はトーマス・エバンス選手から その7に続く
2023年02月15日
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バレンタインデー💕2代目タイガース非公式サイトです 今日はセントバレンタインデーですこれっていったいいつからあるの?WIKIみてると「ローマ帝国のキリスト教の司祭だったウァレンティヌス(バレンタイン)が 禁止されていた兵士の婚姻こっそり手助けしていたことを咎められて処刑された日が起源で『恋人たちの日』になった」っていうのが一般の説みたいね ほかにもいろんな説が載ってるけど 女性から男性にチョコあげる日って 日本のお菓子メーカーが考え出したことなんだって2代目はチョコあげたことはないわね もらったことはあるよ こういう習慣ってめんどくさいから今の女の子はもうやってないよ でもおいしいチョコを食べるの好きなのね だから毎年JRナゴヤタカシマヤの「アムール・ド・ショコラ」にはいくんだよ 今年もいきました お目当てはトシ・ヨロイズカさん アムール・ド・ショコラは3週間くらい開催されるんだけど 出店してるパティシエが来店する日があるんだ その日にあわせていくのいったのは1月24日 たくさん買ってきたけど バレンタインデーまでに全部消費しました おいしいからすぐなくなっちゃった今日がバレンタイン当日なのであらためてちょこっと紹介するね箱しか残ってないけど このチョコはカバの形をしたチョコが入ってます 箱の真ん中にイラストがあるよ!これがトシ・ヨロイズカのトレードマークなんだ 中身は下の写真なんだけど食べちゃったのでHPから拝借 ほかにもたくさん買いました かわいい缶や箱に入ってる 見るだけで楽しい 買った商品には一つ一つ手書きでサイン書いてくれるのね シェフの写真撮らせてもらえたんだ ちょうど2代目が買った商品にサインしてくれてるとこ マスクしてるので超無愛想にみえるけど良い人 ついでに定番ものもかったね ほかにもいっぱい また来年もいきますね
2023年02月14日
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背番号5(その5)その4からの続きです 北村照文 外野手末永が引退したあと、「背番号5」は2年間空き番になる。昭和55(1980)年に5番を着けたのは、神奈川県武相高からキャタピラ三菱を経てドラフト3位で入団した北村照文だった。社会人出身で、都市対抗野球では史上初のサイクルヒットの実績もあるため、最初から一桁の背番号をもらっている。大変な俊足で、ベース一周は14秒。1年目から65試合に出場したが、バッティングに確実性がなく、長打もないため2番打者としてつなぎの役割を与えられることになる。大きかったのは島野育夫の存在だろう。足のある外野手として中日、南海を経て昭和51(1976)年からタイガースに移った好選手。現役最後の1年は北村入団の年と重なっており、昭和56(1981)年から守備走塁コーチに就任すると北村を手塩にかけて育てた。 島野の指導の下、外野の守備、盗塁、走塁、バントの技術がぐんぐん上達し、昭和58年(1983)年にはセンターのレギュラーとなる。また、この年に記録した31犠打はリーグトップで、2番打者の役割も十分果たした。盗塁もキャリア最高の26個を決めている。 ここまで順調だったが、昭和59(1984)年にロッテから弘田澄男が移籍、また昭和56(1981)年に入団していた吉竹春樹の成長も重なり、熾烈なポジション争いに巻き込まれていく。タイガースが優勝した昭和60(1985)年のシーズン成績を比較してみる。北村が114試合256打数67安打19打点7本塁打21盗塁25犠打弘田が 85試合223打数66安打22打点5本塁打2盗塁23犠打吉竹が118試合186打数46安打16打点2本塁打7盗塁11犠打特に弘田とは拮抗していて、シーズン中はやや北村のほうが貢献度が高いとはいえる。ところが日本シリーズでは吉田監督の判断で経験が重要視され、弘田が2番指名打者で全6試合に出場しており、センターの先発は北村が3試合、吉竹が3試合だった。 昭和62(1987)年には吉竹がトレードで西武へ、またこの年を最後に弘田も引退したので、北村の天下になるかと思われた。 しかし、昭和63(1988)年の成績が振るわず、シーズン途中で金森永時との交換で西武に放出されてしまった。平成2(1990)年の開幕直後のトレードで中日に移籍したが、おもに守備固めや代走に終始し、平成4(1992)に現役引退した。 記憶に残るプレーは昭和62(1987)年の中日戦。投手の鈴木孝政の打ったあたりがゴロでセンターへ抜けると猛ダッシュした北村がつかんで一塁へ矢のような送球、アウトにする「センターゴロ」を記録している。ごくたまに「ライトゴロ」はあるが「センターゴロ」は聞いたことがない。それくらい強肩だったということだ。 金森永時 外野手 さて、昭和63(1988)年のシーズン中に北村とのトレードで阪神入りした金森永時は、北村が背負っていた背番号5をそのまま引き継いだ。 金森はPL学園時代にはセカンドで甲子園出場、早稲田大学に進んで捕手となっている。4年時には岡田彰布に続く5番でクリンナップを組んでいたのは知らない人が多いかもしれない。 その後プリンスホテルを経て、昭和57(1982)年にドラフト2位で西武ライオンズに入った。1年目は捕手として公式戦にも4試合出ている。 2年目から外野手に転向。タイガースが日本一になった昭和60(1985)年には西武のレギュラー左翼手として日本シリーズも全試合に出場した。 金森の特徴は何といってもデッドボールのパフォーマンス。昭和59年の12個、60年の15個は連続のリーグ死球王だ。当たった時には大声をあげて悶絶するし、かすったかどうか微妙な時にはユニフォームをつまんで「ここ、ここっ」と猛烈にアンパイアにアピール。体を張ったプレーが多く、「生傷男」として珍プレー集の常連だった。 タイガースに来てからはレギュラーにほど遠く、多い年でも83試合の出場にとどまっている。在籍中には、ホームランを追ってラッキーゾーンフェンスによじ登ったが届かず、自分もフェンスを越えて転落する「金森も入ったあっ」の実況で有名な超珍プレーで沸かすなど相変わらず面白い選手として人気があった。在籍最終年の平成4(1992)年は42試合で44打席だから完全に代打要因となっている。この年限りで自由契約となり、野村監督のヤクルトへ移籍した。ヤクルト入団後は野村再生工場でよみがえり、平成8(1996)年まで代打の切り札として貢献している。 まとめ 北村さんは運がなかったのかな レギュラーになりそうでなってない 足と肩がすごかったっていうのはわかる気がする センターゴロなんてふつうあり得ないからね 金森さんは聞いてても面白そうな人なのはわかりますよ でも経歴から言ったらすごい野球エリートなんだよね その人があの固いボールに当たりに行ったりしてたって信じられないよ 今5番着けてる近本君はこんなギャグみたいな選手になっちゃだめだよ! 先代に聞くと二人とも見かけによらず気が強くって それぞれすごい乱闘騒ぎを起こしたことがあるんだって さて金森さんの次は、今や「ビッグボス」になった新庄さんが着けてるのね お楽しみに!その6に続く
2023年02月14日
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もう迷うな!って言ってあげたい💕2代目タイガース非公式サイトです 2016年のドラ1高山さんはもう8年目なんですね それがキャンプに入ってもずっと苦しんでるって連日報道がつたえてくるのはどうしちゃったのかなあ 1年目は136安打も打って新人王になってるのにだんだん悪くなって今は最低の状態らしいのよ 打っても前に飛ばないんだって?! ボールの反発係数は人によって変わるものじゃないので打ち方の問題なのよねえ 監督さんは立ち直らせようといろいろ言ってくれるんだけど好くなってこない 2月10日にはアッパースイングを修正するよう直接指導したみたい「極端に修正したらな治らへん」って言ってた 裏がえせば今の打ち方が極端に悪いってことなのよね この日は高山さん本人も臨時コーチできてる鳥谷さんに会ってアドバイスもらったようだけど・・・ 今日の記事では田尾さんがグリップについてアイデアを出してる 短く持ってみたらどうかって グリップエンドに小指掛けてるのをやめてみたらとも その程度でなおるものなの? もうゴチャゴチャ迷ってないで、もう目つぶって振ってみろ!って言ってあげたいよ ドラ1と言っても8年目です もう中心選手になってないと いつまでも面倒見てもらえないわよ 正直今年が最後かもしれないってこと 開き直るしかないぞっ! 2代目はここまできたら掛布さんだとおもうのね! 新人のときの最初のキャンプは安芸の二軍スタートで掛布さんがつきっきりで指導してたんだって それでその年の新人王になってるの 掛布さんの指導のなかに高山さんにマッチするカギがあったのよ!きっと岡田監督さん! ぜひ今すぐ掛布さんに臨時コーチお願いして!もうキャンプも半ばなんだし間に合わなければ・・・彼終わっちゃうよ!
2023年02月13日
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背番号5(その4)その3からの続きです 植木一智 投手 植木は平安高校の左のエースとして昭和39(1964)年の春夏甲子園に出場していずれもベスト8に進んだ。その時の捕手は衣笠祥雄だった。その後龍谷大学を経て昭和44(1969)年にドラフト2位でタイガースに入団している。 前年空き番だった背番号5は最初の年だけ着けた。2年目から「29」、4年目から「36」をそれぞれ2年づつ着けている。 1年目には12試合に登板しているが2敗。初勝利は3年目の昭和46年6月だが、この年はこの1勝のみ。4年目にはプロ初完投勝利を挙げるものの、この1勝しかできず、5年目を終わったところで引退している。 プロ通算は5年間で34試合登板、2勝3敗 防御率4.92という成績だった。いつの間にか辞めてたなという選手。当時のタイガースは江夏豊と権藤正利しか左投げがいなかった時期なので期待されていたが、高校時代のようにはいかなかったようだ。 葛城隆雄 内野手・外野手 植木が背番号を替えた年に引き継いだのが葛城隆雄だ。タイガースファンにとっては「ん、誰?」と思う選手だろう。 葛城は毎日オリオンズから中日ドラゴンズで鳴らした強打者で、現役生活最後の1年だけタイガースに在籍した選手だからだ。 大分県上野丘高から昭和30(1955)年に毎日オリオンズに入団。高卒の新人ながら55試合に出場して2本塁打を記録している。 翌昭和31(1956)年からレギュラーとなって8年連続100試合以上出場して「ミサイル打線」のクリンナップを担った。昭和33(1958)年に85打点、同34(1959)年には95打点で2年連続打点王にも輝いている。当時表彰はなかったがこの2年は最多安打も記録した。オリオンズ在籍9年間で二けたホームランが6回ある。 昭和39(1964)年、オリオンズの濃人監督の意向もあって、前田益穂との交換で中日ドラゴンズに移籍。中日時代は主に外野を守ってクリンナップの一角として活躍する。6年間在籍しているがそのうち5年間で100試合以上出場し、いずれも100安打以上を記録している。最後の1年はさすがに衰え、70試合出場にとどまり戦力外となった。 昭和45(1970)年、タイガースは代打の切り札としての期待をもって獲得し、背番号5を与えたが、黒い霧事件にかかわったという疑いから3か月の出場停止などもあって結局30打数8安打5打点の成績に終わった。ホームランは1本だけ記録している。 末永正昭 内野手 愛媛県の名門松山商業から中央大学、社会人熊谷組を経てタイガースに入団した野球エリート。社会人屈指の三塁手として守備には定評がありドラフト2位で昭和46(1971)年にタイガース入団、引退するまで背番号5を着ける。しかしプロは甘い世界ではなく、同年は22試合で20打数4安打0打点に終わっている。 現役生活は昭和52(1977)年までの7年間で、通算231試合89打数17安打4打点1本塁打という数字だ。出場試合数に比べて打数が極端に少ないのは、打力が伸びず、起用されるのがもっぱら代走や守備固めが多く、レギュラーには程遠かったからだ。そんなことから「メガネをはめた小兵」というあまりありがたくないニックネームで呼ばれた。末永が引退した昭和52(1977)年のサードは、もう掛布雅之がバリバリのレギュラーになっていたので悔いはないだろう。引退後はフロント入りし、編成部長チーフスカウトまで上り詰めた。スカウトとしては上坂太一郎や赤星憲広の獲得を成功させている。 まとめ 植木さん 今まで知らなかったなあ 衣笠さんとバッテリーだったのも初耳ですね 先代の資料はバカにできない 葛城さんはすごいバッターだったんだ!タイガースにほしかったよ って最後に来たんだけどもう終わってたんだなあ 若い時の写真にはどことなく松井秀樹のイメージがあるわよね! 末永さんは失礼ながら全然聞いたことない 選手としては地味だったからかな 写真もこれといって見つからなかったから 内野手で眼鏡ってあぶなくないのかな? その5に続く
2023年02月13日
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馬鹿ですねえ💕 ブログ見に来てくれてるみんなはどう思ってるかわかんないけどプロフィールのやばい写真 正真正銘の2代目なんだよといっても・・・16か17歳ころのいまでは自分でも信じられない ゴスロリとか黒ギャルとか わりと流行ってたんだよね ホント馬鹿ですねえバリバリにメイクしてるので別人になってる このヘアカラーもケバッ!おめめはカラコン!2代目襲名するのにブログの雰囲気も変えようって先代と相談してプロフィール用の画像を選んでたんだけど これにしろって 「どうせ誰だかわからんし これが一番かわいい」って???実は先代はこういうの好きなんだ?写真って撮られるのも映り込むのも嫌いでほとんど残ってないのねこの写真も友達が当時のガラケーでとった粗い画像なんだけど貴重な一枚同じようなのがあと数枚あるかな シブシブでもピースなんかしてるのはホントめずらしいの だって顔が笑ってるようで笑ってないよね 怖いまは歳もとったし 髪も黒いし 日焼けしてないし こんな酷いメイクもしてない もちろんカラコンもつけないし この写真見た人が会っても同じ人間とは全然気づかないとおもう 街でこの顔さがしても見つかんないよ だから他人の写真みたいなものねなのでプロフィールに揚げておいても平気かなって 自己紹介でした
2023年02月12日
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魅せろ背番号1💕2代目タイガース非公式サイトです 2月11日の宜野座キャンプでは紅白戦が行われました 8000人も見に来たんだって タイガースの人気は相変わらず変わんないねー 現地にいるファンのみなさんごくろうさまです!沖縄行きたくなってきたよおさーてなんといってもこの試合の注目はドラフト1位ルーキーの森下翔太君ですよね ちょうどいまこのブログの「タイガース背番号史」というのを わたくし2代目が引き継いで書いてるの 先代が「背番号1」をアップしたのは8年まえなのでまだ鳥谷さんがタイガースの現役のところで終わっちゃってます でもいよいよ今年は翔太君が受け継ぎました 球団の期待のほどが感じられるし この日は鳥谷さんとも会えたみたい 激励してくれたって! よかったよかった時間の制約もあってこの日の紅白戦は4イニングだけ 翔太君は紅組9番DHでの先発出場です 見るからに体つきは長距離砲の雰囲気十分だよねところが最初の打席は一回もスイングしないうちにフォアボールって!あーぁ 打順が9番なんだからもう打席回ってこないかもしれないじゃないの みんながっかりだったんじゃないかなあ でもね!岡田監督も見たかったんでしょう 試合中なのに白組の打順にねじ込んじゃって、3回に2打席目を回してくれたんだ うれしーね カウント2-1から 岡留君の4球目 インコース145キロのストレートを思いっきり振っていきました 詰まってましたが打球は一二塁間を抜ける初安打!合わせにいってない しっかり振り抜いてるからヒットになったんじゃないかな 野球は走攻守があるからまだまだこれからだけど、ほかの球団のスコアラーもほめてたね「自分の間でボールを見れているので 打ちにいっててもボール球は見送れる」ってね ただし他球団やマスコミの言うことは「盛ってある」ことも多いよ うっかり乗せらないように「ほめ殺し」には注意してないといけないんだ ファンとしては右京君に続いて翔太君と、大砲候補が豊富になってきてこの先楽しみ 頑張りすぎてけがしないように!
2023年02月12日
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背番号5(その3)その2からの続きです 真田重男(重蔵) 投手 真田は和歌山海草中学出身の右投げ投手。夏の選手権で2連覇を果たしているが最初の優勝のときは三塁手、次の年が投手としての出場だった。 プロ入りは昭和18(1943)年で朝日軍に入団し13勝を挙げて防御率も1.97と立派な成績を残している。 朝日軍というのはDeNAの前身にあたる球団で、真田が在籍した7年間に朝日軍→パシフィック→太陽→大陽→松竹と球団名が変わっている。 とにかく7年間の成績がすごい。初年度13勝、その後は25勝、23勝、25勝、13勝、39勝(最多勝・沢村賞)、7勝でトータル132勝だ。得意なボールは当時「アウドロ」と呼ばれた右打者外角へ大きく曲がり落ちるカーブ。近年では今中やメッセンジャーもカウント球に使っていたが、真田の場合は「真田ドロップ」と異名をとった。 また、昭和23(1948)年には大阪タイガース戦で1リーグ時代の最後となるノーヒットノーランを記録している。 驚くべきは中等野球時代からバッティングも非凡で、投げない日はサードなどを守って主軸も務める二刀流だった。(これは戦中、戦後の人材不足も影響している) 7年間で野手として390試合に出場、930打数236安打114打点で通算打率は.254だった。ホームランは9本で、長打力はなかったようだが勝負強かった。 弱小チームのため酷使され続け、常にひじの痛みを抱えていて7年目に7勝しかできず、戦力外とされて昭和26(1951)年に松竹を退団している。なにしろ昭和21(1946)年には投手不足から464回2/3も投げており、これは戦後の最多イニング記録である。それでも豪快で目立ちたがりの性格だったので不平不満は言わなかった。 タイガースでは昭和27(1952)年から5年間プレーした。最初につけた背番号は「6」で、移籍後も二刀流を続けているのが驚異的だ。昭和29(1954)年から背番号5に代え、引退まで3年間背負った。 投手としては移籍1年目に16勝9敗の好成績で防御率も1.97だった。この年の5月7日には広島カープ戦で2度目のノーヒットノーランを達成している。1リーグ時代と2リーグ時代の両方で達成した唯一の投手だ。しかし、松竹での長年の酷使の影響でこれがひじの限界だった。2年目からは8勝→7勝→2勝と先細りに終わり、昭和30(1955)年を最後に実働4年で投手をやめている。一方で打者としては主に三塁手として昭和31(1956)年までプレーした。タイガースでは通算277試合に出場、456打数117安打68打点3本塁打、打率.257という数字を残している。 最初からタイガースに入っていたらどうだったろう。三塁には藤村がいるので投手に専念し、もっと息が長かったかもしれない。 藤本勝巳 内野手和歌山県南部高校(これは濱中治の母校でもある)から昭和31(1956)年にタイガースに入団し、真田が引退して1年間空き番になっていた5番を着ける。投手として入団したが、すぐに外野手に転向し、さらに一塁に定位置を得る。 1年目は公式戦の出場が2試合、2打席で1安打(二塁打)を記録した。2年目の昭和32(1957)年は61試合にでており、8本塁打を打って足がかりとなった。 ブレイクしたのは昭和33(1958)年で、高卒3年目にして124試合に出場、打率は.225と低調だったが16本塁打を放って中心打者となった。 昭和35(1960)年には22本、75打点で本塁打王と打点王のタイトルに輝く。高卒5年目での本塁打王獲得は6年目の掛布より速い。 昭和37(1962)年の日本シリーズには全試合4番打者として出場、33打数11安打2本塁打6打点の大活躍だったが2勝4敗1分で東映フライヤーズに敗れている。 昭和38(1963)年から出場機会が急激に減っていく。衰えるには早い気がするが、藤本に2年遅れて入団した遠井吾郎の台頭が著しくなってきたことが大きく影響している。遠井は入団後の5年間は主に外野を守っていたが守備に難があった。打撃は順調に伸びてきており、昭和38年には藤本を押しのけて一塁を守るようになってきたからだ。 昭和38年から42(1967)年まで5年間、毎年1桁しかホームランが打てず、結局は遠井が追いつき追い越していく形で引退に追い込まれた。 まとめ うーん 昭和30年代は藤本さんが5番を代表していますね というか2人しか該当者なしなんですよね 真田さんはすごいピッチャーだったんだ おどろきです 最初からタイガースにほしかったなあ 入団した時には慢性の故障もちだったのが残念 そうそう 真田さんは有名な藤村排斥事件の首謀者の一人として解雇されてるようなんだけど2代目はよく知らないんだ 調べてみてアップできるといいな 藤本さんは昭和38年に歌手の島倉千代子さんと結婚してる でも野球生活の起爆剤にはならなかったみたい しばらくして離婚しちゃってるし ところで 藤本さんの最初の年俸は80万円だったって先代の資料にあるんだけど安いの? 祖父ちゃんに聞いたら「昭和30年ころ普通の会社の高卒初任給は8000円くらいだったかな」って言ってるよ なら1年にするとボーナスも合わせて10万円ちょっとですよ その7~8倍ももらってるんだから安くはないわよね! さてと 藤本さんの引退後に5番を着けた選手は誰でしょう? その4に続く
2023年02月12日
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守備力向上で躍進狙おう!💕2代目タイガース非公式サイトです ここ何年かのタイガースを見てて 何が気に入らないかって言ったらエラーの多さ ほかにもエラーに記録されていないようなミスも多いわよねえ かんたんに調べてみたら2022年の数字がわかったのね 全部で81個 おもだった選手も書いとくね投 手 10個 (ガンケル6 藤波2)捕 手 2個 (梅野1 長坂1)一塁手 9個 (大山4 原口3)二塁手 11個 (山本5 糸原3)三塁手 15個 (佐藤9 糸原4)遊撃手 21個 (中野18 山本2)外野手 13個 (佐藤3 近本3) ピッチャーはガンケル選手も藤波君も今年はいないから減るかなって予想 それと改めておもったのがタイガースのキャッチャーの守りは固いんだってことかな 並べてくらべてみるとやっぱり拓夢君が目立っちゃうよね 2021年も17失策だから改善してないんだ 岡田監督がコンバートしようと考えるのも不思議じゃない 聞けば肩があまり強くないからショートは厳しいみたい 体も小さいしセカンド向きじゃないかと2代目も感じてましたよ テル君や山本さんは複数ポジション守ってるハンディがあるから ちょっと差し引いて考えてあげたいとはおもいますね(甘いかな?)こういう課題があるから、監督は鳥谷さんに臨時コーチを頼んだのね 2月9日から3日間指導してくれてます初日は鳥谷さんの本職だったショートの守備 今年候補になってる木波さんと小幡さんにみっちり そこに連携プレーで拓夢君も混ぜて教えてくれたのよね 627本もノックしたんだって 教えるのも真剣でかっこいい!まず細かい技術より「引き出し」をたくさん持つことが大事って「前に出たりとか、思いっきり投げたりとか、軽く投げたりとか、いろんなバリエーションを持つことによって、シーズンは長いので、困ったときに使える」ということから教わったみたい 「エラーの数はマスコミが数をカウントしてるだけ。そんなに意識をする必要はない」 「二遊間の仕事としては、どれだけダブルプレーを取れるかが重要。技術を高くした中で連携をとって、ゲッツーが成立するので。そういうものが増えてくれば」 数字を気にするなって言ってもらえて少しは気持ちが楽になったかな?2代目も 天然芝と土の甲子園は人工芝よりエラーは出やすいんだから そんなに気にすんなよっておもうし これから紅白戦とか実戦に入っていくから その前に鳥谷さんにコーチしてもらえてホントよかったよね野球にエラーはつきもの みすみす相手にチャンスを与えたり得点につながったり そういう痛いエラーを減らせていけばチームは強くなれるよ 岡田監督の「ポジション固定」には2代目も大賛成 練習のときでも集中力が違ってくるとおもうんだ キャンプが終わるころに選手がどれくらい上手くなってるか楽しみにしてる それと連携での呼吸もね 今は若いピッチャーたちが成長期なの 守備で助けてあげてほしいのよね
2023年02月11日
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夢を与える選手に育て!💕2代目タイガース非公式サイトです これも2月9日だったのね 前川右京君がめちゃくちゃ柵越え打ったんだよ 最近いいニュースが多くてご機嫌です! 今年は2年目で一軍キャンプ候補だったのに自主トレ中のケガで二軍スタートになっちゃったんだよね ちょっと監督にも叱られてたみたい だけど期待もてる!身体つきが大っきくなったもん 秋季キャンプのあとのシーズンオフを有意義に使ったなって好印象だよ ただしマシン相手なので喜ぶのは早いけどね でも37スイングのうち16本がオーバーフェンスとはただモンじゃないよねっ もちろんこれから先 ピッチャーの生きたボールに対して同じように簡単に打てるとはおもわない でもこの素質はすごいよ 大砲っていうなら森田一成君がいたけど 彼よりパワーあるんじゃない?! 大山さん テル君 井上君 右京君の4人が50発づつ打つ日がくるって夢みたいな想像が止まらない! 今年の注目株だよ がんばれー♥️
2023年02月11日
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テル君に出ました!けど?💕2代目タイガース非公式サイトです2月9日宜野座キャンプでシートバッティングが行われ佐藤輝明選手が待望のホームランを打ちました バックスクリーンへの豪快な一撃とか 2代目も素直に喜びたいんだけど喜んでいいのかまだ戸惑ってますテル君には去年の秋季キャンプのときに岡田監督から注文が出てたのが気になって それが改善されたことで出たホームランなのかどうかが問題監督さんには「ポイントが近すぎる 速い球に差し込まれて飛距離が出ない」ってキツイこと言われてた 付け加えればトップの位置が高すぎるから初動が遅れるとも昨日のホームランの映像見てないから大きなことは言えないけど、報道から不安も感じちゃうな ピッチャーは西純矢君 打ったボールは外角低めの144キロフォーク むずかしいコースをきれいにすくい上げてるんだから どこが不安?ってなるけど よその球団のスコアラーの見方がキビシイのよ 西君の仕上がりが早く 昨日は速球中心の組み立て テル君への初球も152キロも出てる そのあと144キロのフォークっていうのは半速球になるんだって プロのバッターなら速球のタイミングで待ってるときは半速球には崩れずについていけるみたい だからこのホームランだけで判断できないってこと ここで130キロ台のスライダーとかがきたときに打てるのかって あと、もともとの課題だった速いボールにバットが出てこないっていうところは? 初球の152キロがファウルになってるのはどうなの?前の回の西君の組み立てをみて初球ストレートを予想してたんでしょ?ホントはこのボールをしっかりとらえたかったんじゃないの?もしこの初球をホームランしてたら2代目は何の不安もなかったよ バッターの調整が進んでない第2クールってこともあるからまだ全然わかんない これから慎重に見ていきたいっておもうなでも監督さんは褒めてたし この時期の一発はテル君にとって気分的に上向きになれるってことで やっぱりいいホームランだったよね ちょっと意地悪なこと言っちゃってごめんね
2023年02月10日
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背番号5(その2)その1からの続きです 中村徳次郎 内野手戦後最初に5番を着けたのは中村徳次郎。昭和21(1946)年、平安中から入団したがタイガースでは2試合に出ただけで同年中に退団している。1打席で無安打というのが在籍中の記録だった。退団後は社会人野球に入り、6年後の昭和27(1952)年に大映スターズに入団しプロへ復帰する。同年に44試合に出場しているが翌年は出場機会がないまま引退している。 この当時は戦争で多くの人材が失われていたため選手が不足しており、プロとノンプロの行き来は比較的頻繁に行われていたようだ。 宮崎剛 内野手昭和15(1940)年に同志社高から大阪タイガース入団、背番号は「26」だった。翌年に召集されて満洲へ。昭和21(1946)年の途中にタイガースに復帰して、その年すでに退団した中村徳次郎の着けていた5番を引き継ぐ。ということで昭和21年は2人の選手が背番号5を着けたことになる。体は小さかったが俊足で、のちの大洋時代にはシーズン61盗塁を記録したこともある。タイガースでは3年間で198試合に出場、711打数148安打48打点27盗塁の成績を残した。昭和21(1946)年はタイガースの給料では食べていけないと開幕2か月で退団して国民リーグに参加する。昭和23(1948)年に阪急ブレーブスに入団してプロに復帰した。昭和25(1950)年には大洋ホエールズへ移籍し6年間レギュラーとしてプレー。昭和30(1955)年に引退した。その後大洋のコーチを長く勤め、昭和49(1974)年には一軍監督に就任している。どちらかと言えば、大洋で名を残した選手だろう。写真は大洋の監督時代かな。塩見栄一 投手 昭和23(1948)年の途中に、名門平安中から入団した左投手。中学時代には本格派サウスポーとして将来を期待されていた。 タイガースでは昭和21年に宮崎が途中退団したあと空き番になっていた「5」を着けることになった。素材としてはいいものを持っていたが、当時の松木監督に言わせると「小心者」。いわゆるブルペンエースというやつで、試合ではピンチになるとどうにもならなかったらしい。 1年目は9試合で0勝3敗、2年目には20試合に登板したが2勝7敗と振るわず、3年目には背番号を「7」に代える。しかし出場機会がないままシーズン終了後に退団して社会人全鐘紡に入った。 都市対抗での優勝を引っ提げて、昭和27(1952)年に大映スターズに入団してプロに復帰したものの4試合に登板しただけで未勝利のまま1年で引退した。 内山清 投手 背番号3の1で紹介しているので重複するがもう少し詳しく再掲する。 和歌山海南中から社会人を経て昭和23(1948)年にタイガース入団。最初の背番号は「3」で2年間着けている。昭和25(1950)年に塩見から「5」を受け継ぎ昭和28(1953)年まで4年間着ける。引退する昭和29(1954)年は「20」に代えている。 背番号3の2年間では7勝8敗だったが、「5」に代わった昭和25年には開幕投手も務め12勝、翌年も10勝を挙げた。 しかし、その後の3年間では2勝しかできず、通算159試合で31勝29敗、防御率4.32の成績で引退している。 引退後はアマチュアへ転進し高校野球の指導者になり、埼玉県の川口高校の監督を長く務めた。その間には巨人・斎藤雅樹も育てている。 まとめこの昭和20年代ころはパッとしないっていうか冴えないなあ 宮崎さんなんてよその球団に貢献してるし戦争で多くの選手が戦死したり負傷で野球をやめたりしたための人材難の時代だったんだって 内山さんにいたってはタイガースキラーの斉藤投手を世に出して・・・ちょっとムカつく プロと実業団の行き来が普通に行われていたのも人材不足が大きな要因だったらしいわね このころは実業団でも給料はプロ並みに良かったんだよ 次は昭和30年代に変わってどうなっていくのかな? その3に続く
2023年02月09日
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背番号5(その1) 今回から背番号5に移ります。これもいろいろな人が着けていますが外国人選手は2人だけなんですね。また、2023年までに10年以上付けた選手は藤本勝巳選手だけです。近本さんがどこまで伸ばすか期待してます。 ところでこの背番号史って先代が2015年から書き始めてるんです。今は2023年。それなのにまだ5番なのよね。先代サボりすぎ!ちょっとペースを上げていきたいな。焦ってるけど攻めてくよ! 渡辺一夫 投手タイガースの初代背番号5は渡辺一夫選手。昭和11(1936)年の球団創設時に山口中学から入団している。左投げの投手ということだが、公式戦で一度の登板もしないまま一年で退団した。ほかにこれという記録や資料がなく、書くことがない。 岩崎利夫 捕手 関西学院大学から阪神電鉄本社に入社。昭和12(1937)年に大阪タイガースに入団した。この年の春季に3試合出場し、5打数2安打2打点という数字が残っているが、これがプロ生活公式戦のすべて。 同年中に引退し、その後は阪神電鉄本社に勤務した。 釣常雄(つり つねお) 投手昭和13(1938)年に関西大学を中退してタイガース入り。岩崎の5番を引き継ぎ3年間着けている。初年度は春季に2勝したものの、昭和14年~15年は未勝利に終わっている。かなりの剛腕で期待されたらしいが、コントロールに難があり大成できなかった。昭和15(1940)中に召集されており、戦後はプロ野球に戻らなかった。 探してみると、この写真の人が釣さんらしい。何時、何歳のときかも不明です。ホントに釣さんなのかあ???野口昇 内野手 当時の球界では有名だった野口4兄弟の三男。一つ上の兄野口二郎は愛知の中京商業のエースとして甲子園夏春連続優勝すると法大へ進むが中退して昭和14(1939)年に東京セネターズへ入団し、1年目33勝、2年目にも続けて33勝を挙げる。 プロでは二刀流で、投手としては237勝139敗、通算での防御率は1.96というスーパーピッチャー。打者としてはファーストや外野を守り、3348打数830安打368打点9本塁打の成績を収めた大選手だった。 では、昇君はというと、昭和16(1941)年に中京商からタイガースへ入団し、同18年の途中までの在籍で、この間背番号5を着ける。実働3年で219試合に出場、634打数115安打39打点2本塁打、通算打率は.181だった。打撃より守備に定評があったようだ。ただし、昭和17(1942)年は全105試合に出場している。同18年のシーズン途中に召集され中国戦線へ。昭和20(1945)年、フィリピンへの移動中に戦死されている。 まとめ戦前は4名が5番を着けてるけど大物はいないなあ 現役時代の写真らしいものもないし釣さんは名前も聞いたことない野口さんは20歳くらいで召集されてそのまま戦死してしまったのよね お兄さんのすごい実績から見てもまだまだこれから伸びる選手だったはず ホント惜しかったとおもいます 戦争なんかやってもろくなことはないってこと!5の2へ続く
2023年02月09日
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足使って勝とう💕2代目タイガース非公式サイトです 今年のキャンプに赤星さんがきてくれたのはうれしかった!教えてくれたこともちょっと新鮮走塁について3つの教えがあったよね その1は「スライディング」「ケツが汚れすぎる選手はへた」って2代目は すべり込むんだからお尻が汚れるのは「突入!」みたいに良いことだとおもってましたでも そうじゃないんですって 「スピードを落とさないためには地面と接する時間が短いほうがいい」なるほどですね 摩擦が少ないってことで正しい!選手は見た目が豪快なスライディングはへたくそなんだって気づいたかな? その2はオーバーランヒットを打って一塁を回ったところでのオーバーランですこれが大きいと相手の野手に「ワンヒットで二塁をねらうぞ」というプレッシャーをかけることになるんだって赤星さんは「落合監督のときの中日の選手みんながやってきたけど、守っててすごく嫌だった」と言ってたよね2代目はいままで気にしたこともなかったけどハッとする話です タイガースの選手たちは呑み込めたかな? その3は足からの帰塁「一塁ランナーが牽制球で帰塁するときは足からもどれ 手からベースタッチするな」ってことですまず怪我の防止になる タイガースではこれで浜ちゃんがやっちゃいましたからね 納得ですもうひとつは牽制球がそれたりファーストがはじいたりしたとき 足から帰ってればすぐに二塁に走れるってことこれも納得だわ 手から帰ってたら起き上がるために時間にロスができるもんね たった3つの教えだけど説得力ある!とても参考になりましたつみかさねることが大事 繰り返し練習して自然にできるまでにしようよ盗塁の数だけでは見えてこない小さな差だけど ときには勝敗を分けたりケガを防いだりするんだから 赤星さんありがとう!守備走塁コーチになってくれる日をまってるよ
2023年02月09日
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ごあいさつ💕みなさんはじめまして 2代目タイガース非公式サイトです2023年2月1日に襲名しました もちろん阪神タイガースの大ファンですよ❤3年くらい前から先代が精神的に落ち込んでまして 最近は「もうやめようかな」って言いだしたりちょっと待ってよじゃああんたがやんなよちょっとしたやり取りがあって続けていくことで決まり 今月から2代目が更新してます今は先代がせっせと書きためてたものを編集したりアレンジして記事を作ってるんだけど固いよねそのうちにだんだん地がでてくるとおもいますけど 先代も立ち直ったらカムバックしてくるつもりはあるみたい気がむいたらコメントも返すかもってなんといってもタイガースが大好きなんだから時には言いたいこともあるだろうしね さーて今年は久しぶりに岡田監督が帰ってきたよね選手たちはこのまえ監督してた時とは全然違う顔ぶれになってる新鮮でいいかも!岡田さんはすっかりシワくちゃになっちゃったけど応援するよ それじゃみなさんこれからもよろしくおねがいします
2023年02月09日
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背番号4(その6)その5からの続きです 上本博紀 内野手上本は、広陵高校から早稲田大を経てドラフト3位で平成21(2009)年に入団し背番号4を着け8年間背負った。 高校時代は1年生時からセカンドのレギュラーで2年生の時には選抜大会での優勝も果たしている。3年生になると高い守備力を買われて捕手に転向した時期がある。 早稲田大学に進むと即セカンドのレギュラーを獲得、最終年はキャプテンに抜擢されている。通算109安打46打点4本塁打で盗塁も39個記録した。 体格は小さく細身だが、先天的にクレバーで高い運動能力があり、守備範囲は広く、足も速いし中途半端に長打力もあった。逆にそういうのが災いしてプロに入ってからはどの特徴を生かしていくかが定まらない選手になってしまった感じがある。 1年目は1軍登録されることはなく、平成22(2010)年から平成25年(平成2013)までの4年間でも最高で67試合の出場にとどまり、代走や守備固めなどに使われることが多かった。それでも長打力の片りんも見せ、意外性を発揮する場面はあった。 6年目の平成26(2014)年には選手会長に就任し131試合に出場。515打数142安打38打点7本塁打で打率.276、盗塁も20個決めており、キャリア最高の成績を挙げた。レギュラー二塁手に定着するところまで成長したとファンも喜んだものだ。まさかこの年をピークに下降線をたどっていくとは思わなかった。平成27(2015)年は股関節の亀裂骨折や太ももの肉離れで後半戦に活躍できず、平成28(2016)年も極度の不振に加えて腰痛を起こし、45試合の出場に終わった。 平成29(2017)年には心機一転のため背番号を「00」に代えて125試合に出場、116安打38打点9本塁打と復活する。 しかし長続きせず、平成30(2018)年は左ひざ靭帯を負傷し二度の手術、度重なる怪我の影響で自慢の足も衰え、平成32(2020)年のシーズンを最後に引退した。 野球センスは高いものを持っていたが、体格が小さいこと、運動能力が高いことがかえって球際の怪我につながり、レギュラー定着ができなかったのは残念だ。また、役割として打順は二番に入ることが多く、バント、バスター、エンドランなど小技が求められたが、こういう部分は器用ではなかった。本来のパンチ力のある打撃と足を生かすため一番に定着させたほうがよかったのではないかと思う。 熊谷敬宥 内野手背番号4は、上本が「00」に代えた平成29(2017)年は空き番となった。 そのあと平成30(2018)年から受け継いだのが熊谷敬宥(たかひろ)だ。仙台育英高から立教大学を経て3位指名で入団している。 高校野球の名門から東京六大学という経歴は上本に似ているし体格的にもやや小柄であるのも似ている。大学まで右打ちだったが俊足を生かすため、入団時にスイッチヒッターへの転向を打診され1年目から取り組むことになる。 確かに足は速く、1年目はウェスタン77試合で23盗塁を決めている。一方で取り組んでいたスイッチは成果が見えなかったようだ。当時鳴尾浜で試合後に黙々と左打席で打撃練習する姿を何度か見たが、どうしても強く引っ張ることができず、左ではあまりセンスを感じなかった。 結局、平成31(2019)年には右打席に絞ると宣言し、スイッチへの転向はご破算となる。 令和4(2022)年は一軍で63試合に出場するところまで来たが、まだレギュラーには遠い。内外野すべてをこなすユーティリティさが災いしているとも思える。ショートの守備の評価が高いだけに、岡田監督が就任して戦国時代と言われる二遊間のポジション争いに加わって背番号4が輝いてほしいものだ。 背番号5の1に続く
2023年02月09日
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背番号4(その5)その4からの続きです アンディ・シーツ 内野手平成17(2005)年、アスレチックスに移籍した藪と入れ替わるように背番号4を受け継いだのは広島カープを自由契約になったアンディ・シーツだ。 シーツは平成14(2003)年に広島に入団しているが、当時チーム失策数が両リーグ最多だった広島が「お手本のような守備」が売りのシーツを獲得してチームを立て直そうとしたという事情がある。 守備の人として入団したシーツだったが、1年目には不振の新井に代わる四番打者として、514打数161安打75打点25本塁打で打率も.313を記録し、攻撃の中心になって活躍した。2年目も154安打85打点23本塁打と安定した成績を残し、「守備の人」どころか中心打者として低迷するチームで孤軍奮闘する。 シーツは平成16(2004)年のシーズン終了後の契約更改で、2年続けての好成績を背景に複数年契約を要求し、これに難色を示す広島球団と対立、自由契約となる。これを逃す手はないと、ソフトバンクとの競合の末に2年目を迎える岡田監督のタイガースが獲得した。このときタイガースは新外国人候補として中日との間で争奪戦となったタイロン・ウッズの獲得に失敗しており、その穴埋めとして日本で実績のあるシーツを獲得した格好だった。 タイガースでの初年度となる平成17(2005)年は、560打数162安打85打点19本塁打、打率.289と期待以上の数字を残すとともに、一塁手として堅実な守備でも貢献し、ゴールデングラブ賞を獲得するなど、リーグ優勝の立役者の一人となっている。シーツの高い守備力は他の野手にも好いお手本になり、「シーツ先生」として積極的にアドバイスするなど貢献の幅は広い。 平成18(2006)年も打率.313でベストテン6位、180安打を放って75打点19本塁打と安定した打撃を見せ、オールスターにも選ばれた。 しかし、3年目となる平成19(2007)年には急激に衰えが見られ、打率は.243と低迷、ホームランも9本に激減する。守備では3年連続のゴールデングラブ賞に選ばれたが、助っ人としての打力の衰えが酷く、自由契約となって退団した。 引退後は、平成21(2009)年にタイガースの駐米スカウトに就任して令和4(2022)年まで北米を中心に外国人助っ人の発掘に尽力してくれた。 好い人材は簡単に見つかるものではないが、マット・マートンの獲得という大きな功績を残している。タイガースにとっては忘れがたい恩人だ。 ライアン・ボーグルソン 投手ボーグルソンは、平成19(2007)年にピッツバーグ・パイレーツから入団し、1年目は36番を着けている。藪が退団したあと平成20(2008)年に1年だけ背番号4を着ける。190センチを超える長身、なで肩、長い腕と、見るからに剛腕投手の風格のある選手で、本来は高いポテンシャルがあったのではないかと思われる。ストレートの最速158キロという触れ込みだったが、実際それに近いボールを投げていた。1年目は20試合すべて先発で登板して6勝7敗、防御率は4.13という評価が難しい数字だった。特徴として対戦チームによって相性が極端で、巨人戦には全く通用せず3試合で0勝3敗、防御率は8点台と散々に撃ち込まれた。中盤までは好くても突然別人のように崩れるという投球を繰り返している。 しかしながら、調子のいい時には打たれる気がしないような見事な投球を見せるだけに1年で見切りをつけるのは惜しいとなり、翌年も1年間契約を延長して残留することになった。 背番号4になった平成20(2008)年は、防御率は3.99と少しだけ向上したものの12試合で3勝4敗。力任せの投球によって中盤で疲れてしまい突如崩れるパターンの改善は見られなかった。夏場には二軍落ちとなり、不満が爆発して大荒れに荒れたため直接岡田監督がなだめに行ったが納得せず、お手上げ状態になってしまい、シーズン終了後、新監督に就任した真弓監督の次期構想から外れて自由契約となり退団した。 その後、平成21(2009)年にオリックスに拾われ1勝を挙げたが、このシーズン限りで自由契約となり帰国する。 アメリカに戻ると、サンフランシスコ・ジャイアンツでメジャー昇格。ここで素質が花開き、平成23(2011)年が13勝7敗、その翌年も14勝9敗と好成績を挙げており、主力投手として5年間活躍している。 タイガースにいたころにも素質の片りんはあったので、もうちょっと早く開花してくれていたらタイガース史に名前を刻む選手になっていたのではないかと惜しまれる。 まとめ背番号4は、藪のあと2人の外国人選手が続けて着けたが、次からは日本人選手が着けることになる。さて誰でしょう? その6に続く
2023年02月08日
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背番号4(その4)その3からの続きです 高波文一 外野手 平成6(1994)年、熊本工業高からドラフト3位で高波文一が入団、最初の3年間は背番号65、平成9(1997)年から「4」を受け継ぎ4年間着けていた。 高校時代は2年生から4番を打ち甲子園大会にも出場、高校通算の打率は5割を越え、本塁打も29本を記録したスラッガーだった。 実際に足もあり、攻守バランスの取れた選手で、入団した年にはすぐにファームのレギュラーになる。しかし、一軍の首脳陣が「足のスペシャリスト」としか認識せず、公式戦では代走や守備固めの出場がメインになってしまい、打撃の能力を伸ばす機会を失う。 平成13(2001)年、当時3年目の野村克也監督は、走力のある選手を集めて「F1セブン」と命名し売り出しを図った。この年に背番号を65に戻して出直しを期した高波も抜擢されたが、打撃成績が振るわなかったために見切りをつけられ脱落してしまう。 平成14(2002)年から2年間の星野監督時代も大きな実績は残せず、平成15(2003)年オフに金銭トレードで西武ライオンズへ移籍する。その後も楽天からオリックスへと渡り歩いたが平成21(2009)年のシーズン終了後引退した。 野球センスは抜群のものを持っていたが、大きく成長する機会に恵まれなった選手で、ファームで力を付けないうちに高卒2年目から一軍に引っ張られ、代走要員のように使われ続けたことが成長できなかった原因のように思えてならない。主力選手になれる器だった。 藪恵壹 投手 高波が「4」から「65」に背番号を戻した平成13(2001)年は、欠番となっていたが、翌平成14(2002)年から引きついたのがエースの藪恵壹だ。 藪は平成6(1994)年にドラフト1位逆指名で朝日生命から入団、いわゆるエースナンバーの「18」を着けた。入団当時から、「織田裕二にそっくり」と言われて特に女性ファンの人気が高かった。 1年目は9勝9敗ながらもチームでは最多勝、暗黒時代の打線を背負いながら防御率も3.18という立派な成績で新人王に選ばれている。 しかしながら、まともに暗黒時代と重なり合うなかで、2年目からは7勝13敗、11勝14敗、10勝12敗と3年連続負け越してしまう。平成10(1998)年にプロ5年目にしてようやく11勝10敗と勝ち越した。 ところが野村監督の3年間は、6勝、6勝、0勝と振るわず、特に平成13(2001)年の0勝は右ひじの故障による影響が大きかった。 平成14(2002)年、監督が星野仙一に代わり、藪も心機一転復活を果たすため川藤の奨めもあって背番号を「4」に変更する。平成16(2004)年まで3年間背負った。背番号を替えた年に10勝6敗、防御率3.14の成績で久々の二けた勝利を挙げ、カムバックしている。 その後、平成16年に取得した海外FA権を行使し、平成17(2005)年にオークランド・アスレチックスに入団し中継ぎで4勝するも自由契約となる。翌年はコロラド・ロッキーズと契約したが3月に解雇されメキシカンリーグへ。平成19(2007)年はどこにも所属できず自主トレに明け暮れた。平成20(2008)年、サンフランシスコジャイアンツと契約し、中継ぎで3勝を挙げたが翌平成21(2009)年7月に解雇される。平成22(2010)年7月、テストにより楽天イーグルスに入団。11試合で2ホールドを挙げたが、限界を感じて同年引退した。 引退後は平成23(2011)年から、タイガースで二軍投手コーチ、一軍投手コーチを務めて後進を指導した。 タイガースでは通算84勝106敗と大きく負け越してしまったが、最下位常連の暗黒時代にあってよく頑張った。Aクラスに定着できる時代なら勝敗の数は逆転していただろうし、もっと勝っていたに違いない。まとめ このころは背番号4は波乱の番号となっている。川藤のようなタイガースを全うした選手が少ない。この次にはまた外国人選手が着ける。 その5に続く
2023年02月06日
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背番号4(その3)その2からの続きですマット・キーオ 投手 川藤が16年間背負ってきた背番号4を受け継いだのは、外国人助っ人投手のマット・キーオだ。 メジャー9年間で5球団を渡り歩き58勝84敗、防御率4.17という数字をみても、ほとんど毎年負け数が勝ち星を上回っており、二けた敗戦が4シーズンもあった。 父親のマーティ・キーオが昭和43(1968)年に1年間だけ南海ホークスの外野手としてプレーした関係で、少年時代に来日経験がある。 タイガースには昭和62(1987)年に入団、1年目は27試合にすべて先発として登板しローテーションを守って二けた勝利を挙げたが、チームは最下位、キーオも11勝14敗と負け越しに終わっている。 日本一になった昭和60年を引き合いに、「阪神に行けば打線の援護で楽に勝てるぞと言われて来日したのに話が違う」とお冠だった。 しかし、2年目の昭和63(1988)年には12勝12敗の五分に、さらに平成元(1989)年には15勝9敗と勝ち越してエースと呼べる働きをしてくれた。 キーオの最大の武器は、右打者の体に向かってからググっと曲がって外角に決まる大きなカーブだ。実際に読売の原辰徳はキーオを苦手にしており、体に当たると直感して大きくのけぞってよけたボールが外角に決まり、その切れ味に呆然としていた。 4年目の平成2(1990)年、プレシーズンのオープン戦での負傷がたたって7勝9敗に終わり、シーズン終了後自由契約となった。 バッキーにあやかって4番を着けたキーオはタイガースで通算45勝44敗の成績を挙げ、急激に弱体化したチームをよく支えてくれた投手だった。もう何年かは計算できたと思うが、中村監督の好みではなかったらしい。 キーオは令和2(2020)年5月1日に64歳の若さで亡くなっている。晩年は交通事故や飲酒トラブルで警察沙汰になるなど、酒による影響があったようだ。合掌。山脇光治 内野手 さて、キーオが去った翌年、平成3(1991)年から4番を背負うことになったのは内野手の山脇光治だった。 山脇は昭和56(1981)年にドラフト外で浪商から入団、投手だったが入団後すぐ内野手に転向する。当初の背番号は64で7年間、昭和63(1988)年から3年間は36番、そして平成3年に4番に変わり引退する平成7(1995)年まで5年間着けた。 内野の守備力は「安藤二世」と言われたほど定評があり、サード・ショートを中心にセカンドもこなせるバイプレーヤーとして長く貢献した選手だった。 平成元(1989)年4月26日に放ったプロ初ホームランが満塁弾だったこともあり、バッティングへの期待も高まったが、打力は伸びず、在籍15年間の通算で打ったホームランはわずか3本に終わった。 引退後は、平成27(2015)年までの長きにわたって、守備走塁コーチやスコアラーなどを務めた。横谷彰将 外野手 山脇の引退後、平成8(1996)年は1年間だけ横谷彰将が4番を着けている。 横谷は国士館大から熊谷組を経て、昭和63(1988)年にドラフト5位で横浜大洋ホエールズに入団した選手で、平成7(1995)年のシーズンを最後に自由契約となったところをタイガースがテストを経て獲得した。 平成2(1990)年6月30日の阪神戦でプロ入り初ホームランを打っているが、その時の相手投手がマット・キーオで、その背番号を受け継いだ形だ。 しかしながら、タイガースでは一軍の出場機会には恵まれず、一年限りで現役を引退している。まとめ バッキーから川藤、キーオまで、「4」は好い背番号として定着していくかに見えたが、その後ちょっと躓いた感じになってきた。この後、どのように変遷するだろうか。その4に続く
2023年02月05日
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背番号4(その2)その1から続きですテスト入団の助っ人が「背番号4」の価値を変えたジーン・バッキー昭和37(1962)年7月、ハワイの3Aアイランダーズに在籍していた時に奨められてタイガースのテストを受け同月入団、背番号4の継承者となる。来日時の荷物は文字通りトランク一つだったという。この年8月9日が初登板、2回で3点を失い敗戦投手。その後も7試合に投げるも結果は出ず、1年目は0勝3敗で防御率も4点台だった。が、この男が化ける。 2年目の昭和38(1963)年には33試合で8勝5敗、防御率2.49。そして3年目の昭和39(1964)年に大爆発した。 46試合で353回1/3を投げ、29勝9敗、防御率は1.89!最多勝、最優秀防御率のタイトルを取り、ベストナインとともに外国人初の沢村賞も受賞している。小山正明がいなくなったあとのタイガース投手陣の柱となってリーグ優勝に導く大活躍だった。 当然セリーグのMVPだろうと思われたが、シーズン55本塁打の日本記録を打ち立てた王貞治にもっていかれたのは残念だな。 昭和40(1965)年には18勝でノーヒットノーランも達成、翌年からもさらに14勝、18勝、13勝を挙げて5年連続二けた勝利を達成している。 惜しかったのはタイガースでの最終年となった昭和43(1968)年9月18日の巨人戦。王の頭付近への投球をめぐり乱闘となった有名な「バッキー荒川事件」だった。 この乱闘で、迂闊にも巨人荒川コーチを右手で殴ってしまったバッキーは指を骨折し、事実上投手生命を失った。 波乱のシーズンが終わり、近鉄バファローズへ金銭トレードで移籍するが、翌昭和44(1969)年は12試合で0勝7敗に終わり現役を退いた。 タイガース時代の7年間(1年目は未勝利なので実質6年間)で100勝を挙げており、これはのちのメッセンジャーでも達成できなかった大記録として残る。こうしてタイガースの「背番号4」は市民権を得て、あの人に受け継がれることになる。川藤幸三 福井県立若狭高校のエース・外野手・4番打者として甲子園大会にも出場した川藤は、昭和43(1968)年にドラフト9位でタイガースに入団する。入団時の背番号は45で2年間着けた。 背番号4はバッキーが抜けたあと昭和44(1969)年には空き番となり、昭和45(1970)年から川藤が受け継ぐことになった。 高校時代は肩も強く、俊足で打力もあった川藤だったが、プロで目が出たのは6年目の昭和49(1974)年のことだ。それでも106試合で202打数40安打8打点1本塁打、打率.198という成績に過ぎない。 しかも運が悪いことにその翌年の春季キャンプ中にアキレス腱を不完全断裂する大けがを負い選手生命の危機を迎えてしまう。 昭和51(1976)年、けがからは回復したが、かつてのように走れず、スタメン出場の機会が少なくなっていったことで、代打へと生きる道を変えていった。ベンチでヤジ将軍になり、ムードメーカーとして存在感を前面に出すようになったのもこうした経緯が影響している。 大きな功績として、バースに将棋を教えるなど日本文化やチームに溶け込むためのサポートをしたことも付け加えておかねばならないだろう。川藤は日本シリーズでの出番はなかったが裏方に徹し、公私でチームを支えていた功労者だ。「日本一の場面に居れてよかったね」と本当にそう思う。 昭和61(1986)年に引退するが、この年は吉田監督の計らいでオールスターゲームにも初出場している。またこの年に打った5本のホームランはすべて代打。しかも、キャリアの中で1シーズンに打った最多ホームランというから「代打の神様」と言っても過言ではないだろう。パリーグにいたら指名打者で二けた打てたんちゃう? 結局、川藤は昭和45年から引退する昭和61年まで16年間、「背番号4」を背負っていたことになる。 まとめバッキーが7年、川藤が16年と、2人で23年背負った背番号4。 この先も、色々重要人物が着けるなど、人数は少ないが味のある番号になったと言えるだろう。 その3に続く
2023年02月03日
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背番号4(その1) しばらく遠のいていましたが、背番号史を再開し続けていきます。 かつて日本では背番号「4」というのは、やはり「死」に通じるということで、あまり着けなかった番号だったようだ。 そういうことからタイガースにおいても球団創設の昭和11年から昭和24年までの間では一人の選手が1年着けただけである。 渡辺敬蔵 外野手 タイガースで最初に背番号4を着けたのは右投げ右打ちの外野手渡辺敬藏だった。昭和17(1942)年に土崎商業(現秋田商業)を卒業し、入団している。 タイガースにおける公式戦出場はわずか1試合のみ。代打で出場し三振に倒れた1打席が唯一の公式記録となっている。 入団して1年もたたない昭和17年11月に大洋軍(大洋ホエールズとは無関係)へ移籍し、そこで10試合に出場し、12打数2安打を記録しているが、この年限りで引退。プロ生活は1年間だった。引退の理由も不明である。 駒田桂二 投手 渡辺敬藏が去ったあと、背番号4は昭和18年から7年間は空き番となった。 次に4を背負ったのは、昭和24(1949)年に社会人東洋紡軟式野球部から入団した駒田佳二である。 実は入団時の背番号は27番で、翌年から7年間4をつけている。1年目は6試合の登板で未勝利だったが、背番号が変わった昭和25(1950)年が7勝、翌26年は11勝、27年が8勝とそれなりに活躍している。 通算では8年間で45勝39敗、防御率3.10の好成績を残しており、戦後の弱体投手陣の一翼を担っていた。 昭和31(1956)年のシーズンをもって引退し、社会人野球に復帰している。身長180センチのすらりとした本格派で、なかなかのイケメンだった。 辰市邦輔 二塁手 立命館高校の4番として夏の甲子園ベスト4に貢献し、大きな期待のなか昭和32(1957)年にタイガース入団した。入団時から2年間は背番号「39」で、昭和34(1959)年に「4」を着けた。 しかし実績は期待を裏切っている。入団年は4試合出場のみ。2年目が46試合、3年目に44試合に出場したが、鎌田実が二塁手として台頭してきたのに押される形でこの年限りで引退している。まだ21歳、有望視されていただけに残念だ。 通算では3年間で94試合、210打数45安打9打点で打率.214、ホームランは2本打っている。 水上静哉 内野手 社会人出身の内野手・水上静哉は、昭和34(1959)年に東映フライヤーズから移籍、その年は背番号51、翌昭和35(1960)年に背番号4を引き継いだ。東映時代の5年間は427試合に出場しており、入団1年目の昭和29年に124試合、2年目には135試合に出場してレギュラーを張ったが、非力でどちらかと言えばセカンド、サード、ショートが守れるユーティリティな守備の人だったらしい。東映を戦力外となり、タイガースでは2年間で通算69試合出場にとどまり、81打数17安打3打点で打率は.210だった。当時、試合終盤に非力な鎌田実の打席で代打を出したあと、守備固めとして使われたことが多かったようだ。 昭和35年限りで引退。背番号4は1年間背負っただけだった。 伊藤光四郎 外野手 水上の次、昭和36(1961)年に背番号4を引き継いだのが伊藤光四郎だ。 昭和31(1956)年、島根の大社高校から入団。最初の3年間は54番、昭和34(1959)年に43番に変わり、タイガースでの最後の年となる昭和36年の1年だけ4番を着けた。 タイガース時代の6年間はどちらかと言えば鳴かず飛ばず。昭和34年の82試合が最多で、100打席以上のシーズンは1年だけという成績だった。 タイガースでは通算251試合で、256打数45安打10打点4本塁打、打率は.176と振るわないまま、昭和36年を最後に西鉄ライオンズへ金銭トレードにより移籍した。 伊藤はライオンズでは9年間プレーしており、そのうち6シーズンで100試合以上出場してレギュラークラスの働きをした。現役引退後はライオンズの打撃コーチを長く勤め、太田卓司や真弓明信、加藤博一などの育ての親でもある。 まとめ 背番号4は、当初つけたがる人が少なく、昭和11年から同36年までの26年間で5人しかいない。しかもそのうちの17年間は空番だった。 背負った選手5人も、たいした成績を残していないし、日本人選手には敬遠された番号だったのだろう。 しかし、次につけることになる選手が大活躍したことから、「背番号4」の評価は変わっていくことになる。 その2へ続く
2023年02月03日
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