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チョーサン8278さんFreepage List
背番号6(その5)
その4からの続きです
藤田平が19年もつけてた6番 その後は誰が着けたんでしょう?
みなさんご存じよね そう和田豊さん 同じショートの選手です この人も現役時代ずっと6番を通してる そしてその次は金本さん! かと思ったら1年だけ外国人選手が挟まってるのね
和田豊 内野手
和田は千葉県我孫子高校の1年時にサードとして夏の選手権に出場、日本大学に進むとショートを守り、3年時には東都大学春のリーグ戦で首位打者になっている。また4年時にはロサンゼルス五輪の代表入りし金メダルを獲得した。
ただ、和田本人は教員になって高校の野球部で甲子園を目指したいという夢があった。ところが五輪代表になって教員試験が受けられず、ドラフトでタイガースに3位指名されたためプロ入りすることになる。引退した藤田とちょうど入れ替わりの入団で、守備位置もショートということで自然に「背番号6」を引き継いだ。
入団した年は昭和60(1985)年。あの猛打炸裂で日本一になった年だった。バース、掛布、岡田、真弓などが居並ぶ強力打線を目の当たりにして、バッティングが非力な和田は「大変な世界に入ってしまった」と自信喪失するほどの衝撃だったという。
とはいうものの和田は1年目から公式戦に出ている。7月に一軍ヘ上がると39試合で49打数16安打2打点を記録しているが、すべてシングルヒットなのが和田らしい。
2年目は8試合、3年目は54試合、なかなか一軍戦力になれなかったが、監督が村山実に代わった昭和63(1988)年にブレイクする。
大野久・中野佐資とともに「タイガース少年隊」としてショートに抜擢された和田は、2番打者として当時の日本新記録となる56犠打を記録する。我慢して使ってくれた村山監督には感謝しており、この年から平成10(1998)年までレギュラーの座を守った。
平成11(1999)年に野村監督が就任。このとき和田は記者の質問に「監督が代わっても僕たちは変わらない」と答えたことが野村監督の耳に入り、干されていくことになる。
和田としては「どの監督になっても、自分たちが努力することに変わりはない」というニュアンスで言ったつもりだったが、野村には「監督の言うことを聞かず、各々勝手にやる」のように聞こえてしまったようだ。野村から「変わらないからチームが弱いままなんだ」と叱責を受けている。
本人の体の衰えも重なって出場機会は減っていき、平成13(2001)年には打撃コーチ兼任となる。どちらかと言えばコーチ業のほうに重きを置かなくてはならなくなり、自分の練習時間が減ったためますます打力が落ち、シングルヒットすらなかなか出ない状況に追い込まれていく。一軍コーチでありながら選手としては二軍落ちという屈辱的な立場も味わった。
コーチ兼任を解いてもらい、完全に選手に専念してあと1年現役でやりたいと訴えたが認められず、この年に引退した。
現役生活17年間「背番号6」で通し、通算1713試合、5972打数1739安打403打点29本塁打、打率 . 291という立派な成績を残している。和田は入団した年にリーグ優勝・日本一を経験し、現役時代にもう一度くらいは優勝できるだろうと思っていた。しかし、それを見ることなく引退し、2年後にコーチとしてリーグ優勝にかかわることになった。
引退後はそのまま打撃コーチとしてチームに残り、星野監督、岡田監督、真弓監督の下で若手指導や参謀役として仕えている。コーチから監督時代は一貫して背番号86を着けた。
平成23(2011)年10月、真弓監督が退任すると、内部昇格の形で一軍監督に就任。ドラフト会議では競合した藤浪晋太郎を引き当て話題となった。
平成26(2014)年にはリーグ2位ながら第1ステージで広島を1勝1分けで倒すと、第2ステージの巨人に4連勝して日本シリーズに進出。一気に日本一かと期待されたが、ソフトバンクには1勝4敗と粉砕された。
平成27(2015)年、リーグ成績は3位だったものの勝率は5割を切って退任する。和田がすごいのは昭和60年の入団以来31年間、一度もタイガースのユニフォーム脱いだことがなかったことだろう。
その後も球団にかかわり続け、シニアアドバイザー、テクニカルアドバイザーを経て、令和5(2023)年、二軍監督として現場に復帰して、また背番号86を着けている。
デリック・ホワイト 外野手
和田が引退した翌平成14(2002)年に背番号6を着けたのがデリック・ホワイトで当時33歳だった。
メジャーで大した成績を残せず、韓国やメキシカンリーグでプレーしていたホワイトは、春季キャンプの半ばにテストを受けてタイガースに入団する。
容貌がボクシングの世界ヘビー級王者だったマイク・タイソンに似ているとして、「虎のタイソン」とニックネームがつけられた。
実際に使ってみると、ダウンスイングのグラウンダーでゴロが多い。パワーがあっても打球が上がらないので必然的にホームランは少ない。開幕当初は連日ヒットが出て期待されたが、手首や足に慢性的な痛みを抱えており長続きしなかったため、田淵幸一打撃コーチも匙を投げる。
結局は73試合で220打数50安打21打点7本塁打の打率 . 227という成績で戦力外となり、1年でタイガースを去った。
まとめ
藤田さんの19年に続いて和田さんが17年 ふたりあわせて36年間も「6」を背負っていたんだね 特徴はちがうけど二人ともいい選手
藤田さんは天才タイプだったけど和田さんは努力家かな でもたぶん自分の能力をわかってたのよね 大きいのは打てないって だからわきに回ってバントとかでチームを支えたんでしょう
監督を4年やってるし真面目な人格者だとおもったら、週刊誌の不倫報道で赤っ恥 選手の前で陳謝したこともあるの 隅に置けないわね
ホワイト選手はいつものことね 打てない人が多いのよタイガースの外国人選手は
でもこの人はテスト入団だったので安く済んだんじゃない? えっ 2000万円? けっこうもらえるのね ちょっと心外かな
その6に続く![]()
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