四方山話に夜が更ける

四方山話に夜が更ける

June 12, 2008
XML
カテゴリ: 恋愛小説

  その頃、私は友人と過ごすよりもひとりで時間を過ごすことのほうが多かった。自分が

 他人と少し違う生活環境にあったということを認識するようになっていたし、人に

 よけいなことを質問される機会を避けたかったから、本ばかり読んで空想に耽って

 いた。いつか小説家になるかもしれない自分の姿や、大好きな自然の中で自由に

 暮らす自分の姿を想像するのは、私が生まれるずっと前に、真っ暗な空に浮かぶ月に

 降り立つ数分前の宇宙飛行士が抱いたのと同じくらいワクワクと輝くような夢だった。

  母は忙しく仕事ばかりしていたから、それを引け目に感じていたのか、私たちが嫌がる

 ようなことはあまり言わなかったから、やりたいことは自分で決めて実行すればよいと

 いうような雰囲気がうちにはあった。私はしたいことをして、見たいものを見て、読みたい

 ものを読んで、自分の時間を好きに過ごした。

   果歩は母を真似てよく私の行動に口を挟んだ。真面目で内向的な姉は、周りから

 は消極的に見られているようだったが、誰にも負けたくないという強い気持ちを内に

 秘めているということは私にはよく分かった。たとえ体調が悪い時でも、やらなければ

 ならないことはやり遂げるというような、頑固な部分が姉にはあって、自我をきちんと

 表わすことが多かった。それだから、母と衝突することが多かったのだろう。

  その年の夏が始まった頃から、母は食欲もなくお腹が張って気分が悪いと言うように

 なった。倦怠感と微熱が続き、家に戻っても家事をすることもできないという日もあった。

 四十を過ぎた母が、家事と仕事と子育てをひとりで担っているのだから、疲れが

 たまっているのかもしれない。そんな風に考えていた私たちは、今まで以上に母親に

 負担をかけないようにと努力した。

  

  ある夜、テーブルの前でテレビを見ていた私たちに、奥の和室から声をかけた。

 「ふたりとも、こっちに来てくれる。ちょっと話したいことがあるの」

 ひとり和室に座る母の顔に緊張の色が見える。ちらりと覗き見た果歩の顔は蒼白

 だった。無言で立ちあがって母のいる部屋に向かう果歩の後について、和室に入って

 畳の上に腰をおろす。

 「このところ、お母さん、具合が悪いって言っていたでしょう。病院に行ったらね、

 お母さんのお腹の中にはあかちゃんがいるんだって」

  母は誰か知らない男の人の子を宿していて、あと数ヶ月後にはその子が生まれる。

  私と果歩に新しいきょうだいができると言った。

 「お母さんはこのあかちゃんを産みたいと思っているの。ふたりはおめでとうって言って

 くれる?」

  突然の話に戸惑った。私は全く気がついていなかったし、父親がいない私に、弟や妹

 ができるなんて考えたこともなかった。すぐには現実として受け止められなくて、嬉しい

 とか嬉しくないとかいう感情はすぐには湧き上がってこなかった。母と自分の見知らぬ

 誰かがキスをして、身体を重ねた。それがどんなことを意味するか知らないことも

 なかったが、母親が男に抱かれる姿を嫌悪するほど深く考えてもいなかった。ただ、

 母のお腹の中にまだ見ぬ妹か弟が宿っていることは、とても不思議なことで、この子供

 にはどこかに父親がいると思うと、その父親がどんな風に母が抱く小さな赤ん坊を

 眺めるのか、見てみたい気持ちにもなった。そんなことがほんの数ヶ月後に起こるという

 事実に、私は単純に興味を持った。

  しかし、果歩はそうではなかったようだ。ずい分前から、母親の変化に薄々気づいて

 いながらも、母が自分たちのほうを向いていないことがあるということを否定しようとして

 いたのかもしれない。果歩は顔を歪ませて母から目をそらした。

 「気持ち悪いよ」

 そう言って母親に刺すような目を向けた果歩に私は訊ねた。

 「なにが?」

 「ばか琉夏。お母さんは私たちよりその子の父親を選んだってことなのよ。だから

 その子を産みたいの。私たちはそのうちにお母さんに捨てられるのよ」

 「なにを言っているの。お母さんはいつだって果歩と琉夏のお母さんじゃない」

 そう言いながらも、ゆらゆらと揺れる母の視線が姉に向かうことはなかった。

   翌年の春、母に男の赤ん坊が生まれた。莉久と名付けられ、私たちの家族は四人

 に増えた。しかし、残念なことに四人の生活は予想以上にうまくはいかなかった。若くは

 ない母とって子育ては容易いことではなかったようで、仕事は以前のように力を注いで

 いけるような状態ではなくなった。母が家にいる時間が多くなると、果歩と衝突することも

 多くなったし、莉久を連れてその子の父親に会いに行くような母は、もはや私たちの

 母親の顔をしてはいない。人を愛する女であり、幼子を抱える乳臭い母親だった。

 それなのに、母は莉久の父親のことを私たちに話さない。たぶん母とその男性とは

 将来に結びつくような関係でなかったのだと思う。母はそれを私たちに隠そうとしていた

 ようだが、残念ながら、私たちはそれに気がつかないほど幼くはなかった。ただ、生活が

 困窮しているという様子は感じられなかったので、たぶん莉久の父親からの援助が

 少なからずあったのだろう。

  果歩は母を避けるようになった。学校から帰ってくる時間は、いつの間にか私より遅く

 なっていたし、図書館から借りてくる本の数も私よりも多くなった。しまいには週末は家に

 いることもほとんどなくなり、横浜の、港が見渡せる丘の上にある祖母で過ごす時間が

 多くなった。祖母は病院で入院患者の世話をする仕事をしながらひとりで暮らしていた。

 裕福とはいえない暮らしぶりだったが、生前祖父が外国人相手の仕事をしていたせい

 もあり、洋風のこじんまりしたうちを構えていて、六十を過ぎてひとりで働くような身に

 なっても、いじけたり品位を失ったりした感じが少しもなかった。ただ、反対をされた

 にもかかわらず駆け落ちのようにうちをでて、結局別れてしまった母とは長いこと連絡を

 絶っていたらしい。果歩はなぜだか祖母と馬が合ったようで、以前から時々会いに

 通っていたと私が知ったのは、ずい分後のことだった。

  私たちが祖母の家に移り住むようになったのは、莉久が生まれてから一年もしない頃

 だった。高校入学を機に果歩が祖母のうちで住むと言い出したからだ。

 「琉夏、あなたにはわからないの? 私たちはじゃまなのよ。お母さんは私たちより、

 莉久とその父親のほうが大事なのよ」

 そんな風に言われても、祖母の暮らしに、私たちふたりを養うだけの余裕があるのかと

 疑問にも思う。それを果歩にぶつけると、

 「だって、おばあちゃんはそうしていいと言ったもの。私はお母さんみたいな暮らしを

 したくないの。ここにいるのもいや」

 果歩がそういえば、私はここで母親にしがみついて生活しなければならない理由が

 浮かばない。母が新しい生活を作るなら、その舞台に私の出番はないような気もした。

  いったいなにが私たち家族をばらばらにしようとするのだろうと考えた。けんか別れの

 ように交流のなくなった母娘の間に、もはや通うことのない冷たい血流が滞る。老母は

 愛しい孫に会いたいがために言いなりになり、乳飲み子を抱える娘はそんな母親と

 娘たちに意見する術を持たない。

  四人の生活は以前と大して変わらないではないかと考えようとしたが、手のかかる

 莉久の子育てに夢中になる母が、すでに成長して反抗期を迎えるような歳になった

 娘たちにさく時間の割合はそう多くないということは明白だ。母には睡眠の時間も

 足りなかったし、心の余裕もたぶんなかった。少なくとも私にはそう見えた。

  母が幼い莉久を連れて出かける回数は少しずつ増えていく。それは平日の午後

 だったり、夕食の後だったり。たぶん莉久を父親にあわせるためだ。莉久の父親を

 家に入れないという彼女なりのルールを最後まで破ることはなかったが、それが私たち

 にとって何の意味もなさないということに彼女は少しも気づかなかった。

  菊名駅の周辺は数年の間にずい分と変わり、昔遊んだ原っぱにはすでにマンションが

 立ち並んでいたし、通っていた中学校に離れがたいほどの友人がいたわけでも

 なかったから、その場所を離れることに私は未練を感じなかった。私ひとりが母のうち

 に残っても、母と莉久が作り上げようとしている家族の邪魔なような気もしたので、

 少ない荷物をまとめて果歩とともに家をでた。ひとつだけ離れがたかったのは、近くの

 団地の敷地内にある、年のいった桜の木が美しい花を咲かすのがみられなくなること

 だけだった。

   三月、私たちは祖母のうちに移り住み、高校生になった果歩はアルバイトを始めた。

 私がひとりで過ごす時間はますます増えた。祖母はいつでも優しく接してくれたが、自分

 のうちでない、どこか間借りしているような感じがいつまでも拭いきれず、私はなかなか

 馴染むことができなかった。

  しかし、新しい暮らしは嫌いというわけではない。なにより祖母のうちの周辺の景色が

 私を魅了した。横浜の港を見下ろせる丘からの眺めは菊名とは違い、空が広く、

 どこまでも見渡せる丘に佇むと私の夢想はとどまることなく膨らんだ。

                                                つづく






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  June 13, 2008 09:48:28 AM コメント(4) | コメントを書く
[恋愛小説] カテゴリの最新記事


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: