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その2からの続きです
マット・キーオ 投手
川藤が16年間背負ってきた背番号4を受け継いだのは、外国人助っ人投手のマット・キーオだ。
メジャー9年間で5球団を渡り歩き58勝84敗、防御率4 . 17という数字をみても、ほとんど毎年負け数が勝ち星を上回っており、二けた敗戦が4シーズンもあった。
父親のマーティ・キーオが昭和43(1968)年に1年間だけ南海ホークスの外野手としてプレーした関係で、少年時代に来日経験がある。

タイガースには昭和62(1987)年に入団、1年目は27試合にすべて先発として登板しローテーションを守って二けた勝利を挙げたが、チームは最下位、キーオも11勝14敗と負け越しに終わっている。
日本一になった昭和60年を引き合いに、「阪神に行けば打線の援護で楽に勝てるぞと言われて来日したのに話が違う」とお冠だった。
しかし、2年目の昭和63(1988)年には12勝12敗の五分に、さらに平成元(1989)年には15勝9敗と勝ち越してエースと呼べる働きをしてくれた。
キーオの最大の武器は、右打者の体に向かってからググっと曲がって外角に決まる大きなカーブだ。実際に読売の原辰徳はキーオを苦手にしており、体に当たると直感して大きくのけぞってよけたボールが外角に決まり、その切れ味に呆然としていた。
4年目の平成2(1990)年、プレシーズンのオープン戦での負傷がたたって7勝9敗に終わり、シーズン終了後自由契約となった。
バッキーにあやかって4番を着けたキーオはタイガースで通算45勝44敗の成績を挙げ、急激に弱体化したチームをよく支えてくれた投手だった。もう何年かは計算できたと思うが、中村監督の好みではなかったらしい。
キーオは令和2(2020)年5月1日に64歳の若さで亡くなっている。晩年は交通事故や飲酒トラブルで警察沙汰になるなど、酒による影響があったようだ。合掌。
山脇光治 内野手
さて、キーオが去った翌年、平成3(1991)年から4番を背負うことになったのは内野手の山脇光治だった。
山脇は昭和56(1981)年にドラフト外で浪商から入団、投手だったが入団後すぐ内野手に転向する。当初の背番号は64で7年間、昭和63(1988)年から3年間は36番、そして平成3年に4番に変わり引退する平成7(1995)年まで5年間着けた。

内野の守備力は「安藤二世」と言われたほど定評があり、サード・ショートを中心にセカンドもこなせるバイプレーヤーとして長く貢献した選手だった。
平成元(1989)年4月26日に放ったプロ初ホームランが満塁弾だったこともあり、バッティングへの期待も高まったが、打力は伸びず、在籍15年間の通算で打ったホームランはわずか3本に終わった。
引退後は、平成27(2015)年までの長きにわたって、守備走塁コーチやスコアラーなどを務めた。
横谷彰将 外野手
山脇の引退後、平成8(1996)年は1年間だけ横谷彰将が4番を着けている。
横谷は国士館大から熊谷組を経て、昭和63(1988)年にドラフト5位で横浜大洋ホエールズに入団した選手で、平成7(1995)年のシーズンを最後に自由契約となったところをタイガースがテストを経て獲得した。
平成2(1990)年6月30日の阪神戦でプロ入り初ホームランを打っているが、その時の相手投手がマット・キーオで、その背番号を受け継いだ形だ。
まとめ
バッキーから川藤、キーオまで、「4」は好い背番号として定着していくかに見えたが、その後ちょっと躓いた感じになってきた。この後、どのように変遷するだろうか。
その4に続く
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