─ 灼熱 ─

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2005年06月06日
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・地道行雄(地道組)─────昭和30年~43年
・梶原清晴(梶原組)─────昭和43年~46年
・山本健一(山健組)─────昭和46年~57年
★竹中正久(竹中組)─────昭和57年~59年
・中山勝正(豪友会)─────昭和59年~60年
★渡辺芳則(二代目山健組)──昭和60年~平成元年
・宅見 勝(宅見組)─────平成元年~09年
・司 忍 (弘田組)─────平成17年~




・英 五郎(英組組長)
・瀧澤 孝(芳菱会総長)
・桑田兼吉(三代目山健組組長)
・古川雅章(古川組組長)
・後藤忠政(後藤組組長)


※ 本日、五代目山口組・新若頭補佐が発表された らしい
若頭補佐に昇格(就任)したのは3人。

・入江 禎(二代目宅見組)
・高山清司(二代目弘道会)
・橋本弘文(極心連合会)





【新若頭決定に至る主な経緯】

平成9年
・8月、宅見事件勃発
・9月、中野会会長絶縁
・11月、司若頭補佐、滝澤若頭補佐に逮捕状


平成10年
・5月、司若頭補佐出頭・逮捕
・9月、倉本若頭補佐死去
・10月、岸本総本部長が舎弟頭と若頭を兼務すると決定

平成11年
・7月、中野会が暴対法に基づく「指定暴力団」に。司若頭補佐が保釈金10億円で保釈
・9月、中野会ナンバー3の山下重夫若頭射殺

平成12年
・3月、東京地裁が桑田若頭補佐に懲役7年の実刑判決。控訴

平成13年
・3月、大阪地裁、司若頭補佐に無罪判決。検察側控訴
・7月、滝澤若頭補佐逮捕
・10月、東京高裁、桑田若頭補佐の控訴棄却。上告

平成14年
・4月、中野会ナンバー2の弘田憲二副会長射殺
・7月、後藤組長が若頭補佐に昇格

平成15年
・5月、最高裁、桑田若頭補佐の上告棄却。懲役7年が確定
・6月、滝澤若頭補佐が保釈金12億円で保釈。総本部で宅見若頭の「7回忌法要」
・12月、宅見事件以来中止されていた事始め復活

平成16年
・2月、大阪高裁、司若頭補佐に懲役6年の逆転有罪判決。上告
・3月、大阪地裁、滝澤若頭補佐に無罪判決。検察側控訴。桑田若頭補佐収監
・4月、「使用者責任」を盛り込んだ改正暴対法施行
・11月、最高裁、京都事件の損害賠償訴訟で渡辺五代目の使用者責任認める決定。緊急直系組長会で渡辺五代目の長期休養宣言と、執行部による集団指導体制発表
・12月、事始めとそれに代わる忘年会中止。直参がブロックごとに五代目に年末のあいさつ

平成17年
・3月、弘道会が二代目弘道会となり司初代会長が総裁的立場で後見し、高山清司会長体制に
・4月、弘道会から高山会長、山健組から橋本・極心連合会会長、太田守正・太田会会長が直参に昇格。直参100人体制復活。司若頭補佐が弘田組組長を名乗ると発表
・5月、司若頭補佐の若頭昇格が発表




※ 以下抜粋。




山口組若頭とは何か

日本一の巨大組織である山口組で
若頭という位置は特別な意味を持つ
その影響力は組織内にとどまらず
ヤクザ社会全体にも投げかけられるいま
あらためて考察する「山口組若頭」論


若頭という役職

若頭は一般家庭の長男にあたる。五代目山口組は、暴対法が施行された平成4年3月1日の時点では、組長以下舎弟23人、若中98人の計122名で構成されていた。当時の若頭は宅見勝宅見組組長。若中98人の長兄ということになる。舎弟は組長の弟だから若中にとっては「叔父」にあたる。

俗に山口組は系列を含めるとざっと4万人などと言われるが、厳密には山口組の組員は渡辺芳則組長から直接盃を受けた舎弟と若中を合わせた122人なのだ。

集団指導体制のもとでは、執行部が合議で同意したことを最終的に若頭が決定を下すかたちになる。

若頭のポストは、責任だけが重く報われることが少ない激務の連続である。組内の序列は確かにナンバー2だが、若頭を務めたからといって、次期組長の座が約束されているわけではない。

山口組の歴代組長の中で、組長の座に座ったのは四代目の竹中正久組長と渡辺芳則組長の2人だけに過ぎない。山口組を神戸の地方やくざ組織から全国組織に育て上げ、36年間、組長の座にあった三代目の田岡一雄組長は若頭を務めていない。


全国制覇の先頭に立つ

三代目体制が軌道に乗ると、初期の若頭・安原は舎弟に直り、地道行雄が若頭に昇格した。山口組はこの地道若頭の時代に急激に全国に勢力を伸ばす。神戸に拠点を構える地道自身も、系列約50団体、850人を抱える地道組組長として地方進出を果たしたが、この時代、ほかに先導役を担ったのは、菅谷組、小西一家、柳川組だった。

兵庫県警の手になる『山口組壊滅史』は、山口組の進出手段についてこう書いている。

〈まず興行を理由に県外へ乗り込んで、地元暴力団に対する賛助の形式で興行を開催し、利益の一部配当を行って友誼関係を形成し、興行権欲しさに地元各組織が山口組傘下に下ってくるようにしむける〉

〈この場合、東京以西に於いて、有名タレントに対する絶対的支配権を有する神戸芸能社の出張所、営業所を設置するという名目は、ローカル暴力団にとって垂涎の的であり、世論と取締りの高潮によって次第に資金源の減少した各組織は、争って山口組へ走った〉

正に怒涛の進撃である。

目をつけた地域で、地元暴力団の対立がないときは、地元出身者や縁のある幹部級を派遣して支部的なたまり場を設け、付近の不良を糾合して支部設置へもっていった。

支部設置に地元暴力団の反対があるときは菱形の代紋で威嚇して抗争に持ち込み、相手側を圧倒する組員を動員して、一挙にこれをたたき潰し、進出基盤の確保を計った。

第一次頂上作戦の標的にされた地道行雄の晩年は不遇だった。この頂上作戦は熾烈を極めた。

一例をあげると、組の解散を迫る警察は、ある直系組長の息子の通う小学校の正門前にあえて写真つきの指名手配のビラを貼った。

当時の最高幹部7人衆のうち岡精義と安原政雄の実兄・安原武雄は山口組を脱退、松本国松は組を解散、藤村唯夫は病死、直系組長の中にも脱退、解散が相次ぎ、安原政雄も安原会を解散した。山口組を除く広域組織もすべて解散に追い込まれた。

そうした中で田岡一雄の身辺を心配した地道行雄は、解散論をとなえ田岡の不興をかい、若頭のポストを辞任、舎弟に直るのである。そのあげく昭和44年5月、肺がんで亡くなった。

地道のあと若頭に就任したのは、穏健派とされる梶原清晴である。地道が13年間、若頭を務めたのに対し、梶原の存在はわずか3年だった。

梶原若頭の急死は、山口組執行部に混乱をもたらした。田岡組長は依然病床にあり、後任の若頭人事について未だ決めていなかったからである。若頭は若頭補佐の中から選ばれる。


山健執行部の采配

梶原が急死した当時の若頭補佐は山本広、山本健一、菅谷政雄、小田芳一、小田秀臣、中西一男の6人だった。6人はとりあえず互選で若頭を選び、あとで田岡組長の承認を得ることにした。投票の結果は山本広が4対2で山本健一を上回ったが、田岡組長の決断で投票は反故になり山本健一と決まった。山健が田岡組長に直訴したと伝えられたが、そのことによる“後遺症”は残らなかった。


“イケイケ派”と呼ばれた山本健一若頭の登場は、山口組を活性化させた。就任時は、山健執行部は新たに竹中正久が入り、7人の若頭補佐でスタートしたが、6年後の昭和52年には12人体制に強化され、大平一雄、清水光重、小西音松、加茂田重政、中山勝正らが加わった。

(大幅に略)

田岡組長は56年7月死去、山本若頭もあとを追うように57年1月、容態悪化で刑の執行停止を受けたあと2月4日死去した。まだ56歳の若さだった。四代目の贈名をという声が一部で出たがかなわなかった。


詰めを急ぎ過ぎた竹中体制

田岡組長、山本若頭を相次いで失った山口組は、四代目人事を一周忌まで凍結させることを決めた。その過程で57年6月、山本広若頭補佐が組長代行に、竹中正久が若頭に就任した。ここまでは無理のない人事だったが、しだいに力をもってきた組長代行の山本広と若頭竹中正久を巡って、どちらを支持するかで直系組長の思惑が表面化していく。

田岡組長の一周忌が終わった8月、山本代行は四代目立候補を宣言する。フミ子姐に説得されて断念したが、9月の定例会で再び立候補を宣言、このときは竹中若頭が拘置中で不在だったため、竹中派の猛反発を買い、改めて入れ札で決定することを決めた。

入れ札が行われる前日、山本広は再びフミ子姐に呼ばれ、「あんた組を割る気か」となじられ、立候補を無期延期する。この時点ではすでに分裂は避けられない事態となっており、ついに59年5月、フミ子姐は先代零代として四代目に竹中正久を指名、これを受けて竹中正久は、6月5日の山口組定例会で、四代目に就任することを宣言する。

7月10日に四代目襲名式を終えた竹中正久は、あまりに一和会の切り崩しを急ぎ過ぎた。そのため追い詰められた一和会の刺客に、翌60年1月、愛人のマンションに赴いたところを襲撃され、中山勝正若頭、南力南組組長ともども射殺される。四代目就任後わずかに半年である。

山本健一若頭の死去にともない、山健組若頭だった渡辺芳則は二代目山健組を継承すると同時に三代目山口組直系組長に昇格する。

山健組を引き継いだ渡辺芳則は、組織強化策を取り、瞬く間に山健組を千人を超える強力組織にのしあげた。竹中四代目体制下では若頭補佐に抜擢され、竹中四代目が射殺されたあと中西一男が組長代行に就任すると、今度は若頭に選任された。

山口組でこれほどスピード出世した人はほかに見当たらない。


宅見若頭の悲劇

五代目問題が正式に浮上したのは、一和会が解散、山本広会長が本家に謝罪してからである。

当初、五代目には中西一男代行が名乗りを上げたが、一和会問題の解決に尽くした渡辺芳則若頭の功績が評価され、少数派となった中西代行は立候補を辞退、渡辺五代目が実現した。この過程では一和会問題の解決をめぐって、四代目の実弟・竹中武組長と対立が生じたが、渡辺若頭派は乗り切った。

その渡辺支持派の参謀格が宅見勝だったのである。宅見若頭の功績は、渡辺五代目誕生への布石と山一抗争でがたついた山口組の再編に尽くし、五代目山口組を飛躍的に発展させたことであろう。

宅見若頭は、稲川会の石井隆匡二代目会長と並んで「経済やくざ」として知られ、外野席では「2、3千億の金なら自由に動かせる」などと言われていた。しかし平成9年8月、神戸市内のホテルで、同じ中野太郎若頭補佐が率いる中野会のヒットマンに銃撃されて死んだ。事件に深くかかわっていたと見られる中野会幹部が韓国で変死したため、事件の真相は、いまだにはっきり判っていない。そのあと若頭と舎弟頭を兼任した岸本才三総本部長の隠れた功績は山口組内部で高く評価されている。



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最終更新日  2005年06月06日 19時21分05秒
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