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まず1勝や! 2代目タイガース非公式サイトです20230331 阪神6-3DeNA (阪神1勝) 1回戦京セラドーム大阪タイガースファンのみなさん 開幕戦勝利の余韻に浸ってる?やっぱり嬉しいよね!!! いろんな要素があった試合 派手なホームランも出なかったけど 「ことしのタイガースはこうやって勝っていくんだなあ」と感じた試合内容だったとおもうの青柳投手は熱望していた自身初めての開幕投手のへ思いを 初回からの全力投球で表現してくれた 普段より5キロくらい球速が出てたし すごく気持ちが伝わってくる力のこもったピッチングで感動したなあ 岡田監督も飛ばしていくってわかっていたからバテはじめそうな6回途中で降板させたのね 2代目が一番うれしかったのは小幡選手の働きかな2回裏の攻撃で梅野さんのタイムリーのあと2点目となるタイムリー! 4回表には先頭の佐野選手のライナーをバッチリのタイミングでジャンプして好捕!青柳投手を守備で援護しましたその裏の攻撃では一死1塁の場面でファウルで粘りに粘って12球目をセンター前へ転がしてチャンスを広げ 青柳投手のセーフティスクイズによる4点目へつながったのよね これはDeNAにとってかなりボディブローとして効いたとおもうな これで終わらず 2点差に詰め寄られた8回裏にも二死3塁からレフトへタイムリーを打って3点差とする貴重な6点目を挙げてるから なんでヒーローインタビューに出てこないのってちょっと2代目としては不満💢 ファンのみなさんそれぞれが いろんな場面に一喜一憂したとおもう ノイジー選手の2安打 板山選手の超ファインプレー 梅野さんやテル君の相手の隙をつく好走塁 湯浅投手のお騒がせフォアボール連発などなど 見どころはいっぱいだったからね その中でも キャンプ初日から岡田監督に「ショートは小幡」と指名されてからプレッシャーもすごかったとおもうけど 一生懸命やってきて開幕戦で結果を見せた小幡選手に 2代目は今日のMVPをあげたいな 監督も絶対喜んでるって!ことしはメンバーから見ても派手に打ち負かす試合はできないのよね 今日みたいにコツコツ点を取って 投手陣を中心にして守り切るっていうスタイルが岡田野球だとおもうんだ それを現実に見せた大きな1勝だよこの試合を原点にして明日からも戦っていってほしい!
2023年03月31日
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背番号9(その2) 背番号9は戦争中の昭和19(1944)年と20(1945)年は空き番になってます 今回その2では昭和20年代に着けてた人が出てきますが 皆さんわかる人少ないでしょうね 長谷川善三 内野手・外野手戦後最初に「背番号9」を着けたのは長谷川善三。米子中学時代はのちにダイナマイト打線の一角を占める土井垣武とチームメイトで昭和14(1939)年の夏の選手権ではベスト8まで進んだ。昭和16(1941)年、南海軍に投手として入団したが、2年間で0勝3敗に終わっておりショートへ転向している。長打力はなく打率も2割前後でつなぎ役として活路を見出しており、昭和18(1943)年には最多犠打を記録している。昭和18年に軍に召集され、復員後の昭和21(1946)年、同窓の土井垣の紹介で大阪タイガースに入団し、「背番号9」を着けた。 内外野すべてのポジションを守れるユーティリティを持っており、タイガースに在籍した4年のうち3年は100試合以上の出場がある。通算12年のプロ生活で569安打しているが、そのうちタイガース時代の4年で310安打を記録しているので、当時れっきとしたレギュラーと言えるだろう。昭和24(1949)年オフ、プロ野球の2リーグ分裂に際して西鉄クリッパーズに移籍する。その後昭和27(1952)年には毎日オリオンズに移り、さらに昭和29(1954)年に高橋ユニオンズに移籍して同年で引退している。 引退後には西鉄のコーチ、ロッテではスコアラーやスカウトを担当している。 バッティングは非力だったが、守備の評価は非常に高く、ゴロをあえて正面で獲らない独特のプレーをしていたという。その華麗な守備は「スワロー(つばめ)」と讃えられた。平成10(1998)年77歳で逝去。 松木謙治郎 内野手(再掲)背番号9その1で紹介済み。昭和25(1950)年に1年だけ松木が再度「9」を着けている。(タイガース背番号史 9の1 | タイガース非公式サイト2代目 - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)) 西村(伊沢)修 投手・外野手和歌山県海草中学では速球派のサウスポーとして昭和22(1947)年の夏の選手権に出場したが1回戦で敗退。桐蔭高校(和歌山県)に転向すると昭和23(1948)年もエースとして夏の選手権に出場し、今度は決勝まで進んで準優勝に導いた。昭和24(1949)年も選抜大会でベスト8になっている。昭和25(1950)年、大阪タイガースに入団し、1年目は背番号「46」を着ける。身長168センチと小柄だったが、高校野球では荒れ球と速球で三振が取れるピッチャーとして評価されており、本来巨人への入団が決まっていたところを、2リーグ分裂の影響による選手不足のための調整で、タイガースが獲得の権利を譲ってもらった経緯がある。しかし1年目は一軍登録されないまま終えている。2年目の昭和26(1951)年に「背番号9」にかわり、退団まで3年間背負う。昭和26年には投手として14試合に登板、68回1/3で4勝3敗、防御率1.04の成績だったが、翌年は肩を痛め10試合で0勝2敗、防御率18.75と通用しなかったため外野手に転向する。しかし、打撃のほうはからきしだめで、昭和28(1953)年はわずか3試合1打席の出場に終わりシーズン終了後引退した。平成元年に57歳で逝去。 栄屋悦男 投手・外野手高校までは野球をしていなかったが、近畿大学に進んで野球部に入ると素質が開花し、社会人全鐘紡に入社して昭和27(1952)年には都市対抗で優勝するなど活躍する。昭和29(1954)年、即戦力と期待されて大阪タイガースへ入団し「背番号9」を引き継ぎ在籍2年間着けた。1年目は27試合のうち19試合に先発、7勝5敗、防御率4.32と働いているが、8月の試合中に打球が眼に当たり視力が大きく低下したことでほぼ選手生命は終わってしまう。 昭和30(1955)年になっても視力は回復せず、わずか4試合で6回1/3、0勝0敗の成績に終わって自由契約となる。昭和31(1956)年、広島に移籍したが、ここでも4試合しか投げていない。眼の怪我が致命傷になってプロ生活わずか3年で引退に追い込まれた。 まとめ 松木さん以外は、とくに活躍した選手がいないわね て言うか名前知らない人ばっかりじゃない? 西村さんは写真すら見つかんないし このころの背番号9はポジションもバラバラで重要な番号じゃなかったみたい 日本では「9」は「苦」に通じるってことであまり好まれていなかったからかな? 9の3に続く
2023年03月31日
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出場選手登録が発表されました💕開幕はこのメンバーで戦うのね!総勢28名 結局外国人選手は2名になったわね ノイジーをスタメンで使うか注目ね なにしろ1億8000万円だから初めっからポイ捨てするわけにいかないもんねぇ 早めに使っておいて 早く見切り付けたいのが監督の本音だとおもう 一回り各球団と対戦が終わったあたりで何らかの結論出すんじゃない?
2023年03月30日
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信じられない3連続💢💢💢2代目タイガース非公式サイトです ウェスタン オリックス1-0阪神 3月30日 杉本商事BS勝ちなさいって言ったの聞こえてなかった? 3試合連続の完封負けって?いい加減にしろっつーの💢2代目が観にいった3月24日の中日戦の9回からずっと点入ってねーぞ!どなっても仕方ないよね 今日のオリックスの先発は山本由伸投手! WBCでも淡々として揺るがないあのピッチングだもん 調整登板とはいえ いまのタイガースのファームなんて子ども扱いよね今日のスタメンは 井上君を4番 ミエセス選手を5番にもどして臨んだけど7回2安打無失点と あっけなくひねられました 2番手のコットン投手(かわいい名前!)にも2回を無安打と簡単に抑えられての完封負けよ! ミエセス選手と6番に入った片山選手に1本ずつヒットが出たって 昨日・おとといは一人ずつしかヒット打てなかったから ちょっとだけ進歩ってか?これで28イニング連続無得点よ!ファームの試合だからと言って負けていいってもんじゃないのよ 勝つためにどうするのか経験を積むところなんだからさ 危機感持たないと タイガースは西純矢君が先発で6回を2安打1失点と合格点 2番手の森木君も2回1安打無失点だから好い感じだったようね 明日からは対戦相手がないため少し間が空くから 鳴尾浜へもどって野手のみんなはみっちり練習しなさいよね! それにしても格の違いって凄いわね! 山本さんエグいわ・・・・ 目の前で超一流見れたんだから目覚ましてねプロフィール写真を絵画調に加工してみたんだけどどうかな? 少しゴージャスに見えない?
2023年03月30日
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2試合連続完封負け💢2代目タイガース非公式サイトです 今週前半はオリックスとの対戦しているタイガースのファーム 2戦連続の零封負けってどうなってんじゃい! 3月28日(火)はB・ケラー投手が先発 一軍開幕に向けて最後のテストのつもりかもしれないけどもういいよ・・・帰国してもらっても1回の裏 いきなり先頭の佐野選手にフォアボールを与え すかさず二盗を決められちゃう 1アウトから頓宮選手のヒットで一三塁のピンチになって4番の内藤選手にタイムリーを浴びてまず1点 なおも1死一二塁 5番杉澤選手の打席でワイルドピッチ💦 これで1死二三塁となって2点タイムリーを打たれ計3点を献上したのよね 内容悪すぎよっ!3回裏にもまた内藤選手にタイムリーを打たれ4点目 いちおう5回まで投げて被安打6奪三振2四球1失点4・・・ 二軍相手にこれじゃとても上では使えないよ 進歩の跡もなにも感じない2番手は調整のため西勇輝投手が投げてるけど 2回被安打3で失点1 まあ不安を感じるようなことはないわね 3番手のビーズリー投手は1回無失点だけどデッドボールがあったり正体がよくわかんないままね・・・しばらく上には行けないというより1年飼い殺しの雰囲気が漂ってるわ打撃陣はミエセス選手が外れて迫力がないにしても ヒットはWBC後の調整で出た中野君の1安打のみってどうなってんの! そのうえ11個も三振取られて もう言葉も出ないわ! でもって翌日の3月29日(水)は植田海選手の2安打のみよ! 1日に一人しかヒット打てない制約でもあるの?この2試合 井上君と小野寺君が出場してないのは一軍に呼ばれたのかしら? 高山さんも出てないんだけどこちらは見切り付けられちゃったかなあ・・・ 期待の井坪君も残念ながら2試合ノーヒットに終わっちゃいました投げるほうではこの日の先発がやはり調整登板の大竹投手 5回で3安打1失点だったけど 6三振を奪って上々の出来 どうやら一軍ローテで間違いなしね!WBCから戻った湯浅君が2番手で1イニングをぴしゃり 3番手岩貞投手と4番手及川投手ともに きっちりと失点0でした この日の投手陣は問題なしね まだ始まったばかりだし WBC組は問題なさそうなので多くを言わないけど 元気出していこうよね!(内心は💢) 今日は勝ちなさいよ! 三連敗はご法度よ!
2023年03月30日
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背番号9(その1) 今回から背番号9ですよ まず最初にタイガースの初代キャプテンからはじまる栄光の番号なのね 調べてみると比較的長く着けた人が多いので、総数は少ないの いい選手が多かったってことかな? 松木謙治郎 内野手球団創設時に「背番号9」を着けたのは、タイガースの初代キャプテンでのちに2度監督も務めた松木謙治郎だ。戦前はロイド眼鏡が特徴だった。 福井県出身の松井は敦賀商高から明治大学に進学すると、通算79試合の出場で242打数72安打、打率.298、0本塁打、24打点の成績を残す好打者に成長。卒業後、名古屋鉄道管理局を経て昭和9(1934)年満洲にわたり大連実業団へ所属する。ここで大日本東京野球倶楽部(巨人の前身)の沢村栄治と対戦して3打席3三振と完ぺきにひねられた体験が、のちの伝統の一戦につながるライバル関係の原点になる。昭和11(1936)年、職業野球発足と同時に大阪タイガースに入団した松木は初代キャプテンに任命され当初4番に抜擢されている。翌昭和17(1937)年春季にはトップバッターで活躍し首位打者と本塁打王になっている。打撃だけでなく足もありこの年は春季だけで自己最多の24盗塁も記録した。当初タイガースは、巨人沢村にノーヒットノーランを喫するなど一方的に抑えられ、キャプテン松木は大連での対戦の屈辱の記憶もあって「打倒沢村」に執念を燃やす。有名なプレート手前から投げさせた球を打ち返す特訓による猛練習を繰りかえした。その甲斐あって昭和12年秋季には沢村を攻略してタイガース戦で勝ち星を与えず、リーグ戦を制するとともに初の日本一に輝いた。すでに伝統の一戦の下地がはぐくまれていたと言えよう。昭和15(1940)年、松木は現役監督となり背番号は「30」に替わる。翌昭和16(1941)年に成績低迷を理由に現役を引退し、同時に監督も辞任している。大東亜戦争がはじまると、徴用を避けようと大同製鋼に入社したが、昭和18(1943)年8月に召集され沖縄の守備に就く。昭和20(1945)年には壮絶な沖縄戦に巻き込まれ大けがを負い米軍の捕虜となった。戦後復員すると故郷に戻って家業の鉄工所を継いで社長となっていたが、昭和25(1950)年の2リーグ分裂によってタイガースから多くの選手がパリーグに引き抜かれるという事態に、藤村富美男の懇願を受けてタイガースの監督に就任すると同時に現役復帰をはたしている。復帰後は「背番号9」を使用するが、翌昭和26(1951年からまた背番号を「30」にもどす。これは「30」が初期のタイガースにおける「監督の背番号」だったからだ。松木は昭和29(1954)年まで監督を務めている。球団経営が苦しいこの時代に、私財を投入してまで支えた松木は、選手や監督として以上にタイガースへの貢献は大きかった。失敗があっても将来性を感じた選手を根気よく使い続けるのが監督やコーチ時代の育成方法で、タイガースでは失策王だった吉田義男を、東映フライヤーズでは張本勲を、それぞれ新人時代から使い続けて成長させている。松木は昭和60(1985)年の日本一を見届けた後、翌年の2月21日に77歳で亡くなった。ご満足いただけたであろうことを願う。合掌 藤村隆男 投手(再掲)松木が一時引退していたとき「9」を着けたのは藤村隆男だ。番号順の関係で先に「背番号2の1」で紹介(タイガース背番号史2の1 | タイガース非公式サイト2代目 - 楽天ブログ (rakuten.co.jp))しているが、当時の記述が簡略だったため詳しく再掲する。ミスタータイガース藤村富美男の4歳下の実弟で、兄と同じ呉港中学の出身で昭和15(1940)年に大阪タイガースに入団している。すでに兄・富美男は兵役に行って不在だったが、この年監督になった松木謙次郎に素質を見込まれ可愛がられた。1年目に7勝すると2年目の昭和16(1941)年には12勝10敗と成長を見せたが、大東亜戦争が始まり、昭和17(1942)年は3勝5敗で軍に徴集されて中断してしまった。結局背番号9を着けたのは戦前の3年間だけだった。 昭和21(1946)年、パシフィック(のち太陽ロビンス)で現役復帰を果たすもののすぐに肩を故障し翌年退団に追い込まれる。仕方なく昭和23(1948)年には大分で白石勝巳が創設した社会人植良組に入部するが、別府温泉に入り浸るうちに肩の調子が回復してきたこともあって、昭和24(1949)年に大阪タイガースに再入団できることになった。 復帰後の1年目にいきなりチーム最多の16勝を挙げると、翌昭和25(1950)年以降も、11勝、16勝、25勝(最高勝率)、21勝、11勝と二けた勝利を続けており、2リーグ分裂で貧打となったタイガース打撃陣を補う存在として活躍している。 昭和31(1956)年、3勝に終わると自由契約となり、翌年は広島カープでプレーしたが、わずか1勝しかできず引退している。 引退後は広島や近鉄を経て、昭和44(1969)年からタイガースに復帰、二軍投手コーチ、二軍監督、スカウト、一軍投手コーチなどを歴任し、多くの選手を育てた。 背番号は戦後にタイガースに復帰した昭和24年に「20」を着け、その翌年の昭和25(1950)年から退団する昭和31年までは「2」を着けている。 通算では414試合に登板し、135勝97敗、2104回を投げて自責点620、防御率2.65というもので、兄弟選手として立派な成績である。 平成5(1993)年12月25日、73歳で逝去された。 中原宏 投手 岐阜県出身で愛知県の享栄商業を卒業し昭和18(1943)年に大阪タイガースへ入団。1年目に9試合投げて1勝1敗の成績を残したところで軍に召集され、昭和21(1946)年にシベリアから帰還。故郷へ戻ると地元に社会人チーム大日本土木ができるということで誘われ入部する。この年の都市対抗野球にチームとしても初出場し、中原は全4試合に完投勝利。得意とした「ドロップ」が冴えわたり、決勝戦では全桐生を完封して初出場初優勝の立役者となり橋戸賞を受賞した。大日本土木は翌昭和22(1947)年にも推薦(前年優勝)で出場し、中原が5試合中4勝を挙げて2年連続優勝を飾り、中原は久慈賞を受賞している。 この活躍を引っ提げて昭和23(1948)年に南海ホークスに入団してプロへ復帰し、在籍8年間で66勝51敗の成績を残した。 結局、タイガースには戦前の1年間在籍しただけで、背番号9もその1年だけ背負った。タイガースの選手だったと覚えている年代の人も今はもういないかもしれない。 まとめまたここでも若い番号の初期の人は戦争の影響を受けてるのね 戦争のために素質があってもプロにすら入れず亡くなってしまった人も大勢いるんだろうなとおもうと悲しいよね今回の3人は戦争に巻き込まれながらも生き延びて、戦後も野球ができた人たちなのよ 松木さんは戦前と戦後の両方で監督になってるわね藤村さんはミスターの弟で重圧があったとおもうけど立派な成績を残してる3人目の中原さんは戦争がなければずっとタイガースにいて通算100勝くらいはしてたんじゃないかっておもう いくつもの球団でコーチをやってるから好い指導者だったのね9の2へ続く
2023年03月29日
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ホントにノイジーでいくの?2代目タイガース非公式サイトです いよいよ一軍公式戦の開幕が近づいてきたね! 岡田監督が開幕スターティングメンバーを決めたって報道が賑やかですが・・・それで大方の予想は次のようになってる1番 センター 近本光司2番 セカンド 中野拓夢3番 レフト シェルドン・ノイジー4番 ファースト 大山悠輔5番 サード 佐藤輝明6番 ライト 森下翔太7番 ショート 小幡竜平8番 キャッチャー 梅野龍太郎9番 ピッチャー 青柳晃洋 なるほどって納得できそうな布陣なんだけど ノイジー選手のところがちょっとあいまいさが残るのよね 一部大胆なメディアはヨハン・ミエセス選手を挙げてるところもあるし もっと気の早いファンは井坪陽生くんを一軍登録して使えという声すらあるわ ノイジー選手のオープン戦成績11試合 37打席 34打数 9安打 0本塁打 2打点 8三振 .265ちょっと寂しくない? 左腰の張りでの出遅れがあったにせよ期待してたホームランは出ずじまい 打点もたったの2だし フォアボール1つも選んでないのも気になるのよねえ これじゃあしっかり結果出したとはとても言えませんミエセス選手のオープン戦成績8試合 18打席 14打数 4安打 1本塁打 5打点 3四球 4三振 .286打数はノイジー選手の半分以下と少ないけど いちおうホームラン1本打ってるし 打点5というのも意外性の匂いがするのよ 当たったら飛ぶっていう怖さを持ってる フォアボール3つというのも評価できるんじゃない?昔いたフィルダー選手みたいに化けると面白いのよ まあ2代目としてはノイジー選手使うくらいならミエセス選手を推したいな そのかわり打順はいじらないといけないけどね 井坪君は今絶好調だから上げるなら即上げるべきだけど 大型連休くらいまではファームで様子見たいところね 1年戦う体力があるかどうかまだわかんないからなあ いい素材だけに無理させたくない 上位が左ばっかりになっちゃうので3番に右打者を入れたいところね そうなるとオープン戦で2発打ってる井上君もありかなと言いたいけど・・・先日見た感じでは速い球に対応できてなかったしなあまあ打ってくれるんなら左並べたって別に構わないかな 足もあるテル君を3番に上げて5番に森下君 そいで6番にミエセス選手なんてのも面白くない? とにかく明後日開幕なので 監督がどうやってオーダー組んでくるかは楽しみの一つ 注目ねっ!
2023年03月28日
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夜桜うまく撮れない💦2代目タイガース非公式サイトです 皆さんのところはサクラ咲いた?今年はパラパラっと一分咲きと思ったら 3日ぐらいでイッキに7分咲きほどになったのよね 開くのが速かった3月26日夜、雨が上がったので夜桜を写しに行ってきたんだけどうまくいかなかった 一眼レフの夜間撮影はちょっと素人ではムリかなあ デジカメだからプログラム撮影を選んでオートで撮ってみたけど薄暗い写真しか撮れなくてわけわからん! いろいろいじってるうちにどうしていいのかお手上げに・・・ということでひどい写真を公開するわよ 笑っちゃうよね なにこれ? すごい汚い花にしか見えないよ・・・・・デジタルのおかげでかなり手振れは補正されてるけどクッキリしない イライラする写真ね 長良川河畔の「墨俣さくらまつり」なんだけど ほんとはずっときれいなのに写真は怖い夜道って感じにしか写らないのよ 次の一夜城はまだましなほうね でもサクラなのか何なのかよくわからないよね 何度撮りなおしてもこの程度が一番まともかなっていうんだからムカつく! それで別のところでスマホと比較してみたんだけど・・・次の写真は一眼でとったものだよ やっぱり薄暗いし全体にはっきりしないんだよなあ へたっぴいっ! iphoneのカメラで同じところを撮ってみたのが次の写真よ 比べてみてどう? なんだかこっちはいい感じじゃん フラッシュなどは使ってないのに色も華やかで暗さと明るさのコントラストもはっきりして見やすいよね 見る人によって好みもあるけど2代目はこっちのほうが断然好きだな・・・っていうよりまともだよ スマホが上手に補正してくれてるのよね 夜間の撮影は 素人はカッコつけずにスマホでとったほうが失敗がないってよくわかるわ 昼間なら一眼でも何とか出来るんだけど夜はスマホよ 最新の機種ならもっときれいに撮れるとおもう 昼間の舟下りを撮った写真もオマケでつけます 200メートルくらい離れたところを40倍で撮影してるんだけど 明るいときならへたっぴいな2代目でもデジタル一眼でそれなりに撮れるのよ でももう夜はあきらめよっと スマホでいくわ・・・ みなさんそれぞれの地域でお花見楽しんでね!
2023年03月27日
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背番号8(その8)その7からの続きです「背番号8」は今回が最終になります残りは2名だけど 福留さんとテル君ね まだ記憶に新しい2人です 山内さんなんかもつけた番号のわりには 何だか雑に扱われてきてるって感じにおもえちゃうのよね テル君が定着させてくれるといいんだけど福留 孝介 外野手 福留は少年時代から立浪和義に憧れ、鹿児島出身ながらPL学園に入学する。3年次の(平成7)1995年には高校屈指のスラッガーに成長し春夏甲子園に出場している。夏の選手権では2打席連続ホームランを記録するなど高校生離れした打撃を見せ、ドラフト指名重複は確実となった。実際にドラフト会議では7球団が競合し抽選の結果、近鉄バファローズの佐々木監督が引き当てている。これに対し福留は「中日か巨人以外の指名なら実業団へ行く」と声明していた通り、近鉄入りを拒否して日本生命に入社する。日精ではサードに転向。平成8(1996)年の都市対抗で若獅子賞を受賞しアトランタオリンピックの代表チームに選ばれている。五輪では今岡誠とともに2本塁打を放って銀メダル獲得に貢献した。平成9(1997)年の都市対抗では優勝を果たしている。 翌年秋のドラフト会議では逆指名権を利用して立浪のいる中日に入団して念願がかなった。期待の大きさを示す「背番号1」をもらっている。 プロ1年目の平成11(1999)年は開幕スタメン。しかしまだ粗削りで大振りが目立ち、シーズン序盤は三振が多かった。それでも132試合に出場して461打数131安打の打率.284は立派な成績。ホームランも16本で52打点を記録している。この成績なら普通は新人王当確だが、新人王は20勝した巨人の上原浩治が獲得している。 中日での最初の2年はおもにショート、サードを守ったが失策が多く、3年目の平成13(2001)年の途中から外野に転向させられる。それが影響してか打撃は不振で打率.251と足踏みしている。 平成14(2002)年に初めて全140試合に出場して542打数186安打で.343の好打率を残し首位打者のタイトルを獲得。平成15(2003)年も全試合出場を達成し、自己最多の34本塁打を放つなど打線の中心となって活躍し、最高出塁率に輝いている。 その後は少し割愛するが、平成18(2006)年に31本塁打104打点打率.351(2度目の首位打者)の成績を挙げてメジャーを視野に入れ、平成19(2007)年オフにFA権を行使、4年契約でシカゴ・カブスに入団した。 カブスでは150試合、146試合、130試合と3年間レギュラーとして働いたが、この間ホームラン34本、打点156、打率.259とメジャーの投手に力負けしている。平成23(2011)年の途中にトレードでクリーブランド・インディアンズへ移籍。翌年にはシカゴ・ホワイトソックスと契約したが代打や守備要因で終わり6月に自由契約となり、翌月ニューヨーク・ヤンキースとマイナー契約するもメジャー昇格がないまま自由契約となって日本への復帰を目指すことになる。 平成25(2013)年1月、タイガースと契約し、浅井から「背番号8」を譲り受けた。この年から8年間在籍しており、2023年3月時点でタイガースで8番を着けた最長記録となっている。 タイガースでは外野手として活躍し、平成26(2014)から6年連続で100試合以上に出場する傍ら、若手選手に技術面だけでなく精神面でも叱咤激励し適切なアドバイスを惜しまないなど、コーチに近い役割も果たしてくれた。平成29(2017)年から2年間はキャプテンも務め、チームのまとめ役として貢献している。 しかし、令和2(2020)年には43歳となり極度の打撃不振でファームにいることも多くなり、10月に戦力外通告、自由契約となる。令和3(2021)年、中日と年俸3000万円で契約し、2022年まで現役を続けたが1割にも満たない打率となり引退している。 日本での通算成績は2023試合6822打数1952安打285本塁打1078打点という堂々たるものである。 佐藤 輝明 内野手・外野手仁川学園高校2年までは目立った選手ではなかったが、高校3年のときに急成長し、通算本塁打20本のうち15本を3年次に打っている。しかし、この時点でドラフトに掛かるような選手としてはリストに上がらなかった。高校3年次に監督に勧められて近畿大学の練習に参加、田中監督に素質を認められて近大に進学した。大学時代はリーグ戦に81試合出場し、306打数88安打14本塁打(リーグ新記録)69打点を記録する。令和2(2020)年10月のドラフト会議では4球団が競合、タイガースが抽選に勝って交渉権を獲得し入団した。 1年目の令和3(2021)年はオープン戦からブレイクし6本塁打。シーズンが開幕すると2戦目で早くもプロ初本塁打を記録している。その後も三振も多いがホームランも新人と思えないペースで打ちまくり、8月19日には2打席連続で22号、23号を放って田淵の持っていたタイガースの新人最多本塁打を更新した。 新人でのホームラン王もありうるとファンは大いに盛り上がったが、翌日からぱったりとヒットすら出ない状態に陥り、9月10日にはファーム行きとなった。9月23日の復帰後も無安打は続き、10月3日には野手の連続打席無安打日本記録の59打席に並んでしまった。10月5日のDeNA戦でようやくシングルヒットが出て記録を止めたが、いったいどうしてしまったのかとファンのみならずプロ野球関係者もいぶかるほど惨憺たる状態だった。 10月24日に2か月ぶりの24号が出てこれがシーズンの打ち止めとなった。それでもチーム一番の本数だ。この2か月の不振の原因究明が課題となったシーズンだった。 令和4(2022)年は一軍公式戦の全試合に出場、打点84、打率.264、三振も173から137に減って確実性は増してきたが、本塁打が24本から20本に減ったことが問題視されている。外野を115試合、サードを73試合、セカンドを1試合守っており、試合中に守備位置が変わることもしばしばだった。矢野監督の起用の一貫性のなさが打撃に影響した可能性もあり、令和5(2023)年に復帰した岡田彰布監督はサード固定を明言し、打撃に専念させる方針である。 まとめ 福留さんは野球センス抜群だったよね 打って好し守ってよし走ってよしの三拍子そろってた メジャーでもそれなりの成績は残してるし タイガースでは経験を生かしてアドバイザー的な役割もしてくれたよね テル君は好くても悪くても話題になるね それだけ注目され期待されてるってことだよ 甲子園で左バッターは不利だけど 浜風をものともしない飛距離が出るし掛布さんやバースさんのような左方向への打撃もこの先磨いていけばいいとおもう 一応これで背番号8は終わりだけど あらためてテル君の健闘を祈ります がんばってね!
2023年03月26日
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打線活発でも・・・💕2代目タイガース非公式サイトです 2023年3月24日 中日5-9阪神 ナゴヤ球場12:30 3月17日に開幕したウェスタンリーグ タイガースは広島に1勝2敗と負け越し 続くソフトバンクには2敗(1中止)で ここまで1勝4敗ってなにしてんのよ!? 今日から中日と3連戦 いい試合見せてよねっ!ということでナゴヤ球場に行ってきたよ 勝敗は置いといて選手の様子をご報告しますね 長くなるよ お客さんはウィークデーなのに多かった 7~800人はいたかなあ お天気よくなったしね 試合開始のころには暑いのなんのって汗が出てきたわ パーカー脱がないといられなかった まず両チームのスタメンよ 今日はミエセス選手を5番で使ってるねDHだけど 試合まえの円陣だけど WBC代表チームに比べてどこか緊張感がなくダレてるように見えるのね しっかりやれよって! じゃあまず野手のほうから見てみようね 高山さんだけど 今日はライト線ぎりぎりの打球を見事なスライディングキャッチでアウトにしたし 打つほうも引っ張ることができてた 3月3日の教育リーグのときより状態は良くなってるよ 2番の山本泰寛選手は前に見た時もよかったけど今日もよく打つのよ この人ミートが上手なのか打ちそこないがないわね サードの選手なので一軍での出番は今のところないようだけど もったいないくらいいい感じで打ってる 3番に入った小野寺選手もよく振れてた たしかツーベース2本打ったかな?打球がよく伸びるのよ 4番の井上広大君 見た感じ調子はいいよ ヒットも出てる ただし速い球にバットの出が遅れてポイントが近くなることも多くて詰まっちゃうのよね 次の写真も差し込まれ気味でしょ 5番のミエセス選手は使えるかも 相変わらずアッパースイングだけどバットによく当たるようになってるので驚いたのよ それにツーベースで激走した時もそんなに足遅くないんだよね ノイジーの出来次第では一軍で使っても面白い存在になってきたとおもう 6番の井坪君は3月17日に18歳になったばかりのルーキーよね これがすごいんだよ!3月21日のソフトバンク戦で1号を打ってるんだけど 今日も5回に打った左中間スタンドへ特大の2号を含む3安打で3打点 身体は177センチでそれほど大きくない割によく飛ばすのね ちょっと皆さんこの子には注目ですよ!以前タイガースにいた櫻井広大選手のフォームに似ているわ 7番北條さんも右中間フェンス直撃の大きなスリーベースが出て調子は良さそう でもなんだか目立たない存在になってきてる ちょっと寂しいね 榮枝さんもヒットが出た 捕手は日替わりで使われてるようなので バッティングでいいところを見せるのも有効なアピールね とにかく今日はみんながよく打ったので覚えきれなかった 高寺選手も打ったとおもうんだけどちょっと記憶があいまい 途中から出た遠藤選手 結構守備の動きが機敏なのね 前川君も途中からね この子が出てくると客席から「トラの村上や~」って声援が飛んだよ やっぱり大きいのかっ飛ばす選手になってほしいのよね こうして改めて並べてみると 今のファームには有望な右打者が多いのがわかるよね 特に今日は井坪選手を観れたのが収穫 ほんとに楽しみな選手が出てきたって感じたのよ 追っかけてみたいわ では投手陣のほうはどうかっていうと 今日先発は桐敷投手だったけど何だかたくさんランナー出して賑わしてたわ 6回まで投げて被安打8 失点4 フォアボールも絡んで球数が多かったし 三者凡退で終われないのよね・・・ 2番手は馬場投手 この人だんだん肉付きがよくなってくるなあ 7回1イニングだけど3人で終われなかった 3番手は渡邉雄大投手 教育リーグで見たときはドーンッていう感じのボールに見えたんだけど気のせいだったのかなあ 今日は普通の特徴のない投手って感じにしか見えなかった 中日の鵜飼選手にバックスクリーンへでっかいのを打たれました 打った鵜飼選手は前から気になってる怖い打者ね いずれ一軍でも出てくるわよ 要注意! 最後に投げた小林慶佑投手 今シーズンに31歳になるのね 特別な速さもないし(変化球はネット裏から見てみないと何とも言えないけど)ぼちぼち結果を見せなきゃ厳しくなってくると思う こういう時は3人で抑えないと! 今日見る限りではタイガース打線がかなり振れてきてる感じで15安打9得点 この調子を維持してほしい 投手陣は11安打を打たれてます 4人全員が安打を浴びて塁上を賑わす回ばかり 中日が攻めきれなかったので5点で済んでる まず先発は最低でもセーフティスタートしてほしいとおもうな長くなったけど 最後にもう一度 井坪君は要注目よ❤
2023年03月25日
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背番号8(その7)その6からの続きです前にも書いたように「背番号8」は移籍が絡むことが多い番号なのよね だから思ってる以上に多くの選手が着けてるの その6に出てきた本西さんなんて1年だけなわけでタイガースのファンの人たちも8番だったって覚えている人ほとんどいないんじゃないかな? 今回の1番目の沖原さんも着けたのは1年だけだし 沖原 佳典 内野手 沖原佳典はすでに「背番号5の7」で紹介しているので、そちら(タイガース背番号史 5の7 | タイガース非公式サイト2代目 - 楽天ブログ (rakuten.co.jp) )を参照していただきたい。社会人から即戦力と期待されて新人の年に「8」。 翌年、片岡篤史がFAで入団すると、片岡が日本ハムで長年着けていたのがこの「8番」だったことから譲る羽目になった。それでも代わりにもらったのが「5」だったわけで、まだまだ期待はされていたのだろう。しかし4年後にトレードで東北楽天に移籍してしまう。 片岡 篤史 内野手片岡篤史はPL学園時代の昭和62(1987)年、春夏甲子園連覇の偉業を成し遂げたメンバーの一人だ。立浪和義・橋本清・野村弘ら超高校級がそろったPL学園は強かったが、片岡はその中で4番を打った。同志社大学に進んでも主力打者としてリーグ戦91試合で311打数100安打10本塁打48打点、打率.322を記録。首位打者1回、ベストナインには4度選ばれている。 平成4(1992)年、ドラフト2位で日本ハムファイターズへ入団すると1年目から頭角を現し、規定打席にも到達して431打数125安打53打点10本塁打打率.290という成績を残した。 日本ハムでは10年間プレーしている。3割越えは2シーズン。長打を狙うはずの一本足打法ではあったが年平均するとホームランは15本前後。片岡が改心のコンタクトでとらえたホームランはピンポン玉のように飛ぶのが特徴だったが、それほどの当たりは年に1~2本見れたかどうか。一本足だけにタイミングを外されると脆さも併せ持っていた。 とびぬけたスラッガーというほどではないが、出塁率が高いためOPSでは毎年いい数字を残している。平成10(1998)年にはリーグ最多の113四球を選ぶなどして最高出塁率のタイトルも獲得した。 平成13(2001)年のオフにFA宣言し、新しく就任した星野仙一監督の強い要請に加え、当時の日本ハム・大島康徳監督から後押しのアドバイスをもらってタイガースに入団を決断する。背番号は日本ハム時代からトレードマークになっている「8」を沖原から譲られる形で背負う。 しかし、1年目からセリーグの配球に苦しめられ毎年厳しい状況が続くことになる。期待されていただけにファンからの反動もすさまじく、片岡スタメンが発表されるとスタンドから「なんで出るんやっ!」とキツい野次が飛んだこともしばしばあった。それに対して泣きながら「そんなん知るか!監督に聞いてくれ」とお客さんに向かって反論するシーンも見られたほどで、精神的に相当追い詰められた状態でプレーしていたと思われる。平成14(2002)年はおもにサードを守って120試合に出場。規定打席もクリアしているが、425打数97安打で打率は.228。本塁打10本、打点46という片岡自身も納得できない成績だった。 平成15(2003)年は110試合の出場で規定打席を割ったが、打率.296、12本塁打50打点と昨年を上回る数字で、本来の打撃を見せるようになった。この年のタイガースは7月8日にマジックナンバー49が点灯し順調に減らしていく。迎えた9月15日、徹夜組8000人を数える超満員の甲子園でのデーゲーム。この試合にタイガースが勝ち、ナイトゲームで横浜がヤクルトに勝つとタイガースの優勝が決まる。先発伊良部が3回に広島のシーツに先制2ランを浴びてしまうが、5回裏に沖原のタイムリーで1点差に追いつき、8回裏に片岡が同点ソロを叩きこんで球場は興奮の渦に。 これで精神的に優位に立ったタイガースは9回裏、赤星のライトオーバーのサヨナラヒットが飛び出して勝利したのが17:30。そして16:00から始まっていた横浜対ヤクルトの中継がオーロラビジョンで流される。選手も関係者もファンもその映像を食い入るように見つめ誰も帰らない。19:30横浜が大量リードして試合が終わったところでようやく星野監督の胴上げとなった。 勝利の美酒を味わった片岡だったが、平成16(2004)年からは試練が待っていた。新外国人キンケードの不振で開幕当初サードに入っていた片岡だったが、新人でショートに入った鳥谷敬が極度の不振から藤本にポジションを譲ってサードにコンバートされたことで出番を失ってしまう。その後鳥谷も好調になって片岡はベンチを温めることが多くなり、わずか46試合の出場で終った。 この年、監督に就任した岡田彰布は鳥谷の入団を機に、チームの若返りを描いていたようで、片岡は構想から外れていったものと思われる。 平成17(2005)年、鳥谷はショートに戻ったが、今岡誠がサードにコンバートされ、ファーストには広島を退団したシーツが入ってきたため、やはり片岡のポジションはなく、リーグ優勝した年にもかかわらず50試合の出場に終わる。 平成18(2006)年も、出場が50試合でポジションについたのはわずか35試合。打率は1割台と低迷するなど現役続行への気力が無くなり引退を表明した。 通算15年の成績は、1569試合5272打数1425安打717打点164本塁打で打率.270である。 引退後は平成22(2010)年から同24(2012)年まで一軍打撃コーチ、一度現場を離れたが平成28(2016)から再び一軍打撃コーチに復帰した。平成30(2018)年にはヘッドコーチ兼打撃コーチとなるもチームは最下位に終わり、責任を取って金本監督とともに退任している。 令和4(2022)年から中日二軍監督。 浅井 良 捕手・外野手ユーティリティに働いてくれた浅井についてはすでに「背番号5の9」で記したのでそちら(タイガース背番号史 5の9 | タイガース非公式サイト2代目 - 楽天ブログ (rakuten.co.jp))を参照いただきたい。 入団時の平成13(2001)年から平成19(2007)年まで「12」。平成20(2008)年から平成24(2012)年まで「8」。現役最終の平成25(2013)年に1年間だけ「5」。 まとめ8番はホントにまとめにくい背番号ね沖原さんはタイガースを出ていった選手 片岡さんは入ってきた選手 浅井さんは生えぬきでタイガース一筋の選手 バラバラだもんね片岡さんはタイガースファンやマスコミの凄さに潰された面もあるかな 期待が大きいほどダメだった時の叩かれ方もひどいからねえ 移籍してくるには相当な覚悟が要るのよ 1年目は打撃不振でも星野監督は外さなかったみたいで 試合に出ることが「針のむしろ」みたいになってた様よ 移籍する球団間違ったと後悔したかもね
2023年03月24日
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英国展2023💕2代目タイガース非公式サイトです JRナゴヤタカシマヤで開催中の英国展「英国展 2023 ~Life with British Quality~」にいってきたよ 3月27日までやってます 今回の英国展は東京、大阪、名古屋など全国の大都市で順次開催されてるのね 特に亡くなったエリザベス女王を偲ぶ王室アクセサリーのレプリカなども展示されてるので華やかだった! とてもステキでしっかりした女王様だったのよね では会場の様子を見てね まずイギリスと言えばテディベア!いろんな種類のぬいぐるみがいっぱい 王室グッズもたくさん売ってるわね こういう所が開かれた王室って言われてるんだよね 日本の皇室では軽々しくグッズは作れないし売れないでしょ 写真には写ってないけど女王様のキーホルダーなんかもあったよ それから何といってもイギリスと言えば紅茶よねえ これもいろんな種類が売られてて 説明聞かなきゃわからないわね これもみんな紅茶です あまり市販では見かけないものが多いので 参考にいくつか買ってきました スイーツもたくさんあるのね イギリスのお菓子ってあまり知らないんだけど この「スコーン」は定番のスイーツらしいのね 解説では「2年連続でアフタヌーンティーアワードで大賞を受賞した五つ星ホテルのスコーンが東海エリア初登場!卵を使ったふんわりとした食感が特徴で、バターの香りが口の中に広がります。」だって 衣類やバッグなんかもあるんだよ わりとカラフルなのよね あまり時間がなかったのでしっかり見れなかったけど、お客さんはおおかったわね今回は初めて行ってみたんだけどまた行きたいなっておもう
2023年03月23日
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背番号8(その6)その5からの続きですここまで「背番号8」は 一桁の番号のわりには長く着けた選手がいないのよね 今回出てくる久慈さんは6年で これでも長いほうなんだ トレードが絡んだ選手が多いのも特徴よね 今回の3人もそうなのよ実は一番長く着けたひとはもうすこし後に出てくるんだけど・・・楽しみにまっててね 久慈 照嘉 内野手 田尾引退の翌年から背番号8は平成4(1992)年にドラフト2位で入団した久慈照嘉が引き継いでいる。身長169センチと小柄ながら、東海大甲府高校時代からその守備力や打撃で全国に名前が知られる存在だった。その後社会人日本石油に進んで実績を積みタイガースに指名された。1年目から121試合に出場して規定打席もクリア、371打数91安打21打点0本塁打、打率が.245という成績で最優秀新人に選ばれている。堅実な守備としぶとい打撃が評価されたが、長打力のなさ、意外性のなさ、など選手としての華がない感じは否めない。 タイガースで6年間をすごした久慈は毎年規定打席にも到達し、ショートのポジションも守り抜いていたが、本塁打は5年間で5本。打率も2割5分~2割7分で全体的にこじんまりとまとまった選手だった。 平成9(1997)年、名ショートだった吉田義男が監督に就任し、シーズン終了後には久慈の弱肩を指摘するとともに、翌年から今岡をショートへコンバートする方針を打ち出し居場所がなくなる。 ここで中日とのトレードがまとまり、関川浩一とともに中日に移籍する。中日側の交換要員は大豊泰昭と矢野輝弘だった。 中日1年目の平成10(1998)年はショート、セカンドを兼任しながら122試合に出ている。しかし翌年から出場が減り始め、井端や荒木の成長に追いやられるように出番がなくなっていった。平成14(2002)年はわずかに9試合に出場しただけに終わり、翌年からのコーチ就任を打診されたが現役続行を希望して自由契約となって退団している。 平15(2003)年、前年からタイガースの監督に就任していた星野が拾う形でタイガースに復帰(背番号32)。おもに守備固めではあったがリーグ優勝にも貢献し、平成17(2005)年まで現役を続けた。 引退後は平成21(2009)年にタイガースの一軍守備走塁コーチとして復帰し平成25年まで在籍。平成28(2016)年に再度復帰して令和4(2022)年までコーチを務めた。 本西 厚博 外野手 長崎県 瓊浦(けいほ)高等学校時代は投手。卒業後社会人三菱重工長崎に進んで外野手に転向している。昭和60(1985)年秋のドラフト会議で阪急ブレーブスから4位指名をうけるがすぐには入団せず、翌年のシーズンが終わったところで契約しているので昭和62(1987)年のシーズンがルーキーイヤーとなる。 1年目の114試合を含め、ブレーブス時代は計8シーズンで100試合以上の出場がある。しかしそのうち規定打席に到達したシーズンは平成3(1991)年の1シーズンに過ぎない。これを見る限り守備のスペシャリストというのが本西の特徴なのだろう。 平成9(1997)年のシーズン途中に金銭トレードでタイガースに入団し、背番号は「32」を着ける。 平成10(1998)年に久慈が抜けて空いた「8」を着けたが42試合の出場にとどまり自由契約に。結局金銭トレードで日本ハムファイターズに移ったが平成11(1999)年の1年間で再び自由契約となる。 その後テスト受けて千葉ロッテマリーンズに入団し、平成12(2000)年から2年間おもに守備固めとしてプレーし、平成13(2001)年に現役を退いた。 外野守備は名人と言われ、評論家に転じた後には、強風が吹く千葉マリンスタジアムについて「少しも難しくない」と豪語。イチローの守備については「基本から外れている」と批判しているが、守備の上手い選手に新庄剛志の名を挙げて「1歩目のスタートが速く素晴らしい」と高く評価している。 佐々木 誠 外野手 岡山県倉敷市出身の左打ちの強打者。高校時代は投手だったが打撃の才能を認められ、昭和59(1984)年、6位指名で南海ホークスに入団する。 2年目から一軍公式戦に出ており、4年目の昭和62(1987)年には125試合に出場し、451打数130安打33打点11本塁打、打率.288で盗塁も15個を記録するなど走攻守に好成績を残しレギュラーとなる。 平成3(1991)年には打率.304で初の3割越え。自己最多の21本塁打で36盗塁とオールラウンドに活躍した。 また翌平成4(1992)年は打率.322で首位打者を獲得するとともに、自己最多の40盗塁を決めて盗塁王にも輝いている。 この2年はいずれもリーグ最多安打を記録しており、選手生活のピーク。パリーグを代表する選手となった。 平成5(1993)年はシーズン序盤の怪我が影響して不調に終わり、6年間続けていた二けた本塁打も7本に激減している。 平成5年オフには、西武から秋山幸二、渡辺智男、内山智之、ホークスから佐々木、村田勝喜、橋本武広という大型トレードが成立し、ライオンズへ移籍する。秋山が翌年中のFA権取得が確実で、来季オフには宣言必至と見た西武が先手を打って同じ外野手で強打者の佐々木を確保しようとしたトレードだったという。 西武に移った平成6(1994)年は、移籍1年目のプレッシャーを跳ね返して126試合で打率.285、20本塁打84打点と活躍し、37盗塁で盗塁王にも返り咲いている。 しかし翌年からは故障が続き、平成8(1996)年は指名打者での出場が多くなってきている。平成9(1997)年には5年ぶりに3割を記録して復活しているが、その翌年は慢性となった腰痛が悪化して75試合の出場にとどまり戦力外となる。 平成10(1998)年のシーズン終了後、佐々木はタイガースの新監督に就任した野村克也に直訴して獲得を要請し、これを受けて金銭トレードでタイガースへの移籍が決まった。 平成11年(1999)年、タイガースに移った佐々木は本西の着けていた「背番号8」を継承する。 佐々木の状態は野村が考えていた以上に悪く、タイガースでは1年目に30試合、2年目にはわずか16試合しか出場することができず、平成12(2000)年のシーズン終了後に現役を引退した。 タイガースでは、ファーム落ちしている期間が長かったが、二軍では濱中治や関本健太郎などの若手を打撃コーチ以上に親身になって指導していたという。現役の通算成績は、5775打数1599安打170本塁打638打点242盗塁933三振、打率.277という立派な内容である。一時期には秋山とともに「メジャーに最も近い野手」と言われ、実際にMLB球団からのオファーもあったそうだ。西武に行くタイミングのときにタイガースに来てほしかった選手である。 まとめ 久慈さんはちょっと小粒っていう感じで プロ選手としては地味だし とびぬけたアピールポイントがなかったのね 体格からみても本来ならセカンドの選手じゃないかなっておもう 本西さんは気の毒だけど何しに来たのかよくわからないわよ 守備の名人ってことなんだけど便利屋になってしまった典型ね 佐々木さんは数字がものをいうとおり凄い選手だったんだ もし最初からタイガースに入ってたらスター選手間違いなしでしょ8の7に続く
2023年03月23日
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神の描いたシナリオなの?💕2代目タイガース非公式サイトです 2023年3月22日 WBC決勝 日本3-2アメリカ結果的に絵に描いたような試合になったわねえっ!先発は予定通りの今永投手 立ち上がりは切れ味抜群で好かったけど2回にターナー選手にホームラン打たれて0-1の展開になっちゃった と思ったら2回裏に村上様がすかさず同点ホームラン!どこまで行くの~っていうくらいよく飛んだね~ しかもそれで終わらず後続もチャンスを作って1点追加よ!これで展開としては日本に流れがきた感じ さらに4回裏には岡本君が3点目になるソロホームラン!これはグッと勝利に近づくビッグな1点よ!俄然優位になった!!! 5回には最年少の高橋君が凄味あるピッチングで凌いで中盤を締めるのよ ここで若い高橋君を使ったのは栗山監督の攻めの采配だったとおもう これでますます流れは日本ね!8回にはダルビッシュさん これは監督の気持ちからだろうけど シュワーバー選手にホームランを浴びて1点を失ってしまって もの凄い緊張する展開になったのね 1点で済んでよかったけど最終回 もう大谷君しかいないわよ!もうこうなるって決まってたようなシナリオって神がかってるよね!ちゃんとリリーフの準備できてたか心配だったけど 心配無用 抜かりなかった しかも最後のバッターがエンゼルスの同僚トラウト選手って話が出きすぎよね!それを三振に取ってゲームセットってもう生き神様みたい監督も持ってるとは思うけど こんな試合展開は誰も予想もできないし 見えない手が動かしたとしかおもえない!野球って素晴らしいよ!!!MVPは大谷君だったけど それに値する人は多いよ 皆でつかんだ栄光だね負けたアメリカチームはどことなく元気なかった 1次リーグから苦戦が続いたし 史上最強と評判の日本投手陣に精神的に臆していたように見えたんだ でも次はもっと強力なチーム編成で出てくるとおもう3年後も感動できる大会であってほしい!参加した国々の皆さん!また会おうね!
2023年03月22日
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背番号8(その5)その4からの続きですここでは2名の選手が登場するよ しかもトレードで入れ替わった当事者ね それぞれ最初の所属球団で人気もあったしファンに愛されてたのに なぜかトレードされてしまってるのね 球団経営ってわからない・・・ 吉竹 春樹 外野手 背番号8は、加藤博一が移籍した翌年にあたる昭和58(1983)年の1年間は空き番になり、昭和59(1984)年から3年間、吉竹春樹が着けている。福岡県出身の吉竹は高校3年次は投手で活躍、九州産業大への推薦入学を取りやめ、ドラフト外でタイガースに入団する。最初にもらったのは背番号「53」だった。1年目の昭和54(1979)年はバッティング投手などで過ごすが、2年目の昭和55(1980)年の春季安芸キャンプで打撃の素質を認められ外野手に転向する。3年目の昭和56(1981)年から一軍で使われるようになり、昭和58(1983)年には106試合に出場するまでになった。この年は226打数70安打で打率が.330。プロ入り初を含む5本塁打を記録して、準レギュラークラスに成長した。昭和59(1984)年に「背番号8」を着け、119試合に出場して16盗塁も決めるなど、走攻守で北村や弘田を脅かす存在になっている。日本一になった昭和60(1985)年が118試合、その翌年も117試合と常時一軍にいるのが当たり前の選手になった。 ところが昭和61(1986)年オフ、突如田尾安志との交換トレードで前田耕司とともに西武ライオンズに移籍することになる。当時のタイガースは他球団の主力が晩年に差し掛かったところで獲得するベテラン補強が多く、伸びしろのある生え抜きの吉竹が交換要員とされたことはファンにとって青天の霹靂で、在籍8年で惜しまれての移籍だった。結局「背番号8」は2年間着けただけに終わっている。 西武に移ってからも準レギュラークラスで貴重な戦力となり、9年間プレーして平成8(1996)年に現役を退いている。 引退後はタイガースに戻り、経歴は以下の通りで、現役の8年間より引退後のほうが長くタイガースに貢献している。平成 9(1997)年から4年間 二軍外野守備・走塁コーチ平成13(2001)年から2年間 一軍外野守備・走塁コーチ平成15(2003)年 二軍外野守備・走塁コーチ平成16(2004)年から3年間 一軍外野守備・走塁コーチ平成19(2007)年から2年間 一軍チーフ野手コーチ平成21(2009)年から2年間 フロント管理部入り平成23(2011)年から2年間 二軍監督平成25(2013)年 一軍作戦兼守備・走塁コーチ平成26(2014)年 一軍野手総合コーチ 平成30(2018)年からは母校九産大付属九州産業高校の監督に就任して高校生らとともに甲子園を目指している。 田尾 安志 外野手 昭和62年から吉竹と入れ替わってタイガースに移籍した田尾安志が背番号8を引き継ぎ、在籍した5年間着けている。田尾は、大阪の泉尾高校時代は投手。同志社大に進んでからも2年間は投手だった。しかし、バッティングにも非凡なものがあり3年次は投手兼4番打者になり、投げない日は野手として出場するようになる。いわゆる二刀流の選手だ。大学のリーグ戦通算では、投手として35試合登板14勝3敗112奪三振で防御率2.21。打者として70試合211打数78安打37打点10本塁打で打率.370の好成績を残している。 昭和51(1976)年にドラフト1位で中日ドラゴンズへ入団すると、外野手一本に絞り1年目に67試合に出場している。183打席だったものの打率.277が評価され最優秀新人に選ばれている。 2年目も166打席にとどまり足踏みするが、3年目には102試合に出場してレギュラーに近づくと、4年目の昭和54(1979)年、123試合に出場して初めて規定打席に到達。472打数96安打50打点13本塁打で打率.251の成績を収めてレギュラーの座を不動のものとした。 さわやかな印象で中日の人気選手となった田尾は、打撃成績も高いレベルで安定していく。以降の成績は素晴らしい。昭和55年 122試合472打数141安打34打点 7本塁打 .299昭和56年 124試合462打数140安打53打点15本塁打 .303昭和57年 129試合497打数174安打41打点14本塁打 .350昭和58年 130試合506打数161安打61打点13本塁打 .318昭和59年 130試合536打数166安打49打点20本塁打 .310 昭和57年は最後まで首位打者争いを演じたが5打席連続敬遠もあって惜しくも2位。昭和57年から3年間連続してリーグ最多安打を記録するなど打撃ベストテンの常連となっている。 それが昭和59(1984)年オフに西武へトレードで放出されることになり中日ファンは騒然となった。この年も3割最多安打20本塁打の選手だ。これほどの功労者で人気があり選手会長の田尾がなぜ?というのは中日のみならず野球ファンにも大きな疑問だった。 田尾自身も多くを語っていないので真相は不明だが、もともと一本気で「言うべきことは言う」という田尾の性格が災いしたと見られる。田尾は、当時名古屋市近郊に自宅を新築中だったが、泣く泣く埼玉へ引っ越すことになった。 西武には2年間在籍したが森監督と肌が合わず、根本管理部長にトレードを直訴し、少年時代からファンであったタイガースへ移籍する。吉竹との入れ替わりで「背番号8」を着けることになった。 タイガース移籍2年目の昭和63(1988)年、村山監督が就任すると、ここでも意見が合わないことが多く、二軍行きを命じられるなど出場機会が減ってしまう。それをばねに1軍復帰するとサヨナラ本塁打3本など勝負強さを見せつけた。 平成2(1990)年は119試合に出場、タイガース移籍後初めて規定打席をクリアして打率.280、11本塁打と気を吐いた。 移籍後5年目の平成3(1991)年、視力の低下もあり本人も衰えを自覚してはいた。中村監督の若手優先起用による二軍行き命令に「戦力外」のにおいを感じた田尾は、シーズン終了後すぐに引退している。 通算1560安打しているが、田尾ほどのバッティングセンスであれば気持ちよく中日一筋で野球ができる環境なら2000本は軽く打っていたと思える。紆余曲折が残念である。 引退後は、好感度の高いさわやかさで解説業やタレント業をこなしていたが、平成17(2005)年、東北楽天ゴールデンイーグルスの発足に伴ない初代監督に就任する。 しかし、当時の絶望的な戦力不足の状況は重く、開幕2試合目のロッテ戦に0対26という記録的な大敗を喫したり、2度の11連敗などもあってあわや100敗かというドン底を味わっている。結局38勝97敗1分で勝率.281の最下位で終わり、シーズン終了後に解任されている。 田尾は三木谷社長のビジネスに偏った球団経営を疑問視しており、再三直接対話を要求したが社長は一度も応じなかった。シーズン中からすでに野村氏要請に傾いていた三木谷氏にとって田尾は煙たい存在になってしまっていたのだろう。 まとめ 吉竹さんは成長してきて優勝も経験してやっと中心選手になろうってときにトレードってねえ タイガースは貴重な生えぬ抜き選手を何だとおもってるのかしら?不愉快ね トレードは行った先で活躍する人と全然だめになる人のギャップがすごいんだけど吉竹さんは西武でも貢献出来たほうね 引退したあとはタイガースの指導者一筋で頑張ってくれたし 田尾さんはまっすぐな性格や物言いがあだになってるって言われてるけど 田尾さんの意見に耳を傾ける度量のある人が周りにいなかったのかな?選手としての技術はすごく高くて成績も抜群だったみたいなのに残念ね 楽天監督でも恥かいただけで1年で終わりって気の毒すぎ!8の6に続く
2023年03月22日
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決めるべき人が決めた💕2代目タイガース非公式サイトです みなさん WBC準決勝 堪能しましたか!歴史に残る大逆転だったよね 4回に佐々木君が3ランで先に点を取られちゃって 5回6回は打線が満塁のチャンスを生かせず0が並ぶし 正直この辺で2代目は四分六で負けも覚悟したよそこで飛び出したのが吉田正尚選手の同点3ラン!!!!! このスイング見たときおもわず震えたわ つなごうという感じの振りじゃなかった これ絶対狙ってたよ もう終盤7回 試合に勝つにはこの場面はホームランしかないって感じの強振!やってくれたね 試合に勝てた一番の功労者!!! この一発がでて沈みそうなムードはガラッと変わってきた 8回に勝ち越されても「まだいける」って心がくじけてないもんもう9回はこのシリーズを象徴したよね WBCを楽しみながらも絶対優勝するという信念で常に全力で闘っている大谷選手 7回にこの試合の沈んだ流れを引き戻した吉田選手 日本での準々決勝まで心では泣いていただろう村上様 このクリンナップ3人で決めちゃったのはすごいの一言 最後は決めるべき人たちが持ってる力を出し切って決めたと言えるんだよね! やっぱり栗山監督も何か持ってるのかなあ 準々決勝で吉田選手と村上様の打順を変えるときは悩んだとおもう でも村上様ががっくりするのではなく立ち上がってくれると信じたんでしょうね 村上様もそれに応えたのよ もうチーム内の信頼関係はバッチリね!軽々しく「絶対優勝!」とは言わないけど 決勝もいい試合ができるとおもうあと一つ 頑張ってね!!!
2023年03月21日
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背番号8(その4)その3からの続きですここでは無名で終わった選手 指導者として大きな貢献をした人 もう一人はなんだかわけのわからないような人 の3人が出てくるわ 8番っていうのは意外性のある番号なのかなあ 佐藤 正治 外野手 佐藤は三重県出身の俊足外野手。名商大付属高から専修大学へ進み、卒業後は河合楽器に入社し都市対抗野球でもトップバッターとして活躍している。社会人時代の昭和43(1968)年には東映フライヤーズから7位指名を受けるも拒否、昭和45(1970)年にタイガースからドラフト5位指名を受けて26歳で入団している。最初の背番号は「33」で1年だけ着け、昭和46(1971)から「背番号8」を着ける。 1年目は96試合に出場して124打数30安打10打点1本塁打ながら、16盗塁(失敗2)を決めて俊足ぶりが光った。2年目は102試合に出ているが153打席にとどまっており、代走や守備固めが多かった。近いところでは俊介の使われ方に似ている。当時は野球中継の放送延長がなかった時代で、テレビ中継が終わったあとぐらいに出てくる選手だったために画面で見ることが少なかった。3年目の昭和48(1973)年から、外野の一角は外国人選手が占めるようになり、池辺巌がしたほか、佐野仙好が外野にコンバートされてくるなどポジションが無くなってしまう。佐藤は62試合に出ているが打席数は48で、すっかり守備要因となり、シーズンオフの南海とのトレード要員で江夏の付録扱いされたのに失望して引退を選んだと言われている。 島野育夫 外野手 島野は作新学院時代、1学年下のエース八木沢壮六(元ロッテ)を擁した強豪チームの3番センターだったが、甲子園には出ていない。島野が卒業し八木沢が3年になった昭和37(1962)年に作新学院は史上初の春夏連覇を成し遂げており、まさにニアミスだった。 卒業後は社会人の明電舎を経て、昭和38(1963)年に中日ドラゴンズへ入団する。しかし、当時の中日は外野陣が充実していたためレギュラーになれず、もっぱら代走や守備要因として使われている。 昭和43(1968)年のシーズン途中に交換トレードで南海ホークスに移籍。昭和44(1969)年にはプロ入り7年目にして初めて規定打席に到達し21盗塁を成功させている。 昭和48(1973)年には全試合に出場して141安打を放ち61盗塁を記録するなど、昭和50(1975)年までレギュラーとして大活躍した。 昭和51(1976)年、タイガースの江夏豊・望月充に対し南海の江本孟紀・池内豊・長谷川勉・島野育夫という大型トレードで移籍、前年まで佐藤が着けていた「背番号8」を継承する。 タイガースでは主として代走での出場が多くを占めており、昭和53(1978)年の89試合196打席というのが最多出場のシーズンだった。昭和55(1980)年には、守備走塁コーチ兼任となり、この年のオフに現役引退し、そのまま昭和59(1984)年までコーチとしてタイガースに残っている。 昭和61(1986)年から中日のコーチに就任。翌年に星野仙一が監督になると、以降星野が監督を辞任する平成3(1991)年まで在任する。 平成4(1992)年には外野守備走塁コーチとしてタイガースに復帰し、3年間新庄や亀山などを指導している。 タイガースを離れると平成7(1995)年から二軍監督として中日に復帰、平成8(1996)年の星野が監督に返り咲くのと同時に一軍ヘッドコーチとなり平成13(2001)年の星野辞任とともに退団。 平成14(2002)年に星野がタイガースの監督を引き受けると、その強い要望でヘッドコーチに招かれ、すでに発表されていた中日二軍監督就任を蹴ってタイガースに復帰し、平成15(2003)年にリーグ優勝。 星野の辞任と同時にコーチもやめたが、平成16(2004)年にはフロント入り、平成17(2005)年には久万オーナーの強い説得もあって岡田監督の一軍総合コーチとして現場に戻り、この年リーグ優勝。 平成18(2006)年には二軍監督に就任したが体調を崩し1年で退任し、翌年12月にがんのため逝去されている。 島野がタイガースに来た時は選手として峠を過ぎており、現役として大きな実績はない。逆に引退後のコーチや二軍監督としてタイガースに多大な貢献をしてくれたと言えるだろう。 なお、島野は最初のコーチ時代は「88」、2度目は「73」、最後は「91」を着けている。 「島野柴田事件」についてはここでは触れたくないため省くので、WⅰKⅰ等で参照していただきたい。 加藤 博一 外野手・内野手 島野の引退を受け、次に「背番号8」を引き継いだのは加藤博一だった。加藤は佐賀県出身。多久工業高のときに西鉄ライオンズの入団テストに合格し、昭和45(1970)年に入団している。ライオンズには6年間在籍していたが、一軍の公式戦には昭和47(1972)年に3試合出たのみであり、内訳は代走として2回、打席はわずかに1だった。 昭和51(1976)年に交換トレードでタイガースに移籍。ファームの試合で俊足ぶりを見たタイガースの吉田監督が目を着けて獲得候補になったという。最初に着けた背番号は「32」だった。 タイガースに来ても2年間はほぼファーム暮らして一軍では8試合しか出場機会がなかった。昭和54(1979)年、ブレイザーが監督になると加藤を一軍戦力として使い始め91試合に出場、160打数37安打7打点2本塁打6盗塁ではあったが守備・代走要員から脱却していき、外野だけでなくセカンドもこなすようになった。 昭和55(1980)年には112試合に出場し規定打席もクリア。379打数119安打21打点7本塁打で打率はリーグ5位の.314という好成績を残した。また34盗塁を成功させており、38盗塁でタイトルを取った高橋慶彦を最後まで脅かした。昭和56(1981)年、引退した島野から「背番号8」を受け継ぎ中心選手になったかに見えたが怪我も多く、岡田がセカンドに、真弓がセンターに定着したため守備位置が無くなっていく。この年は57試合、翌昭和57(1982)年も60試合の出場にとどまり、野村収との交換トレードで大洋ホエールズに移籍することになる。昭和58(1983)年、大洋に移った加藤は監督に恵まれた。最初の2年間は関根潤三監督がよく使ってくれ、3年目にはアイデアマンの近藤貞雄監督が就任すると屋敷要・高木豊とともに「スーパーカートリオ」と銘打って売り出してくれた。昭和60(1985)年は129試合に出ており、自己最高の48盗塁を記録している。またきわどいボールをカットしてファウルにする技術やバントも上手く、この年はリーグトップの38犠打を記録するなど最高のシーズンだった。しかし翌年から衰えが目立ち始め、平成2(1990)年に引退する。もともと陽気でひょうきんなキャラクターだった加藤は、引退後はタレントやキャスターとして人気があったが、平成8(2006)年に癌と診断され闘病生活となり、平成10(2008)年1月21日に59歳で亡くなっている。 まとめ 最初の佐藤さんは全く知りません やっぱり8で佐藤と言えばテル君よね この佐藤さんについては先代もよく覚えていないって 印象の薄い人だったのかな? 島野さんは星野監督とのコンビで有名ね タイガースでの現役時代はサブ的な存在で終わってるけど その後の指導者としての貢献は抜群なのよね 「育夫」って名前だけに育てるのはうまかったのかも 感謝してる教え子も多いみたい 2度のリーグ優勝の影の立役者ってとこだね 加藤さんは苦労してるんだなあ でもスーパーカートリオって聞いたことあるわね とにかくこの3人はよく走ったってことみたい 先代の記憶によれば加藤さんは江川投手からよくホームランを打つってことで人気があって すごく惜しまれてタイガースを出ていったそうね 加藤さんが背番号8を着けてる写真はみつからなかったから江川さんとの写真になりました めちゃくちゃバット短く持ってるの!笑っちゃだめよ プロで生き残るための必死さの現れなんだよね8の5に続く
2023年03月21日
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2代目のアイテム紹介💕 その3このカテゴリーでは2代目が手に入れたいろんなアイテムを紹介してます今回は第3回 では、次の写真は何だかわかる?馬鹿にするなって? そう「てつびん(鉄瓶)」です❤なんで鉄瓶なんか持ってるの?って言うと 2代目はよく立ち眩むことがあったのよ そういう貧血性の症状に好いって聞いたからなのよね そこで今回は少し難しいお話をしますよ 少し長いけどちゃんと読めば勉強になるから! 一口に「鉄」といっても 肉や魚に多く含まれる動物性の2価のヘム鉄と、野菜などに多く含まれる植物性の3価の非ヘム鉄の2種類があるのねそして2価鉄は3価鉄に比べて 約5倍から7倍も身体への吸収率が高いことが明らかになっているのよ日本調理科学会に掲載された研究によると 南部鉄器の鉄鍋や鉄瓶から溶出した鉄分の78~98%が人体に吸収されやすい2価鉄であることがわかっているんだって!南部鉄器で作ったみそ汁と鉄器以外の鍋で作ったみそ汁で お椀一杯分の鉄分の量を計測した結果があるんだけど驚くほど差があるのね 南部鉄器:4.43mg その他の鍋:0.78mgで人間の身体に必要な鉄分は大体次の量って言われてます 男性の場合1日7.5㎎ 女性の場合1日6.0㎎ ただし生理のあと数日は10.5㎎ ということは 鉄瓶で沸かしたおゆで作ったみそ汁を1杯飲むだけで 男性の場合1日の必要量の約60% 女性なら約74%の鉄分が摂れるのよ 2杯飲んだら満タンなわけ すごい! 塩分避けるならお茶でもいいし それとね 鉄瓶で沸かしたお湯は、カルキ(塩素)をほぼ除去してくれるので、いままで不味かった水道水が魔法のようにまろやかな味に変わるんだよただし内側にホーロー加工されたものは鉄瓶としての効果はないの! 2代目が最初に買ったのがこの写真の 焼物まつりで1500円だったやつね 色や形がおもしろかったし安かったのでだまされちゃったわよ 内側ホーローじゃん 売ってたテントの人は「鉄分摂れるよ」って言ってたのに! それでせっせとお茶飲んでたんだけど立ち眩みが治らなかったのね おかしいとおもってお医者さんに聞いてみたら今回のような情報を教えてくれたわけ 比較してみると南部鉄瓶は内側もサラリとした鉄肌で底のほうに少々錆が出てるでしょ 右側の安物は素材は鉄だけど内側がホーロー加工でツルツルしてるのね これじゃあ鉄イオンが出てこないわよ ならべてみても南部鉄瓶のほうが歴史を感じていいじゃない? 2代目が買い替えた鉄瓶は JRナゴヤタカシマヤで「南部鉄器」と確かめて買いましたよ 敷台が付いて1万3000円でした でも南部鉄器の鉄瓶はお手頃なものだと4000円くらいから買えるんだよ 大きさや装飾とか持ち手の違いなどでかなり幅広いのね 外も内側も全面鉄がむき出しだから 水滴がついてそのままにしてると翌日には濡れてたところがすぐに赤く錆びてくるわよ 使った後は空焚きして水分をしっかり飛ばしてから保存しないといけないの めんどくさ~ でもこれに替えてから1年くらいたつけど だんだん体調はよくなってる感覚はあるのね ほとんど立ち眩みはなくなったかな みなさんにもお奨めしたいなと思っての投稿でした ご清聴ありがとね!南部鉄器について岩手県「南部鉄器」の歴史には大きく分けて「盛岡」と「水沢」の2つがあります。「盛岡」の南部鉄器の歴史 ~岩鋳~その歴史は約400年程前、西暦1600年代初頭に現在の岩手県盛岡市の藩(南部藩)が、京都より茶釜の職人を招き作り始めたのがきっかけで、その後も全国各地から職人を呼び寄せ、武器や日用品を製造してきました。今ではよく知られる「南部鉄瓶」は西暦1700年代になって茶釜を小振りにし、改良を施して製造したのが始まりで、手軽さから広く用いられるようになりました。その後、日用品の他にもたくさんの調理器具も製造されるようになり、現在ではその種類は数え切れない程たくさんの製品が生み出されています。 「水沢」の南部鉄器の歴史 ~及源~盛岡の南部鉄器よりその歴史は古く、約900年程前の平安時代末期までさかのぼります。奥州藤原氏と呼ばれる「藤原清衡(ふじわらのきよひら)」が今の滋賀県より水沢へ鋳物師を招いて鉄の鋳造を始めたのが起源とされています。その後、盛岡の南部鉄器同様に鍋や農耕具などの生活日用品や武器を製造し、領主の保護を受けた特殊産業として発展を遂げました。明治時代中期(19世紀末)頃になると、水沢の南部鉄器は東北一の生産量を誇り、大正期までの間に「鉄瓶黄金時代」を築き上げてきました。にほんブログ村
2023年03月20日
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背番号8(その3) 3回目に出てくるうち最初の2人は他球団からの移籍で とくに山内さんは世紀のトレードで入ってきた超大物よ 西村公一さんはドラフト1位入団だったけど ものにならず辞めてプロゴルファーに転向したって 福塚 勝哉 捕手福塚は昭和32(1957)年、県立和歌山商業から毎日オリオンズに入団した捕手。はっきり言ってプロ野球のレベルの選手だったかどうか「?」の選手だろう。オリオンズには5年間在籍しているが、通算で87試合に出ただけである。そのうちの57試合が5年目で77打数15安打3打点打率.195という成績だ。5年間でホームランは1本も打てなかった。昭和37(1962)年、2対2の交換トレードで飯尾為男とともにタイガースに移籍し、「背番号8」を遠井から譲られる。この年のタイガースはリーグ優勝しているが、福塚の出番は少なく28試合12打数2安打1打点の成績だった。わずか2安打だが、そのうちの1本がプロ入り初本塁打、タイガース3年間で打った唯一のホームランだ。また、日本シリーズには7戦中5戦に出場し、第7戦ではスタメンマスク。シリーズでは2安打も記録している。2年目の昭和38(1963)年にはプロ生活最多の85試合に出場したものの打率は1割台だった。3年目には世紀のトレードで入団した山内一弘に背番号8を譲り、「28」に替えている。2年目ほどの出番はなく41試合の出場にとどまり、このオフに阪急ブレーブスの西本幸雄監督に請われ移籍していった。阪急では2年間プレーし、昭和41(1966)年を最後に現役引退した。 山内一弘 外野手山内は愛知県立起工業高校出身。2年時だった昭和24(1949)年に中日ドラゴンズの入団テストを受けている。この時は1次選考を通過したものの2次選考で落選、3年次にも再度受験しようとしたが「前年不合格」を理由に受けられなかったため、高校卒業後は川島紡績へ入社する。中日は大きな魚を逃した。川島紡績では4番打者として都市対抗本戦にも出場した。昭和26(1951)年11月に毎日オリオンズの入団テストを受けて合格しプロ野球入りしている。1年目は44試合で1本塁打に終わっているが、2年目は72試合にでて7本塁打と成長。3年目の昭和29(1954)年には全140試合に出場し、504打数155安打97打点28本塁打、打率.308の好成績でレギュラーとなり打点王にも輝いた。翌年は打率2位本塁打も2位で99打点、あわや三冠王の成績で2年連続打点王になっている。 オリオンズ在籍の12年間で、規定打席に到達した9シーズンのうち8シーズンで打率3割を記録しており昭和32(1957)年には首位打者獲得と押しも押されもしない看板スターになった。昭和38(1963)年オフ、山内は10年選手制度の移籍特権で読売への入団をもくろんでいたが条件面で折り合いがつかず頓挫。そこへタイガースから小山放出のトレードが持ち込まれ、電撃的に4番打者とエースの交換という「世紀のトレード」が成立した。背番号はオリオンズ時代に着けていた「8」を福塚から譲られる。 昭和39(1964)年、タイガース移籍1年目の山内はプレッシャーから打率こそ.257と低かったが、31本塁打94打点の猛打をふるいリーグ優勝に貢献。南海との日本シリーズでも25打数9安打3打点2本塁打でシリーズの首位打者だった。翌昭和40年7月4日には巨人戦で史上初の300号本塁打を達成、また10月14日のサンケイ戦では2000本安打も達成。これは川上哲治に次ぐ史上2人目、昭和生まれでは初の達成者となった。昭和41(1966)年から昭和42(1967)年も、それぞれ18本塁打を記録するなど主力として働いたが、35歳になっており、チームの若返り方針から戦力外とみなされる。進退が注目されたが、広島の新監督に就任した根本陸男の誘いがあって、無償トレードの形で昭和43(1968)年に広島に移籍する。広島1年目には全134試合にでて467打数146安打69打点21本塁打で打率.313と気を吐く。真剣に野球に取り組む山内を見て、山本浩二や衣笠祥雄、水谷実男などが育っていったのはこのころであり、山本の背番号8は山内から引き継いだものだ。しかし昭和45(1970)年に体調が思わしくなくなり引退に追い込まれた。通算2271安打、396本塁打、1286打点の数字は強打者ぶりを表す素晴らしい数字だが、山内はオールスターでもすごかった。通算16回出場しており38試合で105打数33安打で打率.314と好成績を残し、MVPも3度輝いている。長嶋同様お祭りに強かった。引退後は巨人、阪神、ロッテ、中日、オリックスなどでコーチや監督を務めているが、タイガースでの実績を見てみる。昭和50(1975)年から3年間の第一次吉田監督時代に打撃コーチに就任し掛布や田淵を指導しているが、特筆すべきはキャンプからオープン戦で使い物にならないと酷評されたラインバックをマンツーマンで指導し続け、見事シーズンで3割を打つバッターに仕立てたことだろう。変化球を迎えに行って泳がされ凡打を繰り返していたラインバックがシーズンに入ると体重を残して左右に打ち分ける好打者に変身していた。 現役時代の山内はバットコントロールが巧みで「広角打法」「シュート打ちの名人」などと言われており、山内独自の打撃理論を持っていた。しかし、理解が難しく、上手くいく選手と全く効果がない選手があったようだ。平成7(1995)年に再びタイガースのコーチに就任したとき、新庄剛志は山内理論が全く分からず打撃をおかしくしているし、八木や石嶺もついていけなかったようで、チーム全体の打撃不振の責任を取って1年で退団している。現役の19年間を「背番号8」で通した。 西村公一 内野手・外野手「背番号8」は山内が広島に移籍した翌年は空き番になっている。昭和44(1969)年から「8」を継いだのは西村公一だった。 西村は183センチの大型内野手で、山梨県甲府工業時代に4番打者として昭和41(1966)年夏の選手権に出場してその強打が認められ、同年秋の第2次ドラフトで1位指名されてタイガースに入団している。 1年目の昭和42(1967)年、最初の背番号は「22」だったが、これは2年間着けて昭和44年(1969)年に入団した田淵幸一に譲り、「8」に替わっている。「8」も2年間で、昭和46(1971)年から3年間は「43」を着けた。ドラフト1位で大きな期待をされた西村は1年目に10試合に出場している。しかし、2年目以降も16試合、23試合、12試合と足踏みが続く。背番号を「43」に替えた5年目の52試合101打数17安打4打点1本塁打というのがキャリアハイで、6年目はわずか5試合。7年目は一軍登録されることなく終わりオフに引退している。その後はプロゴルファーに転身したという。 まとめ福塚さんと西村さんは初耳の選手ね 活躍しないと記憶にも記事にも残らないのがプロ野球なのね そういう選手のほうが多いのかもしれないけど・・・福塚さんも西村さんも現役時代の写真は見つからなかったなあ山内さんはタイガースというより日本の野球の歴史の中でもレジェンド的な存在ね ただし独自の感性でやってた面があるので指導者としては万人向けとは言い切れないのよねオリックスのコーチのときイチローさんの打撃を酷評して振り子打法をやめさせようとしたんだって イチローさんは無視して自分のフォームを変えず成功できたからよかったけど潰されてたかもしれないの 自分に合った指導者に出会えるかどうかも運ね8の4に続く
2023年03月19日
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名残惜しい阪神鳴尾浜球場💕2代目タイガース非公式サイトです ウェスタンリーグ開幕しました! 初戦は阪神3-7広島 逆転負けです💧桐敷 岩田 二保の3投手が投げたんだけど揃って打たれちゃった 打線も山本泰 高寺の二人は3安打してるけど他がねえ 三振しかも見送り三振が多かったみたいで アピールに程遠いのね 2戦目はやり返せよ! ところでみなさんはタイガースのファームの拠点が「Tigers Den 阪神鳴尾浜球場」なのはご存じよね 観客収容人数は約500人 観戦無料でウィークデーならお客さんも少なくて とてもありがたい球場だったけど 鯉ガールが押しかけたり掛布二軍監督になった時なんかは お客さんがつめかけて入場制限で入れないこともあったのよ 並んでるときに鯉ガールと口論したこともあるわ! なんか生意気でむかついたのよね 今はコロナ感染の対策のためずっと無観客開催になってて まだ解除されてません 球団の発表では今年の5月以降 コロナ感染症が5類になったところで解除を検討してるって まだ先の話ねえ・・・歴史を振り返ろう かつてのタイガースのファーム練習施設は尼崎市にあった浜田球場 1979年から本格的に使用してきたの でも狭い球場でプロ選手の育成には物足りなかったんだって その当時虎風荘は甲子園球場の近くの西宮市甲子園七番町にあったのよ それで1994年 現在の西宮市鳴尾浜に新球場と新しい虎風荘を作って引っ越したの もう30年近く前のことなのね だからはっきり老朽化してきてるし練習施設も近代的じゃなくなっちゃってるわ ブルペンが室内になってることだけが取り柄ね 室内練習場はちっちゃいし 掛布さんが二軍監督になったらお客さんがとんでもなく増えて もう簡単に入場できない状況が続いて 急遽甲子園で試合することも多かったよね それにソフトバンクなんかと比べたら貧弱っていうか「みずぼらしい施設」にしか見えない! さすがにしぶちんな球団もこれではいい選手が育たないと思ったんでしょ ようやく2017年ごろから移転を検討し始めたのよ その当時はグリーンスタジアム神戸なんかも噂になってたよね移転先は尼崎に決定済み で 2021年12月21日 尼崎市の小田南公園内への移転が正式に発表されました 完成・移転の目標は2025年だって いよいよ2年後ね 構想されている施設を見てみよう全体構想図 いい感じの球場じゃない? 地図上に落としてみるとこんな感じ これは合宿所(選手寮)みたいね新虎風荘か? 立派な室内練習場も建設されるわよ新しい球場の名称は今のところ「日鉄鋼板SGLスタジアム尼崎」になってるわね 収容能力は3600席!場合によって外野を開放してさらに800席が確保できるって!うれしいな 売店や公式グッズショップも入るんだって!室内練習場は甲子園球場西隣にある一軍用に比べて1.7倍の広さになるのよね 育成施設なんだからこれくらいないとねえ グラウンドはもちろん土と天然芝!両翼は95メートルでセンターが118メートル 甲子園と同じ向きになるんだよ ただし発表によると専用駐車場が62台しかないので周辺で駐車場がどれくらいあるか心配 2代目は車で行くからなあ 交通もちょっと不便な場所に思えるし・・・ それに今までの鳴尾浜は無料だったけど有料になるはずよ ナゴヤ球場のファーム公式戦の入場料が1000円だから それくらいになるとおもう 維持管理考えたら協力しないとね! ファームの選手の環境が改善されて強いチーム作りができるようになるのは大歓迎 完成が待ち遠しいよ!
2023年03月18日
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背番号8(その2) その2では 2代目にはまったくなじみのない人が2人続いて そのあとに遠井吾郎さんが受け継いでるのね 干場一夫 投手昭和25(1950)年、後藤次男が背番号を「22」に替え、「8」はルーキーの干場一夫に受け継がれる。干場は北海道旧制旭川中学の出身で、日鉄輪西製作所、旭川鉄道管理局と実業団で長くプレーしていた右アンダースローの投手で、26歳でタイガースに入団してきた。1年目にいきなり37試合に登板しているが、そのうち21試合が先発。192回1/3を投げて防御率3.88.10勝4敗で完封勝利も2試合ある。ルーキーとしては上々の出来だと言えるだろう。 しかし昭和26(1951)年は2年目のジンクスだろうか、4勝6敗で防御率も4.54と大きく成績が落ちてしまう。さらに昭和27(1952)年には肩を壊し、17試合で0勝0敗、防御率3.07の成績を残して引退。 体格が170cmで60kgと、あまり大きくない上に細身であったため、1年目も体力的にはかなり無理をしていたのではないかと推察できる。 大崎 三男 投手干場引退の翌年から「8」を着けるのは大崎三男でこの選手も投手だった。東京都出身で明治高校時代には甲子園も経験済み。明治大学に進んだが島岡監督との確執が生じて昭和28(1953)年に中退してしまう。同年、明治大の助監督だった迫畑正巳の紹介でタイガースの入団テストを受けて合格し「背番号8」をもらう。この年は3試合に投げて0勝2敗の成績だった。2年目に2勝、3年目は8勝と勝ち星を伸ばし、4年目の昭和31(1956)年にブレイクする。63試合に登板、そのうち37試合が先発だった。成績は342回1/3を投げて25勝14敗、防御率1.65という素晴らしい内容だ。 昭和32(1957)年も20勝13敗、防御率2.09の好成績で2年連続の20勝を達成する。 翌昭和33(1958)年、大崎はなぜか背番号「8」を遠井吾郎に譲り「17」へ変えている。この年は8勝12敗に終わり、タイガースは大崎を6年間で見限って、トレードで近鉄に放出した。小山が育ってきたことも大きかったと言えるが、故障があったのかもしれない。「『大崎問題』により移籍」とする資料もあるが、何のことかよくわからない。 近鉄では2年間プレーしたが、計3勝15敗に終わり引退した。プロ通算233試合66勝70敗、防御率2.54。 遠井吾郎 外野手・内野手山口県柳井高校出身。高校時代から打撃は注目されており、昭和33(1958)年に八幡製鉄への就職を取りやめてタイガースに入団し、大崎から譲られた「背番号8」を着ける。「8」を着けていたのはルーキーから4年間で、昭和37(1962)年から引退までの16年間は「24」を着けているので、こちらのほうが遠井のトレードマークと言えるだろう。遠井は180cmを超える堂々とした体格だが、年間に打ったホームランは最高でも16本。どちらかと言えば巧打者というほうが本質に近いだろう。最初は外野を守ることが多かったが、昭和38(1963)年ごろから藤本勝巳を押しのける形でファーストのレギュラーになる。しかし100試合以上に出場したのはプロ生活20年のうち6シーズンだけだった。昭和41(1966)年には打率.326で首位打者を争い、昭和42(1967)年、昭和43(1968)年には全試合に出場している。このあたりが遠井のピークだった。 徐々に太ってきてますます走れなくなり、昭和40年代後半はファーストしか守れなくなる。晩年はファウルフライが上がっても最初から追わないということもあった。守備位置がほぼファーストに限定されると、外国人選手とのポジション争いになってしまう。アルトマンやブリーデンが来ると、めっきり出場数は減り、立ち位置は代打専門へと変わっていった。 体格の割に大振りをしない遠井のミート打法は代打で大いに生きた。代打で挙げた打点96は球団では桧山進次郎、八木裕に次ぐ歴代3位であり、プロ野球全体でも6位に入る好成績である。 現役最後の昭和52(1977)年はわずか56打席だが球団創設3000本目のホームランを代打で打ち、記憶に残る選手として引退していった。 だれも怒ったところを見たことがないお酒好きの「仏のゴローちゃん」は平成17(2005)年に逝去している。 通算記録は、20年間で1919試合5281打数1436安打688打点137本塁打、打率.272である。 シーズン130試合 試合後はほぼ毎晩飲みに行っていたというほどの酒豪だった。 まとめ 干場さんはまったくピンとこない 大半の人も知らないんじゃない?活躍は1年目だけで消えてしまったように3年でやめてるしねえ 大崎さんもよくわからないし謎のトレードみたいね 連続20勝してるんだから好いピッチャーだったんだろうけど 球団の見切りが早かったのはホントに謎だよね 遠井さんは年配のファンならみんな知ってる有名選手のようね 先代が言うには ふつうならファウルフライを追わない怠慢プレーはとことん野次られそうなものだけど 遠井さんの場合はファンも了解してて笑って終わりだったそうよ それがオールスターではランニングホームランも打ってるの 一生懸命走るゴローちゃんにセリーグベンチは大爆笑だったって みんなから愛されてたんだ! 8の3に続く
2023年03月17日
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WBC アメリカへ💕2代目タイガース非公式サイトです 2023年3月16日 WBC準々決勝 日本9-3イタリア素晴らしい試合だったね!この試合は大谷君の魂がチーム全体を一つにまとめた そう強く感じたわ今日は一点だけ指摘したいのそれは3回裏の攻撃で一死一塁の第2打席 自らセーフティバントを決める好プレーでチャンスを広げ この日4番に入った吉田正尚選手のショートゴロの間に先制点を奪った場面ね最初から一球投げるたびに気合の声を上げて全力投球する大谷君は 絶対に勝ってアメリカに行きたかったんだとおもうのね で常識的に見て あの場面でベンチから大谷君に対してバントのサインは出ないと断言できるわけよ 相手チームもそう考えてたはず それでこそ意表がつける!大谷君は相手の守備位置や動作を見て バントを想定してないと冷静に分析したんだとおもうの そして自分の判断でセーフティバントをしたんだとこのバントで直接点が入るわけではないけど ランナーを進めて自分も生きるという自信あってのプレーだと2代目は強く感じたのよねそしてこのプレーは 後に続く打者へ「信頼している!あとは頼んだぞ!」っていう強いメッセージを送る意味があったはずよ現実に点につながり そのメッセージは岡本選手のホームラン その先の村上君のタイムリー二塁打 吉田選手のホームラン 源田選手の執念のヒットなどへ どんどん乗り移っていったのよ このプレーがなかったら もっともつれた試合になったんじゃないかな 試合開始から熱くなっているように見えた大谷君だったけど じつは恐ろしいほど冷静に判断してたって・・・ちょっと良いほうに読みすぎかなと思う反面 絶対にそうだったんだと信じてる自分がいるのよねとにかく感動したってことね!これで苦しんでた村上君も目覚めたようだし アメリカでも日本中の期待に応えてくれると信じてる 本日の一押し記事よ不毛な4年を取り返してくれ | とらっきち (ameblo.jp)
2023年03月17日
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ノイジー選手の評価は?💕2代目タイガース非公式サイトです みなさん 左腰の張りを理由にキャンプから別メニューで慎重に調整してきたシェルドン・ノイジー選手が 3月11日からオープン戦に出てるよね 1億8000万円も貰って左うちわ キャンプ中は練習逃れでズルしてたんじゃないかっておもってたけど 実戦でどうなのか見てみようね3月11日 オープン戦 阪神4-5日本ハム 1番レフトでスタメン出場 第1打席 1回裏先頭打者でセカンドフライ(投手:ガント) 第2打席 3回裏先頭打者でセカンドフライ(投手:吉田) 実戦初出場ということで2打席立って近本と交代 フライアウトが2つ まだ差し込まれていたようね3月12日 オープン戦 阪神5-3巨人 3番レフトでスタメン出場 第1打席 1回裏二死無走者でサードゴロ(投手:赤星) 第2打席 4回裏先頭打者 レフトへ二塁打(投手:赤星) 第3打席 6回裏無死一塁でセンター前ヒット(投手:堀岡) 2打席目のツーベースはフェンス直撃の当たり 佐藤のレフトフライで果敢にタッチアップで三塁に進み 板山のピッチャーゴロでもスタート 赤星のホーム送球がフィルダースチョイスになって先制のホームイン 積極性があるし走るのも大丈夫そう3打席目は詰まりながらセンター前に運んだヒット ここで代走井上を送られ交代してる この日は好いところが出たね3月14日 オープン戦 DeNA6-11阪神 3番レフトでスタメン出場 第1打席 1回表無死一二塁でライトへ適時二塁打・打点1(投手:濱口) 第2打席 3回表先頭打者でキャッチャーファウルフライ(投手:濱口) 第3打席 6回表先頭打者で見逃し三振(投手:宮城) 第4打席 6回表二死一三塁でサードゴロ(投手:石川) 最初の打席はいい当たりではなかったみたいだけど初タイムリー 2打席目は振り遅れ 3打席目見逃し三振のあと打者一巡で第4打席が回ってきたけど打てなかったね 1イニングで2つのアウトって進行係?3月15日 オープン戦 DeNA0-2阪神 3番レフトでスタメン出場 第1打席 1回表一死一塁でレフト前ヒット(投手:平良) 第2打席 3回表一死二塁でショートゴロ(投手:平良) 第3打席 5回表一死無走者でハーフスイング空振り三振(投手:平良) 第4打席 6回表二死一三塁でセンターフライ(投手:中川)1打席目はチャンスを広げるヒット 2打席目と4打席目はスコアリングポジションに走者を置いて凡退してるのね 力んだかな? この日のDeNA平良投手は好いボールが来ていたようなので ヒット1本出たのは評価できそう これで3試合連続でヒットは出てるのよねえ ここまで出場したオープン戦4試合での成績は13打席で13打数4安打1打点2三振 打率は.308 まだ好いとも悪いとも言えないなあ・・・板山選手がすっかり調子を落としちゃったし高山選手はもう脱落みたいだから 森下君や井上君との争いだけど 岡田監督は開幕からライトスタメンは森下君を使ってくんじゃないかな?多分もう決めてる? そうなるとレフトはノイジー選手が今くらいの成績なら一応当確に近づいてるとおもうけど まだオープン戦は8試合残ってるからその間にはホームランを見せてほしいよね(大きいのはミエセス選手のほうが期待できそうだけど) 大枚払って呼んでるんだから大きいのも打ってくれないと ホームランが出ないようなら開幕レフトは井上君でいいとおもうよ 何ならオープン戦好調の原口選手だっていいかなって・・・追加3月16日 日刊スポーツ速報発熱の影響で10、11日の日本ハムとのオープン戦を欠場した新外国人ヨハン・ミエセス外野手(27)は、12日から練習を再開していたが、16日、都内で行われた1軍練習に合流した。 一方、高山俊外野手(29)、井上広大外野手(21)が鳴尾浜球場の2軍練習に合流した。 まあ明日からウェスタンが開幕するから打線組む必要で戻るんだろうけど 井上君は一軍に同行してほしかったなあ・・・
2023年03月16日
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2023年3月17日ウェスタンリーグ公式戦始まるよ💕2代目タイガース非公式サイトですいよいよ球春本番ね!セリーグ公式戦は3月31日に開幕なんだけど ウェスタンリーグのほうが2週間早くて17日からスタートするのよ 今年は3連覇がかかってるから気合入るわね タイガースはウェスタンで18回も優勝してるの これはリーグ最多記録なんだよ!知ってた? 今年から二軍監督は和田豊さん 一軍の監督まで経験した人が二軍監督になるのは珍しいとおもうんだけどタイガースでは初めてだって! その経験が選手に伝えられると何か変わるかもしれないね タイガースは鳴尾浜に広島を迎えての3連戦のあと 一日置いてソフトバンクと戦うんだ そして移動日なしで24日からナゴヤ球場に乗り込んで中日との3連戦なのよね一軍の開幕が31日なので 調整が遅れている主力が出場する可能性もあるわね 森下君や井上君なんかも出るかもしれない2代目は土曜や日曜に仕事が入ってることが多いので 24日に行けたらなあっておもってる ここまでくると開幕一軍登録メンバーも決まってるからファーム組がしっかり見れそうだからね 雨降らないでほしいわ キャンプでは報道が一軍中心で とくに森下君に注目が集まっちゃったから 他のドラフト新人選手がほとんど見れなかったのよね だから楽しみは多いの コロナ対策も緩和されてお客さんもたくさん入るといいね❤一人でも多くの選手が一軍にいけるよう祈ってます!
2023年03月15日
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背番号8(その1) 今回から背番8に移ります通して見てみたんだけど この背番号は初めのころは生え抜き選手が多かったけど のちに移籍組のほうが多い印象に変わるわね いまは佐藤輝明選手が着けてるので生え抜きとして定着する番号になるといいな 過去に着けてた人のポジションはバラバラね 山口政信 外野手・内野手初代背番号7は山口政信。大阪府日新商業の出身で外野手として甲子園に3度出場している。昭和10(1935)年の夏の選手権では藤村冨美男のいた呉港中に敗れている。昭和11(1936)年大阪タイガース創設時に入団、背番号8を着ける。戦前は俊足巧打の外野手として活躍する。ホームランは少ないがプレー振りは豪快。俊足を生かした盗塁が多く、昭和12(1937)年春季には29盗塁でタイトルを取っている。また選球眼が優れており、この年には春季60個、秋季48個の四球を選びいずれもリーグ最多だった。 写真があるが、非常にくたびれたユニフォーム。戦前か戦後かは不明だが物資のない時代にプロ野球の灯を消さなかった先人には頭が下がる。 カーブ打ちを得意としており「和製ディマジオ」とも呼ばれ、景浦將などと並んで当時の人気選手の一人に数えられる。しかし昭和13(1938)年に一度目の召集を受け昭和17(1942)年に除隊されて復帰して以降はかつてのプレーができなくなってしまう。追い打ちをかけるように昭和18(1943)年末に二度目の召集がありそのまま終戦まで軍務についている。昭和21(1946)年にタイガースに復帰し2年間プレーしたが、もう外野が守れず一塁手として合計71試合158打数26安打21打点2本塁打で打率は.165というさびしい成績に終わって昭和22(1947)年のシーズン終了以後に引退した。その後、実業団の土屋建設でプレーイングマネージャーをしていたところ、戦前のタイガース在籍時の監督だった石本秀一が2リーグ制で新しく創設された広島カープの監督に就任し、その誘いがあって昭和25(1950)年にカープで現役復帰する。 カープでは2年間プレーし、129試合441打数113安打42打点3本塁打、打率.256の成績を残している。昭和26(1951)年のオフに引退。その後は野球とは一切かかわらず昭和51(1976)年に永眠された。 なお、山口は戦後復帰した昭和21年の一次期、背番号18を着けたがすぐ「8」に戻っている。 高山泰夫 外野手岐阜県出身の高山は岐阜商業2年時に選抜で優勝経験がある。控え選手ながら代打で活躍し「優秀選手賞」を受けている。 昭和17(1942)年、阪神軍(大阪タイガース)に入団、最初の背番号は「25」だった。この年は18試合に出場し、20打数2安打1打点1盗塁という成績で打率は.100。2年目の昭和18(1943)年は9試合出たところで召集され終戦まで復帰できなかった。 昭和21(1946)年にタイガースに復帰し、まだ復帰していなかった山口が着けていた「背番号8」を着けるが、山口が復帰すると番号を譲り、「27」を着ける。この年は41試合87打数21安打9打点1本塁打、打率.273だったが、翌昭和22(1947)年は出場がなくそのまま引退している。写真も見つからず、その後の詳細は不明である。 後藤次男 内野手・外野手山口が退団したあと背番号8は後藤次男が引き継いでいる。ダイナマイト打線の一翼を担い、のちにタイガースの監督も務めた愛称「くまさん」だ。「8」を着けたのはルーキーの年と翌年の2年だけ。そのあと2年間が「22」にかわり、さらに昭和27(1952)年から7年間は「12」を着けた。熊本工業時代に3度の甲子園を経験、選抜ベスト4の実績がある。卒業後は法政大学に進学し4番打者として活躍した。大学の先輩である若林忠志監督の誘いで昭和23(1948)年に大阪タイガースに入団。ルーキーイヤーとなったこの年、後藤はセカンドで全140試合に出場している。511打数129安打36打点5本塁打で打率.252というまずまずの成績、俊足を生かした27盗塁も光った。 2年目の昭和24(1949)年から3年間は、10本、15本、13本と二けた本塁打を記録、入団時から5年連続100安打、2年目から4年連続3割以上も記録しており、ダイナマイト打線の一員として活躍しているが、記録を見る限り強打者というより巧打者の印象だ。また、2リーグに分裂した昭和25(1950)年には多くの選手がパリーグに移る中、タイガースに残った。 しかし、昭和28(1953)年、まだ29歳だったが、鎖骨を折る大けがを負い、完治しないまま試合に出たため何度も折れて手術を受ける。この無理が祟ってそれまでのプレーができなくなり、以降出場も毎年100試合未満になってしまう。 ダイナマイト打線 左から2人目が後藤 昭和32(1957)年に限界を感じて現役引退。翌年からは一軍打撃コーチ~二軍監督~一軍ヘッドコーチを経て昭和44年に一軍監督に就任している。一軍打撃コーチ時代は藤本勝巳、遠井吾郎、藤田平などを指導し成長させた功績がある。 昭和43(1968)年をもって7年間監督を務めていた藤本定義が退任し、次期監督が決まらないままタイガースは秋季キャプに入る。11月19日、当人不在のまま阪神電鉄本社で記者会見が開かれ、ヘッドコーチ後藤の監督昇格が発表された。 昭和44(1969)年のシーズンは、江夏豊が成長期にあり、後藤の母校法政大から田淵幸一が入団、前年好結果を残したウィリ・カークランドを4番に据えて5月までは首位を走った。しかし6月に入って打線が湿りだし巨人に抜かれると、ジリジリと差を広げられていき、6.5ゲーム差の2位に終わっている。 後藤は「自分はあくまで繋ぎの監督」と認識していた。翌昭和45(1970)年には村山実が現役監督に就任することで1年で交代している。 昭和53年(1978)年には、史上最低勝率を記録した吉田監督が退任。選手と首脳陣もギクシャクした状態で監督の引き受け手がない中で2度目の監督として引っ張り出された。 就任の会見ではチームのキャッチフレーズを聞かれ「みんな仲良くボチボチと」、目指す野球はの問いには「お祭り野球」と答え、タイガースファンは拍子抜けとなった。 シーズンに入ると選手にやる気は見られず、後藤監督も注文をつけないというダラダラ野球が展開されるなか、ブリーデン、ラインバック、掛布など主力の故障も相次ぎ最下位を独走することになる。 前年、吉田監督は4位で勝率.466だったが、これがタイガースの史上最低勝率だったことで退任している。しかし、後藤監督はこれを1年で大きく更新し、41勝80敗9分の.339という悲惨な勝率で終わり1年で退任した。 ちなみに後藤は、引退翌年の昭和33(1958)年のコーチ就任の年は現役最後の「12」のまま、昭和34(1959)年は「60」、昭和41(1966)年から第1期監督も含め4年間が「55」、第2期監督時代は「71」を着けた。 平成28(2016)年、92歳で逝去されている。 まとめ 失礼ながら山口さんと高山さんは全然なじみがないのね お二人とも戦争のあおりを食っているのはかわいそうだった どうしても球団創成期当時の選手には戦争の影が付きまとうのよね・・・時代が違ってれば活躍できたかもしれないのにっておもうよ 後藤さんはタイガースファンなら知ってますよ 元祖ダイナマイト打線の一人だもん 監督としては「つなぎの後藤」って言われてるよ この人も経歴見てると怪我さえなければ もっと長く現役で好い成績残せたとおもうなあ ホントに人によって運・不運ってあるのよ 監督としても変な役回りで成績もよくなかった 波風を立てず仲良くという温厚な性格は チームをまとめて奮い立たせるには合ってなかってことね 町内会長や自治会長みたいな役なら上手にできるんじゃないかっておもうけど8の2に続く
2023年03月14日
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中野君スタメン 湯浅君4番手💕2代目タイガース非公式サイトです WBC1次リーグB組 豪州1-7日本 3月12日東京ドームきのうはまた大谷選手で大盛り上がりだったわよねあんなホームラン見たことない 打った瞬間にカメラがボールを追えてないんだよ どこに飛んだか一瞬見失うような打球の速さって凄すぎ 現時点でメジャーでもレジェンド級だよねえ 言葉もないわ 大谷フィーバーが吹き荒れる中あっという間に全勝で一次リーグ突破しちゃったね!この勢いのまま優勝まで突き進め! さてタイガースの選手たちと言えば スタメンの中野君は2回表の先頭打者でセンター前ヒット~!ボールに逆らわない素直なスイングでのキレイなヒットだったよね よしよし! このあとヌートバー選手と近藤選手にタイムリーが出て2点入るのね第2打席は外野フライだったけど5回表の第3打席では1死1塁の場面でチャンスを広げるフォアボールを選んでる 直後に9番の中村選手にタイムリーが出て7点目 いいつなぎ役だったねー 参加してるしてる! 4打席目がセカンドゴロ 5打席目は三振だった でもフル出場できて貢献もしました 気になったのが8回裏の守備かなあ 7番デール選手が三遊間へゴロを打ったんだけど 中野君が追いついて身体をひねりながら一塁へ送球した場面 力のない球がワンバン~ツーバンしてやっと届いたのね これは2代目にはよくわからないし解説や評論家の声もないんだけど、やっぱり「弱肩」に見えちゃったの 一流のショートなら最低ワンバンでアウトにしてたんじゃないっかってね あの体勢で投げるのはたぶん中野君苦手なんだろうなって感じがする ペナントレース開幕のときタイガースのショートを誰が守ってるかはまだ全然予想がつかないわよね では湯浅投手はどうだったかな 4番手として6-1で迎えた8回裏に出てきました 前回中国戦では三者連続空振り三振の快投だったけど オーストラリアのバッターは簡単に空振りはしてくれなかったよね 湯浅君も前回より気合が入りすぎて力みが感じられたなあ 意図してないのにワンバンになるストレートやフォークがいくつもあったようにおもう 最初の打者をライトフライに打ち取って次の打者のとき さっき書いた中野君がらみの内野安打を打たれたわけ そしてその次の打者にはフォアボールでちょっとピンチに でも落ち着いて後続2人をセンターフライ セカンドゴロに仕留めて無事仕事を終えました 三振は取れなかったけど良く腕は振れてたよね ストレートは常に150キロを超えてキレがあったしフォークも落ちすぎるくらい ボールに力があるからフライアウトが2つになったんじゃない? 2人とも若いときにこんな一流の集まる試合を経験できてるのは幸せだよね オールスターのようなお祭りじゃなく 外国チームの選手たちも含めてみんな真剣に勝ちたいと思って全力でプレーしてるから この環境は中野君や湯浅君にとってホントに得難い経験よ!何でも吸収して成長していってほしい にほんブログ村
2023年03月13日
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B・ケラー開幕二軍?💕2代目タイガース非公式サイトです オープン戦 阪神5-3巨人 3月12日甲子園タイガースのブライアン・ケラー投手が2番手で登板したようだけど 精彩を欠いて岡田監督から「開幕二軍」と言われちゃったみたいね 報道によると 4回表から3イニングの予定でマウンドに立ったケラー投手は まず5回に様子がおかしくなって 連続でフォアボールを出したうえにダブルスチールを決められ ブリンソンの内野安打で1失点 さらに6回表はもうボロボロ 先頭のオコエにヒットを打たれたあと簡単に2アウトを取ったのはいいとして 4番の丸にフォアボール 5番松田 6番中山に連続タイムリーを打たれて2点を献上 動揺して7番のブリンソンにデッドボールをぶつけたところで交代させられたって 予定の3回を投げ切れず2回2/3で3失点 65球も投げてる。これじゃあ岡田監督も怒るわよ「こないだファームで抑えてたとかなんか言ってたけど。だから、まあ上で投げるんだったらな、今日でも3回やん。一回りなわけやから。その辺をどうかなと思ったけど、今日の感じではしんどいよな。2ストライク追い込んで、先頭パーンと打たれたり。そのへんの細かさというか、慎重さとか、そんなんが全然ないわな」「2軍で再調整?そうなると思うよ。ピッチングコーチがな、そらもう、そんなん、ないよ。投げるとこはないと思う」どうやら油断とか慎重さとか言うまえに クイックモーションすら満足にできないみたいなのよね!? 沖縄の練習試合のときにはフィールディングもおぼつかなかったし・・・基本からできてない!2代目が観にいったナゴヤでの教育リーグのときは ファームの中日打線の元気のなさが際立ってたからなあ 4回無失点でもすぐには信用できないって思ってはいたんだけど・・・やっぱり一軍クラスが出てくる試合では ごまかしは効かなかったようねもう戦力外でいい!なんでこんなのしか見つけてこれないのよ?今日見つけたイチオシの記事URL貼り付けておくよ 矢野の4年で選手がおかしくなった | とらっきち (ameblo.jp)
2023年03月13日
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気がかりな中野君💕2代目タイガース非公式サイトです WBC1次リーグB組 日本10-2チェコ 3月11日東京ドームタイガースの中野拓夢選手が 8番ショートでスタメンに起用されたのね 源田選手が韓国戦で負傷したことでチャンスが回ってきたんだ「源田さんがいるので自分は控え」という気持ちはあったとおもう 急にスタメンでいくとなって緊張感はすごかったんじゃないかなってねそれもあったのか1回表にいきなりショートゴロを一塁へ悪送球しちゃったね THE DIGESTの記事で井端さんが「本来はワンステップで投げれたんですけど、もうワンステップ踏みましたよね、あえて。そこでタイミングが狂いました。セカンドをやってショートにいくと、ああいうことが起きる」と弁護してくれてるわねそれもあるのかとおもう でも岡田監督が指摘してる「弱肩」が出てしまったという感じがしてならないのよねステップが増えることで きわどいタイミングになったといって あの距離からワンバンはちょっとひどい 試合用のボールが日本の公式戦用より滑りやすいからっていう指摘もあるんだけど、それならすっぽ抜けて高い暴投になるはずで、ワンバンにはならないんじゃないの?間に合わずにセーフになったとしてもノーバン放らなきゃ! それなら2塁のランナーはホームに行けなかったはずよ ステップやボールの差ではなくて やっぱりスローイングの問題じゃないのかなあっていうのが2代目の感想なのねチェコの実力がまだ世界レベルじゃないので逆転勝ちできたけど こういうミスが取り返しのつかないことになるってあるわけよ あの守備一つを槍玉に挙げて責めているわけじゃなく 岡田監督の指摘通り厳しい現実としてセカンド目指したほうが正解なんじゃない? 源田さんは骨折だったようなので この先WBCでは中野君がショートを守るしかない このエラーが尾を引くかもしれないのが気がかりね・・・ でも5回にはフォアボールを選んで出塁して すぐ二塁盗塁を決めたのは中野君らしくて好かったし そのあと牧原選手のヒットでホームに帰ってくるときの速さも抜群だった 最後の打席ではアウトにはなったけどセンターへ鋭い当たりが飛んだよね 貢献していける感触はつかんでくれたと期待できる!せっかく出れたんだからしっかり目立ってほしいよ がんばれ中野っ!
2023年03月12日
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背番号7(その6)その5からの続きです背番号7は今回が最終回よ 俊介さんが着けていた「7」を2013年に奪っちゃったのは西岡剛さんだったわね 西岡さんは2017年から「5」を着けていて、登場順から背番号5のほうで紹介してるので参照してね 西岡 剛 内野手平成25(2013)年にアメリカから復帰してタイガース入団。入団時は背番号5、平成29(2017)年から「7」に、平成30(2018)年に現役引退。詳細は「タイガース背番号史5の10」を参照。タイガース背番号史 5の10 | タイガース非公式サイト2代目 - 楽天ブログ (rakuten.co.jp) 糸井嘉男 外野手糸井は京都府与謝野町の出身。中学時代に痛めた足の怪我や高校入学後に肩も痛めて手術するなど、高校では3年次の数か月しか満足にプレーできなかったが、プロのリストに載るほどの投手だった。平成12(2000)年、近畿大学に進学すると3年秋にようやくリーグ戦初登板。4年春には5勝0敗で防御率0.72という好成績を挙げ、最優秀選手・最優勝投手・ベストナインになっている。通算で9勝2敗、防御率1.49。 平成16(2004)年に日本ハムファイターズへ自由獲得枠で入団し、背番号「26」を着ける。投手として入団した糸井だったが最初の2年は一軍登録されることもなく、ファームでも2年間で8勝9敗、防御率も4点台で目立った成績を残していない。 平成19(2007)年4月に外野手転向を言い渡される。この年はイースタンで打率.319、12本塁打、14盗塁という成績を残して一軍にも昇格したが、公式戦に7試合出たところで足を痛めて登録抹消、そのままシーズンが終わる。 平成20(2008)年も開幕当初の怪我が尾を引き、63試合にしか出れなかった。平成21(2009)年にプロ6年目にしてようやく131試合に出場してレギュラーとなる。この年から4年続けて130試合以上に出て、日本ハムの中心選手に成長した。この間、平成23(2011)年から背番号が「7」に替わっている。平成24(2012)年はクライマックスシリーズのMVPになって日本シリーズにも進出したが、シーズン終了後の契約更改交渉での評価が低かったことから難航、年明け1月に2対4のトレードでオリックスバファローズへの移籍が決まりった。 オリックスでは引き続き背番号は「7」。4年間レギュラーで通し、平成26(2014)年には打率.331で首位打者、平成28(2016)年には53盗塁で盗塁王に輝くなど、走攻守にわたって高レベルのパフォーマンスを見せ、「超人」のニックネームが定着した。 平成28年の3月にFA権を取得し、同年11月に行使を宣言。オリックスも4年18億円を提示して必死に引き留めたが、タイガースがそれ以上の条件を出して獲得が決まる。西岡から譲られて背番号は「7」を着けることになった。 ところがタイガースに移ってからは、また毎年のように怪我に悩まされることになる。特に右ひざ関節炎は慢性化しており、移籍最初の平成29(2017)と翌年の2年間は、それぞれ21個、22個の盗塁を記録できたが、その後の4年間は一桁しか走れないようになってしまった。 足の故障は打撃にも響き、特にホームランは最初の2年こそ17本、16本を記録したものの、後の4年は5本、2本、3本、3本と悲惨な結果に終わっている。結果論だが、日本ハムを出る段階でタイガースに来てほしかった。と言っても、その当時はまだFA権も取得しておらず、タイガース入りの余地はなかったが・・・ 「超人」のニックネームは、身体が悲鳴を上げるほどとことん追い込む筋トレなど、限界に近い鍛え方をするために怪我と隣り合わせで成り立っていた。振り返れば中学時代からずっと怪我に付きまとわれており、万全の体調であったらどれほどの成績を残したかは計り知れない。 タイガースファンにもろ手を挙げて歓迎された糸井だったが、令和4(2022)年、限界を感じて9月12日に引退を発表した。 選手としては投手出身として肩も強く、俊足でもあったため外野手としてベストナインに5回、ゴールデングラブ賞に7回も選ばれており、名手に数えられる。万全のときであれば手が付けられない超人だった。 シェルドン・リン・ノイジー 外野手令和5(2023)年から背番号7は、外国人助っ人としては初めてノイジーが受け継いだ。メジャー実働3年で147試合392打数83安打、打率.212、7本塁打、37打点という実績の選手で、クビにしたロハス・ジュニアやマルテに比べて「どうなの?」という印象はぬぐえない。 腰の張りで2月16日から別メニュー調整が続いていたが、3月12日から実戦にでるという。はたして7番を着けるのにふさわしかったかどうかは、これからを見させていただく。 まとめ 糸井さんは「ものすごい身体能力」とか「超人」とか言われてきたけど 実際は怪我ばっかりしてるんだよねえ 2代目は まともに試合に出れてこそ名選手だとおもうんだ だから糸井選手は普通の選手 「中の上」くらいの印象ね 数字も「おおっ」っていうほどのものは残してなしなあ ノイジー選手はどうかな? 腰の張りとか言ってるけど キャンプの練習したくなかっただけじゃないかと感じてるんだけど 面白いのは去年 投手としてメジャーで3試合投げてるのね リリーフだけど 意味わかりませんよ! この選手ホントに大丈夫? レフトは井上君か森下君でいいんじゃない? 背番号7はこれで2023年まで終わり やっぱり歴史を見ると真弓さんが最高だったかな? では次からは背番号8ね 背番号8へ続く
2023年03月11日
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湯浅投手バッチリ💕2代目タイガース非公式サイトです WBC1次リーグB組 日本8-1中国 3月9日東京ドーム中国との1次リーグ初戦の八回に3番手で登板した湯浅京己投手 なんと3者連続空振り三振で圧巻の投球をみせてくれたのよね!「特別な緊張感もありましたけど、マウンドに上がってからはいつも通りやれたかな」ホントに緊張してる感じはなかったなあ4―1の八回「たくさんのお客さんが入っていて、マウンドに上がった時とかに拍手が聞こえたのですごく力もらえた」しっかり周りも見えてたみたいね 冷静なコメントが頼もしい~先頭の羅錦駿を高めの152キロで空振り三振に仕留めて波に乗っちゃったねえ ほとんどストレートとフォークだけ しかもストレートのほとんどが150キロ超えてたから調子も好かったんだとおもう!続く李寧には直球でぐいぐい攻めて最後はフォークで空振り三振 最後は梁培をこの日最速の153キロでまたも空振り三振って凄すぎ!「やっぱり三振を取れたら気持ちいい。追い込んでから(三振を)狙いにいっていたので取れてよかったなとほっとしている」 報道を見ていると 強化合宿のときからダルビッシュ投手に積極的にアドバイスを聞いて吸収しているって こういう舞台に選ばれたからこそ成功者に直接話がきけるチャンスなのよねすごく角度のあるストレートがあるし フォークも140キロ前後のスピードだから 打席に立つと区別がつかないんだろうなあって感じた 胸のマークくらいの高さからスーッと落ちて低めに決まるんだもん バッターには途中までストレートにしか見えないのよきっと解説の主浩さんが「ふつうはフォークが高めに行くと落ちないんだけど湯浅君のはしっかり落ちてる」って 独特のフォークなんだね「まだ始まったばかりなのでしっかり世界一に貢献できるように頑張りたい」 栗山監督も「湯浅は使える!」って手ごたえを感じてくれたとおもうから 優勝に向けて厳しい場面での登板も覚悟しておかないとねただし、中国の打者のバッティングのレベルはだいぶ低い感じだった 韓国など強敵と当たるこれからが大事だよ 期待してる!
2023年03月10日
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背番号7(その5)その4からの続きです真弓さんのような大功労者のあとを継ぐのは大変でしょうね もらう方もプレッシャーだし、簡単にふさわしい選手も出てこないわよね なので1年は空き番になりました 今岡 誠 内野手今岡はPL学園3年時の平成4(1992)に選抜大会に出場しベスト8まで進んでいる。このころからタイガースは接触していたようだが、本人は大学進学を希望し東洋大学へ入学した。大学では強打の遊撃手として活躍、通算100安打、12本塁打を記録し、平成8(1996)年の4年時にはアトランタ五輪の代表に選ばれている。本番では主に8番セカンドで出場し、予選リーグ最終のイタリア戦と準決勝のアメリカ戦で2試合連続ホームランを記録。日本は決勝に進出したがキューバと激しい打ち合いの末に敗れ銀メダルに終わっている。この年のドラフト会議でタイガースを逆指名してプロ入りし、1年間空き番だった「背番号7」の後継者となった。最初のシーズンとなった平成9(1997)年は暗黒時代まっただ中で吉田監督の2年目。サード、セカンドを守り98試合に出場したが、252打数63安打で打率.250、20打点、ホームランは2本と打棒は芽を出していない。 平成10(1998)年に久慈照嘉がトレードで放出されたためショートのポジションを得て133試合に出場、規定打席にも到達して打率.293だったが、ファンにもアトランタ連発男の印象が残っており、打点40、本塁打7は物足りないと言われた。 のちに「独自の感覚で天才的なバッター」ともいわれた今岡も、平成11(1999)年に就任した野村監督の目には、理屈に合わない理解しがたい選手に映ったのかもしれない。この年は128試合に出たものの、安打数、打点、本塁打、打率のすべてで前年を下回り、翌年は野村の標的となる。 平成12(2000)年、呆然と見逃し三振に倒れる今岡の姿を何度も見せられた野村は「無気力に見える、手を抜いているように見える…。見える、見え~るのゼブラ・ボールペン。だからゼブラや」などと取材陣の前で酷評するなど辛辣で、完全に干してしまった。そのため今岡はノイローゼに近い状態になっていったのか、成績は不振を極め、レギュラーもはく奪されてわずか40試合しか出場できず、ホームランもたった1本だった。今岡が最も苦しんだ年だろう。のちに今岡は著書の中で「偉そうなことを言ってるが結局自分の好き嫌いでしか選手を見ていないジジイだ」という趣旨のことを記している。平成13(2001)年になると、フロントの意向もあったのかもしれないが、野村は今岡をある程度使うようになり、守備の負担を軽くするためサードに回したりと配慮もしている。しかし、今岡の打撃に否定的な思いは変わらず、今岡も波に乗れないまま打率.268、40打点、4本塁打と平凡以下の成績で終わった。平成14(2002)年、星野仙一が監督になるとセカンドにコンバートされ打順は1番に固定される。これが当たって、打率が.317と初の3割越えに急上昇、ホームランも二けたの15本を放ち、ようやく本来の素質が開花し始めた。 今岡は野村が好むような配給を読みじっくりボールを見るバッターではなく、初球から多少のボール球でも積極的に振っていくほうが結果を出せるタイプだった。 それを証明したのが平成15(2003)年のリーグ優勝の年だ。前年に引き続いて1番に座り、485打数160安打で打率.340、首位打者に輝く。ホームランは12本だったが、そのうち半数以上の7本が初回先頭打者ホームラン、2試合連続の初回先頭打者初球ホームランという離れ業も見せたから驚きだ。野村と違って、早打ちや悪球打ちも個性と認め、ある程度自由に打たせた星野の見極めが好かったとも言える。 すっかり自信をつけた今岡は、岡田監督に代わった平成16(2004)年、3番に座って28本塁打を記録、83打点、打率.306と、すっかり一流打者の仲間入りをする。 再びリーグ優勝した平成17(2005)年は5番を任され、147打点を挙げて藤村富美男の持っていた球団記録を更新して打点王となり、ホームランも自己最高の29本を記録した。得点圏ではめっぽう強く、特に満塁での打率6割、満塁弾4本は異常なほどだった。 このオフに3億3000万円で契約更改し絶頂期だった今岡だが、打率が.279に終わったことが気になり、バットに当たる確率を上げれば打点やホームランはついてくると考えて打撃改良に取り組んだ。ところがこれが裏目に出たのか、平成18(2006)年のシーズンに入ると不振を極める。追い打ちをかけるように6月には死球をうけ、その影響によるバネ指の治療のため手術を受けるなど散々で、59試合の出場に終わっている。平成19(2007)年になると好機で極端に打てなくなり、85試合に出たが4本塁打24打点というさびしい成績になり転がり落ちていく。翌年は55試合、さらにその翌年は23試合と出場はめっきり減ってしまい、もはや居場所がなくなる状況に。平成21(2009)年10月に戦力外通告を受け退団に追い込まれてしまった。 トライアウト、テスト生という屈辱的な経過を経て、平成22(2010)年からロッテでプレーしたが、2年間で39試合の出場に終わり引退した。 引退後はタイガースの二軍総合コーチ、ロッテで二軍監督や一軍コーチを歴任し、令和5(2023)年から再び一軍打撃コーチとしてタイガースに復帰している。 藤川俊介 外野手今岡退団の翌年から「7」を着けたのは藤川俊介だ。福岡県出身だが高校は広島の広陵高校へ進学している。高校通算で対外試合25本塁打を記録しており、かなりの強打者だった。近畿大に進むと1年からレギュラーとなり5シーズンでベストナインに選ばれる好選手に成長する。大学でのリーグ戦通算は77試合288打数95安打45打点7本塁打26盗塁、打率は.330というもので、ドラフト上位が当たり前と思える素晴らしい成績だ。平成21(2009)年秋のドラフト会議でタイガースは藤川を5位指名する。藤川は3位までの指名でなければ東邦ガスへ入社すると決めていたため、交渉は難航したが無事に折り合いがついてタイガースに入団し、即戦力とみなされて背番号7を継承する。 1年目の平成22(2010)年は、1年間一軍登録から外れることなく124試合に出場している。しかし代走や守備固めの出場も多く、183打席に立って41安打というのが実態だ。登録名を「俊介」に改めた平成23(2011)年も108試合に出てはいるが、205打席46安打。どことなく伸びしろのなさが感じられる選手という印象になる。大学までは好守・好打・俊足で大きいのも打てるというのが藤川の評価だったが、プロはそれほど甘くなくレギュラーは遠かったということだろう。 その後平成25(2013)年からは「背番号7」を西岡剛に譲り、「68」に代えて引退まで着けている。平成25年と平成27(2015)年にも100試合以上出ているが、それぞれ216打席、126打席という数字が示すように、スタメンに名を連ねることは少なかった。ただし、外野の守備が優れていたため常に一軍にはいた。 年間の最多本塁打は平成29(2017)年の4本で、現役通算でも9本。かといってバントのような小技ももう一つ上手くならなかった。 令和に入ると守備の衰えも目立ってきたため出場数が6試合、9試合、0試合と激減し、令和3(2021)年の9月に自ら引退を表明した。 新人だった平成22年春季キャンプでの金本との衝突、翌年4月の金本の打席での盗塁失敗など、記録継続を妨げる失態もあり、大事な若手時代に精神的に委縮してしまったかもしれない。 まとめ 今岡さんは野村監督のところですこし足踏みしたわね お互いが理解できなかったのかもね 星野さんの眼力があって目覚めたって感じ 今岡さんが絶頂のころに2回のリーグ優勝があるから貢献度は大きいわ 俊介さんはプロ選手としては素材としてもの足りなかったんでしょう 守備や走塁だけではレギュラー定着は難しいのよね 便利屋にされちゃうの やっぱり野手はバッティングのアピールね これは宿命かも それとプロ入りした時の監督が背番号の大先輩・真弓さんだったのもプレッシャーになったかもね7の6に続く
2023年03月10日
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背番号7(その4)その3からの続きです二人の移籍選手が続いたあとに「7」を継いだのは池田さんね このひとはエピソードが多い選手 そして真弓さんに受け継がれていきます 池田祥浩(純一) 外野手池田は熊本県八代東高校(のちに秋山幸二も卒業)の出身。3年生だった昭和39(1964)年の夏の選手権では球史に残る記録を作っている。八代東は、開会式直後の試合で静岡の掛川西高と対戦、エースで4番打者という大黒柱の池田は掛川西打線を完ぺきに抑えるが、見方も無得点が続き0対0で延長戦に入る。その後も両校ともに決定打がなく延々と0が並び、ついに延長18回0対0で引き分け、2日後に再試合となった。この試合で池田は18回まで一人で投げぬいている。池田は再試合にも先発し、初回には先制ホームランも打ったが、1回裏に撃ち込まれて逆転されると交代。結局2-6で敗れた。開幕試合での延長再試合は大会史上初めてのことで当時大きな話題になり、池田の名も全国区になった。ドラフト会議導入の前年に当たる昭和40(1965)年、法大や読売との激しい争奪戦の末、池田はタイガースに入団する。最初の背番号は「52」で翌年には「32」となりこれは5年間着けた。「背番号7」を着けたのは昭和46(1971)年からで、引退まで背負う。 池田は3年目の昭和42(1967)年に116試合に出場し、規定打席には届かない準レギュラー級となるが、その状態が5年間続いた。 はじめて規定打席に到達したのは昭和47(1972)年のことで、プロ入り8年目にあたる。目立って俊足でもなく、ホームランは最多でも12本、打率も2割4分程度であり、レギュラーと言っても8番を打つことが多かった。 続く昭和48(1973)年には思い出したくもない「世紀の落球事件」が起きる。この年はマジック1で残り2試合を中日、巨人に連敗してⅤ逸したあの年だ。8月5日の対巨人18回戦。2-1とタイガースがリードして迎えた9回表、二死一三塁のピンチで巨人黒江がごく平凡なセンターフライを打ち上げた。誰もが試合終了と思った瞬間、センターの池田が芝生に足を取られて転倒してしまう。打球がそのままフェンスへ向かって転がる間に2者が生還して逆転され、勝ちゲームを落とした。 弁護するなら、池田は打球に触れておらず単なる転倒であるためエラーではなく、公式記録も三塁打になっている事実だろう。取る前に転んでしまっただけとも言える。にもかかわらず「落球」のレッテルを張られてしまったのだ。最終戦で巨人に敗れたタイガースは0.5ゲーム差で優勝を逃すことになり、シーズン終了後も収まらないファンが「あの落球さえなければ」と池田を戦犯扱いするようになった。想定外のことをしでかす奴として「びっくり箱」という仇名までつけられてしまう。 その後、こうした声を苦にするあまり、悪夢や幻聴に悩まされて精神的に不安定になり、翌年から次第に成績も落ちていき、昭和53(1978)年に引退する。 落球事件以降も10年以上優勝できない状況が続いたが、昭和60(1985)年の日本一が決まり、11PMに出演した池田は「もうこれでファンはあの落球のことを忘れてくれるかな」と嬉しそうに語っている。 池田の通算成績は1092試合2842打数686安打295打点80本塁打で打率は.241である。通算5本のサヨナラホームランを打つなど、下位打線にあって侮れない打者として存在感はあった。おっちょこちょいのように言われがちだが、レギュラー時代はいい選手だったと言っておきたい。 平成17(2005)年5月17日に59歳で逝去されている。合掌。 真弓明信 内野手・外野手真弓は福岡県柳川商業から社会人電電九州に進んでいる。高校時代はサード・ショート。社会人ではショートとして都市対抗野球でも活躍し、昭和47(1972)年にドラフト3位で太平洋クラブライオンズに入団した。 昭和52(1977)年から一軍に定着し、昭和53(1978)年には初めて規定打席に到達してショートでベストナインに選ばれる。足も速く、この年には自己最高の34盗塁を決めている。 このオフに、順調に伸びている真弓の野球人生を変える事件があった。阪神がミスタータイガースと言われた田淵幸一を放出するという世紀のトレードだ。阪神側の田淵、古沢憲司の2名に対し、ライオンズが真弓のほか若菜嘉晴、竹之内雅史、竹田和史の4名という大型トレードだった。 真弓本人はパリーグで下位争いの球団でくすぶっていることに満足していなかったため、セリーグの人気球団へのトレードに喜んだという。背番号は引退した池田が着けていた「7」を継承した。 昭和54(1979)年、タイガースに移った真弓はショートに固定され主に1番打者として活躍する。125試合で517打数142安打51打点20盗塁、打率は.275で自己最多となる13本塁打を記録している。 昭和55(1980)年には、怪我で長期離脱した掛布に代わって4番を任せられるなど打線の中核を担い、29本塁打を放った。 昭和58(1981)年には、故障の岡田に代わってセカンドにコンバートされ、打率.353で首位打者に輝くとともにセカンドでベストナインに選出されている。 昭和60(1985)年、吉田新監督の意向で岡田がセカンドに戻ることになり、真弓は外野手にコンバートされる。昭和時代のシーズンオフに行われていたプロ野球選手運動会のなかで砲丸投げに出場し、女子用の砲丸ではあったが軽々と15メートルを記録するほど、もともと肩は強かった。 この記念すべき日本一の年、真弓は若菜との衝突による骨折で約1か月戦列を離れたが、1番打者として打率.322、84打点、34本塁打を記録。骨折がなければ確実に40本以上打っていただろう。後にも先にもこんなトップバッターはいない。 真弓の特徴は積極的な打撃。思い切りがよく、初球から好球必打で打ちにいくため、初回先頭打者ホームランを通算41本打っている(プロ野球歴代2位)。試合開始とともにいきなりホームランを打てる真弓を迎える相手投手は大変だった。リーグ優勝への貢献は限りなく大きい。 日本シリーズでも、2本塁打、打率.360で優秀選手に選ばれている。また、センターでベストナインにも選出されたが、3つのポジションでベストナインを受賞した選手は真弓のほかには落合博満しかいない。 その後も掛布の引退やバースの退団など、タイガースが暗黒時代に突入していく中、安定した力を発揮してチームを支えていくが、平成に入ったころから衰えだし、出場機会が減っていく。 平成4(1992)年以降は代打の切り札に転じ、平成6(1994)年には代打によるシーズン30打点を挙げている。これは令和4(2022)年終了時点でも代打シーズン最多打点の日本記録でありつづけている。 しかしながら平成7(1995)年は 阪神淡路大震災で自宅が壊れる災難があり、震災の影響でのトレーニング不足で急速に衰え、わずか32打席に終わり現役を引退した。23年間の現役生活のうち、タイガースで17年を過ごし「背番号7」を守りとおしている。 通算6624打数1888安打292本塁打886打点打率.285というのが生涯成績だが、2000本打っていないのが不思議なくらいだ。 平成12(2000)年から同15(2004)年まで近鉄バファローズで打撃コーチやヘッドコーチを務める。平成21(2009)年からはタイガースの一軍監督に就任。岡田監督が築いたJFKを引き継ぎ、ブラゼル、マートン、メッセンジャー、スタンリッジなどの外国人選手も充実する中で、あまり存在感を出さない監督だった。 肩の故障で送球困難になった金本を外す決断ができずに先発で使い続け、「スタメンを外してほしい」という本人の申し出を待つなど、消極的な態度が見られ「何もしない監督」のイメージが定着してしまった。 監督3年目の平成23(2011)年は、シーズン開幕時から優勝候補とみなされ、監督本人も今年は予感がすると言っていたが、東日本大震災や統一球の影響もあり、選手個々の成績もガタ落ち、4位に甘んじたため「監督としての力がなかった」という言葉を残して辞任している。 まとめ 池田さんは面白い選手だったわけじゃなく運が悪かったのね 世紀の落球なんて言われても わざと転ぶわけはないし 当時のファンのみなさんのイジメじゃない!? それで精神をおかしくするなんて きっと責任感の強いひとだったんだよ 日本一が見れてモヤモヤがすべてリセットされたんじゃないかな よかったね 真弓さんにはきっとタイガースファンのだれもが感謝してるよ トレードできて17年もタイガースのためにプレーしてくれて 成績も期待以上 優勝の年もなくてはならないトップバッターで相手をビビらせてたって 先代は「真弓ほどの身体能力と野球センスを備えた選手はほかにいないぞ」って言うけど そのとおりにおもえる どこ守ってもベストナインだしでも監督としてはおとなしすぎたかな?戦力はあったのに選手を乗せられなかっていう感じね・・・7の5に続くにほんブログ村
2023年03月09日
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♨いいお湯でした💕2代目タイガース非公式サイトです 2023年3月6日から7日にかけて城崎温泉に行ってきたんだよ 西村屋さんの本館でした 城崎で一番の老舗ねコロナ感染が始まってから温泉に行くのを避けていたんだけど収まってきたので 蟹食べようって去年の11月初めに予約したけど3月しか取れなかったのね 蟹のシーズンは3月いっぱいで終わっちゃうのでギリギリ この先は予定とれないし 城崎は去年5月にも来たけどシーズンじゃなかったので絶対来たかったのね玄関入るとまだひな壇が飾ってありました 右は喫茶室ね 館内の様子ね 文化材になるくらいの数寄屋造りでタイムスリップ 庭園もきれいに手入れされてるし 鯉のいる大きな池もあるんだ お部屋はこんな感じ 専用の露天風呂付よ❤ いつもながらお湯は最高!無色透明無臭ですっきりしてるけど芯まで温まるし肌がツルツルになるんだよね しかも長く入っててもあまりのぼせたりしないの 城崎の人はホントにお肌がきれい ここに住みたいよ~ お料理も少しご紹介 朝食は重文になってる泉霊の間でいただきました 去年5月中旬に来たときは各部屋に運んでもらえたんだけど 6月1日からここが朝食会場になったんだって 飾ってある「泉霊」の書は犬養毅元首相の真筆なのよ! この部屋のある建物は部分的に国の重要有形文化財になってるんだって 建物の配置はすごく複雑なので 廊下にあったジオラマの写真をつけておくね一番右のほうが玄関で奥行きがめちゃくちゃ長いのよ 今回は先代の車で行きました そういえば先代のラングラー替わったんだよ!前の車が たしかトランスミッションだったかな 去年の9月に破損してしまって走行不能になったのね しかも完全交換しか直せないって言われ 保証期間とかも過ぎてて修理に250万円くらいかかるって 事故じゃないから車両保険も使えなかったみたい 旧型なので交換部品も在庫がなくて アメリカから取り寄せになるんだけど 今は作ってないからライン外のハンドメイド 早くても半年くらい先にしか来ないし正確にははっきりしないとなって泣く泣く現行モデルに買い替えたのよ 輸入車(特にアメリカ車)考えてる人は気をつけたほうがいいわね 新車は予約がいっぱいで1年以上待たないと買えないけど たまたま販売店網のなかで試乗や代車に使ってた在庫車があったから 点検とか整備をして希望オプションも追加で付けて「認定中古車」としてナンバーも取り直して 1か月半ほどで納車してもらえたのね 待ってる間はレンタカー新しい車に乗せてもらうと 独特の揺れ方は相変わらずだけど前よりは少し快適になったかなあ でも先代は前の車にすごく愛着持ってて少しづつ改造したりしてたので ホントは乗り続けたかったのよきっと 今も泣いてるわ
2023年03月08日
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現役ドラフトってなあに💕2代目タイガース非公式サイトです キャンプで評価が急上昇した大竹耕太郎投手 もうみんな名前覚えたよね沖縄では実戦形式で3試合に登板しました 合計9イニングを無失点 2月25日のヤクルト戦では3イニングで5三振をとる快投にびっくりです 岡田監督も大よろこびで「ええピッチングしたなぁ、また。見ての通りやもん。それしか言いようがないわなぁ」と絶賛してるほど内容がいいの大竹投手の経歴 大竹投手は熊本県出身 名門濟々黌高校では平成2012年の夏の選手権に出て2回戦で藤浪投手や森友哉捕手のいた大阪桐蔭に負けてるわね 平成2013年の選抜大会にも出てるけど3回戦で安楽投手のいた済美高校に負けてる 両方とも大物と当たって負けてるってとこは、やっぱり何か少し持ってるのかも 早稲田大学では1年生で4勝してエース格になったんだけど・・・怪我が多くて3~4年生では勝ち星なしね けがの状況がはっきりしなかったからかな? ソフトバンクはドラフトでは育成枠で指名してます 平成2018年7月に支配下登録 この年に一軍でも11試合投げてる そのうち先発は8試合で3勝2敗 防御率は3.88 2019年はローテーションに入って17試合のすべてが先発で5勝4敗 防御率3.82と前の年より成績を上げたんだけど 夏場に二軍落ちしてそのまま終わってる 2020年から3年間は0勝→1勝→2勝なので 今年は大卒6年目28歳のシーズンになるのね この成績では微妙な立場になってきていたわけよ現役ドラフトとは では、大竹投手を獲得できた現役ドラフトってどんな制度なのかな? 参考にしたのはメジャーで行われている「ルール5ドラフト」なんだって MLB規約の第5条に規定されているからこう呼ばれるんだけど 簡単に言えば有望な選手がマイナーリーグで飼い殺しになるのを防ぐために 他のチームの現役選手を指名して獲得できる仕組みなの NPBでは2018年から議論されて2022年の実施にこぎつけました そのルールをみてみるね まず一番大きなルールから 各球団は指名対象として2名以上を提出しなければならない 次に指名対象にできない選手 ・外国人選手 ・育成契約の選手 ・シーズン終了後に育成から支配下選手契約となった選手 ・複数年契約の期間中の選手 ・年俸5000万円以上の選手(1名のみ1億円以下であれば可) ・FA権を保有 または行使したことのある選手 ・前年の年度連盟選手権試合終了の日の翌日以降に、選手契約の譲渡 によって獲得した選手 指名順の決め方などの方法はちょっと長くなるのでWIKIなどで見てね2022年現役ドラフト 2022年12月9日に初めての実施になった現役ドラフトは次の表のようになったようなの 指名順は正式公表されなかったので新聞社の推測とのことです 第1回目は各球団とも慎重になったのかなあ 一巡指名だけで終了してしまったようね これよく見ると三角トレードの結果になったのが二つあるわね 楽天(オコエ)→読売(戸根)→広島(正隨)→楽天 オリックス(大下)→ロッテ(成田)→ヤクルト(渡邉)→オリックス これって現役ドラフトの一つの成果かもしれないよ 3球団の話し合いでこんなトレードを成立させるなんて労力が多すぎて難しいもん 偶然こういう形になったんだとおもうけどこの制度の面白さかな? 来シーズンはもっとサプライズがあるかもね タイガースとしてはホントうれしい結果になったとおもう あとはシーズンで大竹投手がしっかりと働いてくれたら最高だよね 現役ドラフト第1号としていい結果を見せて! 大竹投手にとって岡田監督は大学の先輩 いいタイミングでに好い監督のところに来れてすごくやる気になってるみたい 開幕ローテ入りにグングン近づいているのは間違いないね!
2023年03月07日
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背番号7(その3)その2からの続きです金田さんのあとに引き継ぐのは 攻守好打の名外野手として コーチとしてはバース選手に左方向への打ち方を教えて大化けさせたことでも有名な並木輝男さん そのあとはちょっと知らない選手が続くのね 並木 輝男 外野手日大三高時代の並木は投手で4番打者、昭和30(1955)年の夏、同31(1956)年春と甲子園に出場しいずれもベスト8に進んでいる。早稲田大進学が希望だったが、家業が行き詰まったためプロ入りを決断、昭和32(1957)年に大阪タイガースに入団する。この時金田正泰はまだ現役で「7」を着けており、並木が最初に着けた背番号は「40」だった。入団時は内野手登録だったが左投げのため一塁しかポジションがなく、すぐに外野手に転向している。1年目から98試合に出場し300打数75安打32打点8本塁打を記録したが、3年目までは規定打席にとどかない準レギュラーだった。スター選手になったのは4年目の昭和35年(1960)からだ。引退した金田の「背番号7」を受け継いだのもこの年だ。120試合に出場して規定打席もクリア、3番に座って425打数130安打61打点11本塁打、打率.306の好成績を残し、オールスターにも初出場している。 しかし、全盛期は意外に短く、昭和39(1964)年まではレギュラーを守ったが、昭和40(1965)年になると規定打席を割り、昭和41(1966)年は98試合の出場にとどまる。このときまだ28歳だったがチームの若返り構想から外れ、なんと自由契約選手となってしまった。現役を続けるため東京オリオンズと契約。昭和42(1967)年から2年間在籍したが、合計9試合に出ただけ。30歳で現役引退した。 その後長く評論家生活をしていたが、昭和60(1985)年、吉田義男が2度目の監督に就任すると打撃コーチとして招聘され、あの新ダイナマイト打線を指導し、初の日本一達成の功労者となっている。コーチ時代は「86」を着けていた。また一塁ベースコーチとしてグランドに立つことも多かった。 令和5(2023)年1月、ランディ・バースが来日時に、「当時成功できたもっとも大きな理由は並木コーチの指導だった」と明かした。もともとプルヒッターだったバースに根気よく左方向への打ち方を教え、2年連続三冠王、日本最高打率、7試合連続本塁打など数々の記録を残すスーパー助っ人に育て上げた功績は本当に大きい。 しかし、昭和61(1986)年からチーム成績が下降しだすと、選手の起用法などで吉田監督と意見が合わないことが多くなり、昭和62(1987)年、最下位に転落したことで責任を取って辞任している。 東京生まれの東京育ち、私生活はダンディそのもので交友関係も広かった。並木の仲人は勝新太郎・中村玉緒夫妻だったという。 タイガースのコーチを退任した翌年、昭和63(1988)年9月、脳出血により急逝。まだ49歳だった。 西園寺 昭夫 内野手・外野手西園寺はタイガースファンにとってはなじみのうすい選手だろう。熊本工業時代に昭和29(1954)年の選抜大会に2年生外野手として出場、ベスト4の実績があり、卒業後社会人の東洋レーヨンに入社している。 昭和32(1957)年に東映フライヤーズへ入団。主に三塁手として10年間在籍している。昭和34(1959)年から8年間はレギュラーの座を守っており、昭和37(1962)年のタイガースとの日本シリーズでは全7試合に出ている。しかもあの優勝が決まった試合、「小山風呂事件」の試合の延長12回、村山から決勝ホームランを打ったのがこの西園寺だった。ということで、決して「なじみの薄い選手」ではなかったのである。 昭和41(1966)年、この年も134試合に出ていたが、そのオフになぜか戦力構想から外れ、翌年金銭トレードでタイガースに移ってくる。 タイガースでは昭和42(1967)年から2年の在籍で「背番号7」を着け、主に外野手や代打で起用されている。2年間の通算で163試合397打数101安打28打点、打率は.254という数字を残した。 昭和43年オフに、鈴木皖武との交換で産経アトムズ(現ヤクルト)へ移籍し、2年間プレーして引退している。 鈴木 皖武 投手西園寺とのトレードでタイガースに入団した鈴木は「背番号7」を引き継ぐが、翌年からは「13」に変更している。高校時代にオリオンズの入団テスト不合格の経験があり、卒業後東京鉄道管理局に就職して社会人全国鉄で活躍する。そのままスライドする形で昭和37(1962)年に国鉄スワローズへ入団した。 鈴木は右サイドスローの変則投手で、リリーフとして実績を積んでいく。国鉄時代の7年間で311試合に登板しているが、先発は20試合のみだ。昭和41(1966)年はリーグ最多の62試合に登板、そのうち先発は1試合、残りがリリーフだったが170回1/3も投げており、かなりロングリリーフもあったようだ。しかもこの年の防御率は2.33と出色していた。 昭和44(1969)年、西園寺との交換でタイガースに入団、1年目は39試合に登板し、16試合に先発している。先発は昭和45年が10試合、同46年も12試合あり、最初の3年間はリリーフと掛けもちで頑張った。 昭和47(1972)年からはほぼリリーフ専門となり、ファンからも「キヨタケ」と呼ばれてかなり人気があったようだ。タイガースでは6年間で22勝24敗1セーブの成績を残している。6年通算の防御率は2.57と悪くない数字だった。 金田正泰監督とは折り合いが悪く、昭和48(1973)年8月には監督を殴って1か月間の謹慎処分を受けたこともある。 昭和50(1975)年は、2対5の交換トレードでロッテオリオンズに移籍し1年間で引退している。引退後はロッテのスカウトとして伊良部秀輝を入団させた実績も残す。まとめ バースさんの口から「日本で成功できたのは並木コーチのおかげ」という証言が出て 2代目もうれしかった この功績はもっと称えられるべきね 選手としても好打者だったみたいだし 早く亡くなってしまって惜しいな 西園寺さんは全然知らなかった 貢献度は低いね 鈴木さんはファンには人気があったみたいでびっくり 若いファンはこの二人わからないでしょうね わたしもお手上げ背番号7の4に続く
2023年03月06日
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???な教育リーグ💕2代目タイガース非公式サイトです 2023年3月5日 ナゴヤ球場で行われた教育リーグ中日VS阪神を観てきたんだけど ちょっと複雑な心境なんです 報告聞いてよね それと通販で注文してあるデジカメが間に合わなかったので スマホ頼みの写真でゴメン💦 画像めちゃくちゃ荒いけど許してね 先発は 沖縄でのオープン戦を見てがっかり もう見たくないと思ってたブライアン・ケラー投手! え~っ!もういいわよ!というのが本音だったわところがね そのケラー投手が今日は好かったのよ!? コントロールがよくて ストレートが走ってるので 高めでファールフライに打ちとる場面が多かったわね 中日の選手が湿ってたので手放しじゃ喜べないけどオープン戦とは違うケラー投手だったなあ どっちが本物なのかわからない??? 3回まで投げてヒット1本の無失点 次は 高山俊選手だけど これはもうあかんわ~レフトでスタメン3番に入って4打席立ったんだけど ショートゴロ→三振→3打席目は二死一三塁で浅い外野フライ→最後はピッチャーゴロ で4タコ 芯に当たらないファウルが多いし ポイントが近くなって差し込まれるのよ キャンプの状態より悪くなってる これじゃとても一軍には行けないよ 2番手以下の投手陣はというと これがみんな好かったのよね!渡邉雄大投手 左横手投げでボールに力があるしスタミナもありそう 中継ぎで仕事しそうだ岡留英貴投手この人は岩崎投手を右投げにしたようなフォームね 鏡に映したみたい 投げ始めは横手投げかな?とおもうような感じで前かがみになるんだけど 腕の振りは上手投げで遅れて出てくるの 球威もあるので中日の選手は結構打ちづらそうだった島本浩也投手久しぶりに見たなあ 前は背番号が69のころだった ボールは走ってるしフォームもきれい 復活できるといいね!締めは岩田将貴投手写真の奥の選手ね 締めといっても3イニング投げたんだよね 意味不明??? ロングリリーフの想定なのか それとも先発でも行けるかのテストなのかな? わからなかったのよね~ フォームは青柳投手をほぼそのまま左投げにしたみたいな感じでおどろいたんだけど 青柳投手よりもっと下から手が出てくるの これは打ちづらいというか右打者も見ずらいフォームだとおもうわ 左投手でこんなフォーム見たことないなあ ちょっとほかにいないよスピードガンでは120キロ台から135キロくらいが中心なんだけど 見た目よりもっと威力がある印象でした この投手はホントに面白そう! で、中日打線は9回3安打で無得点 タイガースの出てくる投手がみんないいピッチングするので手も足も出ない感じだった というか中日の選手が調子落としてるのかもしれないけどね・・・ 今日の試合観て ファームのほうでも投手王国が出来てきてるのは感じたなあ すそ野が広いのね 楽しみ楽しみ 野手はパッとしなかったけど サードに入ってた山本泰寛選手がタイムリーも打って動きがよかったかな 背番号00の選手ね
2023年03月05日
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背番号7(その2)その1からの続きです4人目の「背番号7」は のちにタイガースの監督になる大物金田正泰さんが着けてるわよ 監督としては選手に評判が悪かったようで 殴られたこともあるんだって でもタイガースの背番号7を認知させた最初の人は この金田さんで間違いないよ 金田正泰 外野手金田は当時日本統治下だった朝鮮の出身、昭和24(1949)年に日本人女性と結婚して帰化している。京都平安中では春夏合わせて5回甲子園に出場する。左投げ左打ちで俊足の好選手だった。昭和16(1941)年に1週間ほどタイガースの松木謙次郎が平安中野球部をコーチをしたことがあり、当時キャプテンだった金田を高く評価している。その縁もあって昭和17(1942)年にタイガースへ入団することになった。最初につけた背番号は「28」。「7」に代わるのは昭和19(1944)年からだ。途中でなぜか昭和25(1950)年だけ1年間「21」を着けたが、翌年から引退までまた「7」を着けた。 戦前は3シーズン経験しているが芽が出ていない。昭和17年から19年までの3年間のトータルの数字は、170試合432打数88安打24打点4本塁打で、打率は.203に過ぎなかった。足が使えて積極的に盗塁を仕掛けているが、3年間で26回試み、成功15失敗11と成功率は高くない。 選手として開花するのは、終戦の翌年、昭和21(1946)年からだった。この年の金田は人が変わったように打ちまくり、438打数152安打61打点1本塁打、打率.347で首位打者になっている。まだ1リーグ時代で152安打は当時のシーズン最多安打の新記録だった。 ダイナマイト打線 左から2人目が金田 この年を含め、昭和30(1955)年まで10シーズン連続で100試合以上に出場しレギュラーを守り、そのうち6シーズンで3割をこえている。しかしながら、二けたの本塁打を打ったのは現役中に1シーズンしかない。在籍16年、実働15年の通算では、1476試合5354打数1527安打568打点55本塁打、打率.285という立派な成績を残している。もっぱら1番を打つことが多かったが、俊足は盗塁よりも、広い甲子園を十分に生かした三塁打に現れており、通算103本という数字は、2023年現在でも、福本豊の115、毒島章一の106につぐ歴代3位の大記録だ。1シーズンに18本(これは現在もNPB最高記録)も打ったことがあるだけにベースランニングも上手かったと想像される。昭和31(1956)年は、有名な「藤村排斥事件」の首謀者とみなされ、出場機会が失われていき、翌昭和32(1957)年を最後に現役生活を終えている。 引退の翌年、昭和33(1958)年には二軍監督に就任、翌年途中から一軍コーチとなっている。この2年間も背番号7を引き続き着けていた。昭和35(1960)に一軍監督となって背番号は「30」に代わる。この番号はタイガースでは創設以来金田まで、監督が着ける番号だった。 この年はなんとか3位Aクラスで終わったが、翌昭和36(1961)年は開幕からチーム状態が悪く最下位を低迷する状態になり、6月6日に球団から「休養」を命じられて事実上の退任、シーズン終了後に退団し評論家生活となる。 昭和47(1972)年、プレーイングマネージャーとなった村山監督の強い要請でヘッドコーチに就任し、ここから3年間「73」を着けた。開幕から波に乗れない村山監督が4月21日に指揮権を返上して現役一本に絞ると宣言したため、事実上の監督となる。ただし、表面上の監督はあくまで村山のままだった。成績が5割に戻った5月13日に金田は指揮権を村山に戻すことを球団社長に申し出たが、戸沢一隆社長は受け入れず、そのままシーズン終了まで金田に事実上の指揮をとらせた。 一方の村山はこのシーズンを最後に監督を辞任、現役も引退する。これが金田に追い出されたように見える形となったため、藤井栄治、権藤正利、江夏豊などの村山シンパから反感を買うことになる。 昭和48(1973)年、正式に監督に就任した金田は、ペナントレースでは首位から最下位までが6.5ゲーム差のなかにひしめく混戦で優勝争いを展開した。そんな中で村山シンパの選手たちとは冷え切った関係になり、特に権藤、藤井、江夏とはお互いにマスコミを通して批判を言い合うほど関係が悪化していき、逆に上田次郎をかわいがって偏重に扱うようになる。 残り2試合でマジック1となった10月20日の中日戦、金田監督は中日キラーの上田ではなく江夏を先発に起用し、2-4で敗れる。1日空けて甲子園でのシーズン最終戦、巨人の高橋一三の前に散発4安打完封負け。目の前で巨人の優勝が決まった。 胴上げを阻止しようと観客がグランドになだれ込み、巨人の選手に暴行を加えるなど球場は大騒乱状態になったため巨人は胴上げができず宿舎に帰った。なんとも後味の悪い幕切れだった。 中日戦で江夏、巨人戦で上田という起用は、様々な批判や論争を巻き起こしたが、金田は首脳陣と相談の上「後半戦の上田は不調で大きく負け越しており、エースである江夏の実績とプライドに賭けた」と言っている。また江夏も「大事な試合では勝ち星の多いほうを選ぶのは当然。自分の先発が間違っていたとは思わない 打たれた自分が悪い」と語っており、この一件に関しては「決してわざと負けようとしたわけなどない」と両者納得しているようだ。 シーズン終了後、11月23日のファン感謝デーで権藤が金田に対し暴言の謝罪を求めたが応じられなかったため殴りつけるという事件が起きる。権藤はそのまま引退を宣言。藤井栄治はトレードされる。 権藤を慕う江夏はこの件で「金田監督とは一緒に野球ができない」と言ってトレードを志願するが、球団は認めず残留、金田監督も翌年の指揮を執ることになる。 昭和49(1974)年のシーズンは出足好調だったが失速して4位。史上最低勝率だったこともあって退任する。 この年、入団一年目の掛布雅之を周囲の反対を押し切って一軍で積極的に起用して定着させる。ドラフト1位の佐野仙好とサードのポジションがかぶっており、1位を差し置いて6位の掛布を使うことにはフロントからも強い批判が出たようだが、金田は無視して使い続けた。 もちろん金田が見た第一印象も「体も目立って大きくないから、正直なところ2、3年ファームで体を鍛えて、いずれ守備要員でもなればと、そういう感じの選手でしたな」というものだった。しかしすぐに掛布の資質を見抜いて、批判されながらもシーズンで使っていった金田の目は確かだった。掛布ものちに「金田監督がいなかったらのちの自分はなかった」とまで語っている。 塩見栄一 投手塩見はすでに背番号5で紹介している。タイガース背番号史 5の2 | タイガース非公式サイト2代目 - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)2年間「5」を着けてのち、昭和25(1950)年に1年だけ「7」を着けたが理由はよくわからない。結局この年は一度も公式戦登板はなく、そのオフに引退。 まとめ 金田さんは監督としてのほうが色々あったようね でも現役の成績もりっぱだね 三塁打が多いのは驚き 甲子園にラッキーゾーンができたのが昭和22(1947)年5月26日だったんだよ この時からグランドは狭くなってるんだけど 金田さんは三塁打を打ち続けてるのね 18本打ったのもゾーンができてからなの 先代は「ラッキーゾーンのフェンスは金網だったからクッションボールが跳ね返ってこなかった」っていうのね だからかえって三塁打は増えたんじゃないかって へえ まあそうかもしれないねってことにしとこう 塩見さんについては活躍してないからよくわからないさて 明日3月5日はナゴヤ球場へ教育リーグの中日vs阪神の試合を見に行く予定 ナゴヤドームはWBC練習試合で盛り上がったけど行けなかった 明日は開幕をファームで迎える可能性が高い選手が中心になるとおもうけど 期待をこめて観てくるね!
2023年03月04日
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背番号7(その1) 今回から背番7に移りますざっと見てみたんだけど この背番号は長く着けた人もいるし 移籍がらみの大物も多いの 「6」は内野手が多かったけど「7」はポジションにはあまりこだわってない番号ね だって最初がピッチャーよまずは球団創成期からみていくね 村田重治 投手初代背番号7は村田重治。東京京橋商業の出身で東京市役所職員だったが、野球選手としての村田を高く評価していた当時の法大監督藤田信夫が若林忠志に推薦したことで大阪タイガースに入団した。タイガースでは昭和11(1936)年秋にたった1試合4イニング投げただけである。0勝0敗で防御率2.25というのがタイガースでの全成績。 その後昭和12(1937)年は大東京軍~ライオンと移籍し、この年限りで辞めている。2年通算でも6試合、0勝1敗18回2/3で自責点10、防御率は4.74だった。 広田修三 捕手村田の次に背番号7を着けたのは広田修三。広島県の松本商業(現瀬戸内高校)の出身で、広島専売局を経て昭和11(1936)年に名古屋金鯱軍創設に参加したが、ほとんど出番がないことを不服としてすぐに移籍を希望。同年半ばに石本監督が引っ張って大阪タイガースに移籍する。タイガースにとって移籍入団第1号の選手だ。昭和12(1937)年春から試合に出ているが、金鯱軍にいた時より出場数は減った。昭和14(1939)年までタイガースに在籍した3年間の通算で56試合102打数15安打10打点1本塁打、打率は.147という寂しい記録しか残せなかった。強肩の捕手だったが打撃に見るべきものがなかったようだ。昭和15(1940)年にライオン(のち朝日軍)移籍し、5年間プレーしたが昭和19(1944)年オフに引退した。 松尾五郎 外野手松尾は佐賀商業を卒業したのち満洲にわたり、大連実業団に入って松木謙二郎と同僚となる。その縁があって昭和15(1940)年に松木の誘いで大阪タイガースに入団し背番号7を着けることになった。昭和17(1942)年まで3年間プレーしたが、通算133試合382打数87安打41打点で本塁打は0。打率.223という成績だった。3年目に最も多い58試合に出ており安打・打点ともに自己最多、盗塁数も増え、まだこれからだったが昭和18(1943)年に軍へ召集され、復員してもプロ野球には戻らなかった。戦後は、地元の杵島炭鉱に入り、昭和27(1952)年と昭和28(1953)年の都市対抗野球に出場している。 まとめ まとめるといってもこれはどうしようもないなあ 一生懸命写真も探してみたけどほとんど残ってないし この時期はプロ野球そのものが始まったばかりで 手探りしてたんじゃない? 食べていけない人もいたかも すぐやめたり1年で移籍したりと落ち着きがないようだけど仕方なかったとおもう そこへ戦争という邪魔が入ったのも痛かったんだよね プロ野球が創設されたのが昭和11年だから 次の年には中国での戦争が始まったし タイガースの3選手も知らない人ばかりだけど ちゃんと歴史の記録にとどめてあげないとかわいそうね
2023年03月03日
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投手陣好い感じ💕2代目タイガース非公式サイトです 録画してあったキャンプ中の練習試合なんかの映像をざっと見てみたんだけど、若いピッチャーは好さそうね 映像で見れた人の印象を書きます 湯浅京己投手 時間をかけて育ててきただけに もう一人前になってるね とにかくスピードがでるのが絶対的な強み 今年は160キロ出すかもしれない ピンチにも動じないハートも持ってる 堂々と真っ向勝負ができるピッチャーね 今年はストッパーにまわるのかな? WBC栗山監督はどこで使うんだろう?とにかく怪我しないように! 才木浩人投手 日本ハムとの練習試合ではスピード キレ 伸びのどれも抜群に好く4回で6奪三振 コントロールも好くて抜け球もなく ストレート系は常時150キロ以上が出てるし バッターの手元でも球速が落ちない シーズンでもかなり三振が取れそうね テイクバックのときの右腕の位置が変わった?オリックスの山本投手のように下向きに下げる感じでバッターから握りが見えにくくなって・・・気のせいかなあ? 西純矢投手 スピードは相変わらず出てるしボールの伸びがバンパない ストレートの質は もう引退しちゃったけど松田遼馬さんが好かったころに似てきた感じにみえるよ 「えぐい球」って言われてたよね もう一つ気が付いたのは 大きく落差のある120キロ台のカーブを使ってること メッセンジャー投手がカウントを稼ぐのに得意にしてたカーブに似てる 映像で見た西君もそういう使い方してました ストレートが速いだけに緩いカーブは効果あるからね 勝ち星は去年の6勝から二けたに増えるんじゃないかと期待しちゃうよ 浜地真澄投手 このピッチャーもストレート速いね 解説では「下半身の使い方が好いので体重の乗った重いボールがきてる」って評価です 度胸もあるし 去年中継ぎでいろんな場面を経験して自信もついてる 中継ぎで使いたくなるタイプになっちゃてるんだけど 先発でも行ける気がするんだ でも監督さんはストッパーを任せてみたいとおもってるようね どんどん追い込んでいくし四球出すタイプではないので抑えに向いてるかな 岩田将貴投手中継ぎとしての戦力になれるか勝負の年かな トルネードをとりいれた投球フォームの流れのなかで緩急をつける独特なサイドスロー 小さな動きで2段モーションや3段モーションを器用に使い分けてるこれはうまく嵌まった時はいいけどリリースポイントがズレだすと制球が定まらなくなる両刃の剣ね映像から見た印象では 大事な場面で投げさせるのはまだ怖い でもスライダーのキレはすごく感じるので化けたらいいなあ 今はフォームを固めるのが課題かな 投手陣はいい感じなので、みんなが怪我なく1年間投げてくれたら優勝は可能な戦力だとおもう 外国人投手にあまり期待しないでもよくなってきてる
2023年03月02日
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背番号6(その6)その5からの続きですホワイト選手が1年で6番にドロを塗ったけど そのあとは金本さんが挽回してくれた 監督としても着けたよね今日現在までで背番号6を着けた最後の人が金本さん ということでいちおう「6」の最終回だよ 金本知憲 外野手金本は野球の名門広島の広陵高校を卒業後、一年浪人したあと東北福祉大学へ進む。大学時代は佐々木主浩や矢野輝弘、斉藤隆などのちにプロで活躍する選手たちとともに活躍し、平成4(1992)にドラフト4位で広島東洋カープに入団した。広島時代の11年間は背番号10。もともと線が細くシーズンを戦い抜く体力も不足しており、ゴロを打って足で稼げと言われる程度にしか見られていなかったが、身体を鍛えることで3年目から変わっていく。 平成6(1994)年、90試合に出場し257打数69安打43打点、打率.268を記録して主力選手へ近づいた。特に17本塁打を打ったことでそれまでの金本のイメージが一新された。この年が初の二けた本塁打だが平成23(2011)年まで実に18年連続で二けたを打ち続けていくスラッガーの誕生だった。 広島に在籍した11年間のなかで、平成12(2000)年にトリプルスリーを達成し三拍子そろった好打者の地位を確実にすると、翌平成13(2001)年には1000試合出場と、もはや広島でやり残したことはないという状況になった。 フルイニング連続試合出場が始まったのも広島時代で、平成11(1999)年7月21日の阪神18回戦が起点となっている。 金本は平成14(2002)年にFA権を取得、広島と前交渉を行った。ここでは球団が「FA権を行使しての再契約による残留」を認めない意向を曲げなかったため、結局FA権を行使して他球団へ移籍する方向になった。 タイガースの星野仙一監督は、濱中が成長過程とはいえ、チームの柱となる選手がいない現状に鑑み金本獲得に全力を注ぐ。「プロ野球全体のこと考え、タイガースに来てくれ」と口説き落とし、金本も熱いものを感じてタイガース入りを決断した。 広島で11年間着けていた背番号10はタイガースでは永久欠番だった。そのかわり、藤田や和田のように中心選手としてチームを引っ張ってほしいと請われ「6」を着けることになる。 平成15(2003)年、タイガース移籍1年目は3番に固定され、金本もその役割を意識して18盗塁を記録、赤星の盗塁との絡みもあって早打ちも控えボールをよく見てリーグ最多の93四球を選んでいる。532打数154安打77打点19本塁打で打率.289という数字はやや物足りないが、FA移籍1年目のプレッシャーを差し引けば十分な貢献と言える。 金本の加入は大きな成果で、この年のタイガースはリーグ優勝。ダイエーホークスとの日本シリーズは3勝4敗と惜敗したが、金本は第4戦のサヨナラを含むホームラン4発を放っている。 平成16(2004)年、新監督に就任した岡田彰布は金本を4番に据える。期待に応え打率.317、ホームラン34本と1年目のつなぎ役ではなく長打力を発揮したポイントゲッターに変貌、113打点王でタイトルを獲得している。 平成17年(2005)年は、キャリア唯一の大台越えとなる40本塁打、これまたキャリアハイの125打点、打率.327と三冠王並みの数字を残し、リーグ優勝の立役者として大活躍の年となった。もちろん文句なしでリーグMVPに選ばれている。 平成18(2006)年4月9日の横浜戦でカル・リプケンの世界記録を抜く904試合連続フルイニング出場の新記録を達成する。 これは平成22(2010)年4月17日の1492試合まで続け世界の大記録となる。この年、キャンプ中に痛めた右肩が回復しないままシーズンに入り、外野からカットマンへの返球すら困難な状態になったことから、「チームのために外してほしい」と自ら真弓監督にスタメン落ちを申し出たことでフルイニング連続出場記録が途絶えた。 骨折しても打席に立つなど「鉄人」そのものの執念で出続けた結晶。これはもう誰も抜くことのできない記録と言っていいのではないか。 また、連続試合出場のほうは平成23(2011)年4月14日まで続いて1766試合を記録している。これは衣笠祥雄の2215試合、鳥谷敬の1939試合に次ぐ第3位の記録である。 右肩の負傷は尾を引き、バッティングにも影響して成績は低迷、平成24(2012)年9月12日に現役引退を表明した。この年の6月に1500打点と2500安打を記録して大きな節目を超えたことで、区切りがついたかもしれない。 3年間評論家として外から野球を見ていたが、平成27(2015)年10月17日にタイガース新監督を受諾。3年間空き番になっていた「背番号6」を再び背負う。 しかし、監督初年度の平成28(2016)年は4位、平成29(2017)年は2位に上がってクライマックスシリーズに進出するもファーストステージ敗退、そして平成30(2018)年は何をやっても上手くいかず17年振りの最下位に転落して5年の契約期間満了を待たずに辞任した。 金本監督の辞任後、令和元年から令和5年(2023)年現在まで、背番号6は空き番のままになっている。タイガースにとって意味深いこの番号を次に背負うのは誰か、注目していきたい。まとめみなさんお疲れさまでした金本さんはホントにタイガースに貢献してくれたよね 2003年と2005年の優勝は金本さん抜きではできなかったんじゃない? 成績が毎年高レベルで安定してたもん先代の本文には書かれてないけど罪なのは俊介選手だったよね 肩の負傷のとき練習中にぶつかった相手が俊介選手でこれがフルイニング連続の断念につながってる 連続試合出場をとめた盗塁失敗も俊介選手 広陵高校の後輩でかわいがってもらってたんだけどねえ俊介選手も不本意だったろうな~ 二度もねえ・・・ さて背番号6はこれでおしまい 次は「7」なんだけど今年(2023)は新外国人のノイジー選手が着けてます 若い番号だけに過去には多くの名選手が着けてるよ 楽しみにしててね背番号7へ続く
2023年03月02日
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恵中瞳スケジュール💕2代目タイガース非公式サイトです このブログ2023年2月19日の記事(ひとみん | タイガース非公式サイト2代目 - 楽天ブログ (rakuten.co.jp))でご紹介したひとみんのスケジュールが公表されてるよ でもポスターのイラストの顔なんとかならないの?全然かわいくない! それとねえ カレー1皿で聞けちゃうライブも・・・ちょっと軽すぎない?ひとみん少しかわいそうな気がするんだけど・・・ 高校時代にはバンドを組んでボーカルとキーボードをやってたようで 楽器もあつかえるんだ 生で聴いてみたいんだけど なかなかねえ・・・秋葉原スープカレーカムイ2号店開店記念《ミリオンキッス》インストアライブ♬恵中瞳・カンパーニュ楓魅惑のガールズデュオ《ミリオンキッス》がスープカレーカムイ2号店の柿落としイベントに出演!2023年4月1日(土曜)秋葉原スープカレー2号店15時 18時(2回公演)観覧無料(カレーをご注文下さい)ご来店をお待ちしています恵中瞳スープカレーカムイ2号店インストアライブ2023年4月16日(日曜)秋葉原スープカレーカムイ2号店15時 18時 (2回公演)観覧無料(カレーをご注文下さい)スープカレーのマエストロ・諸橋宏明が奏でる繊細にして濃厚な至高の逸品《ひとみん》の歌唱と併せて、お楽しみ下さい[恵中瞳 小樽公演]《恵中瞳&なさジョイントライブ》『恋はみどりの風の中』2023年5月20日(土曜)Live cafe 小樽ありがとう18時開演(17時30分開場)入場料2500円(1ドリンク付き)演歌第七世代の新星★恵中瞳と世界的なサックス奏者●なさが夢のコラボレーション!道内の皆さまも遠方の皆さまも薫風の北海道・小樽で素敵なライブをご堪能下さい [恵中瞳 札幌公演]《恵中瞳&なさ ジョイントライブ♬》『Life is marching on!』カカオヴォイスの歌姫[ひとみん]こと恵中瞳とニューヨークと矢沢永吉が認めたサックス奏者なさ異色異彩の2人が奏でる夢のコラボレーション♬2023年5月21日(日曜)札幌Cafe&BAR Radio&Records18時開演 入場料2000円(+1ドリンク)リラ薫る札幌で珠玉のエンターテイメントを満喫しましょう♪ 恵中瞳レコ発キャンペーン2023年5月28日(日曜)中野名曲堂(中野ブロードウェイ2階)15時開演入場料2000円(コーヒー、ケーキ付き)創業50年を超える老舗レコード店でのインストアライブ♬ゆっくり観覧出来る40席アットホームな雰囲気ご来店をお待ちしています恵中瞳インビテーショナルライブ♪『ひとみんスクーターナイト』2023年9月29日(金曜)蒲田ニューエイト(蒲田駅東口徒歩3分)17時開演予定入場料2000円(+1ドリンク)[出演]恵中瞳 他[MC]南雲一範ご来場をお待ちしています 名古屋にも来てほしいなあ・・・そうそう 六甲おろしはこのアルバムに入ってるよ! 恵中瞳/鳥 (<CD>) [ 恵中瞳 ]価格:2200円(税込、送料無料) (2023/2/28時点)ヤマゼン 炊飯器 1.5合 マイコン ブラック YJG-M150-B価格:4620円(税込、送料無料) (2023/3/1時点)
2023年03月01日
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