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チョーサン8278さんFreepage List
「背番号13」の 2 回目よ
とにかくパッとしない番号だったのは確かね この回で登場する選手は4人いるんだけど 2代目は一人も知らなかった 先代の下書きもあまり詳しくはないのよね というより資料とか見つかんなかったんだって
なのでWIKIに出てる程度しか書けないわ しかも4人とも一生懸命探しても写真が見つかんないのよ 文章でしか表現できないのでなるべく詳しく記述するね
タイガースの歴史において在籍した選手はすべて顕彰していこうというのがこのカテゴリーの趣旨なので 今回埋もれた選手を4人まとめて紹介できるのは好いことだとおもうのね 皆さんも改めて歴史を感じてくれると嬉しいな
横地由松 ( よこちよしまつ ) 内野手
横地は愛知県の愛知商業出身。1957(昭和32)年の選抜にはキャプテンで4番ショートとして出場したが初戦で敗れている。
プロ入りは1958(昭和33)年、地元の中日ドラゴンズに入団している。高卒1年目に7試合に出場すると、2年目には64試合、さらに3年目には84試合にでている。
3年目は内野のすべてのポジションをこなし、プロ入り初を含む2本塁打、156打数28安打15打点を記録したが、打率 . 210で打撃面での評価は低く、出場が年々増えているのにも関わらず、シーズンが終わると交換トレードでタイガースへ放出されてしまった。
タイガースにおいてもそうだが昭和30年代ころの高卒選手の見切りは速く、横地のようにプロ入りわずか3年21歳でトレードに出されるようなケースは結構あったようだ。今では考えられない。
1961(昭和36)年、タイガースへ移っての背番号は「38」。1年目は守備力を買われ、プロ入り後の本職であるセカンドのほかショートでも起用され57試合に出場したが、所詮は鎌田―吉田の鉄壁の二遊間の控えに過ぎず、翌1962(昭和37)年は安藤統男が入団したことで完全に居場所がなくなり12試合、1963(昭和38)年が27試合と出場機会は大幅に減少する。
1964(昭和39)年には背番号を「13」に変更してみたが、わずか2試合と出場数が減ってしまい、引退に追い込まれた。まだ25歳だった。
久代義明 捕手・外野手
兵庫県の強豪校三田学園の出身。高校時代には強肩・強打の捕手として「野村2世」と評判も高く、1961(昭和36)年、期待されてタイガースへ入団する。最初の背番号は「48」だった。
しかし当時はヒゲ辻、ダンプ辻、山本哲、谷本など力のある捕手がひしめく状況で、高卒新人の入り込む余地がなく、1年目2年目は一軍に上がれなかった。
初出場は3年目の1963(昭和38)年だったがわずか1試合、しかも捕手ではなくファーストの守備に就いている。1964(昭和39)年もわずか2試合の出場にとどまる。
1965(昭和40)年には背番号「13」に変更してみたが一軍での出場がなかった。「13」を背負ったのはこの年だけである。
1966(昭和41)年には背番号を「39」に変更するも出場は7試合。1967(昭和42)年はウェスタンで12本塁打31打点を記録し、いずれもタイトルに輝くほど打力は向上していたが、一軍では6試合しか使ってもらえなかったうえに、この年のオフにはサンケイ・アトムズ(現ヤクルト)に放出されることになる。
タイガースには7年間の在籍で16試合に出ただけに終わっている。通算22打数7安打4打点0本塁打というのが打撃成績だった。
移籍したアトムズでは9年間プレーし、在籍通算210試合300打数59安打28打点7本塁打の記録を残している。
1980(昭和55)年から1983(昭和58)年にはタイガースに戻り、二軍バッテリーコーチや虎風荘3代目寮長などを務めた。
大倉英貴 内野手(再掲)
この選手は背番号1-2でわずか3行でしか掲載されていないので、あらためて経歴を含め再度詳しく紹介する。
広島県出身で広島商業時代はエース。芝浦工業大に進学するとバッティングの素質を買われて内野手に転向したが守備のセンスがなかった。
2年生から4番を任され、73試合で244打数69安打23打点6本塁打の打率 .
283をマーク。在学中に2度の首位打者(いずれも4割越え)に輝いている。
1966(昭和41)年秋の、2次ドラフト2位でタイガースへ入団し1年間空き番になっていた背番号「13」を着ける。
ルーキーイヤーの1967(昭和42)年には21試合に出場し、初本塁打や初打点も記録する。
2年目の1968(昭和43)年は背番号を「1」に変更しているから、かなり期待されていたものと思われる。しかし、
この年はわずか8試合の出場でヒットすら出なかった。
翌1969(昭和44)年にはサードのレギュラー取りのチャンスを与えられて119試合に出場し、336打数80安打26打点7本塁打で打率 .
238の数字を残すも、シーズン19失策を記録し守備面での向上が見られなかったのは痛い。内野手は
守備が上手ければいろいろ生きる道はあるが、そうでないと
なかなかレギュラーを獲れないという典型的な選手だった。
1970年(昭和45)には一時的に藤田平がサードに回るなどポジションが無くなって51試合の出場にとどまり、控え選手に戻ってしまう。
1973(昭和48)年には出番が34試合67打席に激減し、このオフに引退する。中距離打者としてのバッティングの才能は持っていたが、レギュラーを取るほどの守備力がなく大成できなかった惜しい選手。今なら代打の切り札などにもなれたかもしれない。
奥田敏輝 投手
大阪府桜塚高校出身。高校時代には夏の県予選で6試合を完封し58回1 / 3連続無失点の記録を残している。その中には大阪学院高校の江夏豊と投げ合った準決勝の1-0の完封勝利も含まれる。それでも決勝では敗れ惜しくも甲子園出場はできなかった。
1966(昭和41)年秋のドラフトで5位指名を受け、仲のいい江夏も1位で入団するということで明治大進学の話も辞退してタイガースに入団する。最初の背番号は「30」だった。
ルーキーイヤーの1967(昭和42)年は一軍登板がなく、初登板は2年目の1968(昭和43)年だった。この年7試合に登板しているが勝ち負けはなく防御率も4点台とみるべきものがなく終わっている。
1969(昭和44)年、背番号を「13」に変更し、オーバーハンドからスリークォーターに変えてブレイク。ウェスタンリーグで15勝を挙げて最多勝に輝く。
しかし、一軍登板はわずか2試合にとどまり、この年を最後に一軍で投げることはなかった。
背番号も1971年には「32」、1972年には「48」に代えたりとゲン担ぎもしてみたが効果はなく72年限りで引退。
高校時代の奥田のピッチングを知る江夏が「(奥田は)プロ初登板のサンケイ戦で、いきなりロバーツに2打席連続ホームランを打たれてからノイローゼのようになり、後々まで影響した」と語っている。一軍で投げるときはトラウマとなって恐怖症のような感覚に襲われたのかもしれない。
まとめ
それぞれいろいろあるけど やっぱりパッとしない4人よね そもそも背番号「13」を着けてた期間が短いのよ!
横地さん 1年(プロ最終年だけ)
久代さん 1年(プロ5年目の1年だけ)
大倉さん 2年(ルーキーから2年間)
奥田さん 2年(プロ3年目から2年間)
この時期(昭和30年代後半から40年代前半)は誰も「13」に定着する選手がいなかったってことなのね
そもそも「13」を着けてた年に一軍の試合にほとんど出てないから、ファンがこの背番号を目にする機会も滅多にないわけよ(空き番になってた年も2年あるし) だから存在しない番号みたいなものよね
タイガース背番号史 35-4 2025年11月14日 コメント(4)
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