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チョーサン8278さんFreepage List
背番号16(その2)
背番号16の第2回目です
さあ今回も「へーっ!聞いたこともないよ」って感じの選手が次々出てくるよ 「ホントにいたの?」と言う人が多いんだけど 在籍期間の短い人もいるし遠い昔のことだからわかんなくて当然だよね
新鮮な気持ちで読んでみてね
溝部武夫 ( みぞべたけお、旧姓中田 ) 投手
溝部は奈良県出身、旧制郡山中学にはエースとして1933(昭和8)年に奈良県初の甲子園出場に導く地元のスター選手だった。このとき溝部を指導したのが後にタイガースの二代目監督となる石本秀一。当時まだ職業野球が発足していない時代で、石本は中等野球の有能な指導者だった。
1937(昭和12)年 溝部は阪急軍に入団する。 1 年目は春秋合わせて29試合に登板し、8勝11敗56奪三振、162回1 / 3で自責点50、防御率2 . 77という成績を残す。
ところが2年目となるはずの1938(昭和13)年早々に応召されて3年間兵役に就くことになる。
1941(昭和16)年に阪急軍に復帰したが9試合で1勝2敗。翌1942(昭和17)年も7試合で2勝2敗に終わっている。
1943(昭和18)年にようやく本来の力を発揮して22試合に登板したが、防御率2 .
22にもかかわらず勝ち運に恵まれず5勝10敗と負け越した。そしてまた2度目の応召を受けて戦地へおもむき終戦まで軍務についた。
戦争が終わり1946(昭和21)年に阪急ブレーブスに復帰し18試合で6勝3敗と好投した。しかし翌1947(昭和22)年は勝ち星がなく、4月20日のタイガース戦では4人連続押し出しフォアボールという今も破られない珍記録を作っている。このシーズン終了後にタイガースへ移籍した。
1948(昭和23)年、前年まで武智の着けていた背番号「16」を引き継いだが、わずか8試合の登板で0勝0敗、防御率6 . 88と精彩を欠き、シーズン途中で引退した。
引退後は社会人の大丸へ所属し、1949(昭和24)~1950(昭和25)年に2年連続で都市対抗本戦に出場している。
中田金一 捕手・内野手・外野手
大阪府の出身で日新商業時代の1938(昭和13)年には一塁手として選抜大会で甲子園に出場している。この年に捕手としてタイガースと契約し、当初は背番号「35」を着けた。
163センチと当時としても小柄な選手。お笑い芸人のように面白い人でチームの人気者だった。主将や監督として時代を共にした松木謙治郎が「笑いすぎて横腹が痛くなるほど」と著書に書いており、「彼は道を間違えた」と言われてからかわれたという。
次の写真の一番右の眼鏡の選手が中田金一。その左の小さい人物はグラウンドボーイなので間違えないように!
1年目となる1939(昭和14)年は11試合9打数1安打1打点に終わったが、2年目の1940(昭和15)年は64試合に出場しており、157打数35安打14打点1本塁打の数字を残す。
1941(昭和16)年は24試合と出場が減り、翌1942(昭和17)年に応召されて満洲方面へ出征。戦後も1948(昭和23)年までシベリアに抑留されて辛酸をなめた。
帰国した1948年10月に背番号「16」でタイガースに復帰したが出場は1試合のみ。1949(昭和24)年が2試合、1950(昭和25)年は背番号を「23」に変えたが4試合の出場に終わり引退している。
出場106試合211打数43安打1本塁打15打点1盗塁32三振、打率 . 204が通算成績である。
引退後はセリーグの審判員になった。
櫟 信平(いちいしんぺい) 内野手
京都府京都市出身で京都三商から同志社商を経て同志社大学へ進む。大学リーグでは3季連続で首位打者になったこともある左打ちの好打者だった。
1949(昭和24)年に東映フライヤーズに入団。1年目は99試合259打数62安打42打点8本塁打で打率 . 239の成績を残す。
しかし1950(昭和25)年、内容は不明だが当時の同僚で国民的なスターだった大下弘とトラブルとなり、その確執から移籍を希望して大阪タイガースへ移籍する。ちょうど2リーグ分裂の時期で球界も相当混乱していた。
タイガースでは中田金一から背番号「16」を譲られ、1年目は109試合282打数70安打48打点11本塁打、打率 . 248の成績だった。
翌1951(昭和26)年も105試合に出ており、309打数74安打35打点6本塁打で打率 . 239を記録している。
しかし、1952(昭和27)年に胸部疾患が発見されて入院し出場なしに終わり、1953(昭和28)年にそのまま引退している。
1960(昭和35)年に打撃コーチとしてタイガースへ復帰。のちにスカウトとして掛布雅之を担当し、入団後は打撃コーチとして指導もしている。
まとめ
溝部さんと中田さんは戦争の大きな犠牲者ね 2人ともまともにプレーできた時期が短くてホントに気の毒だったとおもう
中田さんなんて戦争終わったあと3年もシベリアに残されて大切な時間を奪われてしまったのよ!その間は練習すらできなかったから技術はどんどん落ちていくし
櫟さんは強打者だったけど鈍足で守備は一塁ぐらいしかできなかったらしいよ 多分結核だったみたいで引退してるけど やっぱり未練があったのか 打撃コーチとなった1960(昭和35)年は現役復帰をめざして春のキャンプでバッティング練習を始めたんだって!でも結局は当時の金田正泰監督に駄目出しされてやめたみたい・・・
その3に続く

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