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すみません。ちょっと忙しくなってきているので、来年から再開します。申し訳ございません。
2022.12.21
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8月いっぱい、お休みします。夏バテで、頭がうまく回転しなくなっています。若干の休養ののち、再開します。申し訳ございません。9月からは、このプログとともに、フェイスブックとインステグラムで8コマ漫画をお届けします。当面は、漱石と子規の生涯に関する漫画で、徐々にテーマを広げていきます。その準備のための時間をくださいませ。よろしくお願いいたします。
2022.08.08
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饅頭買ふて連に分かつやお命講(明治33) 子規が日清戦争の従軍記者として遼東半島に向かいましたが、金州に上陸した時、すでに日本と清の交戦は終わっていました。子規の金州滞在は、明治28年4月15日から5月10日までで、金州を離れた日に日清講和条約が批准されました。 この時、近衛師団の軍医部長だった森鷗外も金州に駐屯していました。暇を持て余していた子規と鷗外は、俳句についての意見を戦わせています。鷗外はこのことを「但征日記」に「正岡常規来り訪う俳譜の事を談ず」(5月4日)、「子規来り別る。几董等の歌仙一巻を手写して我に贈る」(5月10日)と記しています。『子規全集』月報7の宮地伸一著「子規と鴎外との出会い」には、「今度の戦争に行って、非常に仕合わせなのは正岡君と懇意になったことだ」と鷗外が柳田國男に語っていたとあります。 子規も、門人たちに書きとらせた「病床日誌」明治28年6月5日に「いちごを食い、頗る壮快なるおももちなり。曰く、いちごとりとは中々おもしろき名なり。小説にすれば森鷗外の好む所か……森に金州にて会いし話をせしや。……中略……金州の兵站部長は森なりと聞き訪問せしに、兵站部長には非ず、軍医部長なりし。これより毎日訪問せり」と書かれています。 帰国後、鷗外は子規との交遊を深め、明治29年の正月3日。子規庵の発句始に、鷗外が初めて顔を出しました。鳴雪、瓢亭、虚子、可全、碧梧桐、漱石らが参加した会の季題は「あられ」で、鷗外は「おもひきつて出で立つ門の霞哉」と詠み、最高点を獲得しました。この年、鷗外は「めさまし草」を創刊したため、子規一門も俳句や評論を寄稿しました。子規と鷗外の親交は、明治32年6月に、鷗外が小倉師団に転勤するまで続いています。 学生時代、子規は鷗外の作品に対して、いい感情を持っていませんでした。明治24年8月23日の漱石から子規に宛てた手紙には「鷗外の作ほめ候とて図らずも大兄の怒りを惹き申訳もこれなく、これも小子嗜好の下等なる故とひたすら慚愧(ざんき)致居候。元来、同人の作は僅かに二短篇を見たるまでにて、全体を窺うことかたく候得ども、当世の文人中にては先ず一角あるものと存居候いし、試みに彼が作を評し候わんに、結構を泰西に得、思想をその学問に得、行文は漢文に胚胎して和俗を混淆したるものと存候。右等の諸分子あいまって、小子の目には一種沈鬱奇雅の特色ある様に思われ候。もっとも人の嗜好は行き掛かりの教育にて(たとい文学中にても)種々なるもの故、己れは公平の批評と存候ても他人には極めて偏屈な議論に見ゆるものに候ば、小生自身は要所に心酔致候。心持ちはなくとも大兄より見れば作用に見ゆるもごもっとものことに御座候」とあり、鷗外の著作に対して、子規は否定的だったことがわかります。 鷗外の好物は、饅頭のお茶漬けでした。森茉莉著『鷗外の味覚』によれば「私の父親は変った舌を持っていたようで、誰がきいても驚くようなものをおかずにして御飯をたべた。どこかで葬式があると昔はものすごく大きな鰻頭が来た。……中略……その鰻頭を父は象牙色で爪の白い、綺麗な掌で二つに割り、それを又四つ位に割って御飯の上にのせ、煎茶をかけて美味しそうにたべた。鰻頭の茶漬の時には煎茶を母に注文した。子供たちは争って父にならって、同じようにしてたべた。薄紫色の品のいい甘みの餡と、香いのいい青い茶〈父親は煎茶を青い分の茶と言っていて、母親も私たちもそう言うようになっている〉とが溶け合う中の、一等米の白い飯はさらさらとして、美味しかった。これを読む人はそれは子供の味覚であって、父親の舌はどうかしている、と思うだろうが、私は今でもその渋くいきな甘みをすきなのである。たしかに禅味のある甘みだ」と書いています。 甘い物好きの漱石は、鷗外の文体からそれらの嗜好を感じ取ったのかもしれません。 鷗外のもう一つの好物は、「焼き芋」でした。鷗外は、宮内省図書頭のころ、焼き芋をとりよせて食べることがあり、職員が「閣下は焼き芋がお好きですか」と訊くと「焼き芋は消毒してあって、滋養に富んでいるからなあ」と答えたといいます。この辺りは、子規も漱石も、鷗外と好みが共通します。 ちなみに、鷗外が明治23年から24年まで住んだ家は、明治36年3月3日から明治39年12月26日まで漱石が過ごした本郷区駒込千駄木の家と同一てす。漱石は、この家で「吾輩は猫である」を書き始めました。鷗外と漱石が住んだこの家は、現在、愛知県の明治村に保存されています。
2022.07.21
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うつくしき菓子贈られし須磨の秋(明治28) 子規の病床に届いたお菓子には、足柄の唐黍餅、山形ののし梅、青森の林檎羊羹、大阪のおこし、京都の八橋煎餅、三河の魚煎餅、甲州の月の雫、熊本の飴、横須賀の水飴があります。 足柄の唐黍餅は、箱根に近い足柄峠付近は、稲作に適さないため、トウモロコシがよく栽培されていた。それを活用した餅でしょう。門人の誰かが、箱根へ行った際の土産だと考えられます。 山形ののし梅は、梅をすり潰し、寒天に練りこんだものを薄くのして乾燥し竹皮で挟んだお菓子です。主に山形県村山地方などでつくられました。もともと、山形藩主典医・小林玄端が長崎に遊学中、中国人から煮詰めた梅に黒砂糖を加えた水あめ状の気付け薬のつくり方を教わり、それが家庭でつくられるようになったといいます。時代川悪とともに寒天が普及したため、現在のつくり方になったと考えられています。山形には、叔父の加藤拓川の岳父・樫村清徳が住んでいましたので、そちらから贈られたものかもしれません。 青森の林檎羊羹は、明治30(1897)年に万年堂の田辺富吉が完成させたもので、弘前近辺で取れるりんごのうち出荷できないものの再利用を考えてつくられたものです。この文章がかかれるほんの少し前にできた羊羹でした。青森に関連する人物といえば陸羯南、佐藤紅緑(洽六)がいますが、紅緑の家は林檎農家でもありましたから、新製品が完成したとして贈られたのかもしれません。 大阪のおこしは、穀類を飴で固めたものです。雑穀類は炒ると膨らむことから「おこし」と呼ばれており、それを使ったという意味で名前がついたようです。大阪には、水落露石(義弌)、青木月斗(新護)、松瀬青々(弥三郎)、太田柴州(正躬)、大谷是空(藤治郎)など数多くの門人、友人がいますから、彼らのうちの誰かから贈られたものでしょう。 京都の八橋煎餅は菊池仙湖(謙二郎)から贈られたものです。明治34(1901)年1月10日に、子規は仙湖に「八橋(八つ橋)煎餅」を頼んでいます。 京都を代表する和菓子・「八つ橋」は、元禄2(1689)年に、聖護院の金戒光明寺参道の茶店で売られたのが始まりとされています。「八つ橋」の名は、箏曲の祖・八橋検校を偲び箏の形を模したことに由来するというのが主流の説となっています。検校が亡くなった日、金戒光明寺には検校を慕う門人たちの多くが詣での列をなした折、参道に当る聖護院の茶店が、検校に因んで琴の形に似せた煎餅を売り出したのが、聖護院八ツ橋の始まりとい分けています。米粉と砂糖、肉桂を薄く伸して短冊型に裁ち、これを鉄板で焼きます。重い拍子木のような木の重しで「八つ橋」を押え、焦げぬように水分を取り去ります。焼ければ、さらに筒型の間に挟んで琴になぞらえた反りがつけられます。 三河の魚煎餅は、小魚を練りこんで煎餅にしたものでしょう。魚を丸ごとプレスしているものもありますが、明治時代ですので、これにはまだたどり着いていないようです。三河の隣の静岡の梅沢墨水(喜代太郎)、鈴木芒生(孫彦)、関瓢雨(正義)らのうちの誰かから贈られたものでしょうか。 甲州の月の雫は、生の甲州ぶどうを、1粒ずつ丁寧に砂糖蜜で包み込んだお菓子です。明治10(1877)年、お菓子の作業場においていたぶどうの房から一粒のぶどうが転がり、砂糖蜜の中に落ちました。拾い上げてみると、ぶどうにかかった蜜が冷え、ほの白く固ま理り、ぶどう畑を照らす月の雫のように見えたことから、その名がついたといいます。 講習の式門下には新免一五坊(睦之助)がいます。岡山県に生まれた一五坊は上京して子規の門人となります。一五坊は、明治34(1901)年から山梨県南都留郡明日見村の永嶋医院に居住して医学を学ぶようになるのですが、その前に挨拶に行った折に、これを子規の土産としたのかもしれません。 熊本の飴は、餅米と水飴、砂糖を主原料に四季の変化に応じて練り上げ他ものです。加藤清正が朝鮮の役の際に持参した飴が、保存性がよく味も変わらなかったことから「朝鮮飴」と名付けたといわれます。熊本には漱石や大野洒竹(豊太)、篠原温亭(英喜)、鳥居素川(赫雄)がいましたので、彼らの誰かが贈ったものでしょう。 横須賀の水飴は、「浦賀の水飴」と呼ばれるものでしょう。麦芽糖のことで、琥珀色の甘美な水飴(粟蜜)です。明治12年には国内勧業博覧会で褒章を受け、明治21年にはパリ万国博覧会にも出品されたといいます。 近日我貧厨をにぎはしたる諸国の名物は何々ぞ。大阪の天王寺蕪、函館の赤蕪、秋田のはたはた魚、土佐のザボン及び柑類、越後の鮭の粕漬、足柄の唐黍餅、五十鈴川の抄魚、山形ののし梅、青森の林檎羊羹、越中の干柿、伊予の柚柑、備前の沙魚、伊予の緋の蕪及び絹皮ザボン、大阪のおこし、京都の八橋煎餅、上州の干饂飩、野州の葱、三河の魚煎餅、石見の鮎の卵、大阪の奈良漬、駿州の蜜柑、仙台の鯛の粕漬、伊予の鯛の粕漬、神戸の牛のミソ漬、下総の雉、甲州の月の雫、伊勢の蛤、大阪の白味噌、大徳寺の法論味噌、薩摩の薩摩芋、北海道の林檎、熊本の飴、横須賀の水飴、北海道の鮞(はららご)、その外アメリカの蜜柑とかいうはいと珍しきものなりき。(墨汁一滴 明治34年2月9日)
2022.05.28
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垣を成す桑の木老いて実の多き(明治30) 子規の晩年、門人の長塚節より桑の実が子規のもとへ送られてきました。ほとんどが潰れてダメになっていました。子規は、次に送る時には、ブリキ缶に入れ、少し隙間を持たすように助言しています。しかし、子規は鬼籍に入ったため、次の年に桑の実が届くことはありませんでした。 拝啓 桑の実今朝到着 皆潰れてだめに相成候 しかし久しぶりにて少々味ひ申候 御厚意多謝 此種の物を郵送するには枝葉のまゝにて「ブリキカン」に詰めるを第一と致候 或は蕎麦抔まぜるもよろしかるべく候 多少の間隙なくては潰れ可申候(明治35年6月24 長塚節宛書簡) 節は、子規のもとにさまざまなものを送りました。子規の薫陶を受けた節は、和歌の研究と作歌にはげみ、子規没後も写生主義を継承した和歌をつくりました。写生文を発展させた小説『土』は、「東京朝日新聞」に連載され、多くの評価を得ています。 漱石も『土』の序文で、「長塚君の書き方は何処迄も沈着である。その人物は皆有の儘である。話の筋は全く自然である。余が『土』を『朝日』に載せ始めた時、北の方のSという人がわざわざ書を余のもとに寄せて、長塚君が旅行して彼と面会した折の議論を報じたことがある。長塚君は余の『朝日』に書いた『満韓ところどころ』というものをSの所で一回読んで、漱石という男は人を馬鹿にしているといって大いに憤慨したそうである。漱石に限らず一体『朝日新聞』の記者の書き振りは皆人を馬鹿にしておるといって罵ったそうである。なるほど真面目に老成した、ほとんど厳粛という文字をもって形容してしかるべき『土』を書いた、長塚君としてはもっとものことである。『満韓ところどころ』などが君の気色を害したのはさもあるべきだと思う。しかし君から軽佻の疑を受けた余にも、真面目な『土』を読む眼はあるのである。だからこの序を書くのである」と書きました。 漱石は、「余は元来が安価な人間であるから、大抵の人のものを見ると、すぐ感心したがる癖があるが、この『土』においても全くそうであった。先まず何よりも先に、これは到底余に書けるものでないと思った。次に今の文壇で長塚君を除いたら誰が書けるだろうと物色して見た。するとやはり誰にも書けそうにないという結論に達した」と褒めています。漱石はのちに「長塚君とわたしを結びつけたものは『ホトトギス』に出た君(くん)の佐渡の紀行文であった。わたしはそれを見ておもしろいと思ったので長編小説の寄稿を頼んだ」と書いています。 節が頼まれたことを意気に感じ、精魂を傾けて書いたのが、彼の代表作となった「土」でした。
2022.05.19
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歩きながら桑の実くらう木曽路かな(明治24) 明治24(1891)年6月25日、正岡子規は大学の試験を途中で放棄し、菅笠にわらじ履きの格好で木曽路の旅に出かけました。 6月30日、子規は木曽路の途中で桑の実を見つけました。朝から雨が降っており、木曽の桟に着くと、五月雨で水かさを増しています。逆巻く川の流れを眼下に松尾芭蕉の石碑「桟やいのちを絡む蔦かづら」を見ました。 この辺りは養蚕が盛んで、桑畑には桑の実がなっています。子規は、歩く途中で疲れると、桑の実をむさぼり食いました。桑の実を何升食べたか、子規は自分でもわからなくなったくらい食べてしまった子規なのでした。 ○桑の実を食いし事 信州の旅行は蚕時であったので道々の桑畑はいずこも茂っていた。木曾へ這入ると山と川との間の狭い地面が皆桑畑である。その桑畑の囲いの処には幾年も切らずにいる大きな桑があってそれには真黒な実がおびただしくなっておる。見逃がす事ではない、余はそれを食い始めた。桑の実の味はあまり世人に賞翫されぬのであるが、その旨さ加減は他に較べる者もないほどよい味である。余はそれを食い出してから一瞬時も手を措かぬので、桑の老木が見える処へは横路でも何でもかまわず這入って行って貪られるだけ食った。何升食ったか自分にもわからぬがとにかくそれがためにその日は六里ばかりしか歩けなかった。寐覚の里へ来て名物の蕎麦を勧められたが、蕎麦などを食う腹はなかった。もとよりこの日は一粒の昼飯も食わなかったのである。木曾の桑の実は寐覚蕎麦より旨い名物である。(くだもの) 子規の好物の桑の実は、漢方としても用いられ、焼酎に漬けて「桑酒」として薬用酒として用いられたりします。日本においても桑は霊力があるとみなされ、薬効の優れていることからカイコとともに普及しました。古代日本では桑の木は中風を防ぐとされ、雷が落ちないように「くわばら、くわばら」と唱えるのは、そうした桑の霊力を信じてのことかもしれません。 江戸時代の事典『本朝食鑑』に桑の実の薬効について書かれています。 [集解]これは桑の子(み)である。形状は苺に似て、円長。生は青く、熟すると紅く、紫色になる。各地に多くある。近時は毎(つね)の果とすることは少ない。但、酒に醸して飲むくらいである。[主治]関節を利し、痺痛を止め、酒毒を解し、水腫を消す。[発明]『四時月令』によれば、「四月に桑椹酒を飲むのがよい。百種(あらゆる)風熱(風毒より生じる熱)をよくおさめる」とあり、孟詵(もうせん)の『食療本草』によれば、「根の白皮は、一切の風気を下す」とあり、日華子の『日華諸家本草』には、葉は一切の風を治すと言い、蘇頌(そしょう)の『図経本草』によれば、校は全身の癢風(むずかゆい)・脚気・風気・四肢のひきつりを治すという。また李時珍の『本草綱目』によれば、薬を煎じるのに桑火を用いると、よく関節を利し風寒(風も寒もともに、病因としての外因中の六気の一)・湿痺(風・寒・湿の三気が合して痺となるもの)・諸痛を除くという。 さて今、世間の人は、桑の樹葉を取り、湯をわかしたり膏を作ったりする。しかしながら、これを服用すべき場合ならば好いが、元気のすくない人や脾胃の和せざる人は、適当に斟酌すべきである。衣を染めて身に着けると風(病因としての風。風にあたるを中風という)を防ぐなどというのは、過誤である。(本朝食鑑)
2022.05.17
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蜜柑剥く爪先黄なり冬籠(明治32) 蜜柑をたくさん食べて居ると、爪先ばかりでなく皮膚までも黄色くなります。これは「柑皮症」といい、蜜柑の黄色成分であるカロテノイドの一種『β-カロテン』の過剰摂取が原因です。 この『β-カロテン』は脂肪に溶け、角質に沈着しやすい特徴を持っているため、角質の多い手や足が黄色くなってしまいます。 体が黄色くなる病気として「黄疸」が思い起こされますが、これは肝機能の低下により引き起こされます。「黄疸」は、皮膚だけではなく、目の白目部分も黄色く変色しますので、チェックしてみてください。 『松蘿玉液』の「菓物」には「蜜柑は浮気にして誰れにも好かれ俗世の儀式などにも用いらるやや厭というべし」とみんなに好かれる果物であるところが少し厭やだと書き、明治34年3月20日「ホトトギス」に発表された『くだもの』には「蜜柑ならば十五か二十位食うのが常習であった」と大食漢ぶりを披露しています。 これを裏付けるのが河東碧梧桐が書いた『病牀日記』明治35年1月22日で、午後7時にお見舞いに行ったところ、子規は食事のすんだあとでしたが、「蜜柑の四つばかり已でに平げ給えるが今一ツ一ツとて遂に七ツばかり食われける」と子規がみかんをよく食べていることを描写しています。 『墨汁一滴』明治34(1902)年4月16日、子規は「毎日の発熱毎日の蜜柑この頃の蜜柑はやや腐りたるが旨き」の詞書を添えて「春深く腐りし蜜柑好みけり」と詠んでいます。この句から、子規は冬の間、ずっとみかんを食べていたことが想像されます。ただ、この「柑皮症」は、子規のように蜜柑を食べ過ぎなければかかることはありませんので、ご安心ください。
2022.03.28
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吉田蔵沢は、松山藩士でありながら余儀に墨絵を描き、南画、特に墨竹の画で知られています。 漱石は、明治43年、修善寺の大患の回復祝いとして森円月から蔵沢の竹の画をもらいます。 森円月は、正岡子規の門人で、初期の松風会に属していました。松山中学から同志社を経て、アメリカのエール大学に留学し、明治30年から松山中学校で英語の教師となっています。のちに兵庫県柏原中学校に移り、大阪時事新報の記者や東洋協会の雑誌の編集をしています。 蔵沢の竹の画は『思い出す事など』に「町井さんはやがて紅白の梅を二枝提げて帰って来た。白い方を蔵沢の竹の画の前に挿して、紅い方は太い竹筒の中に投げ込んだなり、袋戸の上に置いた。この間人から貰った支那水仙もくるくると曲って延びた葉の間から、白い香をしきりに放った。町井さんは、もうだいぶん病気がよくおなりだから、明日はきっと御雑煮が祝えるに違ないといって余を慰めた。(33)」と、出てきます。 漱石は蔵沢の画のお礼として、東京にいる円月に「かねて御話しの蔵沢の竹一幅わざわざ小使に持たせ御届披見大驚喜の体、仮眠も急に醒め拍手踊躍致おり候。いずれ御目にかかり篤く御礼可申上候えども、不取敢御受取かたがた一札かくのごとくに候」という手紙を11月5日に送っています。 その日の日記には「〇森円月来る。疲労を言訳にして不会。一時間程して小使手紙を以て来る。蔵澤の墨竹の軸を添う。御見舞とも御土産とも致し進呈すとあり。早速床にかく」「〇病院へ入ったら好い花瓶と好い懸物が欲しいといっていたら、偶然にも森円月が蔵澤の竹をくれる。禎次が花瓶をくれるという報知をする。人間万事こう思う様に行けば難有いものである」と書き、11月12日には「蔵澤の竹を得てより露の庵」という句を詠んでいます。 翌年の1月30日には「蔵山と蔵沢の箱出来早速御届け下さいましてありがとう御座います、まだ外に両三個願いたいのですが、寸法もありますから今度御出の時にまた御面倒を願いたいと思います。紙は受取りました。そのうち何か書きましょう。霽月は清水老人から明月の書をもらつてくれました。私は代りに野田笛浦の書を送りました。明月はうまいものです。それを表装をしかえなければなりません。今度御目にかけたいと思います」という手紙を送りました。 大正3年1月14日には、円月に「霽月にやった墨竹はその時はかなりの出来と思ったが、今はもう一遍見ないとなんともいえません。本人がいいと思って表装するなら格別それでなければそれには及びません。あなたに頼まれた達磨はあれぎりですが、外に色々かきました。私のあげてもいいと思うもののうちで思召に叶うものがあるなら達磨の代わりに上げてもよろしゅうございます」と手紙に書いています。 とは松山の経済人で俳人の村上霽月で、漱石が模した蔵沢の墨竹の絵を見たため、漱石にねだったのかもしれません。円月は、子規を通じて松山時代から親交がありました。当時の円月は式の短冊をむやみに欲しがり、漱石のものには興味を示しませんでしたが、漱石の名が高まると、画や句を求めています。ゲンキンなものです。 漱石が蔵沢の画をなぜ知っているかというと、子規から絵の素晴らしさを教えてもらったためでした。明治34年6月7日の『病牀六尺』には、子規の病牀周りに「何年来置き古し見古した蓑、笠、伊達正宗の額、向島百花園晩秋の景の水画、雪の林の水画、酔桃館蔵沢の墨竹、何も書かぬ赤短冊など」が置かれていると記しています。
2022.02.13
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真之は、明治34年10月に海軍少佐、翌年の7月には海軍大学校教官となり、戦術教官に異動します。 この年の9月19日午前1時、子規は冥土へと旅立ちました。21日に子規の葬儀が行われました。真之は漱石には出席せず、太龍寺に向かう遺骨へ敬礼したのち、子規庵の遺影に線香を手向けました。 それからまた暫く会わなかったが、子規君の葬式の時であった、棺が家を出て間も無く、袴を裾短に穿いて大きなステッキを握られた秋山君は向うからスタスタ徒歩して来られて路傍に立ちどまって棺に一礼された。それから葬式はお寺へ行ってしまったが後に聞くと秋山君は正岡の宅へ行かれて香を捻って帰られたそうだ。以来余は同君に会うことは勿論あまり他へ聞くことも無かったが、日露戦争が始まって、東郷大将の下に参謀官として特に令名ある秋山中佐その人が真之君であって、程なく大将とともに凱旋されたことを聞くに及んで胸のおどるを禁じ得なかった。御同郷人に秋山参謀をお持ちになるのはお国の方の御名誉です、とある他郷人にいわれたのでいよいよ肩身が広くなるように思われた。それに就て「日本が世界で名高くなる時分に松山が日本で名高くならいな」といわれた子規君の言はそぞろに回想されるのである。(高浜虚子 正岡子規と秋山参謀) その後、真之は翌年6月2日に稲生すゑと結婚。10月には常備艦隊参謀に異動し、第1艦隊参謀となり、明治37年2月6日に「三笠」へと乗艦します。2月10日には、日本政府はロシアへ宣戦布告し、ここに日露戦争が始まりました。東郷平八郎のもとで、連合艦隊の作戦立案で中心的な役割を果たします。そして明治38年5月27日の日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を破り、日露戦争の勝利に貢献しました。海戦前に発せられた有名な電文「本日天気晴朗なれども波高し」の起草とともに戦略家、名文家である真之の名を高めました。海軍きっての戦略家といわれ、日本海海戦の「丁字(ていじ)戦法」などの発案者とされています。 日露戦争の後は、海大教官、三笠副長、音羽艦長などを歴任。軍務局長としてシーメンス事件の処理に当たりました。 大正3年には、友人であった八代六郎海軍大臣に請われて軍務局長を務め、5年にはヨーロッパ各国へ出張。6年には将官会議議員となり、海軍中将に進みますが、健康を害したため、待命となっています。翌年2月4日に51歳で死去しています。
2022.02.08
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明治26年6月1日、真之は英国で製造していた軍艦「吉野」の回航乗員を命ぜられました。子規は次の句を送っています。 送秋山真之 英国 熱い日は思ひ出だせよふしの山 子規 明治27年、朝鮮の人々が宗教結社東学党の指導を受け、大規模な農民反乱が勃発しました。李氏朝鮮政府は、宗主国である清国の来援を求めます。清国の動きを見ていた日本政府は、清国との天津条約に基づき、日本人居留民保護を目的とした兵力派遣のため、大本営を設置します。 慌てた朝鮮政府は、東学党と和睦して日清両軍の撤兵を求めます。しかし、日本政府は朝鮮の内乱が収まっていなため、内政改革の必要性を唱えました。しかし清国政府はこれを拒絶し、日清双方の同時撤兵を提案しますが、この条件を拒否した日本は、さらなる追加部隊を朝鮮半島に派遣。イギリスに働きかけて中立的な立場であると確証をとった日本政府は、8月1日に清国に対して宣戦布告。これにより日清戦争の幕が切って落とされました。 真之は4月23日、筑紫航海士となり、第四遊撃隊に従事。威海衛攻撃で日島突撃の決死隊に加わ理ますが、連日の風濤で結氷してしまい、任務を実施できませんでした。真之は、軍艦「筑紫」の搭乗員となって日清戦争に参加しました。 ただ、日清戦争の従軍記者となった子規は、命を賭して大陸へと渡りましたが、実質的な戦いは4月17日に終わり、子規の試みは空振りに終わってしまいました。さらに帰りの軍船で吐血し、療養を余儀なくされました。 この戦争の結果、清国は李氏朝鮮に対する宗主権を放棄してその独立を承認せざるを得なくなりました。また、台湾、澎湖諸島、遼東半島を日本政府は得ることになり割譲され、また巨額の賠償金も獲得しています。戦争に勝利したことで、日本はアジアの近代国家と認められました。また、支払われた賠償金のほとんどは軍事費に回されました。 明治29年正月、真之は子規を3年ぶりに訪問して半日を過ごします。この時のことは、当時北海道で教師となっていた井林博政に送った8月18日の手紙に「秋山、この正月三年ぶりにて尋ね来り。半日ばかり閑談致候。……秋山も強情ものなれば後来何かやらかすべしとは存候えど、この正月逢いたる時余り元気なきよう見受けし故如何やと心配致居候」と書いています。 30年8月5日、真之はアメリカへと旅立ちました。見送りに行っていた内藤鳴雪からそのことを聞いた子規は、「君を送りて思ふことあり蚊帳に泣く」と詠みました。真之は、アメリカから毛繻子の布団を送っています。高浜虚子の『正岡子規と秋山参謀』には「亜米利加に留学せられたこと、あちらから毛の這入った軽い絹布団を子規君に送られたこと、(この布団は子規君の臨終迄まで着用せられたもの)大分ハイカラにうつっている写真を送って来られたこと、留学中大尉から少佐になられたことなどを飛び飛びに記憶している。も一つその留学前に、ある席上で正岡はどうしておるぞな、と聞かれ、この頃は俳句を専門にやって居おるのよ、というと、そうかな、はじめはたしか小説家になるようにいうとったが、そんなに俳句の方でえらくなっとるのかな、兎に角えらいわい、といわれたことを記憶している。この留学中に子規君の病気はだんだん進んで来て、枕許で談柄に窮した時などはよく同郷人の人物評をやった。子規君の口にかかると大概のものは小供のようになってしまうが、その中で敬重されたものは真之君と、も一人清水則遠という人であった」と書かれています。 明治35年6月7日の『病林六尺』で、子規は病床にある物を記していますが「その中に目立ちたる毛繻子のはでなる毛蒲団一枚、これは軍艦にいる友達から贈られたのである」と書いています。 8月末にワシントンに着いた秋山は、それからおよ2年4日月にわたり、アメリカ海軍兵学校で世界の陸海軍の戦略や戦術を研究しました。翌年、アメリカ=スペイン戦争観戦のためアメリカ運送船『セグランサ』号に乗組んでいます。戦史や戦書を乱読し、戦略家であったマハン大佐に接したことで、真之流の戦略に対する考え方は大きく発展しました。 アメリカ戦術修行が終わった明治32年末、真之はイギリス駐在を命じられ、ロンドンに赴任します。翌年の4月には、ペテルプルグに留学をしていた広瀬武夫が、ロンドンを訪ねました。ひさしぶりに再会した二人は、5月7日、ポーツマス港に寄航した15000トンの英国製新戦艦「朝日」の後甲板で記念写真を撮影、その後、40日間のヨーロッパ視察旅行に出かけています。 6月12日にはドイツのステッチン港にゆき、フルカン造船所で建造され、竣工したばかりの一等巡洋艦「八雲」を視察。ここで秋山と広瀬のヨーロッパ旅行は終わり、真之はふたたびロンドンヘ帰ります。 真之が帰国したのは、明治33年8月14日で、海軍省軍務局課員に異動となりました。
2022.02.06
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今回は、10月1日発売の雲水舎の本のCMです。 瀧津孝氏と越智魔琴氏の作品を紹介させていただきます。 瀧津 孝は、『戦国ぼっち』で知られる歴史ファンタジー作家。小説や歴史読本の分野では、エンターテインメント性を重視し、「ハラハラ、ワクワク、ドキドキ」を演出する独特のテクニックでファンから支持されています。新たにジュブナイル小説や本格的な歴史・時代小説にもこのレーベルを通じてチャレンジ。株式会社雲水舎代表取締役。《得意分野》□歴史ファンタジー小説□日本史激動期(戦国・幕末・太平洋戦争等)研究□ジュブナイル小説□歴史・時代小説 瀧津孝氏の『電脳クエスト』は、2019年に発売された長編小説「げえむの王様〜復活を賭ける弱小ゲーム会社に未来は訪れるのか?〜」(銀河企画)に加筆・修正を加え、表紙イラストや組版などを変更し、改題した新装電子書籍版。 華やかでエネルギッシュなイメージをまとう日本のコンピュータゲーム産業を題材に、知られざる「舞台裏」や「闇の部分」にスポットを当て、困難な企業再生の道のりを描く経済エンターテインメント作品です。 かつてジャパニーズドリームの代名詞とも評され、世界を席巻した日本の家庭用コンピュータゲーム。飛ぶ鳥落とす勢いだった巨大市場がスマートフォン用ゲームアプリや動画配信サービスなどの勢いに押され、凋落に拍車をかけつつあった2012年、倒産の危機に瀕する弱小ゲームメーカーが、数々の障害に直面しながら復活を目指す再生の物語となっています。 越智魔琴氏は、経歴など不明。 地域の民俗や伝承研究の成果をホラー小説として執筆。また、70年代の風俗や時代性を取り込んだユーモア溢れる青春小説にも取り組み、ホラー小説家とは違う一面を見せてくれます。《得意分野》□ホラー小説□1970年代を舞台にした青春小説 越智魔琴氏の『京都同やんグラフィティ 青雲編』は、1973年、瀬戸内海の小都市から京都に出てきた主人公の越智誠が織りなす、ハチャメチャ青春ストーリー。「同やん」と呼ばれる大学に入った誠は、目的がないままに京都での下宿生活を過ごしています。さまざまな事件が降りかかった1年間の生活で、誠は何を得たのでしょうか。「70年代の青春は、バカっぽいけど、なぜか心が熱くなる」をテーマとしています。 当時の生活や事件、ファッションなどをちりばめた、面白くて、どこか儚い青春ストーリーをお楽しみください。
2021.09.30
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今回は、前回に続いて僕の本のコマーシャルです。 10月1日に僕の『もののけ談義・前編』という本がアマゾンより発売されます。(予約可)定価は300円(税込)です。 『もののけ談義・前編』の内容は、次の通りです。 愛媛に残る妖怪や幽霊の伝説を中心に、その中に秘められた昔の人々の体験や知識、生活の知恵を紹介。様々な妖怪に姿を変えた風土と人間心理を詳しく解説します。『マンガで読み解く愛媛の伝説〜妖怪篇〜』を電子書籍化のために再編集しました。前編は、第一章は「川辺・海辺の妖怪」、第二章は「山の妖怪」がイラストとマンガでわかりやすく紹介されています。面白くて、びっくりすることが続々登場するエデュテインメント本です。※エデュテインメントとはエデュケイション(教育)とエンターテイメント(娯楽)を組み合わせた造語です。 目次はこのようになっています。 はじめに第一章 川と海の妖怪 エンコ(河童) 龍・大蛇 牛鬼 船幽霊・あいぞうの火・大ダコ・小豆とぎ第二章 山の妖怪 えひめの天狗伝説 山姥 サトリ・アマンジャク ヤマイヌ ジキトリ・ノツゴ・ウブメ・夜雀 詳しい内容や立ち読み、アマゾンへの入り口は、以下のサイトにあります。※どいなか主義HPはこちら
2021.09.29
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今日と明後日は、僕の本のコマーシャルです。 10月1日に僕の『湯けむり漱石』という本がアマゾンより発売されます。(予約可)この内容は以下の通りです。定価は800円(税込)です。 『湯けむり漱石』の内容は、次の通りです。 夏目漱石は、23歳の時に眼病治療で姥子温泉に湯治に行ったのを皮切りに、49歳の湯河原逗留まで、数多くの温泉に出かけました。九州、四国、近畿、関東、中部などの温泉はいうに及ばず、満韓の湯にまで浸かり、さまざまな温泉を体験しています。運命のいたずらなのか、温泉に出かける頃になると、漱石にはさまざまな事件が降りかかってきました。初恋の破綻、都落ち、新婚旅行、初めての小説、朝日新聞への入社、生死をさまよう大患、芸妓への恋慕などの多彩な出来事が、温泉体験とともに漱石の人生に訪れてきたのです。 本書では、それらの温泉への旅を17章に分け、その時々の漱石の姿を浮き上がらせます。 温泉のようにリラックスできる本、心を温めてくれる本を目指し、四コママンガを配して、より分かりやすく、より楽しめることを目指しています。これぞエデュテインメント本の真骨頂です。※エデュテインメントとはエデュケイション(教育)とエンターテイメント(娯楽)を組み合わせた造語です。 目次はこのようになっています。 はじめに第1章 姥子温泉 トラホーム治療に訪れた温泉第2章 伊香保温泉 温泉でも癒せなかった漱石の失恋第3章 道後温泉 田舎への嫌悪を忘れさせてくれる温泉第4章 二日市温泉・船小屋温泉 新婚旅行で訪ねた福岡の温泉第5章 小天温泉 『草枕』に描写された俳味溢れる温泉第6章 戸下温泉・阿蘇内牧温泉 『二百十日』に結実した阿蘇の温泉第7章 諏訪山温泉 ロンドンに向かう旅の途中の温泉第8章 カルルスバード、バース ロンドンでの温泉への見果てぬ夢第9章 東京の銭湯 『猫』に描かれた東京の銭湯第10章 嵐山温泉 朝日新聞訪問のついでに立ち寄った京都の温泉第11章 熊岳城温泉・湯崗子温泉・五龍背温泉 招かれた旅で巡った満韓の温泉第12章 修善寺温泉 胃病で生死をさまよった温泉第13章 上諏訪温泉 長野の講演旅行で浸かった温泉と雛子の死第14章 塩原温泉郷・上林温泉・渋温泉・赤倉温泉 是公とともに大正最初の温泉ざんまい第15章 宇治温泉 文学芸妓・多佳への想い第16章 湯河原温泉・伊豆山温泉・宮ノ下温泉 是公とともに東京近郊の温泉巡り第17章 湯河原温泉 腕の痛みの原因は、リウマチならぬ糖尿病 詳しい内容や立ち読み、アマゾンへの入り口は、以下のサイトにあります。※どいなか主義HPはこちら
2021.09.27
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Amazonで今日から『西洋料理好き漱石』と『呪術都市松山』が発売されました。売れているかどうか、とても不安です。 配所には干網多し春の月 漱石(明治29) 干網に立つ陽炎の腥き 漱石(明治29) 漱石作品には「干網」は出てきませんが「網」なら『彼岸過迄』と『道草』に出てきます。『彼岸過迄』は千代子とともに船に乗って出かけた時の様子に魚が取れる投げ網の様子が描写されています。『道草』は、養子先の島田に洗えられたものの回想の中に、海に連れて行ってもらった思い出があり、そこで網の描写があります。もので縛りつけようとする島だけの様子もまた、網で取られる魚と同じ状態であることを示しています。漱石の魚嫌いは、そうした記憶によるものでしょうか。 叔父は船頭に向って蛸はもうたくさんだといった。船頭は帰るのかと聞いた。向うの方に大きな竹籃のようなものが二つ三つ浮いていたので、蛸ばかりで淋しいと思った叔父は、船をその一つの側へ漕ぎ寄せさした。申し合せたように、舟中立ち上って籃の内を覗くと、七八寸もあろうという魚が、縦横に狭い水の中を馳け廻っていた。そのあるものは水の色を離れない蒼い光を鱗に帯びて、自分の勢で前後左右に作る波を肉の裏に透すように輝やいた。「一つ掬って御覧なさい」 高木は大きな掬網の柄を千代子に握らした。千代子は面白半分それを受取って水の中で動かそうとしたが、動きそうにもしないので、高木はおのれの手を添えて二人いっしょに籃の中をおぼつかなく攪き廻した。しかし魚は掬えるどころではなかったので、千代子はすぐそれを船頭に返した。船頭は同じ掬網で叔父の命ずるままに何疋でも水から上へ択り出した。僕らは危怪な蛸の単調を破るべく、鶏魚、鱸、黒鯛の変化を喜こんでまた岸にのぼった。(彼岸過迄 雨の降る日 24) 健三は昔その人に手を引かれて歩いた。その人は健三のために小さい洋服を拵えてくれた。大人さえあまり外国の服装に親しみのない古い時分のことなので、裁縫師は子供の着るスタイルなどにはまるで頓着しなかった。彼の上着には腰のあたりに釦(ボタン)が二つ並んでいて、胸は開いたままであった。霜降の羅紗(ラシャ)も硬くごわごわして、極めて手触が粗かった。ことに洋袴(ズボン)は薄茶色に竪溝の通った調馬師でなければ穿かないものであった。しかし当時の彼はそれを着て得意に手を引かれて歩いた。 彼の帽子もその頃の彼には珍らしかった。浅い鍋底のような形をしたフェルトをすぽりと坊主頭へ頭巾のように被るのが、彼に大した満足を与えた。例の如くその人に手を引かれて、寄席へ手品を見に行った時、手品師が彼の帽子を借りて、大事な黒羅紗の山の裏から表へ指を突き通して見せたので、彼は驚ろきながら心配そうに、再びわが手に帰った帽子を、何遍か撫でまわして見たこともあった。 その人はまた彼のために尾の長い金魚をいくつも買ってくれた。武者絵、錦絵、二枚つづき三枚つづきの絵も彼のいうがままに買ってくれた。彼は自分の身体にあう緋縅しの鎧と竜頭の兜さえ持っていた。彼は日に一度位ずつその具足を身に着けて、金紙で拵えた采配を振り舞わした。 彼はまた子供の差す位な短かい脇差の所有者であった。その脇差の目貫は、鼠が赤い唐辛子を引いて行く彫刻で出来上っていた。彼は銀で作ったこの鼠と珊瑚で拵えたこの唐辛子とを、自分の宝物のように大事がった。彼は時々この脇差が抜いて見たくなった。また何度も抜こうとした。けれども脇差はいつも抜けなかった。――この封建時代の装飾品もやはりその人の好意で小さな健三の手に渡されたのである。 彼はまたその人に連れられて、よく船に乗った。船にはきっと腰蓑を着けた船頭がいて網を打った。いなだの鰡(ぼら)だのが水際まで来て跳ね躍る様が小さな彼の眼に白金のような光を与えた。船頭は時々一里も二里も沖へ漕こいで行ってかいずというものまで捕った。そういう場合には高い波が来て舟を揺り動かすので、彼の頭はすぐ重くなった。そうして舟の中へ寐てしまうことが多かった。彼の最も面白がったのは河豚の網にかかった時であった。彼は杉箸で河豚の腹をかんから太鼓のように叩いて、その膨れたり怒ったりする様子を見て楽しんだ。…… 吉田と会見したあとの健三の胸には、ふとこうした幼時の記憶が続々湧いて来ることがあった。すべてそれらの記憶は、断片的な割に鮮明に彼の心に映るものばかりであった。そうして断片的ではあるが、どれもこれも決してその人と引き離すことは出来なかった。零砕の事実をたぐり寄せれば寄せるほど、種が無尽蔵にあるように見えた時、またその無尽蔵にある種のおのおののうちには必ず帽子を披らない男の姿が織り込まれているということを発見した時、彼は苦しんだ。(道草 15)
2021.09.01
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10月に予定している電子本は、『〜湯けむりの向こうに夏目漱石の真実が浮かぶ〜湯けむり漱石』と『〜愛媛を中心とした妖怪・幽霊伝説とその不思議〜もののけ談義』の2冊です。 『湯けむり漱石』の内容は、次の通りです。 夏目漱石は、23歳の時に眼病治療で姥子温泉に湯治に行ったのを皮切りに、49歳の湯河原逗留まで、数多くの温泉に出かけました。九州、四国、近畿、関東、中部などの温泉はいうに及ばず、満韓の湯にまで浸かり、さまざまな温泉を体験しています。運命のいたずらなのか、温泉に出かける頃になると、漱石にはさまざまな事件が降りかかってきました。初恋の破綻、都落ち、新婚旅行、初めての小説、朝日新聞への入社、生死をさまよう大患、芸妓への恋慕などの多彩な出来事が、温泉体験とともに漱石の人生に訪れてきたのです。 本書では、それらの温泉への旅を17章に分け、その時々の漱石の姿を浮き上がらせます。 温泉のようにリラックスできる本、心を温めてくれる本を目指し、四コママンガを配して、より分かりやすく、より楽しめることを目指しています。これぞエデュテインメント本の真骨頂です。※エデュテインメントとはエデュケイション(教育)とエンターテイメント(娯楽)を組み合わせた造語です。 目次はこのようになっています。 はじめに第1章 姥子温泉 トラホーム治療に訪れた温泉第2章 伊香保温泉 温泉でも癒せなかった漱石の失恋第3章 道後温泉 田舎への嫌悪を忘れさせてくれる温泉第4章 二日市温泉・船小屋温泉 新婚旅行で訪ねた福岡の温泉第5章 小天温泉 『草枕』に描写された俳味溢れる温泉第6章 戸下温泉・阿蘇内牧温泉 『二百十日』に結実した阿蘇の温泉第7章 諏訪山温泉 ロンドンに向かう旅の途中の温泉第8章 カルルスバード、バース ロンドンでの温泉への見果てぬ夢第9章 東京の銭湯 『猫』に描かれた東京の銭湯第10章 嵐山温泉 朝日新聞訪問のついでに立ち寄った京都の温泉第11章 熊岳城温泉・湯崗子温泉・五龍背温泉 招かれた旅で巡った満韓の温泉第12章 修善寺温泉 胃病で生死をさまよった温泉第13章 上諏訪温泉 長野の講演旅行で浸かった温泉と雛子の死第14章 塩原温泉郷・上林温泉・渋温泉・赤倉温泉 是公とともに大正最初の温泉ざんまい第15章 宇治温泉 文学芸妓・多佳への想い第16章 湯河原温泉・伊豆山温泉・宮ノ下温泉 是公とともに東京近郊の温泉巡り第17章 湯河原温泉 腕の痛みの原因は、リウマチならぬ糖尿病 『もののけ談義』の内容は、 愛媛に残る妖怪や幽霊の伝説を中心に、その中に秘められた昔の人々の体験や知識、生活の知恵を紹介。様々な妖怪に姿を変えた風土と人間心理を詳しく解説します。 第一章は「川辺・海辺の妖怪」、第二章は「山の妖怪」、第三章は「里の妖怪」、第四章は「幽霊」とし、カッパや天狗、山姥、タヌキ、化け猫、お菊井戸、ミサキなどの妖怪や幽霊を、イラストとマンガでわかりやすく紹介しています。面白くて、びっくりすることが続々登場するエデュテインメント本です。 目次は はじめに第一章 川辺・海辺の妖怪 エンコ(河童)/龍・大蛇/牛鬼/海や川の伝説第二章 山の妖怪 天狗//山姥・サトリ・アマンジャク/ヤマイヌ/ジキトリ・ノツゴ・ウブメ・夜雀の伝説第三章 里の妖怪 狸/化け猫/蜘蛛/高坊主・大人/首無し馬第四章 幽霊 お菊井戸/ミサキ/偉人の幽霊話/楠木正成と学信の幽霊譚/妬みと嫉みは幽霊話の温床/六部殺し・肉つきの面/幽霊の片袖・松音の生首第五章 妖怪とつきあう 疫病退散と妖怪/疫鬼や魔ものから逃れる方法 これから毎月2冊ずつ発刊しようと考えています。乞うご期待ください。 詳しくはHP「どいなか主義」でどうぞ。
2021.08.31
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今日と明日は、僕の本のコマーシャルです。 9月1日に僕の『西洋料理好き漱石』という本がアマゾンより発売されます。(予約可)この内容は以下の通りです。定価は800円(税込)です。 夏目漱石が愛した西洋料理から、漱石の真実の姿をあぶり出す一冊。漱石と西洋料理に関するエピソードや裏話、西洋料理の成立、料理の誕生秘話などのうんちくとともに、西洋料理が登場する漱石作品の魅力を感じていただけます。漱石の人生と西洋料理の関係を深く知るための「第一章 漱石の人生と西洋料理」、肉料理と漱石のエピソードをまとめた「第二章 肉食系漱石」、漱石作品に登場する西洋料理とその成立を綴った「第三章 漱石作品と西洋料理」で構成され、四コママンガを配して、より分かりやすく、より楽しめることを目指したエデュテインメント本です。漱石を身近に感じたい人にぴったりです。※エデュテインメントとはエデュケイション(教育)とエンターテイメント(娯楽)を組み合わせた造語です。 目次は以下の通りです。 はじめに第一章 漱石の人生と西洋料理 洋食マナーの変遷/外国人教師マードックのフライド・エッグ/正岡子規に奢ってもらった洋食/イギリス留学直前の洋食マナー/コロンボのホテルで食べたカレーライス/ロンドンのサンドイッチ/ロンドンのクリスマス・ディナー/イギリス時代の日記に見る紅茶とティーパーティ/ロンドンで会った味の素の父/フィンガーボウルの譬え/総理大臣と文部大臣の料理の差/漱石のタバコとマナー/修善寺の大患とソップ/子供たちに対する洋食マナー/築地精養軒のピーナッツ/漱石臨終の葡萄酒第二章 肉食系漱石 肉食の歴史/学生時代の漱石と牛肉/ロンドン時代の漱石と牛肉/作家時代の漱石と牛肉/漱石のビフテキ賛歌/牛肉と馬肉の違い/猪肉の入った雑煮と猫/食牛会と肝臓会/漱石と豚/野鳥料理の歴史/大宮と旅順のウズラの味/装丁者が振る舞った雁/門人の借金とヤマドリ/木曜会と川鉄の鳥鍋/大谷繞石とツグミ第三章 漱石作品と西洋料理 吾輩は猫である:トチメンボー/吾輩は猫である:牛肉と西川/吾輩は猫である:牛鍋のいろは/草枕:サラダとサラド/野分:ミルクホール/虞美人草:食堂車とハム/虞美人草:ロシア料理/三四郎:マカロニ/それから:チーズ/それから:ビアホール/行人:平野水/道草:牛乳/明暗:トースト 今までにこのブログに書いたことのある内容ですが、情報を精査して文章を手直し、それに漫画をつけたものです。 また、他にも僕の『呪術都市・松山』がアマゾンで販売されます。定価は500円(税込)です。 土井中照の実質的商業出版デビュー作。地方出版のためにあまり流通せず、埋もれてしまった名著『風水都市・松山の秘密』を発掘しました。 加藤嘉明、蒲生忠知、久松松平家と続く松山の藩主たちが、領地を繁栄させるために施した、それぞれの呪術を紹介するとともに、藩主たちがつくりあげた不思議な「形」を解説します。風水や陰陽道をベースとした呪術の持つチカラを知ることができる、エデュテインメント本の名にふさわしい一冊です。※エデュテインメントとはエデュケイション(教育)とエンターテイメント(娯楽)を組み合わせた造語です。 はじめに第一章 鰯の頭も信心から 怨霊に彩られた日本の歴史/武将たちの信仰/加藤嘉明と松山城の履歴書第二章 風水、陰陽道とは 夢のチカラ/陰陽五行について/風水について/四神相応とは何だ/松山は四神相応の土地第三章 加藤嘉明の結界 松山築城の秘法/京都・江戸にみる秘術の法則/多すぎる嘉明の寺社勧請・移設・寄進/方位への結界第四章 加藤嘉明の結界2 寺町に施された北斗の結界/軍神・八幡神社の結界/素盞嗚尊による結界第五章 加藤嘉明、転封の謎 嘉明の会津移封の謎第六章 蒲生忠知の結界 蒲生忠知、お目見え/寺社の移設と蒲生忠知の結界第七章 久松松平家の結界 藩主選定の謎/久松松平家時代の寺社創設・移設・寄進/久松松平家時代の神社/久松松平家の方位結界/嘉明の結界崩し・北斗篇/嘉明の結界崩し・八幡篇/天神結界を探る第八章 久松松平家の秘術 俳句文化は言霊信仰/死霊鎮魂の能文化あとがき 他にも、『戦国ぼっち』シリーズで知られる瀧津孝氏の『ビジネスピンチなら戦国武将に訊け!』越智魔琴氏の『物の怪がたり』も雲水舎から同時に発売となります。 詳しい内容や立ち読み、アマゾンへの入り口は、以下のサイトでご確認いただけます。※どいなか主義HPはこちら
2021.08.30
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飯蛸の頭に兵と吹矢かな 漱石(明治29) 蟹に負けて飯蛸の足五本なり 漱石(明治29) 飯蛸の一かたまりや皿の藍 漱石(明治41) 飯蛸や膳の前なる三保の松 漱石(明治41) 飯蛸と侮りそ足は八つあると 漱石(明治41) 明治44年8月15日、漱石は新和歌浦を見物した後、県会議事堂で『現代日本の開化』と題して講演を行ないました。講演後の宴会に出ますが、風雨がはげしくなり、漱石らは和歌浦に戻らず新和歌浦に泊まりました。和歌山の「風月庵」での有志の慰労会で名物の蛸をたくさん食べています。 妻・鏡子の『漱石の思い出』には次のように書かれています。 そのころ「大阪朝日」の社員でした長谷川如是閑さんなどがお見舞いにおいでになって、どうも夏目くんは不養生だ、この間和歌ノ浦で飯蛸をしきりにたべるから、そんな不消化ものをたべてだいじょうぶですかと心配して注意してあげても、だいじょうぶだといってはしきりに喰べるんだらということに、夏目も寝ながら、ナーニ、飯蛸のせいじゃないよと抗議を申し込んでおりました。(夏目鏡子 漱石の思い出 46 朝日講演) ただ、この季節なので、これはイイダコではなく、タコの卵です。袋に入った状態でメスのお腹に収まり、生は透明ですが、茹でると白くなります。僕は一回、松山のミシュラン一つ星の店で食べたことがありますが、とてもクリーミーで、今までに食べたことのない濃厚な味わいでした。
2021.04.24
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賭にせん命は五文河豚汁 漱石(明治28) 河豚汁や死んだ夢見る夜もあり 漱石(明治28) 涅槃像鰒に死なざる本意なさよ 漱石(明治29) 物言はで腹ふくれたる河豚かな 漱石(明治29) 鰒汁と知らで薦めし寐覚かな 漱石(明治39) なに食はぬ和尚の顔や河豚汁 漱石(明治43) 漱石が明治40年1月18日の高浜虚子に宛てた手紙は、野上弥生子の小説『縁』を紹介するものです。その手紙にイマドキの小説好きは「鰒汁をぐらぐら煮て、それを飽くまで食って、そうして夜中に腹が痛くなって煩悶しなければ物足らないという連中が多いようである。それでなければ人生に触れた心持がしないなどといっています。ことに女にはそんな毒にあたって嬉しがる連中が多いと思います。大抵の女は信州の山の奥で育った田舎者です。鮪(まぐろ)を食ってピリリと来て、顔がポーとしなければ魚らしく思わないようですな。こんななかに『縁』のような作者のいるのは甚だたのもしい気がします。これをたのもしがって歓迎するものは『ホトトギス』だけだろうと思います。それだから『ホトトギス』へ進上します」とあり、刺激ばかりを求める読者の嗜好を河豚と鮪を使って揶揄しています。 「縁」という面白いものを得たから『ホトトギス』へ差し上げます。「縁」はどこから見ても女の書いたものであります。しかも明治の才媛がいまだかつて描き出し得なかった嬉しい情趣をあらわしています。「千鳥」を『ホトトギス』にすすめた小生は「縁」をにぎりつぶす訳に行きません。ひろく同好の士に読ませたいと思います。今の小説ずきはこんなものを読んでつまらんというかも知れません。鰒汁をぐらぐら煮て、それを飽くまで食って、そうして夜中に腹が痛くなって煩悶しなければ物足らないという連中が多いようである。それでなければ人生に高浜虚子に宛てて触れた心持がしないなどといっています。ことに女にはそんな毒にあたって嬉しがる連中が多いと思います。大抵の女は信州の山の奥で育った田舎者です。鮪(まぐろ)を食ってピリリと来て、顔がポーとしなければ魚らしく思わないようですな。こんななかに「縁」のような作者のいるのは甚だたのもしい気がします。これをたのもしがって歓迎するものは『ホトトギス』だけだろうと思います。それだから『ホトトギス』へ進上します。(明治40年1月18日 高浜虚子宛て書簡) 古川柳や「河豚は食いたし命は惜しし」という言葉があるように、江戸っ子たちに河豚の味は魅力的なのですが、毒のために命を落とす人が多かったのも事実でした。当時の河豚料理は「河豚汁」が中心で「ふくと汁」とも呼ばれていました。江戸時代初期の料理書『料理物語』「ふくとう汁」の項に「皮を剥ぎ、わたを捨て、かしらにある隠し肝をよく取って、血気のなくなるまでよく洗い、切ってどぶ(=酒粕を使った調味料)につけておく、すみ酒(=清酒)も入れる。下地は中みそより少し薄くして、煮立ったら魚を入れ、一煮立ちさせてどぶをさし、塩加減を吸い合わす」と書かれています。 しかし、フグはその毒から江戸時代は禁制の魚となっていました。しかし、その美味し佐のために毒も厭わないという人たちがいたと言います。明治に入っても、フグを食べて中毒になる人々は多く、明治15(1882)年には、政府も「河豚食う者は拘置科料に処する」とした禁令を発布しています。 フグが一般的に食べられるようになったのは明治20年(1887)の暮れのことです。初代内閣総理大臣を務めていた伊藤博文が山口県の旅館・春帆楼に宿泊した折、時化で魚の姿がなく、旅館の女将は打ち首覚悟で禁制だったフグを御膳に出しました。博文はフグを食し、「こりゃあ美味い」と賞賛します。実は、若き日の博文は、高杉晋作らとフグを食べていて、その味を知っていたのでした。翌年、博文は当時の山口県令に命じて禁を解かせ、山口県下限定でフグ食が解禁されています。 東京では明治25(1892)年に、毒の含まれる内臓を取り除くことを条件に、フグの販売が解禁されました。 夏目漱石の小説では、『吾輩は猫である』と『道草』『虞美人草』にフグ汁が登場します。どちらも注意しなければならない食材として登場します。また、『満韓ところどころ』には、 始めて海鼠を食い出いだせる人はその胆力に於て敬すべく、始めて河豚を喫きつせる漢(おとこ)はその勇気において重んずべし。海鼠を食くらえるものは親鸞の再来にして、河豚を喫せるものは日蓮の分身なり。苦沙弥先生の如きに至ってはただ干瓢の酢味噌を知るのみ。干瓢の酢味噌を食って天下の士たるものは、われ未いまだ之を見ず。(吾輩は猫である 9) 「それから河豚(ふぐ)と朝鮮仁参(ちょうせんにんじん)か何か書いてある」「河豚と朝鮮仁参の取り合せは旨いね。おおかた河豚を食って中(あた)ったら朝鮮仁参を煎じて飲めとでもいうつもりなんだろう」(吾輩は猫である 9) 彼はまたその人に連れられて、よく船に乗った。船にはきっと腰蓑を着けた船頭がいて網を打った。いなだの鰡だのが水際まで来て跳ね躍る様が小さな彼の眼に白金のような光を与えた。船頭は時々一里も二里も沖へ漕いで行って、海鯽というものまで捕った。そういう場合には高い波が来て舟を揺り動かすので、彼の頭はすぐ重くなった。そうして舟の中へ寐てしまう事が多かった。彼の最も面白がったのは河豚の網にかかった時であった。彼は杉箸で河豚の腹をかんから太鼓のように叩いて、その膨れたり怒ったりする様子を見て楽しんだ。(道草 15) ただの女といい切れば済まぬこともない。その代り、人も嫌い自分も好かぬ嘘となる。嘘は河豚汁である。その場限りで祟りがなければこれほど旨いものはない。しかし中毒(あたっ)たが最後苦しい血も吐かねばならぬ。その上嘘は実(まこと)を手繰り寄せる。黙っていれば悟られずに、行き抜ける便りもあるに、隠そうとする身繕い、名繕い、さては素性繕いに、疑いの眸(まなこ)の征矢(そや)はてっきり的と集りやすい。繕いは綻(ほころ)びるを持前とする。綻びた下から醜い正体が、それ見たことかと、現われた時こそ、身の錆は生涯洗われない。(虞美人草12) 旅行記『満韓ところどころ』にもフグが出てきます。満鉄総裁の中村是公(よしこと)と漱石は、第一高等中学校以来の親友でした。是公は河豚の干物を囓りながら、胃病で悩んでいた漱石を激励していたのかもしれません。(ゼムとは山崎愛国堂が販売した「一粒含めば元気爽快 二粒忽ち消化を能くし 三粒にして悪疫を防ぐ」という懐中薬です) 是公は書斎の大きな椅子の上に胡坐をかいて、河豚の干物を噛って酒を呑んでいる。どうして、あんな堅いものが胃に収容できるかと思うと、実に恐ろしくなる。そうこうする内に、おいゼムを持っているなら少しくれ、何だかおれも胃が悪くなったようだと手を出した。そうして、胃が悪いときは、河豚の干物でも何でも、ぐんぐん喰って、胃病を驚かしてやらなければ駄目だ。そうすればきっと癒るといった。酔っていたに違ない。(満韓ところどころ 18)
2021.03.11
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ようやく、精神的な悩みから解放された子規でした。ただ、食欲が湧いて来ません。普段なら、3〜4杯食べるのに、この日は1〜2杯のみです。 朝は、昨日岡麓か試算した酣雪亭の中華料理を食べました。 酣雪亭は、湯島天神の鳥居前にあった偕楽園に次ぐ中華の名店です。明治34年刊行の『東京名物志』には「支那料理専門を持って著る。亭は高丘に據り、近く都下の光景を一望の下に集め、遠く房総の碧巒に杳冥の間に対し、四時ともに眺望に富む。この好景を領してまた有名なる包丁数名を清国甯波府より招き、極めて旨美なる風味を調烹するをもって、紳士間の賞賛を博せり。亭の名は「酣飲于雪」の義に取る」とあります。 この説明によると、見晴らしの良い高級中華料理店だったことがわかります。 また、西洋菓子も6日に鋸歯が持って来たものの残りでした。 十月八日 風雨 精神やや静まる されど食気なし 朝飯遅く食う 小豆粥二わん つくだ煮 咋日の支那料理の残り 牛乳 西洋菓子 午飯 さしみ 飯一わん つくだ煮 焼茄子 梨 ぶどう 牛乳 西洋菓子 しおせんべい 便通とほーたい 晩飯 さしみ三、四切 粥一わん ふじ豆 梨 ぶどう レモン 来客なし
2021.03.08
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霽月に酒の賛を乞われたるとき 一句抜きたまえとて遣わす五句 飲む事一斗白菊折って舞わんかな 漱石(明治28) 憂ひあらば此酒に酔へ菊の主 漱石(明治28) 黄菊白菊酒中の天地貧ならず 漱石(明治28) 菊の香や晋の高士は酒が好き (酒名を凱歌[かちどき]という)兵ものに酒ふるまはん菊の花 漱石(明治28) 漱石は、下戸でありながら日本酒の酒蔵に賛を贈ったことがあります。 一つは、今出(現松山市西垣生町)で伊予絣の製造会社を営んでいた村上霽月の頼みに応じて書かれたものです。霽月の実家は酒造業や金融業を営む素封家でした。霽月が漱石と知り合ったのは、子規が漱石の下宿・愚陀仏庵にいた頃で、互いの気風があったのか、漱石と霽月は、漱石が松山を離れてからも、漱石の晩年まで交流が続きました。 霽月の親戚の岡酒造が、明治28(1895)年の日清戦争勝利にちなんでつくられた酒があり、その酒に対して、下戸の漱石へ賛句を頼んだのです。この酒は「かちとき」と読まれ、現在も醸されています。 この年は、日本が日清戦争に勝利しましたので、凱歌[かちどき]という名前の酒が誕生したことになります。酒以外にも、こうした名前を持つ商品が多く誕生しました。
2021.02.23
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漱石の妻・鏡子は、悪妻として知られています。「ソクラテスの妻」に対して日本では「漱石の妻」が引き合いに出されます。 しかし、本当に鏡子は悪妻だったのでしょうか。 鏡子が悪妻であるというイメージは、漱石門人の小宮豊隆が著書『夏目漱石』の中で漱石を神経衰弱に追いやったのは鏡子のせいだとばかりに書いています。 『漱石の思い出』では、漱石を精神病者として扱っている。鏡子が漱石を梢神病者であると信じていたことには、疑いがない。しかし尼子四郎や呉秀三の診断にもかかわらず、こういうのを精神病者として見做していいかどうかについて、私は深刻な疑いを持っている。元来一人の人間が精神病であるかないかを決定することは、困難であるには違いない。それだから今日の精神病医は、数回にわたり、もしくは数時間にわたって、患者と対話し、あらゆる方面から、手間をかけて、その患者の精神機能を観測し、診断の材料を蒐集しようと努めている。しかるに尼子四郎や呉秀三は、恐らく漱石の身体を一回、たかだか二回くらい、それも外のことに託して、そこそこにしか見ていない。診断の材料の重なるものは、鏡子の口供だけだったのに違いないのである。しかも鏡子には、漱石がなぜそう自分を憎むのか、なぜそう癇癪を起すのか、その理由が分からなかった。理由なしに女房を憎み、理由なしに子供をいじめ、理由なしに下女を追い出し、理由なしにそこいらの人間に怒鳴り散らすとすれば、これは、尼子四郎や呉秀三を俟つまでもなく、まさに気違いの沙汰である。尼子四郎も呉秀三も、『漱石の思い出』に書かれているような事実を、一々鏡子の口から聴かされて、結局漱石を神経衰弱以上のもの、即ち精神病者と診断したものと思われる。しかし鏡子が理由がないと思っているということそのことに、第一の問題があるのである。(小宮豊隆 夏目漱石 再び神経衰弱) 私から言わせれば、漱石の当時の癇癪の根本は、鏡子の無理解と無反省と無神経から来ているのである。もっともこれはあながち鏡子のみではなく、誰が漱石の妻になっていても、漱石はその無理解と無反省と無神経に悩まなければならなかったのかも知れない。漱石は自分に最も近いものを最も憎んだと言われるが、正しい漱石は、自分が最も愛する者、自分が最もよく知っている者、自分に最も近い者の中に、最も醜いものを発見する場合、愛し、知り、近いという理由だけで、見て見ぬふりをするというような、そんなだらしのない真似はできなかったのである。その上人は、自分に近い者でなければ、真正の意味で、愛しも憎みもするわけに行かない。最も近いが故に最も憎まれるということは、その人に救いようのない「悪」が巣喰っているためである。(小宮豊隆 夏目漱石 再び神経衰弱) と書いています。なんとも凄まじい鏡子に対する憎悪ですが、どことなく神格化している存在の配偶者に対するやっかみだとも感じられるところが無きにしも非ずの文章です。 豊隆の『漱石襍記』の中に「夏目先生のこと」という文章があるのですが、ここに豊隆の気持ちが隠されているような気がします。「私が先生のところへ初めて行って話をしているうちにあぐらをかいたという話は、いつだったか『漱石の思い出』の中ですっぱぬかれて以来、だいぶ有名になってしまった。しかしあの『思い出』は一体、触れてしかも悉し得ない憾みがある。私はここにあの時のことを、もう少し精しくかいておきたいと思う」とあり、それについての自己弁護がダラダラと続きます。 要するに、ここに書かれているのは、神格化している漱石のことを色々と喋った『漱石の思い出』への怒りであり、自分のことも含めて、こういうことがあったのにわからないのかという鏡子への非難なのです。また、自分は漱石のことをよくわかっている。鏡子は漱石のことなんか少しも理解せず、そのために漱石は悩んでいたんだ、自分の方が漱石に理解されていたし、あの人のことを門人の誰よりも理解しているんだぞという、ホモセクシャル的な愛情の告白でもあるのです。 こうした愛情の裏返しが、漱石の理想主義とは異なる、現実的な鏡子への嫌悪となり、「鏡子=悪妻」論に繋がったのではないかと思います。もちろん、漱石の生前でも「鏡子=悪妻」という考えは広まっていたようですが、現実に立ち向かえない作家の卵たちは、鏡子に金の工面を頼んでいます。親分肌の鏡子は、それに対して不平をこぼさず、門人たちに対応してあげています。 それにひきかえ、豊隆は一人で世間に対峙できない文学仲間のうちで、自分とは毛色の違う人物の陰口を広めます。この対比を見ると、鏡子を応援したくなってきます。
2020.12.17
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漱石がロンドンに留学していたときに生まれたのが次女の恒子です。鏡子は、子供への命名を頼む手紙を明治33年12月21日に出し、それが翌年の1月22日にと届きました。漱石は、24日にその名前を考えて送っています。 女の子なら、御春、町、千枝、姉が筆だから妹は墨、雪江、浪江、花野などの名前を考えていますが、明治34年1月26日に生まれた名前は恒子となりました。漱石の考えた名前は、ずっと後に届いてしまったからです。 昨日、久々にて一書相認め、郵筒に附し候処、今日御地十二月二十一日付書翰到着。皆々無事のよし承知、大慶このことに御座候。 小児出産後命名の件承知致候。これは中根爺様の御つけ被下ることと合認して、何とも申し遣わさず打絶申候。名前も考えるとむずかしきものに候えども、どうせいい加減の記号故、簡略にて分かりやすく、間違いのなきような名をつければよろしく候。今度の小児男児なれば直一とか何とか御つけ被成候。これは家の人が皆直の字がついている故なり。また代輔でもよろしく、これは死んだ兄の幼名なり。あるいは親が留守だから家の留守居をする即ち門を衛るというので衛門などは少々酒落ているがどうだね。門を衛るでは犬のようで厭なら御止し。己と御前の中に出来た子だから、どうせ無口な奴に違いないから夏目黙などは乙だろう。それとも子供の名前だけでも金持然としたければ、夏目富(トム)がよかろう。ただし親が金之助でもこの通貧乏だからあたらないことは受合だ。女の子なら春生れたから御春さんでいいね。待父の上の一字ずつを取って、マチ即ち町は如何ですかな。己の御袋の名は千枝といった。こいつは少々古風で御殿女中然として居るな。姉が筆だから妹は墨としたら理窟ポイかな。二字名がよければ雪江、浪江、花野、なんていうのがあるよ。千鳥、鷗と来ると鳥に縁が近くなるし、八つ橋、タ霧などとなると女郎の名のようだからよしたがよかろう。まあまあ何でも異議は申し立んから中根のおやじと御袋に相談してきめるさ。 入歯のこと承知。俣野、湯浅、土屋へは無沙汰をしている。よろしくいって御呉れ。たまに来たら焼芋でも食わしてやるがいい。菅の奥さんが来たら、これまたよろしくだ。菅へも狩野へも一返も手紙をやらないよ。 この手紙と前便とは一所に届くだろう。この土曜が郵便日だから。 二十四日夜 金 鏡どの 御梅さんは背が高くなったかね。御豊さん、たけさん、倫さん、皆さんへよろしく。倫さんは勉強するかい。近頃はどんな様子かね。(明治34年1月24日 鏡子宛書簡) 漱石が帰国した時、恒子は3歳でした。『漱石の思い出』には「次女の恒子がようやく三つで、ちょうど赤ん坊ができて私に離れた時なので、ひいひいよく泣くのです。もちろんやかまくもあるのですが、それがひどく神経にさわるとみえて、夜中にでもなんでもひどい目にあわします。一つには私への面当てかと思いましたが、ともかく時々狂的にいじめるのです。(20小刀細工)」と書いています。また、「この三十七年の夏ごろ、このころは一時にくらべればよほどよくなったのですが、それでも時々怒って、一度こんなことがありました。夕方恒子がしきりに泣きましたら、それが癇癪にさわったとみえて、貴様たちがよってたかって泣かせるのだろう、おれのところに連れてきておけといったわけで、自分の部屋に連れて参りました。ところがこの子は疳性でかえって火のつくように泣くのです。私はどうする気か知らんと半ばおかしくもまた危っかしくも思いながら、ともかく赤ん坊をおんぶしてお医者のところヘ薬取りに参りましてかえって来てみますと、玄関側の書斎には灯がついて、夏のことだから窓を明け放して、簾をかけてあります。中では恒子がまだ元気に泣いております。どうしてるかしらと簾をすかして見ると、泣いてる子の側にすわって、しきりと団扇をもって一生懸命あおいでいるではありませんか。それなり私も家へ入ってなおも放っておきますと、やがて女中を呼んで、『連れて行け』と泣いて泣いて泣きやまないお荷物にとうとう匙を投げてしまいました。(22小康)」とあり、恒子の泣き声がよほど癪に触っていたのでしょう。 このような環境で育ったためか、恒子は癇癪持ちでした。『漱石の思い出』には「猫のほうではますますいい気になって子供の寝床に入り込んだりして、そのたびに疳持ちの二女の恒子なんかは夜中でも、「猫が入った、猫が入った」と火事でもでたようにキイキイ声を立てます。すると夏目が物尺をもって追っかけ歩いたりして、時ならぬ活劇を演じたこともよくありました。(23「猫」の家)」と書いています。 昭和3年版『漱石全集』月報第18号に掲載された長女・筆子の『夏目漱石の「猫」の娘』には「面倒臭いとでも思ったのでしょう、ずっと上までトコロテン式に進級出来るようにと、当時出来たての女子大の附属に、両親は私と恒子を入学させた程でした。何か本が読みたいという年頃になっても、女の子がなまはんかに文学づいたり、学者づいたりするのをひどく嫌って、父は、私達に文学書や翻訳物を決して読ませようとはしませんでした」とあり、筆子の『父漱石』には「不機嫌の最中のある夜のこと、私とすぐ下の妹とが、それまで腫れ物に障るように静かに気をつけていたのでしたが、どうしたはずみか急に二人で声を揃えて笑ってしまいました。はっと気がついた時には、書斎から女中部屋へジリジリンと性急なベルが鳴ります。失策ったと思う間もなく、女中が父からすぐ来いという達しだと伝えます。仕方がないからしおしおと書斎へ行きますと、父はだまって二人を睨めております。ややあって蒲団をもって来なさいという命令です。小さくなって蒲団の上に坐わると、父はそのまま黙って本を読んで居ります。そうして十分もしたかと思うころに、大きな目玉でぎょろりと睨むのです、睨まれる度に二人とも縮み上がります。その中に口の中に唾がたまります。それを音なく呑み込もうとするのでございますが、何しろ静かな夜のことで物音一つしない時とて、びっくりするような音がごくりと鳴ります。と父がまた容赦もなく頭を擡げて、ぎゅっと眺めます。その夜父の監視の下で二時間ばかり静坐をさせられました。あんなつらいことはございませんでした」とあり、暴力こそ加えませんでしたが、神経質な漱石の振る舞いが書かれています。 恒子は、漱石の死後、鏡子の勧めで江副養蔵と結婚し、昭和11年に亡くなりました。養蔵は、佐賀藩士でのちに米国産煙草の販売会社を設立した江副廉蔵の末子です。お金に不自由しない生活をと鏡子が望んだようですが、その結婚生活はあまり幸せなものではありませんでした。夏目伸六の『母のこと』(『父・夏目漱石』に収録)には、その生涯の一部が紹介されています。 不幸な結婚をしたこの姉は、当時、沼津に住んでいたが、ちょっとした風邪がもとで、肺炎を起して死んだのである。報知を受けて、ひとまず、私とすぐ上の姉と、それから、私等姉弟が生れた時から、かかりつけているなじみの医者の三人が、先に出かけて行ったのだが、もうその時には、病人の顔に、はっきりと死相が現われていて、ひどく呼吸が苦しいのか、見開かれた両眼の視点もぼやけて、ほとんど何を見ているのか解らぬといった状態であった。義兄は入院中であり、病室には、それでも、近所のかみさん連が、三四人手伝いに来ていたが、枕もとの火鉢を囲んで、まだ小学校に通っている小さな二人の姪と一人の甥とが、二三日間、ろくに洗面もしないといった汚い顔を揃えて、いかにも不安そうに背を丸めている姿が、私には、一層哀れに思われた。 無論、この姉は、それから間もなく、息を引き取ったから、何かと用事をすませて、一汽車遅れて到着した母は、その死に目にも会えなかった訳だけれど、吾々としては、やっと東京から駈けつけたこの母に、すぐさま玄関先で、事実を知らせるということが、いかにも残酷に思われて、踏躇されたのも無理はない。 恐らく、母も、内心、同じような不安を感じていたのか、直接病室の方へは通らず、わざわざ二階へあがって、応接間の長椅子に腰をおろし、疲れを休めながら、医者と、それとない話を交わしていたが、やがて、「それで、病人の工合はいかがでございます?」 と、半分腰を浮かしかけた。が、急に眼を落して、頭をさげた医者の様子を見て、「死んだよ」 私は、やむを得ず、横から口を出したが、それと同時に、眩暈でも感じたように、母の身体がふらふらッと揺れたと思うと、椅子の上に倒れかかった。肥満した母の胸のあたりが、大きく波打っているのが、はっきりと見わけられるほどだったが、それでも、しばらくしてから、ようやく、「そうでしたか……」 と、立上り、遺体の安置してある階下の部屋に降りて行った。そうして静かにその枕もとに坐り、顔を蔽った白布を取りのけたが、突然、「まあ、まあ、まあ、お前は本当に不幸な子だったねえ」 と、両の手で、冷たい姉の頬をさすりながら落涙した。 私は、未だかつて、これほど悲痛な母の声を聞いたことがない。一見、芝居の台詞を思わせるような語調にもかかわらず、その声のうちには、母親としての万斛の悲哀の情が満ち満ちていた。しかもそこには、思わず頑是ない生れたての赤子に対して呼びかけるような、無限のいとおしさが潜んでいた。恐らく母は、合掌して瞑目した姉の死顔を見た時、遠い昔、自分のふところに抱きかかえて、子守唄を唱い唱い、育てて来たその赤子の頃を咄嵯に思い出したのに違いない。 かつて、この姉を、気の進まぬ相手に嫁がせ、彼女を不幸な生活に追いやった責任者は、とりもなおさず自分なのだという気持が、母をいつも悩ましていたことを、実をいうと、私は、この時始めて知ったのである。(夏目伸六 母のこと)
2020.12.03
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漱石(金之助)は慶応3年1月5日(新暦2月9日)、江戸牛込馬場下横町(現在、東京都新宿区喜久井町1)に、牛込馬場下横町あたりの町方名主であった50歳の夏目小兵衛直克と41歳の千枝の五男として生まれました。この日は庚申の日であったので、大きくなって大泥棒になるのを防ごうと、名前に「金」の字をつけたのでした。※漱石と庚申についてはこちら しかし、漱石の作品には、父の面影はおぼろげにしか出てきません。主に登場するのは、随筆の『硝子戸の中』で、成果あたりの風景ははっきりした描写で描かれているのですが、父の面影はぼんやりしたものでしかありません。また、夏目家を継がそうと目論んでいた長男の直克が明治20年にこの世を去り、二男の直則もこの年に同じく病歿したことにより、翌年に養子先の塩原昌之助に240円の養育科を払って、漱石を夏目家に復籍させます。そのために、漱石は生家に戻るのですが、父親は世間の家では祖父と同じくらいの年となっていたのでした。 私の家に関する私の記憶は、惣(そう)じてこういう風に鄙(ひな)びている。そうしてどこかに薄ら寒い憐(あわ)れな影を宿している。だから今生き残っている兄から、つい此間(こないだ)、うちの姉達が芝居に行った当時の様子を聴いた時には驚ろいたのである。そんな派出な暮しをした昔もあったのかと思うと、私はいよいよ夢のような心持になるよりほかはない。 その頃の芝居小屋はみんな猿若町(さるわかちょう)にあった。電車も俥(くるま)もない時分に、高田の馬場の下から浅草の観音様の先まで朝早く行き着こうと云うのだから、たいていの事ではなかったらしい。姉達はみんな夜半(よなか)に起きて支度(したく)をした。途中が物騒だというので、用心のため、下男がきっと供をして行ったそうである。 彼らは筑土(つくど)を下りて、柿の木横町から揚場(あげば)へ出て、かねてそこの船宿にあつらえておいた屋根船に乗るのである。私は彼らがいかに予期に充ちた心をもって、のろのろ砲兵工厰(ほうへいこうしょう)の前から御茶の水を通り越して柳橋まで漕がれつつ行っただろうと想像する。しかも彼らの道中はけっしてそこで終りを告げる訳に行かないのだから、時間に制限をおかなかったその昔がなおさら回顧の種になる。 大川へ出た船は、流を溯って吾妻橋(あずまばし)を通り抜けて、今戸(いまど)の有明楼(ゆうめいろう)の傍に着けたものだという。姉達はそこから上って芝居茶屋まで歩いて、それからようやく設けの席につくべく、小屋へ送られて行く。設けの席というのは必ず高土間に限られていた。これは彼らの服装(なり)なり顔なり、髪飾なりが、一般の眼によく着く便利のいい場所なので、派出を好む人達が、争って手に入れたがるからであった。 幕の間には役者に随いている男が、どうぞ楽屋へお遊びにいらっしゃいましと云って案内に来る。すると姉達はこの縮緬の模様のある着物の上に袴を穿いた男の後に跟(つ)いて、田之助(たのすけ)とか訥升(とっしょう)とかいう贔屓(ひいき)の役者の部屋へ行って、扇子(せんす)に画などを描いて貰って帰ってくる。これが彼らの見栄だったのだろう。そうしてその見栄は金の力でなければ買えなかったのである。 帰りには元来た路を同じ舟で揚場まで漕ぎ戻す。無要心だからと云って、下男がまた提灯を点けて迎に行く。宅へ着くのは今の時計で十二時くらいにはなるのだろう。だから夜半(よなか)から夜半までかかって彼らはようやく芝居を見る事ができたのである。…… こんな華麗(はなやか)な話を聞くと、私ははたしてそれが自分の宅に起った事か知らんと疑いたくなる。どこか下町の富裕な町家の昔を語られたような気もする。 もっとも私の家も侍分(さむらいぶん)ではなかった。派出な付合をしなければならない名主(なぬし)という町人であった。私の知っている父は、禿頭の爺さんであったが、若い時分には、一中節(いっちゅうぶし)を習ったり、馴染の女に縮緬(ちりめん)の積夜具をしてやったりしたのだそうである。青山に田地があって、そこから上って来る米だけでも、家のものが食うには不足がなかったとか聞いた。現に今生き残っている三番目の兄などは、その米を舂(つ)く音を始終聞いたと云っている。私の記憶によると、町内のものがみんなして私の家を呼んで、玄関玄関と称(とな)えていた。その時分の私には、どういう意味か解らなかったが、今考えると、式台のついた厳(いか)めしい玄関付の家は、町内にたった一軒しかなかったからだろうと思う。その式台を上った所に、突棒(つくぼう)や、袖搦(そでがらみ)や刺股(さつまた)や、また古ぼけた馬上(ばじょう)提灯などが、並んで懸けてあった昔なら、私でもまだ覚えている。(硝子戸の中 21) 今私の住んでいる近所に喜久井町という町がある。これは私の生れた所だから、ほかの人よりもよく知っている。けれども私が家を出て、方々漂浪(ひょうろう)して帰って来た時には、その喜久井町がだいぶ広がって、いつの間にか根来(ねごろ)の方まで延びていた。 私に縁故の深いこの町の名は、あまり聞き慣れて育ったせいか、ちっとも私の過去を誘い出す懐かしい響を私に与えてくれない。しかし書斎に独り坐って、頬杖を突いたまま、流れを下る舟のように、心を自由に遊ばせておくと、時々私の聯想(れんそう)が、喜久井町の四字にぱたりと出会ったなり、そこでしばらく低徊(ていかい)し始める事がある。 この町は江戸と云った昔には、多分存在していなかったものらしい。江戸が東京に改まった時か、それともずっと後になってからか、年代はたしかに分らないが、何でも私の父が拵えたものに相違ないのである。 私の家の定紋(じょうもん)が井桁(いげた)に菊なので、それにちなんだ菊に井戸を使って、喜久井町としたという話は、父自身の口から聴いたのか、または他のものから教わったのか、何しろ今でもまだ私の耳に残っている。父は名主(なぬし)がなくなってから、一時区長という役を勤めていたので、あるいはそんな自由も利いたかも知れないが、それを誇にした彼の虚栄心を、今になって考えて見ると、厭な心持は疾(と)くに消え去って、ただ微笑したくなるだけである。 父はまだその上に自宅の前から南へ行く時に是非共登らなければならない長い坂に、自分の姓の夏目という名をつけた。不幸にしてこれは喜久井町ほど有名にならずに、ただの坂として残っている。しかしこの間、或人が来て、地図でこの辺の名前を調べたら、夏目坂というのがあったと云って話したから、ことによると父の付けた名が今でも役に立っているのかも知れない。 私が早稲田に帰って来たのは、東京を出てから何年ぶりになるだろう。私は今の住居(すまい)に移る前、家を探す目的であったか、また遠足の帰り路であったか、久しぶりで偶然私の旧家の横へ出た。その時表から二階の古瓦が少し見えたので、まだ生き残っているのかしらと思ったなり、私はそのまま通り過ぎてしまった。 早稲田に移ってから、私はまたその門前を通って見た。表から覗くと、何だかもとと変らないような気もしたが、門には思いも寄らない下宿屋の看板が懸っていた。私は昔の早稲田田圃が見たかった。しかしそこはもう町になっていた。私は根来(ねごろ)の茶畠と竹藪を一目眺めたかった。しかしその痕迹(こんせき)はどこにも発見する事ができなかった。多分この辺だろうと推測した私の見当は、当っているのか、外れているのか、それさえ不明であった。 私は茫然として佇立(ちょりつ)した。なぜ私の家だけが過去の残骸のごとくに存在しているのだろう。私は心のうちで、早くそれが崩れてしまえば好いのにと思った。「時」は力であった。去年私が高田の方へ散歩したついでに、何気なくそこを通り過ぎると、私の家は綺麗に取り壊されて、そのあとに新らしい下宿屋が建てられつつあった。その傍には質屋もできていた。質屋の前に疎(まば)らな囲をして、その中に庭木が少し植えてあった。三本の松は、見る影もなく枝を刈り込まれて、ほとんど畸形児(きけいじ)のようになっていたが、どこか見覚のあるような心持を私に起させた。昔し「影参差(しんし)松三本の月夜かな」と咏(うた)ったのは、あるいはこの松の事ではなかったろうかと考えつつ、私はまた家に帰った。(硝子戸の中 23) 直克は明治30年6月27日になくなりました。当時、漱石は熊本にいて、楽器試験の最中だったのですぐには帰れません。そのため、7月9日に妻・鏡子とともに上京し、墓参りをすませています。 ただ、この父の死により、漱石は毎月夏目家に送っていた10円の仕送りをしなくてもよくなりました。東京に向かう漱石の心の中に宿る父親の面影は、どのようなものだったのでしょう。
2020.10.22
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六月二十二日土 十時半、King’s CollegeにてSweetに会す。午後一時、田中氏方に至る。川上の芝居を見んという。いやだといった。それから田中氏の下宿に至る。Earls CourtのExhibitionを見に行く。(漱石日記) 明治34年6月22日、フロッドン・ロードの頃のブレット家に同居していた田中孝太郎と会いました。 その前に漱石はロンドン大学のキングス・カレッジを訪れています。ここを訪れたのは熊本第五高等学校の英語講師派遣のためでした。キングス・カレッジ訪問は、漱石の日記によると6月6日の午後3時20分に候補者との面会に来られたしというヘイルズ教授からの手紙があり、出かけた漱石は30分遅刻してしまい、その日に約束を果たすことができませんでした。翌日の手紙には候補者スウィート氏に明日逢えという手紙が来て、8日に面会、10日に再びキングス・カレッジを訪れてヘイルズ教授に会っています。 芝居好きの孝太郎は、漱石も喜ぶと思い、当時ロンドン公演を行っていた川上音二郎一座の芝居に誘われたのですが、漱石は断っています。 オッペケペー節で知られる川上音二郎は、明治24年に壮士芝居の一座を堺市の卯の日座で旗揚げしたものの興行は失敗続き。上京して東京の中村座で興行すると、オッペケペー節の人気も伴って意外にも大人気。気分を良くした音二郎は、明治26年にフランスで興行して帰国すると、これまた人気を呼びました。 明治27年に芸者・貞奴と結婚して一座に引き入れた音二郎は、明治32年に渡米します、その興行では、貞奴の美貌と日本舞踊が評判になりました。翌年にはヨーロッパへ渡り、パリ万国博覧会では貞奴は「マダム貞奴」と呼ばれて人気を博します。 漱石が誘われたのは、3度目のヨーロッパ公演で、巡業中にフランス大統領エミール・ルーベより官邸のエリゼ宮殿にて、オフシェー・ド・アカデミー三等勲章を授与されています。そして、帰国すると、日本で初めての翻訳セリフ劇『オセロ』を上演し、以後『ハムレット』『ヴェニスの商人』などを積極的に上演していきました。 石井研堂著『明治事物起原』より、川上音二郎の洋行部分を抜粋します。 三十二年四月、妻貞奴とともに米国に渡航し、最初桑港〔サンフランシスコ〕にて失敗せしも、押して欧洲まで渡り、英、仏、白〔ベルギー〕等にて喝采を博して帰り、三十四年三度目の洋行には、泰西の学者名士名侵より喝采を博し、三十五年に帰朝し、明治座に「オセロ」を演じて好評を博したるは、川上が得意の絶頂なりしならん。 三十九年貞奴と両人連れにて、また欧洲劇壇の観察に赴き、帰朝後大阪に帝国座を創立し俳侵の品位を高め、劇道を旺盛ならしむること、欧米諸国のごとくならしむるを理想としたりしが、不幸にして病に罹り、四十四年十一月十一日同地高安病院にて死去せり。 川上の化けて出ぬのがめツけもの をけら こは、音次郎の歿後、貞奴が、福沢桃介の妾となれるを狂句りたるものならん。(石井研堂 明治事物起原 7) Earls CourtのExhibitionとありますが、アールス・コートには美術館はありませんので、近くで展示品が鑑賞できるといえば、おそらくヴィクトリア・アンド・アルバート博物館のことでしょう。
2020.09.20
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紙あます日記も春のなごり哉(明治29) 冬籠本は黄表紙人は鬚(明治29) 書初に鶴の歌書く檀紙哉(明治32) 明治34年2月27日の『墨汁一滴』で、子規はこの時代の装丁の傾向について書いています。日本の印刷は当初木版画中心でしたが、明治時代となって西洋の活版技術が導入され、本の形態は大きく変化しました。明治の初期には、江戸時代と同様の木版で印刷された和紙を糸で綴じる和綴じ本がほとんどでしたが、明治20年頃になると背のある洋装本への移行が始まります。ほとんどの本が様洋装本になるのは明治30年頃で、子規がこの文章を書いた時代には、洋画家によって欧米で流行したデザインがいち早く本の表紙に取り入れられたのでした。 例えば「ホトトギス」の表紙は、フォンタネージの流れを汲む浅井忠、中村不折、下村為山らで、「明星」は藤島武二ら白馬会の画家たちが表紙や挿画を担当しました。明治20年頃の新聞や雑誌の挿画は、ほとんどが浮世絵系の人たちで占められていたのですが、こうした洋画家たちの活躍は、本のデザインを大きく発展させたのでした。また、当時の欧米ではアールヌーヴォー全盛となり、日本の本はこれらを積極的に取り入れています。 子規の文章では、石版画によって色刷りの表紙とし、新規性を持たせるために洋紙を使うことが増えているとあります。また、中村不折が島崎藤村『若菜集』で一躍時代の寵児になったためか、装丁の仕事が増えたことに言及し、デザイン上の癖をからかっています。また、この時代の雑誌について言及しています。 与謝野鉄幹主宰の『明星』が廃刊になったのではないかとなっていますが、明治33年4月に発刊された『明星』は、明治41年11月まで刊行されています。多分、資金繰りに困って、一時的に発刊が伸びたのでしょう。 雑誌『精神界』は暁烏敏、佐々木月樵、多田鼎らによって発刊された仏教誌ですが、三宅雪嶺ら政教社の雑誌『日本人』のような体裁で、印刷は高浜虚子がサジェスチョンし、不折が表紙絵を描きました。これは式に近い人々が参加していることによる親しさの上での揶揄でしょう。俳誌『みのむし』は楽屋落血のようなものです。『太陽』は、博文館によって明治28年1月に刊行された日本初の総合雑誌で、昭和3年2月まで続きました。当初は10万部も発行された大雑誌です。誌名の由来は、日清戦争の勝利が決まり、「日本は世界の大国になったのだから、欧米諸国に負けない総合雑誌を」という趣旨により、天空から世界を照らす「太陽」となりました。 近来雑誌の表紙を模様色摺となし、かつ用紙を舶来紙となすこと流行す。体裁上の一進歩となす。 雑誌『目不酔草』の表紙模様、不折の意匠に成る。面白し。ただ何にでも梅の花や桜の花をくつつけるは不折の癖と知るべし。 雑誌『明星』は体裁の美麗なること、普通雑誌中第一のものなりしが、遂に廃刊せし由気の毒の至なり。今廃刊するほどならば、最後の基本金募集の広告なからましかば、死際一層花を添えたらんかと思う。是非なし。 雑誌『精神界』は仏教の雑誌なり。始に髑髏を画きてその上に精神界の三字を書す。その様何とやら物質的に開剖的に心理を研究する意かと思われて仏教らしき感起らず。髑髏の画のやや精細なるにも因るならん。 雑誌『みのむし』は伊賀より出ずる俳諧の雑誌なり。表紙に芭蕪の葉を画けるにその画拙くして、どうやら蕪の葉に似たるよう思わる。蕪村流行のこの頃なれば、芭蕉翁も蕪村化したるにやと、いと可笑し。 雑誌『太陽』の陽の字のつくり時に易に从(したが)うものあり。そんな字は字引になし。(墨汁一滴 2月27日)
2020.09.18
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慶応3年刊行の片山淳之助(本当は福沢諭吉)著の『西洋衣食住』には、「上沓 スリップルス」とあり、僕たちが現在目にするようなスリッパではなく、モカシンのような部屋ばきが描かれています。そのためか、仮名垣魯文の『西洋道中膝栗毛(明治3〜6年)』には「ユニフヲルムの割羽織に、金銀珠玉七宝の飾りをとりつけ、金のほそ筋入たる羅紗仕立の股引、スリップルスのくつをはき」とあり、スリッパがあたかも外出用の靴のように記述されています。 日本に来た外国人たちの住む洋館では、家が汚れるからと日本人をそのまま靴では上がらせず、スリッパを使用させました。そして時代を経ると、洋間にはスリッパが部屋の入り口に備えられて、スリッパは当時の日本人の日常生活に入り込んで来たのでした。 ロンドン洋行時代の漱石は、大学で学ばすに、シェークスピア研究家のアイルランド人ウィリアム・ジェームズ・クレイグに師事していました。『永日小品』の最後に「クレイグ先生」という文がありますが、クレイグ先生は部屋では「むくむくした上靴を足に穿いて」いました。現在のスリッパとは大きく異なります。 先生は愛蘭土(アイルランド)の人で言葉がすこぶる分らない。少し焦(せ)きこんで来ると、東京者が薩摩人と喧嘩をした時くらいにむずかしくなる。それで大変そそっかしい非常な焦きこみ屋なんだから、自分は事が面倒になると、運を天に任せて先生の顔だけ見ていた。 その顔がまたけっして尋常じゃない。西洋人だから鼻は高いけれども、段があって、肉が厚過ぎる。そこは自分に善く似ているのだが、こんな鼻は一見したところがすっきりした好い感じは起らないものである。その代りそこいら中じゅうむしゃくしゃしていて、何となく野趣がある。髯などはまことに御気の毒なくらい黒白乱生(こくびゃくらんせい)していた。いつかベーカーストリートで先生に出合った時には、鞭を忘れた御者(カブマン)かと思った。 先生の白襯衣(シャツ)や白襟を着けたのはいまだかつて見たことがない。いつでも縞のフラネルをきて、むくむくした上靴を足に穿いて、その足を煖炉(ストーブ)の中へ突き込むくらいに出して、そうして時々短い膝を敲いて――その時始めて気がついたのだが、先生は消極的の手に金の指輪を嵌めていた。――時には敲く代りに股を擦って、教えてくれる。もっとも何を教えてくれるのか分らない。聞いていると、先生の好きな所へ連れて行って、けっして帰してくれない。そうしてその好きな所が、時候の変り目や、天気都合でいろいろに変化する。時によると昨日と今日で両極へ引越しをする事さえある。わるくいえば、まあ出鱈目で、よく評すると文学上の座談をしてくれるのだが、今になって考えて見ると、一回七志(シリング)ぐらいで纏った規則正しい講義などのできる訳のものではないのだから、これは先生の方がもっともなので、それを不平に考えた自分は馬鹿なのである。もっとも先生の頭も、その髯の代表するごとく、少しは乱雑に傾いていたようでもあるから、むしろ報酬の値上をして、えらい講義をして貰わない方がよかったかも知れない。(永日小品 クレイグ先生) 漱石作品には、西洋人の履いている「上靴(スリッパー)」の『道草』、一郎が書斎で履く『行人』、敬太郎が下宿屋須永の家で履く『彼岸過迄』、旅館で履いているスリッパーの『明暗』などがあります。これらを見ると、やはり現在のスリッパとは形が異なるようです。 やがて客は謡本を風呂敷に包んで露に濡れた門を潜くぐって出た。皆後で世間話をしているなかに、兄だけはむずかしい顔をして一人書斎に入った。自分は例のごとく冷やかに重い音をさせる上草履(スリッパー)の音を一つずつ聞いて、最後にどんと締まる扉(ドア)の響に耳を傾けた。(行人 帰ってから 19) 一頃その広い部屋をある西洋人が借りて英語を教えたことがあった。まだ西洋人を異人という昔の時代だったので、島田の妻の御常は、化物と同居でもしているように気味を悪がった。もっともこの西洋人は上靴(スリッパー)を穿いて、島田の借りている部屋の縁側までのそのそ歩いてくる癖を有っていた。御常が癪の気味だとかいって蒼い顔をして寐ていると、其所の縁側へ立って座敷を覗き込みながら、見舞を述べたりした。その見舞の言葉は日本語か、英語か、またはただ手真似だけか、健三にはまるで解っていなかった。(道草 39) 森本はこんな話をしながら、紙屋へ這入って巻紙と状袋で膨ました懐をちょっと抑えながら出て来た。表に待っていた敬太郎はすぐ今来た道の方へ足を向け直した。二人はそのままいっしょに下宿へ帰った。上靴(スリッパー)の踵を鳴らして階段を二つ上り切った時、敬太郎は自分の部屋の障子を手早く開けて、「さあどうぞ」と森本を誘った。(彼岸過迄 風呂の後2) 書生は敬太郎を覚えていたのか、いないのか、ただはあといったなり名刺を受取って奥へ這入はいったが、やがて出て来て、どうぞこちらへと応接間へ案内した。敬太郎は取次の揃えてくれた上靴(スリッパー)を穿いて、御客らしく通るには通ったが、四五脚ある椅子のどれへ腰をかけていいかちょっと迷った。一番小さいのにさえきめておけば間違はあるまいという謙遜から、彼は腰の高い肱懸も装飾もつかない最も軽そうなのを択って、わざと位置の悪い所へ席を占めた。(彼岸過迄 停留所20) 彼は決心して姿見の横に立ったまま、階子段の上を見つめた。すると静かな足音が彼の予期通り壁の後で聴え出した。その足音は実際静かであった。踵へ跳ね上る上靴(スリッパー)の薄い尾がなかったなら、彼はついにそれを聴き逃してしまわなければならないほど静かであった。その時彼の心を卒然として襲って来たものがあった。(明暗176) 彼女の姿はさっき風呂場で会った婦人ほど縦しいままではなかった。けれどもこういう場所で、客同志が互いに黙認しあうだけの自由はすでに利用されていた。彼女は正式に幅の広い帯を結んでいなかった。赤だの青だの黄だの、いろいろの縞が綺麗に通っている派手な伊達巻を、むしろずるずるに巻きつけたままであった。寝巻の下に重ねた長襦袢の色が、薄い羅紗製の上靴(スリッパー)を突っかけた素足の甲を被っていた。(明暗176) しかしそれはほんのつけたりの物足りなさであった。実をいうと、津田は腹のうちで遥かそれ以上気にかかる事件を捏ね返していたので、彼は風呂場へ下りた時からすでにある不足を暗々のうちに感じなければならなかった。明るい浴室に人影一つ見出みいださなかった彼は、万事君の跋扈に任せるといった風に寂寞を極わめた建物の中に立って、廊下の左右に並んでいる小さい浴槽の戸を、念のため一々開けて見た。もっともこれはそのうちの一つの入口に、スリッパーが脱ぎ棄ててあったのが、彼にある暗示を与えたので、それが機縁になって、彼を動かした所作に過ぎないともいえばいえないこともなかった。だから順々に戸を開けた手の番が廻って来て、いよいよスリッパーの前に閉て切られた戸にかかった時、彼は急に躊躇した。彼はもとより無心ではなかった。その上失礼という感じがどこかで手伝った。仕方なしに外部から耳をそばだてたけれども、中は森としているので、それに勢いを得た彼の手は、思い切ってがらりと戸を開けることができた。そうしてほかと同じように空虚な浴室が彼の前に見出された時に、まあよかったという感じと、何だつまらないという失望が一度に彼の胸に起った。 すでに裸になって、湯壺の中に浸った後の彼には、この引続きから来る一種の予期が絶えず働らいた。彼は苦笑しながら、昨夕と今朝の間に自分の経過した変化を比較した。昨夕の彼は丸髷の女に驚ろかされるまではむしろ無邪気であった。今朝の彼はまだ誰も来ないうちから一種の待ち設けのために緊張を感じていた。 それは主のないスリッパーに唆のかされた罪かも知れなかった。けれどもスリッパーがなぜ彼を唆のかしたかというと、寝起に横浜の女と番頭の噂に上った清子の消息を聴かされたからであった。彼女はまだ起きていなかった。少くともまだ湯に入っていなかった。もし入るとすれば今入っているか、これから入りに来るかどっちかでなければならなかった。 鋭敏な彼の耳は、ふと誰か階段を下りて来るような足音を聴いた。彼はすぐじゃぶじゃぶやる手を止めた。すると足音は聴えなくなった。しかし気のせいかいったんとまったその足音が今度は逆に階段を上って行くように思われた。彼はその源因を想像した。他の例にならって、自分のスリッパーを戸の前に脱ぎ捨てておいたのが悪くはなかったろうかと考えた。なぜそれを浴室の中まで穿き込まなかったのだろうかという後悔さえ萌した。(明暗179) 「今朝風呂場へスリッパーを忘れていったものがあるね、塞がってるのかと思ってはじめは遠慮していたが、開けて見たら誰もいなかったよ」「おやそうですか、じゃまたあの先生でしょう」(明暗180) 彼は清子の室の前へ来て、ぱたりとスリッパーの音を止めた。(明暗182)
2020.06.08
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書生のファッションといえば、綿フランネルの襦袢の上に絣の着物を引っ掛け、兵児帯小倉織の袴、高下駄というイメージがあります。1872年からの学制施行で、地方から都会に上って高等学校や大学へ通う学生が増えますが、その多くは血縁者の家に厄介になったり、家賃や食費を支払って他人の家に下宿しました。そのため、学生とはいわず、「他人の家に下宿して家事や雑務を手伝い、勉強する若者」のことを書生というようになりました。 万延元(1860)年生まれの三宅雪嶺は、67歳になった大正15(1925)年から最晩年まで執筆を続けた近代通史『同時代史』には「学生という語は、明治初年にはまだ行われなかった。修行中で、就職せぬ者は、一様に書生と呼ばれていた。明治初年の学生は、ただ書物を読むばかりで、後の学生と較べたら、不規律であり、かつ無芸であり、無精でもあった。歌といったら、『書生書生と軽蔑するな。今の大臣参議も皆書生』と歌うくらいに過ぎなかった」と書かれています。 書生が広く世に知られるようになるのは、坪内逍遥が「春のやおぼろ」の名で発表した『当世書生気質』(明治18〜19年刊)に負うところが大きいのですが、この中での書生の格好は、運動会帰りの少しよそ行きなら「その粧服(いでたち)はいかにというに、この日は日曜日のことにてもあり、且は桜見のことなるから、貯えの晴衣裳を、着用したりと見ゆるものから、衣服は屑絲銘線(=銘仙)の薄綿入、たしかに親父からのゆずりもの、近日洗張をしたりと見えて、襟肩もまだ無汚なり。鼠色になった綿縮緬の屁子帯(=兵児帯)を、裾から絲が下りそうな嘉平の古袴で隠した心配、これも苦労性のしるしと思わる。羽織は絲織のむかしもの、母親の上被を仕立直したものか、その証拠には裾の方ばかり、大層痛みたるけしきなり」というさまで、普段の格好なら「年頃、十九や二十あまり、人品のよき書生風、去年の夏買いしと見ゆる、へこへこになりたる麦藁帽子を、あうのけざまに戴き、鼠色になりて、袖口のボタンは、ことごとく脱走したる白襦衣(シャツ)を被たる上へ、午後五時頃ともいうべき、偽薩摩の単衣を被て、小倉の袴の膝のあたり白やかになりて、ひだの形なしになりたるを、裾短かに穿き、日和下駄の、きょう買いしばかりと見えたるを、いと荒らかに踏嗚らしつ、風呂敷包を小脇に抱きて、眼鏡橋へとさしかかる」、「これもまた二十三四の書生にて、色黒く肥満(でっぷり)とふとり、体格たくましく、髪色いと黒く、眼はすこし凹たる方にて、黒眼がちなり。白地の浴衣の、七八回水ッばいりをしたと、見ゆるのを被て、小倉の袴の、脇の縫目の綻びて、脚のあらわるるのを穿ち、綿銘線(=銘仙)の袷羽織の、襟のあたり、鼠色になりたるを、観世捻の紐にて、曲形(いがみなり)にひっかけしは、時節がら熱そうなとは、到らぬ素人の考えにて、右と左の浴衣の肩に、握拳ほどな、大きな破穴があるを、知らざる故なり。六七度太田道灌(にわかあめ)に出迎ったと見えて、胴と縁との線がきれて離れそうになった古帽子を、故意と横さまに被りながら肩をいからして」とあり、それぞれが特徴のあるファッションへの無頓着ぶりを示しています。 ただ、時代によって書生のファッションも変化し、明治24年12月10日の読売新聞には「カスリの書生羽織は、九州男子に限るように思いおりしが、本年は近県その他、東京子も彼の羽織を着ることが大流行となり、復物のカスリは、昨今大いに売り捌けるという」、明治26年刊行の大川新吉著『東京百事流行案内』には「書生は短衣(つんつるてん)にへこ帯高下駄と相場の定めありしに、世の開けるに従い、追々風俗一変し、昨今では角帯大に流行するに至り」、石井研堂著『明治事物起原』には「(床屋に来れる)年のころ二十か二十一、二なる一客、手に書籍なるべき小さき風呂敷包を持ち、めいせんの衣に、紫縮緬のへこ帯をしめ、手拭を帯に挟み、山桐の角下駄をはきて入り来れるは、問わずと知れしある塾の書生なるべし(七年十一月版今昔)」とあり、「長羽織に兵子帯をしめ、帽子と襟巻に寒さを凌ぐは、この時代の書生風俗なり」「明治四十三年頃より、セル地の行灯袴大流行し、府市町村吏または各議員など、これを用いざるはなく、またこれらの吏員、名誉職などに、収賄その他の不正行為多かりしため、収賄袴と戯言する者ありたり」と紹介されています。 この長羽織は「書生羽織」と呼ばれていました。通常よりも丈が長く、元々は綿が入ったものだったので、人前に着るようなものではありませんでした。明治28年年刊行の大橋又太郎著『衣服と流行』には次のように書かれています。書生羽織 男物には、上等品は、大島紬、もしくは琉球紬を第一等とし、中等品ならば、絹紬の絣、米琉球の中を撰むべし。 女子物には、お召紋織か、山絲織の珍縞か、縞八丈か、米琉球の絣の中を撰まば、決して流行に遅るることなし。 平民的に着用せんと欲せば、二三年前よりしきりに流行を極むる双子の綿琉球を着すべけれども、早下火になりたる代りに流行するは、新機紡績糸の紺絣なり、これは武骨なれど野暮ならぬもの最なれば、絹衣の上にはおりても見苦しからず、もし男子がこれを着物と羽織に一対につくり、下に更砂真岡の下着を襲ねなば、どこから見ても厭味のなき扮装にして、またドコに出ずるも恥ずる所なし、久留米絣もおもしろく、縞にては秩父縞の如き書生羽織に適す。書生羽織の裏地の流行品は如何、最上等品を用いんとならば、緞子に過ぎたるものなし、羽織裏地だけに織りたる繻珍も可なり、しかし、通常は、甲斐絹を用ゆるもの多し、しかしながら、平民的書生羽織には、替紗形本綿か、さなくば紋綸子を用いなばよろしかるべし、裏地は一丈二尺あれば充分なり。 さて、書生羽織のたけにつきては、従来、衣服と大差なきほどに長丈なりしも、昨年よりの流行は、大にその趣を異にせり、袷羽織と同様か、もしくは五分くらい長きを好み、最も長くして袷羽織より長きこと一寸たり、綿も従来の如く、ぶくぶくといやに膨らすを厭い、中心に容るべき綿は、真綿にて五十錢くらいも用いなば事足るべく、木綿ならば七錢より八九錢の青梅一包を入れなばたくさんなり、しかし、流行外に立つ人は、書生羽織は、単に防寒の具たるの本領に従い、右の分量にかかわらず、どっちり入れて暖るも適宜なり。(大橋又太郎 衣服と流行) では、漱石の小説に、書生たちはどのような格好で登場するのでしょうか。『吾輩は猫である』には、我輩が初めて見た人間が書生でした。 吾輩はここで始めて人間というものを見た。しかもあとで聞くとそれは書生という人間中で一番獰悪な種族であったそうだ。この書生というのは時々我々を捕まえて煮て食うという話である。しかしその当時は何という考もなかったから別段恐しいとも思わなかった。ただ彼の掌に載せられてスーと持ち上げられた時何だかフワフワした感じがあったばかりである。掌の上で少し落ちついて書生の顔を見たのがいわゆる人間というものの見始めであろう。この時妙なものだと思った感じが今でも残っている。第一毛をもって装飾されべきはずの顔がつるつるしてまるで薬缶だ。その後猫にもだいぶ逢ったがこんな片輪には一度も出会でくわしたことがない。のみならず顔の真中があまりに突起している。そうしてその穴の中から時々ぷうぷうと煙を吹く。どうも咽せぽくて実に弱った。これが人間の飲む煙草というものであることはようやくこの頃知った。(吾輩は猫である 1) 見ると年頃は十七八、雪江さんと追っつ、返っつの書生である。大きな頭を地の隙いて見えるほど刈り込んで団子っ鼻を顔の真中にかためて、座敷の隅の方に控えている。別にこれという特徴もないが頭蓋骨だけはすこぶる大きい。青坊主に刈ってさえ、ああ大きく見えるのだから、主人のように長く延ばしたら定めし人目を惹くことだろう。こんな顔にかぎって学問はあまり出来ない者だとは、かねてより主人の持説である。事実はそうかも知れないがちょっと見るとナポレオンのようですこぶる偉観である。着物は通例の書生のごとく、薩摩絣か、久留米がすりかまた伊予絣か分らないが、ともかくも絣と名づけられたる袷を袖短かに着こなして、下には襯衣(シャツ)も襦袢もないようだ。素袷や素足は意気なものだそうだが、この男のはなはだむさ苦しい感じを与える。ことに畳の上に泥棒のような親指を歴然と三つまで印しているのは全く素足の責任に相違ない。彼は四つ目の足跡の上へちゃんと坐って、さも窮屈そうに畏こまっている。一体かしこまるべきものがおとなしく控えるのは別段気にするにも及ばんが、毬栗頭のつんつるてんの乱暴者が恐縮しているところは何となく不調和なものだ。途中で先生に逢ってさえ礼をしないのを自慢にするくらいの連中が、たとい三十分でも人並に坐るのは苦しいに違ない。ところを生れ得て恭謙の君子、盛徳の長者であるかのごとく構えるのだから、当人の苦しいにかかわらず傍はたから見ると大分だいぶおかしいのである。教場もしくは運動場であんなに騒々しいものが、どうしてかように自己を箝束する力を具えているかと思うと、憐れにもあるが滑稽でもある。こうやって一人ずつ相対になると、いかに愚騃(ぐがい)なる主人といえども生徒に対して幾分かの重みがあるように思われる。主人も定めし得意であろう。塵積って山をなすというから、微々たる一生徒も多勢が聚合すると侮るべからざる団体となって、排斥運動やストライキをしでかすかも知れない。これはちょうど臆病者が酒を飲んで大胆になるような現象であろう。衆を頼んで騒ぎ出すのは、人の気に酔っ払った結果、正気を取り落したるものと認めて差支えあるまい。それでなければかように恐れ入るといわんよりむしろ悄然として、自みずから襖に押し付けられているくらいな薩摩絣が、いかに老朽だといって、かりそめにも先生と名のつく主人を軽蔑しようがない。馬鹿に出来る訳がない。(吾輩は猫である 10) 『それから』には、代助の家に住む書生・門野がいます。門野は雇いの婆さんの息子で、学校に通うことをやめて、家の雑用の手伝いをしています。 「蟻でも付きましたか」と門野が玄関の方から出て来た。袴を穿いている。代助は曲んだまま顔を上げた。(それから 4) 「何か御用ですか」と門野がまた出て来た。袴を脱いで、足袋を脱いで、団子のような素足を出している。代助は黙って門野の顔を見た。門野も代助の顔を見て、一寸の間突立っていた。(それから 4) 門野は袴を脱いで、尻を端折って、重ね箪笥を車夫と一所に座敷へ抱え込みながら、先生どうです、この服装なりは、笑っちゃいけませんよといった。(それから 6) その晩は水を打つ勇気も失うせて、ぼんやり、白い網襯衣を着た門野の姿を眺めていた。(それから 16) 『こころ』では、先生が書生だった時代を思い出します。 それはある軍人の家族、というよりもむしろ遺族、の住んでいる家でした。主人は何でも日清戦争の時か何かに死んだのだと上さんがいいました。一年ばかり前までは、市ヶ谷の士官学校の傍とかに住んでいたのだが、厩などがあって、邸が広過ぎるので、そこを売り払って、ここへ引っ越して来たけれども、無人で淋しくって困るから相当の人があったら世話をしてくれと頼まれていたのだそうです。私は上さんから、その家には未亡人と一人娘と下女より外にいないのだということを確かめました。私は閑静で至極好かろうと心の中に思いました。けれどもそんな家族のうちに、私のようなものが、突然行ったところで、素性の知れない書生さんという名称のもとに、すぐ拒絶されはしまいかという掛念もありました。私は止そうかとも考えました。しかし私は書生としてそんなに見苦しい服装はしていませんでした。それから大学の制帽を被っていました。あなたは笑うでしょう、大学の制帽がどうしたんだといって。けれどもその頃の大学生は今と違って、大分だいぶ世間に信用のあったものです。私はその場合この四角な帽子に一種の自信を見出みいだしたくらいです。そうして駄菓子屋の上さんに教わった通り、紹介も何もなしにその軍人の遺族の家を訪ねました。(こころ 下 先生と遺書10) 「私が書物ばかり買うのを見て、奥さんは少し着物を拵えろといいました。私は実際田舎で織った木綿ものしかもっていなかったのです。その頃の学生は絹いとの入った着物を肌に着けませんでした。私の友達に横浜の商人か何かで、宅はなかなか派出に暮しているものがありましたが、そこへある時羽二重の胴着が配達で届いたことがあります。すると皆がそれを見て笑いました。その男は恥ずかしがって色々弁解しましたが、折角の胴着を行李の底へ放り込んで利用しないのです。それをまた大勢が寄ってたかって、わざと着せました。すると運悪くその胴着に蝨(しらみ)がたかりました。友達はちょうど幸いとでも思ったのでしょう、評判の胴着をぐるぐると丸めて、散歩に出たついでに、根津の大きな泥溝の中へ棄ててしまいました。その時いっしょに歩いていた私は、橋の上に立って笑いながら友達の所作を眺ながめていましたが、私の胸のどこにも勿体ないという気は少しも起りませんでした。(こころ 下 先生と遺書17) 『行人』では、田口家に住む書生が登場しますが、やはり小倉の袴を身につけています。 玄関へ掛って名刺を出すと、小倉の袴を穿いた若い書生がそれを受取って、「ちょっと」といったまま奥へ這入って行った。その声が確かにさっき電話口で聞いたのに違ないので、敬太郎は彼の後姿を見送りながら厭やな奴だと思った。すると彼は名刺を持ったまままた現われた。そうして「御気の毒ですが、ただいま来客中ですからまたどうぞ」といって、敬太郎の前に突立っていた。敬太郎も少しむっとした。(彼岸過迄 停留所9) 漱石は、大正2年12月12日に第一高等学校で講演をしています。その中で、学生だった頃の格好を振り返って、おかしかったと吐露しています。若き日の思い出と流行は、どこか奇妙なものです。 それほど人間という者は人の真似をするように出来ている情けないものであります。それでその、人の真似をするということは、子供の内から始まって、今いったような些末の事柄ばかりでない、道徳的にもあるいは芸術的にも、社会上においてもそうである。無論流行などは人の真似をする。われわれがごく子供の内は東京の者はこんな薩摩飛白などは決して着せません。田舎者でなければ着ないものでした。それを今の書生は大抵皆薩摩飛白を着る。安いからか知りませんが、皆着るようになった。それから一時白い羽織の紐の毛糸とか何かの長いのをこう――結んで胸から背負って頸に掛けておった。あれも一人遣るとああなるのであります。私たちの若い時は羽織の紋が一つしきゃないのを着て通人とか何とかいって喜んでいた。それが近頃は五つ紋をつけるようになった。それも大きなのが段々小さくなったようだが、近頃どの位になっているのか。私は羽織の紋が余り大きいから流行におくれぬように小さくした位それほど流行というものは人を圧迫して来る。圧迫するのじゃないが、流行にこっちから赴くのです。イミテーターとして人の真似をするのが人間のほとんど本能です。人の真似がしたくなるのです。こういう洋服でも二十年前の洋服は余り着られない。この間あいだ着ていた人を見たけれども可笑しいです。あまり見っともよいものではない。(模倣と独立 夏目漱石)
2020.05.08
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漱石は、自転車に乗っています。時代は、ロンドン留学の終わり頃、部屋に閉じこもっている漱石を見かねた下宿屋・下宿・リール家のおばさんが、漱石に自転車に乗って体を動かすことを勧めたのでした。 西暦一千九百二年秋忘月忘日、白旗を寝室の窓に翻がえして下宿の婆さんに降を乞うや否や、婆さんは二十貫目の体躯を三階の天辺まで運び上げにかかる、運び上げるというべきを上げにかかると申すは、手間のかかるを形容せんためなり、階段を上ること無慮四十二級、途中にて休憩する事前後二回、時を費すこと三分五セコンドの後、この偉大なる婆さんの得意なるべき顔面が苦し気に戸口にヌッと出現する、あたり近所は狭苦しきばかり也、この会見の栄を肩身狭くも双肩に荷(にな)える余に向って、婆さんは媾和(こうわ)条件の第一款として命令的に左のごとく申し渡した、 自転車に御乗んなさい。(自転車日記) 漱石は自転車を購入し、小宮豊隆の叔父にあたる犬塚武夫の指導のもと、自転車を練習します。しかし、一向に上達しませんでした。しまいには、見ていた巡査に笑われる始末でした。 この時事に臨んでかつて狼狽したることなきわれ、つらつら思うよう、できさえすれば退却も満更でない、少なくとも落車に優ること万々なりといえども、悲夫逆艪の用意いまだ調わざる今日の時勢なれば、エー仕方がない思い切って落車にしろ、と両車の間に堂と落つ、折しも余を去ること二間ばかりのところに退屈そうに立っていた巡査――自転車の巡査におけるそれなお刺身のツマにおけるがごときか、何ぞそれ引き合に出るのはなはだしき――このツマ的巡査が声を揚げてアハ、アハ、アハ、と三度笑った。その笑い方苦笑にあらず、冷笑にあらず、微笑にあらず、カンラカラカラ笑にあらず、全くの作り笑なり、人から頼まれてする依托笑なり、この依托笑をするためにこの巡査はシックスペンスを得たか、ワン・シリングを得たか、遺憾ながらこれを考究する暇がなかった、(自転車日記) 漱石の自転車の運転は、「余が廿貫目の婆さんに降参して自転車責に遇ってより以来、大落五度小落はその数を知らず、ある時は石垣にぶつかって向脛を擦むき、ある時は立木に突き当って生爪を剥がす、その苦戦いうばかりなし、しかしてついに物にならざるなり」という有様でした。そして、漱石は「この二婆さんの呵責に逢ってより以来、余が猜疑心はますます深くなり、余が継子根性は日に日に増長し、ついには明け放しの門戸を閉鎖して我黄色な顔をいよいよ黄色にするのやむをえざるに至れり、彼二婆さんは余が黄色の深浅を測って彼ら一日のプログラムを定める、余は実に彼らにとって黄色な活動晴雨計であった、たまたま降参を申し込んで贏(あま)し得たるところ若干(いくばく)ぞと問えば、貴重な留学時間を浪費して下宿の飯を二人前食いしに過ぎず、さればこの降参は我に益なくして彼に損ありしものと思惟しいす、無残なるかな」と、ますます神経衰弱の度合いを深めていくのでした。 漱石の乗った自転車は「女乗の手頃なる奴を撰(えら)んでこれがよかろうと云う、その理由いかにと尋ぬるに初学入門の捷径(しょうけい)はこれに限るよと降参人と見てとっていやに軽蔑した文句を並べる、不肖なりといえども軽少ながら鼻下に髯を蓄えたる男子に女の自転車で稽古をしろとは情ない、まあ落ちても善いから当り前の奴でやってみようと抗議を申し込む、もし採用されなかったら丈夫玉砕瓦全を恥ずとか何とか珍汾漢(ちんぷんかん)の気炎を吐こうと暗に下拵(したごしらえ)に黙っている、とそれならこれにしようと、いとも見苦しかりける男乗をぞあてがいける、思えらく能者筆を択えらばず、どうせ落ちるのだから車の美醜などは構うものかと、あてがわれたる車を重そうに引張り出す、不平なるは力を出して上からウンと押して見るとギーと鳴ることなり、伏して惟(おもんみ)れば関節が弛んで油気がなくなった老朽の自転車に万里の波濤はとうを超えて遥々と逢いに来たようなものである、自転車屋には恩給年限がないのか知らんとちょっと不審を起してみる」というくらいのもので女性用の中古自転車で、年季の入ったものでした。 ただ、この頃の自転車は、前輪の大きなものではなく、前輪と後輪が同じサイズのものでしょう。自転車が考案されたのは、1790年のフランスでしたが、初期のものはペタルもチェーンもなく、足を地につけて滑走する木製のものでした。それから、1840年にスコットランドの鍛冶屋カークバトリック・マクミランが車体の大部分を金属にかえ、ペタルを踏むと車輪が回転するタイプを製造、1877年になるとボールべアリング1888年にはゴムタイヤが実用化され、自転車はより軽快、より安全なものへと変わっていきます。 日本に自転車がはじめて輸入されたのは明治14・5年頃ですが、三輪車でとても実用には向きません。その頃には前輪の大きな自転車を在留外国人が乗り回していました。日本にゴム・タイヤの自転車が入ったのは明治30年以降で、ゴム・チューブの入った自転車が普及するのは、日露戦争が起こった明治37,8年頃のことでした。
2020.04.16
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24日、子規は金州城内の第四師団付舎営に中村不折、河東可全を訪ねました。夕方、舎営を山東会館裏の小家に移しますが、今までと変わらない劣悪な宿舎です。食事に端を発し、「馬鹿野郎」という一曹長の暴言に、新聞記者たちは参謀管理部長と交渉しました。子規は記者と神官僧との差別待遇を批判すると、記者は無位無官だから兵卒と同時だといわれたことで憤慨しました。 この日、藤野古白の死を知らせる河東碧梧桐の手紙が子規のもとに届きました。古白の人となりについては碧梧桐の『子規を語る』に詳しく記されています。25日、子規は参謀部に行き、前日来の不平を訴え、帰国の許可を請います。随行した兵士に、記者という職務を侮辱され、人間の品格を貶められたと感じたからです。参謀は帰国は差し支えないと判断し、子規は帰国を許されます。 二十四日 不折、可全らを城内の四師団付舎営に訪う。にんにく臭き人の臭気もようように鼻に馴れたり。夕暮にわれらの舎営を移す。山東会館の裏なる小さき家なり。土間の上に高梁一重を我ら八、九人の床と頼みて毛布一枚に余寒を防ぐに、陣中ながら心うきふしなきにもあらず。窓は南北に開きたれど煤けたれば薄暗く、壁は大方土落ちて石あらわるるに蠍という毒虫も這い出ずめり。戸外に見ゆる建物は寺院にて我れらの室も寺の一部なるべし「春満僧寮」「用心学法漠要要銭」など題したる壁上に今もなお残れり。 この日東京なる碧梧桐より一封の手紙届きぬ。披き見ればわが従弟古白の訃音なり。夜半人静まりて後、独り蝋燭をとぼして手紙を読めば、病床のことこまごまと書きつづけたるに、一字一句肝つぶれ胸ふたがりて我にもあらぬ心地す。人世は泡沫夢幻。世界は一夜泊りの木賃と覚悟して、なお四鳥の別れこそ惜しまるれ。思えば十年の昔一窓を同うし、艱難をともにする時、彼怠れば我これを叱り叱りて、聴かざれば先生に訴たえて苦訓を受けしめたることもありき。その後その弱き意思を助けんとて、向島の寓居に彼を励ませしをいかに感じけん、答えもなさでただほろほろと泣き出でしこともありき。二月の前東京を出で立つ時、わが家に来りて何くれと旅の用意などととのえくれたるその顔は、なお目にありながらすでに幽明処を異にせりと書中にいえり。書中の古白実ならば眼中の古白は幻影に過ぎじ。眼中の古白実ならば書中の古白は知らず何物ぞ。つくづく考えみれば古白なお存在せるがごとし。 我に四歳の弟なる古白が幼き時は、真に愉快なる生活を送りたり。彼がその家の後園を駈け廻りつつ蝶を捉え蜂を打ちし時は、あるいは羨ましく、あるいは妬ましく、我もかくのごとき花園に住まましとのみ思い悩めり。しかれども古白は母を他郷に失いしより始めて世の憂さを知りぬ。四歳の兄なる吾が読書文章の上に一歩を進めし時、彼はかつ羨み、かつ妬み、怒りつ笑いつ嘲りつ、ついには吾より更に一歩を進めぬ。吾一歩、彼一歩ともに浮世の海原に分け入らんとする瞬間、古白は怒濤の舟を覆すを待たずして自ら舟を覆しおわんぬ。我の未だ古白に負かざるに、早くすでに古白の我に負くを見る。とはいえ古白あるいは白雲に乗じて我れの艱難を嘲罵せんとの意なるかも知るべからず。見よ見よ、我れ未だ斃れざる間は古白の霊あに四大に帰し去らんや。 春や昔古白といえる男あり(陣中日記) 二十四日城内にある四師団付新聞記者の宿舎を訪い日暮家に帰れば皆荷物を片づけなどし見も知らぬ人の室内にありてこれも吾らの荷物を屋外まで持ち出だしなどす。何事にやと問えば今宿舎を転ずるなりという。さらばと吾れも荷物を肩にかけて山東会館内管理部の隣に移れり。吾ら新聞記者一、二名まず新宿舎に来り見れば一方には四、五畳ばかりの石床あり。他の一方には土間に高梁を敷きて臥床に当てたり。同業某まず床上に陣取らんという。吾いなみて従わずついに高梁の上を吾らの居処と定めぬ。けだし石床の上人を容るること六、七人に過ぎず。しこうして我ら一行は十人に余れり。もし吾ら先着の者五、六人床上を占めなば創れて到る者ことごとく土間に居らざるべからず。これ不愉快のもとなりとて床上を通訳官に譲り吾ら一団は公平に土間を取りたり。金州にある新聞記者三団しこうして土間にある者は吾ら一団のみ。されども吾はそれほどにこれを苦とも思わず。あまり多くの苦を経歴したればなるべし。 宿舎を移したる後、団中の一人は我に向って言えり。今日夕暮のことなり例の髯曹長は前に来りて怒鳴り散らすよう「お前らはなぜ飯を定規の時間に取りに来ぬか時間に後れて取りに来ては困るじゃないかこの後時間におくれたら飯を渡さぬからそのつもりで居るように……そのうえに自分で飯を取りに来ずに人に取りに来させるとはどういうわけだ……」今まで黙って聞いて居たる某は得こらえずして「私ども自分で飯を取りに行くことは出来ません」と答えぬ。さらでも怒り居る曹長はこの抵抗に逢うて怒気ますます激し来り「自分で飯を取りに来られぬようなら飯を喰わんが善い馬鹿野郎め」とぞ叫びし。皆々あまりの暴言に臍を据えかねてかにかくと争いしかどももとより理屈に屈するような曹長ならねば何の効もなし。ついに管理部長に訴えたれど部長殿は善い加減な挨拶をしてお茶を濁し居たり云々と。語る者さも無念らしく語りぬ。これを聞きたるばかりにて吾は覚えず涙ぐみたり。しばらくは話とぎれて一本の蝋燭は暗き室の内に気味悪き光を放ちぬ。 その人更に語を続ぎて「さる騒ぎに紛れ居る内、行政部付の人は来りてもはや約束の期限も過ぎたればただ今この家を立ち退いてくれと言うや否や吾らの荷物を外に運び出すなど一時は混雑を極めたるなり」と。吾は怒気はもはや頂上に達せり。「待ちたまえ今夜何とかかたをつけるから」 その時管理部長は吾らの室に来りて「どうだ皆移ったナこの部屋は君らの這入れるように前から明けてあったのダ」「土間でない処はないのですか」「マアそれだけはこらえるのダ家がないのだから仕方がない」暫時話ありて部長殿は出で仔かれぬ。吾はその後より続きて出でたり。戸外に出づるや否や部長殿を呼び止めたり。部長は立ち止まりぬ。談話は鳥羽玉の闇の真中にて立ちながら始まりぬ。吾まず口を聞きて「ただ今お話をしたいのはほかじゃないのですが我々新聞記者に対する取扱のことについてです、我々の中では一般に近衛師団の我々に対する取扱について不公平だとか何とか不平をいうものが多いのですが私もまたそう思うのです、しかし私がここでいうのは荷舎が悪いとか飯が旨くないとかいうようなことをいうのではないのです、一体我々に対して礼を失して居ることが多いと思うのです、第一船に居った時も曹長が来て我々に向い、出て行けというような言葉を使ったこともある、また今日も友達の話によればその曹長が来て色々な暴言を放った末、馬鹿野郎などという言葉を言ったそうですがいかにも失敬な言葉ではありませんか、それも一度くらいのことならば一時の激昂ということもあるからそう見て差支ないが二度三度に及びては一時の激昂と見ることは出来ん、たしかにこれは心から軽蔑の意味を含んだたものと思うのですが……」「そのことは先刻もほかの人から聞いたのですそれだか善く言って聞かしておいた、しかしそんなことをそう言つては困るじゃないかあんな者を相手にしなくても善いじゃないか」「あんな者と言ってもいずれ軍隊に属して居る者でしかも我々に向って命令を伝えるとか何とか直に接する上はそれ相応の礼式を守ってもらわねばならぬと思う、しかしあなたの方でそういう御考えなら致し方ない、それからまた不公平といったのはほかでないのように神官僧侶を上等室に入れて我々新聞記者を下等室に入れるというがごときどういうものでしょう、神官僧侶も新聞記者も同じく従軍者であってその間に等差はない訳と思うのですが」「ナニ神官僧侶は奏任官みたようなものだ」「これは怪しからん神官僧侶がなぜ奏任官です」「なぜッてあの人らは教正とか何とか言ってまず奏任官のようなものだ君らは無位無官じゃないか無位無官の者なら一兵卒同様に取扱われでも仕方がない』今まで吾はなるべく情を押えて極めて温順に談話を試みたり。しかれども無位無官一兵卒等の語を聞きではこらえかねたる怒気むらむらと心頭に上りぬ。口言わんと欲して言うところを知らずただ「一兵卒……一兵卒……一兵卒同様ですか」とばかり言えり「そうサ一兵卒同様サ」ここに至りてもはや談話を続ぐの余地なし。蹶然挟を振って吾は室内に帰りぬ。 この時吾は帰国せんと決心せり。吾はもとわが職務の上においてかつ一個の好奇心においてなるべく長く従軍せんことを欲せしなり。一般の人、ことに妻子などありてやや年取りたる人が金州の市街の不潔なると軍隊の糧食の旨からぬとに因りて皆帰思頻りなる時に際して吾は市街の不潔をも嫌わず食料の高野豆腐、凍蒟蒻のみなるをも厭わずなお長く従軍せんことを欲せしなり。しかれども今やどうあっても帰国せざるべからずと決心せり、何となればかの曹長のごときはわが職務を傷けたるものにして管理部長のごときはわが品格を保たしめざるものと信じたればなり。ゆえに自分はいかに滞留したくともわが職務は吾をして滞留せしめざるなり。(従軍紀事 金州城内) 藤野古白は名を潔といった。子規の従弟で、諷亭非風などと同年輩であった。早く父に随うて東上し、文才もあって子規門下の作者でもあったが、子規とは何処かソリの合わない点があって、とかく孤立の位置にいた。子規も明治二十七年十二月三十一日附で、伊藤松宇に宛てた手紙に「古白は先日上京致候兎角病気よろしからず。月並の句を作りて独りよがり候は、何分済度難致候」など書いている。従弟または朋友として交情に変りは無かったであろうが、文学または俳句の管見は相容れないものがあったらしい。 私が古白を知ったのは、明治二十六年の秋、古白が帰郷した際のことと記憶する。子規非風虚子などが相次いで、松山を去った後、孤独の淋しさのまま、古白に句を見せて直してもらったこともあった。当時はさほど常軌を逸した人とも思わなかったが、仙台から東上して後に会った古白は、もう別人のように一種の狂味を帯びていた。 隣家の処女に恋するまでの古白は、柔順寡黙の青年であったが、その恋に破れて以来の古白は、饒舌瓢軽な書生になった。表面饒舌瓢軽ではあったが、心は常に憂愁と澳悩に囚われていた。饒舌瓢軽なのは、ただその憂愁懊悩を自ら紛らそうとする手段に過ぎなかった。その親近者は古白の衷情を知って、かえって我を忘れたような諧謔百出の饒舌を憐んでいた。古白の父の友で、松山で果樹園を開いていた一種の修道者があった。古白をその園に入れて日夜ともに鋤犂を操った。山青く水白い自然の環境と相待って、古白を平静な心的状態に復えそうとしたのである。修道者が自慢にしていた手作りの茅茸の家に、五、六日寝泊りした後のある日のことだった。梨畑の後方の小高い丘に上って、秋晴れのした、澄みきった太陽の光りを浴びながら、じっと打ち沈んでいた古白は、卒然手にしていた鍬を投げ出して「アシはもうここがイヤになった」といった。いろいろの躁狂者に接した経験を持っていた修道者も、古白の断定的な語気と顔色とには、どう手を下すべきかを知らなかった。これはたしか明治二十七年の秋のことで後に私がその修道者から直きに聞いた話である。 二十七年の暮には古白は今日の早稲田大学の前身の専門校に入学していた。坪内逍遥のセクスピアの講義のまねをして笑わせたこともあったが、またドラマに熱中して「築島由来」という一曲を、ドラマ革命のために書くとか書いたとかもいっていた。自分の句を見せても、まず名作呼わりをして、他の批評を挿む余地を与えないのは古白の常習とも思われていたが、「築島由来」の戯曲を吹聴する程度は一層猛烈になっていた。早稲田で何かの余興のあった時、振袖を着て女形をやった、というような話をして、劇作者と俳優とは、もと一つのものだ、劇作の苦に比べれば、俳優の所演は何でもない、と自画自笠の議論を独演したこともある。がそういう気烙をあげた後には、いつも突然深い沈黙に落ちて、死を口にするのだった。別に慰めるべき言葉をも見出し得ないでいる中に、眼鏡の奥の方の眼瞼を痙撃的に動かしつつ、また洒落半分の話をして賑やかに笑うのでもあった。当時下駄の昴緒の色がどうだとかいうような事を気にしている者が、死にたい死にたいといったって容易に死ねるものでない、と古白の口癖を暗に冷笑したこともあった。(河東碧梧桐 子規を語る 27古白の死)
2020.02.07
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漱石の家には泥棒が入りやすかったようで、熊本時代から何回も泥棒に入られています。その中でも、夏目家のおしゃれのためになった泥棒もいました。 この泥棒が入ったのは、漱石が『吾輩は猫である』を発表して、まもない頃の出来事です。 鏡子の『漱石の思い出』には「25 ありがたい泥棒」として次のように語っています。 ようやく少しずつ原稿料が入って参るようになりましたから、今まで苦しい苦しいでずいぶん倹約に倹約を重ねてきておりましたので何もありませんので、それぞれ入り用のものを買い調えて、客に出す座蒲団をこしらえるやら、洋服をこしらえるやらいたました。実際小綺麗な普段着さえない始末に、原稿料をもらったのを幸い、縞の銘仙の普段着を自分で買ってきて、羽織と対の綿入れを作らせなどしていたものでした。 ちょうど四月のまだうそ寒いころのことでありました。私は明け方近くなって、抱いていて添え乳をしていた赤ちゃんが目をさまして乳を呑むので、私も目が冷めました。なんとなく様子が変なのでじろじろあたりを見回しますと、たしかに寝る時きちんとしておいた子供部屋の箪笥の抽斗が相手、中から子供の着物の赤いのがふしだらにこぼれております。おやっと思って見ると、座敷との間が四、五尺開いています。これも寝る時たしかに閉めておいたはずです。ますます変です。そこで隣に眠っている夏目を揺り起こしまして、あなた泥棒が入ったようよと申しましたので、夏目もびっくりして目をさまします。起き上がって夜着の尻にかけておいた例の一張羅の銘仙を引っかけようとすると、それがないではありませんか。おやといって驚いてなおも見れば、シャツもない、ズボン下もない、帯もない、夏目のものは一切合財ない始末です。それから私の普段着もきれいに姿を見せません。箪笥をしらべれば子供の着物があらかたないという騒動です。 家じゅうを見て歩くと、玄関があいている、台所口があいでいる、どこからこから逃げたものか知りませんが、なにしろ椅麗にやられました。廊下の障子に舌でなめてあけたものと見えて、大きな穴があいておりましたが、まだ逃げて間もなかったものと見えて、そこがぬれておりました。 何しろ全家族の普段着を根こそぎやられたのだから困ってしまいました。少し寒かったが夏目には袷を出して着せ、私はしかたなしにたった一枚しかない外出着をきるわけですが、それとて一張羅の縮緬の紋付を着ているわけにも行かず、あとはたいがい家計不如意で、時節時節で質屋のおくらを拝借して出し入れしている始末なので、ちょうど手ごろなのがありません。が、派手な長襦袢一枚でいるわけには行かず、どうやら何かを見計らって着ましたものの、おひきずりでいることもならず、その上に女中から借りた木綿羽織をひっかけました。 夜が明けてから出て見ると、郁文館中学の隣の畑の中に、ズボン下の両方の足にいやというほど子供の着物をつめて荷ごしらえをしたのが、ちょうど蛙をのんだ蛇のような格好をして捨ててありました。それで子供の分は助かりましたが、その時の私の身なりなんかときたらばみじめにも滑稽なものであったでありましょう。 交番に届けますと、盗難にあった品書きを書いて出せとあって、安物ばかりですけれど品数が多いのでたいへんです。それにいちいち金高を書けというのだからいよいよって厄介です。 一週間ばかりいたしますと、警察の方が玄関先へおいでになって、この間の泥棒がつかまったから、明日の朝浅草の日本堤警察署へ出頭しろというのです。厳しく命令するようにそう言うそばには、若いいやにやさ男が、礼儀もなく懐手をして立っています。夏目も私も玄関に出て行って、たぶんそのやさ男を刑事だろうと考えたので、丁寧にお時儀をいたしました。 それから巡査が届けの品書きを出して、盗まれた品はこうこうだろうというようなことをいうと、その若い男が品書きをのぞき込みます。すると巡査が貴様はだまっていと恐ろしい剣幕で叱りつけます。変だと思いましたら、それが当の泥棒君だったにはあきれてしまいました。唐桟の着物か何かで、色の生白い、どう見ても泥棒らしくない御人体なので、ついお見それしたわけです。よくよく考えてみれば懐手をしているのも道理で、縛られている手が出ようはずはないのですから、私たちもうまうま泥棒に入られるだけあって、迂闊千万な話です。 翌朝早く何時まで出頭というので、夏目は日本堤の警察署へ行きました。贓品はいったん質屋に入れであったのをうけ出して、それを古着屋に売ったところから足がついたのだそうで、帰ってきて驚いたことには、何もかも一週間ばかりのうちにきれいになっていることでした。夏目の一張羅の綿入れが、さあ手をお通しなさいといわぬばかりに、ちゃんと対の袷に縫いなおされております。私の普段着なんかはこれまた御丁寧に洗い張りがしてあって、すぐに縫えるようになっているのですから、すこぶる調法です。ことにありがたかったのは私の曰く付きの古コートがなおっていることでした。曰く付きと申しますのは、裾のやぶけたしかたのないコートを、手もないことなので、簡便になりふり構わず内側へ折りかえして乱暴に縫いつけて、ともかくおかざりの下がるのだけをふせいでおいたのですが、それを雨の日着て白木屋へ買い物に行ったものです。すると入り口のところで番頭がコートをお預かりいたしましょうと申します。私はぬがされてはとんだ恥晒しなので、いいえ、よござんすよと断わります。先方ではそれでもそんならそのままどうぞとは言ってくれません。言葉はていねいですが、つまりどうしても脱いでくれろというのです。ふと気がついたのは、コートなどを着ていると万引きにつごうがいいので、いっさい入り口でお預かりするということでした。いまさらしかたがありません。万引き女としてつけられるよりはましですから脱いであずけはしたものの、それを丁寧に畳んでくれたりするので、いよいよもってそのえらい代物に赤面したことがあります。 その曰く付きのコートが、これまたしごく手ぎわよく裾なおしができて、すぐさまどこへでも着て出られるようになっているのだからありがたがらざるをえません。こんな調法な泥棒なら申し分がないので、どうか一年に一ペんぐらいずつ入ってくれるとありがたいなどとのんきなことを語り合ったことでした。 ともかく着物の類はほとんどみんな出て参りました。(夏目鏡子 漱石の思い出 25 ありがたい泥棒) そして、漱石は『吾輩は猫である』に、格好のネタとばかり、5章と9章にこの事件を描いています。5章は、警察が盗まれたものに対する聞き取りの面倒臭さと、山芋を盗むという変な泥棒の話になっています。9章になると、苦沙弥と奥さんが警察に出向きます。その泥棒はいなせな男と描写されています。 玄関へ飛び出した迷亭は何かしきりに弁じていたが、やがて奥の方を向いて「おい御主人ちょっと御足労だが出てくれたまえ。君でなくっちゃ、間に合わない」と大きな声を出す。主人はやむを得ず懐手のままのそりのそりと出てくる。見ると迷亭君は一枚の名刺を握ったまましゃがんで挨拶をしている。すこぶる威厳のない腰つきである。その名刺には警視庁刑事巡査吉田虎蔵とある。虎蔵君と並んで立っているのは二十五六の背の高い、いなせな唐桟ずくめの男である。妙なことにこの男は主人と同じく懐手をしたまま、無言で突立っている。何だか見たような顔だと思ってよくよく観察すると、見たようなどころじゃない。この間深夜御来訪になって山の芋を持って行かれた泥棒君である。おや今度は白昼公然と玄関からおいでになったな。「おいこの方は刑事巡査でせんだっての泥棒をつらまえたから、君に出頭しろというんで、わざわざおいでになったんだよ」 主人はようやく刑事が踏み込んだ理由が分ったと見えて、頭をさげて泥棒の方を向いてていねいに御辞儀をした。泥棒の方が虎蔵君より男振りがいいので、こっちが刑事だと早合点をしたのだろう。泥棒も驚ろいたに相違ないが、まさか私が泥棒ですよと断わる訳にも行かなかったと見えて、すまして立っている。やはり懐手のままである。もっとも手錠をはめているのだから、出そうといっても出る気遣はない。通例のものならこの様子でたいていはわかるはずだが、この主人は当世の人間に似合わず、むやみに役人や警察をありがたがる癖がある。御上の御威光となると非常に恐しいものと心得ている。もっとも理論上からいうと、巡査なぞは自分達が金を出して番人に雇っておくのだくらいのことは心得ているのだが、実際に臨むといやにへえへえする。主人のおやじはその昔場末の名主であったから、上の者にぴょこぴょこ頭を下げて暮した習慣が、因果となってかように子に酬ったのかも知れない。まことに気の毒な至りである。(吾輩は猫である 9) 漱石は、自分たちの服をきちんと洗い、繕いまでしてくれた泥棒への感謝の気持ちがあったのかもしれません。
2020.01.12
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漱石・子規の友人で英文学者の大谷繞石は明治42(1909)年から文部省の外国留学生としてロンドン大学で2年間英文学を学びました。『案山子日記』には、当時のロンドンの日常が描かれています。100年以上前のクリスマスは、どんなものだったのでしょうか? ○クリスマス、デコレイション 九時半ゴンゴンという銅羅の音を聞いて、二階の僕の部屋を出て朝食にと階段を下りる。 昨夜のクリスマス、イヴには別に何の催しも家ではなかったが、娘三人それに息子と老父とが、十一時過ぎまで、下でガタガタゴトゴトいわしていたから、きっとクリスマスの飾りをするのだろうと思いながら床へ僕は入った。果たして御飾ができている。 僕のいる家は、玄関のドアを開けて入ると、幅一間ばかりのホオルがある。 このホオルの中程から右の壁に接して、絨毯の敷いてある階段がある。左側腰丈位の手すりが付いている。階股は十段上ると、向かいの壁に突き当たる。そして左に折れて八段で二階へ達する。この手すりがイングリッシュ、ロオレルの小枝で巻き包まれている。 ホオルの左側の壁にはキスラアの鉛筆画が二枚額になって掛かっている額縁が、みると、蔦で巻かれている。 この左側の壁に食堂へ入る扉があるのだが、この扉の四周もロオレルを繞らしてある。 階段の左に折れた手すりから、径二尺ばかりの心臓形のものが吊るしてある。緋羅紗を貼り付けて、その上へ綿で CHRISTMAS GREETING の文字が表してある。縁も綿でできている。ホオルは薄暗いから、文字がはっきり目にうつる。 階段の左に折れるところで、手すりから食堂の扉の上部へ、糸に吊るした金文字がキラしている。厚紙へ金紙を貼って、それを切り抜いて文字にしたのだ。手間のかかったものだろう。文字の上の方へ糸を通してルビーのようにしたのだ。弓形に曲がっている。文字は GLORIA IN EXCERSIS DEO と読まれる。 クリスマスにはホリイを使うはずだがと思って見たが、ホリイは使ってない。ホリイという木は、南天の実のような赤い実のなる柊だ。 ホオルの中央に天井から瓦斯燈が吊るしてある。これにはミズルトオが一枝結い下げてある。ミズルトオというのは、主に林檎の木にできる寄生木で、二股三股に枝が分かれている。末端には楓の実に似た物がついている。そう掛ネジに似た形のものだ。そしてその木の小枝の二股になった処に、水色の数珠玉のような実がなっている。このミズルトオの下でなら女は男と、男は女を、クリスマスの日に限って接吻勝手という話は予て聞いていたが、今はそんな風習は廃れたということだ。接吻された男は革の手袋を女に、女はタイを男に、買ってやらなきゃやならぬものだ、など何かで読んだことかあるが、そんな馬鹿な真似は今はせぬという。 一わたりこの飾りを見て僕は食堂へはいる。 娘は三人ともはや食卓についている。息子はまだ寝ているらしい。互いに「メリイ、クリスマス」をいい交わす。何んとなく、いつもより陽気だ。 見るとファイア、プレイスには盛んに火が燃えている。マントルピイスには諸方からのクリスマス、カアドが綺麗に並べ飾っている。 食卓はいつも通りで、別に飾りがない。花瓶にはジョンタイルを芯にして同じようなナアシッサスがその周囲に八九本挿してあるきりだ。「御飾りが立派にできましたね」 というと、「今年ゃ、ホリイが稀で買えませんでした』 と、尋ねもせぬのにJ嬢が言い訳した。 ※ロオレルは西洋ヒイラギのこと。ミズルトオ(=Mistltoe、ミスルトゥ)は、冬でも緑を保っているので、古代の人はヤドリギに特別な力が宿っていると考えていました。「不死」の象徴とされています。ナアシッサスは推薦のことです。 ○クリスマス、ヂナア 小説『夜行く船 Shida that pass in the Night』で文名一時に上がった閨秀作家ハラデン女史 Beatrice Harridan から十七日によこされた手紙のうちに Will you give me the Pleasure of dining with me and my sister on Sunday, Christmas Day, at two o’clock? とあった。僕はありがたくこれを承諾しておいた。 そこでクリスマス当日の午後二時十五分には僕は女史の食堂の人となっていた。通路が見下ろされる窓を背に僕が坐る。炉を背に僕の右に、女史の妹のガアトルウド嬢。嬢の向側には、御客のS嬢。雪白のテエブル、クロオスの中央にはナルシッサスの花瓶。花瓶の四方にクラッカアスが程よく積んである。銀のナイフ、フォオク、スプンが各自の前に光っている。 小間使がスウプを持って出る。女史は和蘭焼の茶碗へ大きなスプンで汲んで、皿へその茶碗を載して配られる。何というスウプか僕はわからなかった。スプンを取り上げて、みんな謹ましやかに吸う。 女史はやがて背後の呼鈴を推される。 小間使ーー上衣も袴も黒い上へ真白のエプロンを掛けて、真白のキャップを着けた小間使がスウプ皿を下げにくる。そして七面鳥のヂッシュを捧げてきた。 女史は肉切りナイフを使いつけぬからとて、妹の君に切り方を託される。 妹のガアトルウド嬢、やおらナイフを取って七面鳥の胸の辺から巧みに肉を切取って皿へ盛られる。そして姉君へ渡される。姉君はサイドボオドから馬鈴薯やスプラウツをそれへ添えて、まず第一に僕にくれられる。僕はソオスを自分で添える。 四人の皿が渡ってから、女史は手づからスパアリング、バルガンヂイの口を抜いて四人の盃へなみなみと注がれる。お互いに楽しきクリスマスを祝いましょうとの挨拶があって、各自同時に盃を挙げて、メリイクリスマスを飲んだ。「日本では一月の一日を祝うということですが、どんな飾りをして、どんな御馳走をたべるのです?」 との質問を受ける。へルン先生はその「アンファミリアル、ジャパン」にうまく書いておられるが、僕の口では容易に説明が出来かねる。 この皿が済むといわゆるクリスマスブヂンが出る。皿へブランデイをそそいで、それへ火をつけて、ポッポと青い火の燃えてるのを持ってくる。プヂンの中央にホリイが一技つき挿してあった。 次には.これもクリスマスにはつきもののミンスパイが出た。松の樹の皮のようなカサカサの、旨くないものだが、食わなきゃならぬことになってるから、攄なく二つ頂戴する。その代り、すすめらるままブルガンヂイは更にプリムフルに注いでもらった。 御馳走はこれ限りだ。それからクラッカアスを一本ずつくれられる。四人が四人とも、右手に一本もって両手を胸の前で左右へ十文字にする。そして左手で、右側の人が差し出してるクラッカアの一端を握るのだ。すると、みんなが左右両手にクラッカアの一端を握っていることになる。そして一二三で強く互いに引張り合うとクラッカアは真ん中から切れて、ポンと大きな音で破裂する。二三度やってみた。 クラッカアはポンポンともいう。ごく薄い馬糞紙を一二枚、帯芯程の丸さ長さに巻いて、志木市に包んで、両端が捩じてある。引っ張りちぎるとポンと音を出す仕掛けが中にしてあるのだ。そして何か景物が人れてある。 女史は有名なサフラゼットだ。だから景物がサフレエジに因んだものばかりだったのは面白かった。監獄服についてる三つ矢、その三つ矢を女子社会政治同盟の旗印たる紫白緑に染めたのがついてるブロオチも出た。葉をこの三色に染めた三つ葉かたばみのついたプロオチも出た。ブラウニングの詩句の One fight more, the last and the best. の印馴してある紙片も出た。 レエレエの詩句の I always go on till I am stopped, and I never am stopped. が書いてある紙片も出た。 沙翁の「インタアス、テエル」中の Sweet lady, No court in Europe is too good for thee, what dost thou, then, in prison? が刷ってある紙片も出た。 女が監獄でかぶらされる三つ矢のついた帽子の色紙製のも出、巡査の帽子の色紙製のも出た。「みんなこれをかぶって話そうではありませんか」 とのことで、女三人は女囚徒の帽、僕はーーフロックコオトの僕は巡査の帽を冠って、お茶の時間まで話しつづけていた。 ※イギリスの家庭では、クリスマスのメインディッシュは七面鳥のローストです。「プヂン」はプディングのことです。「ミンスパイ」はドライフルーツとひき肉からつくる「ミンスミート」を詰めたパイのこと。スプラウツはクリスマス時期に旬を迎える野菜ですから、「ブラッセル・スプラウツ=芽キャベツ」かもしれません。「スパアリング、バルガンヂイ」はフランス・ブルゴーニュ地方のスパークリングワインか、または赤のスパークリングワインのことでしょう。「サフラゼット」は「サフラジェット Suffragettes」で、女性に選挙投票の権利を与えるように主張していた女性団体のメンバーのことです。 クリスマス・クラッカーは、19世紀中頃に誕生しました。御菓子業者トム・スミスは、1840年にパリを訪れ、一つずつが綺麗に紙で包まれているのを知り、同様のボンボンを売り始めます。しかし大成功とならなかったため、色々考案しているうち、暖炉の薪がはじける音にインスパイアされ、摩擦で音を立てる火薬を仕込んだ別の紙をボンボンの包み紙に入れ、開けるたびに音がするようにしました。そして、包み紙の中には詩や名言を綴った紙片も入れました。 のちの時代になると、パーティのためのクラッカーは、音がするだけのものに移行していきます。
2019.12.25
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今日はクリスマスイブなので、今までにご紹介している漱石と子規のクリスマスに関するブログもご覧ください。 子規のクリスマスはこちら 漱石のクリスマスはこちら 漱石の友人で英文学者の大谷繞石が、ロンドンでの留学体験を綴った『案山子日記』という本があります。国立国会図書館のデジタルアーカイブにあるので、誰でも簡単に観ることができます。ただし、400ページ以上もあり、しかも目次がありませんから、探すのが大変なのですが、今から100年以上前のクリスマスについての記述があります。少し分量が多いので、クリスマス・イブとクリスマスの2回にわたって紹介します。 ○クリスマス、カロル 十二月二十二日の夜九時頃、夕食を済まして家の人たちと表の食堂で世間話していると突然玄関のドアのあたりで歌の声が聞こえた。「どこで歌ってるんです? ありゃ何です?」 と訊ねると、G嬢が「宅のドアの処でしょう。クリスマス、カロルです』 という。ディケンズの『クリスマス、カロル』以来お馴染みの言葉だが、実地に耳に聞くのは今が初めてだ。 食堂をホオルヘ出て見ると、ドアの上半部に嵌めてある熱い色硝子に、ペエヴメントの街灯から射る光を遮って、小さい頭の影が四つ見えている。 子供らしい可愛いい声だ。朗らかな声じゃない。おっかさんの前で読本の下読でもしてるような、小さい可愛いい声だ。抑揚の余りにない歌だ。 僕はドアに身を寄せて耳をすまする ハア、ザ、へエラア、ニンゼル、シン グロオリー、ツ、ザ、ニュウボーン、キン とはっきり分る。 Hark! the herald angels sing Glory to the new-born king; Peace on earth, and mercy mild, God and sinner reconciled Joyful, all ye nations, rise, Join the triumph of the skies; Universal nature say, Christ the Lord is born today. と他の三つのスタンデから成っている。一番普通なカロルを歌ってるのだ。いくらか貰うまでは去らぬと見えて.それがすむと、 ワイル、シェバア、リッチ、ザアイア、ブロックス、バイ、ナイ と更に歌い初めた。ソイルからシェ、パアと順に声を上げ、ヲワチを下げ、ザアイをまた下げ、フロックス、バイ、ナイち一音ずつ上げていく。極めて平易なチュウンだ。少し習ったら僕にも歌えそうだ。 オオル、シイテッ、オン、ザ、グラウン ナイよりも一音下げてオオルとやる。一音上げてシイ、二音下げてテッド、二音上げてオン。それからザ、グラウンドと随時尻を上げる。文句などは僕も見たことのある歌だ。 While shepherds watch’d their flocks by night, All seated on the ground. The angel of Lord came down, And glory shone around. を第一のスタンザにした六スタンザの歌だ。 余り長く歌わせるのは気の毒だ。一文ずつやろうと、そっとドアを開けると、僕の顔を見上げたまま、やはり歌い続けている。右の端のが七つくらいの女の子、その次が六つぐらいの女の子、その次は八つ九つの女の子、一番左が十一二の男の子だ。 ズボンのスリットから銅貨を出して、めいめいに一ペニイずつやると、小さな手を出して、「サンキュウ、サア」といって歌をやめた。「上手に歌うね」 いったら、女の子だけは嬉しそうに、にっこり笑った。「誰に教わったの?」 と聴くと、「ティチャア、サア」 と、かすかな声で、一番小さな女の子が答えた。そして靴音もさせずに玄関を下りて行った。霧雨が降ってて、外は暗かった。 食堂へ帰ると、G嬢が「どうでした」 という。僕は一時間ぐらいゆっくり聞きたいと、いっておると隣の玄関に行ったとみえて、またも ハア、ザ、へエラア、ニンゼル、シン グロオリー、ツ、ザ、ニュウボーン、キン と歌っている声が夢のように聞こえた。 ○クリスマス、カアド 十二月の初めから、文房具店はクリスマス、カアドを売り出す。廉いのは半ペニイからある。高いのは半ペンスのも、一シリングのもある。中に刷り出してある文句は、 With air Good Wishes for a Merry Xmas and a Bright New Year. だの With Best Wishes for a Merry Christmas and a Bright and Prosperous New Year. だの All Christmas Joys and Happiness be Years. だの With all Kinds Thoughts and Best Wishes Christmas. だのいう、簡単なものもあれば、テニスンやシェークスピアの長たらしい詩句を冒頭にしたのもある。それが多くは色文字か金文字だから美しい。 今年のクリスマスは日曜日とかち合ったので、前日中に着くようにいずれも発送する。僕は余り人とは交際せぬ方だが、それでも二十二日頃から郵便の配達ごとに三枚や五枚はきっと来た。 クロージャー博士からのは、表面はホリイの花環に金の蹄鉄。花環の中は池を隔てて、雪の森の絵だ。内側はクリスマスの祝儀の文句の他に The year s go spending past, And changes come with years But Friendship aye will last, Time but endears. というパーンサイドの詩の句が刷ってある。 オスマンエドワアプ氏からのは、忘れな草を縁にして、雪に埋もれた教会が表側の絵で、内側は祝儀の文句に Take this tribute, may it wake Memories sweet for auld time’s sake. というシイルの文句が.小さく金文字で刷ってある。 ネリイ嬢からのは、表は四つ葉の酢漿が金で大きく浮かしてあって、内側には I count myself in nothing else so happy as in a soul remembering my good friends. という沙翁の句が古代文字で色うつくしくすられている。 賀正 だの 謹賀新年 だの書くほかには、 なお平素の疎情を謝し 併せて倍旧の厚誼を祈る なんてなこと位、それも何の趣向もなく、ただのハガキに印刷されたのを見慣れている僕には、送ってきたクリスマス、カアドがどれもこれも珍しく、また興味あるもののように感じられた。 ○クリスマス、フレゼント 親しい間柄、親類縁者の間では、互いにクリスマスの贈物をする。貰う方で重宝なようなものをと趣向を凝らす。 僕の今井る家庭には三人娘がいる。J嬢G嬢O嬢と。小包が届くと「私へのはないの?」「あたしへは三包よ」 なんて三人ともすこぶるエキサイトする。手に取るなり、すぐ糸を切って包み紙を開く。「オオ、デア、ーーハンカチッフス、アゲン」「イズントデス、ナイス」「ビュウチフルーーッヴリイ」「ルックーーヴェリイ、プリッチイ、イズントイット」 と三人が我れ勝ちに僕に見せる。あまり上等の品でなくとも。「イエス、ヴェリイ、プリッチイ」「アイヴ、ネヴァ、シン、サッチ、ア、ビュウチフル、ワン」 などと、心にもなく褒めてやらなきゃご機嫌が悪いらしい。 娘へは書物は余り来なかった。しかし本屋の前に立ってみると、進物用の美荘のが、著しく飾ってある。 ワリス、ミルスの水彩画挿画の模写が十枚入っている、半牛革、リネン表紙、金縁、十巻本のゼエン、オオスチン集の綺麗なのが目につく。いくらかと見ると七十シリングすなわち三十五円。 半ヴェラム、リネン表紙金縁で、背皮に草花模様の清楚な七巻本のジョオジ、エリオット小説集がある。価はとみると八十シリング、すなわち四十円。 三十八巻のラスキンのライブラリイ、エジションがある。サリストン、クロオス製のが三十九ポンド十八シリング、すわち三百九十九円、半モロッコのが五十九ポンド十七シリング、すなわち五百九十八円五十銭と札がついている。 廉いといっても僕ら貧書生にはこんな美装のは到底買えはせぬ。 僕には二十四日に小包が四つきた。一つはゴランツ教授からので、先生自ら監修出版せられているキングスクラシックス中のフィッツジェラルドのポロニアス。今一つはロオス嬢からのだ。黒皮表紙の沙翁ソンネット集。前述のゴランツ先生の緒言と語解が添わっている本だ。今ーつはエリザベス、ビズランド夫人からので、自着のJapanese Letters of Lafecadio Hearn。今ひとつはキアノン嬢からのでメエタアリンクのキズダム、アンド、デスチニイであった。 注釈を加えると、「クリスマスキャロル」はイエス・キリストの誕生を祝う歌で、クリスマス前の時期に歌われます。Hark! the herald angels singで始まるのはフェリックス・メンデルスゾーンによる「天には栄え」というキャロル、While shepherds watch’d their flocks by night,は「羊飼いが群れを見ている間」というナフム・テイトのものです。 クリスマスカードは、イギリスのビクトリア・アルバート美術館のヘンリー・コール館長が何枚もの手紙を書く手間を省くため、1843年に1000枚を作成して販売したのが最初だといわれます。これには当時のイギリスでは、1840年に始まった1ペニーで英国内中どこへでも送れる「ペニー・ポスト」と呼ばれるシステムの施行があったからこそ、考案されたようです。
2019.12.24
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うつくしき菓子贈られし須磨の秋(明治28) たらし髪羽子遣るあこに菓子やらん(明治32) 菓子箱をさし出したる火鉢哉(明治33) 明治33(1900)年9月に始まった「山会」は「文章には山がなくては駄目だ」という子規の言葉から名づけられた文章会で、即興で文書を作るものではありませんが、俳句の運座のように出された文章を読み上げ、互いに批評しあうというものでした。「山会」のコンセプトとは赤城格堂が『子規夜話』の「文章の山」で書くように「よく文章の山ということをいわれた。山というのは何の意味ですと尋ねたら、山は山だ、文章の中に善い山を築くのだ。大きな山なら一つで良い、小さい山でも数ありゃ良い、山がなけりゃ文章じゃない。山を見付けて文章を書かなけりゃ、無駄だといわれた。文章会のことを山会と称せられていたのはこの訳である」というものでした。 坂本四方太は『写生文の事』で「僕が初めて文章を子規子に見てもろうたのは、明治三十二年の春であったと思う。鎌倉紀行を書いて子規に出すつもりであったところが、子規子はこれでは土台文章になっておらぬという表を下された。僕はこの機構はよほどねって書いたつもりであったので、文章になっておらぬなどと言われては腹が立ってたまらない。大変な勢いでもってがなり込んだ。今考えると実にはずらしい次第で、文章はどんな風に書くものだという標準は毫末も立っていなかった。子規子などは多年の収容と練磨があるから僕の立腹などはよほど滑稽に見えたらしかった。一句一句はよほど苦心してあるようだが、どうも全体に山が一つもないからいかんということを、噛んでくくめるように説明された。サア分からない、山というのは何のことだか一向に分からない」と書いています。 当初、四方太は文章における山という子規の理論がわかっていませんでした。 子規の文章に対する考え方は「このころから明治の美文は明治の絵画、あるいは明治の俳句と同様に写生でやらなくてはいかん、写生をやるには言文一致でなくてはいかんという説を抱いておられたので、僕に限らず『ぞる』『こそけれ』で書くと、とにかく気に入らなかった。これはいまさらいうまでもなく子規子の卓見で、こんにち我派の写生文が盛んになったのも、実にこの日に胚胎している。俳句における子規子を謳歌するものは数多あるが、子規子の写生文における偉功をたたえる人はたんとない。しかし俳句の子規子を謳歌するというても、ただ尻馬に乗ってワーワー騒ぐ連中が多くて、真に子規子の特色を知る人は至って少ないのだから、写生文の功績を認めることが少ないからとて決して悲しむに足りないのだ(写生文の事)」とその功績を称えています。 明治32年11月22日に第一回文章会が開かれ、四方太に「只今拙宅に虚子青々来会。文章会を開き、ふき膾を饗し候間、日の暮れぬうちに宙を飛んで御出被下度候」という誘いの手紙が届き、四方太はまさに空を飛ぶ気分で出かけたのでした。 11月29日の四方太宛の手紙には、この時の文章会のことが書かれています。22日の子規庵での出来事を文にして「ホトトギス」に掲載するという『根岸草廬記事』の企画があり、四方太はその文章を子規のもとに届けていました。その文の正否も、ここには書かれています。 四方太君 闇汁会も面白かったが、先日の僕の内の会(=文章会)はまだ面白かった それは僕寝たままで諸君を労したからでもあるが、原因はそれ一つじゃ無い。あの日、虚子に障子あけてもろうて、庭の鶏頭の色がうつくしかったのを見て、天へ登りたいような心持がして、その色が今に忘れられぬのを見ても、当日の僕の喜びが何等かの原因によりて極度に刺戟せられていたことが分る。内部に喜びがあると、それが一々外部に反応するもので、当日のことは何でも嬉しくないものはない。ふき膾でも、柚饅でも、陳腐な茶飯でも、それが客に嫌われるに拘らず甚だ嬉しい。雑話も一々面白い。五目並べをやったことももっとも面白い。こんなに面白く嬉しいというのは滅多に起る現象ではない。さてその原因というは、自分即ち内部に関するものと、君たち即ち外部に関するものとの二つある。僕にいくらか同情をよせらるる当日の「うれし会(=文章会)」の会員にこの原因が分らぬことはあるまいと思う。 その日はうれしかったが、まだ嬉しさが足りない様な心持がする。すると翌々日、君は突然と僕の蒲団の上に顔出した。それも嬉しい。すると烟草の筥(はこ)から西洋菓子が出た。最うれしかった。これが「うれし会」の一日置いて次の日であったのも面白い。それを持て来た人が木綿着物の文学士であったのも面白い。シューだとかフランスパンとか、花火の音見たような名を聞きながら喰うたのもうれしかった。これを柚饅会の迎え菓子とでも称して、これで余波が尽きたとする。しかし僕の心ではまだ余波があってもいいようだ。 それから四五日すると君の手紙が来た。例の記文だ。それが「うれし会」の記であるけれど、直に披いて読む気にはならなんだ。それは読んで見て不愉快を起すと困るからだ。君の文を見て不愉快を起した例は幾度もある。僕が不愉快になった結果は、いつでも君を不愉快にしたのだから君の記臆に一々残っているであろう。それで先ず今朝見残しの新聞を読んだ。晩飯を喰った。また新聞を読んだ。雑誌を読んだ。しかして後に思い出して君の文を読んだ。 実に面白かった。 ただの一ところも不愉快な処はなかった。今までの文の山があっても、覚束ないよろよろとしているのは違う。大山は無いけれど却て面白い。もーたしかだ。これが余波の余波の喜びじまいだ。 明治卅二年十一月廿九日夜 規 ただ、この後の観ものはこの文がどこまで変化を逞うするかということだ。 四方太の文章は合格でした。そして、24日に子規の病床に届けたシュークリームやフランスパンも子規の心に届いています。子規は、シュークリームがとても気に入りました。明治33年11月30日に行われた煖炉の据え付け祝いで、岡麓に洋菓子を買って来させたのですが、そこにシュークリームがなかったことを残念に思った子規なのでした。※岡麓のシュークリームエピソードはこちら
2019.05.23
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長病の今年も参る雑煮哉(明治33) 病牀を囲む礼者や五六人(明治33) 新年の白紙綴じたる句帖哉(明治33) 水入りの水をやりけり福寿草(明治33) 梅いけて礼者ことわる病かな(明治33) 明治33年、子規はやや健康を取り戻しました。そのためか、この年の1月10日に発刊の「ホトトギス」に掲載された『新年雑記』は、明るい雰囲気に満ちています。「この嬉しさの底には『来年の正月に逢えるか逢えぬか』という大問題が首を出しているということは誰も知るまい。なに今年も大丈夫だ、と自分で手軽くやってのけた。が『なに今年も』といった去年は、そう手軽くは行かなかった。少しは苦しめられもし、騒がしもして、余り平和な年でもなかったが、それもようようおさまって、また新年を迎えた。うれしい。うれしい」という様子でした。 そして子規は縁起を担ぎ、台湾にいる子規の門人・渡辺香墨からもらった赤い紙に縁起の良い言葉を連ねました。「立春大吉」「辮財天女」「歳徳神」「福如東海」「鶴亀松竹」「寿如南山」、右の鴨居に「卯歳男」「大願成就」「錢殞如雨」「百事如意」「吉祥天」「南無三宝」と書いて、東側の押入れの側にそれらを貼りました。日本の家屋には、この赤い紙が調和せす、ことさら目立ちます。禍いの神を追い払おうという算段でした。 そして、福寿草を写生しようと思います。そして、俳句を添えようと思ったのでしたが、門人の鬼史が先に俳句を詠んでしまいました。昨年、病室の南をガラス戸にとたため、外の様子がよく見えます。歓喜を防ぎ、外を眺めることを目的にしたのですが、もう一つの効果がありました。「それは日光を浴びることである。真昼近き冬の日は、六畳の室の奥までさしこむので、その中に寝ているのが暖いばかりで無く、非常に愉快になって終には起きて坐って見るようになる。この時は病気という感じが全く消えてしまう」のでした。枕もとを見ると寒暖計は華氏90度(摂氏32度)近くまで上って、福寿草の蕾は黄色を見せて膨らんできました。 そして、子規は次の新年を夢想します。もし翌年も生きていたら「底にばねのある寝床を求め、その側に暖炉を据えつけ、きれいな窓掛を掛け、天井から丸いガラスの釣花をぶら下げてそれに下ヘ垂れて咲く花を活けて置きたい」と思います。そのまた次の次の年まで生きていたら、「自分の門の前までレールを敷いて特別汽車を仕立てて、日本中何処へでも行けるようにしよう」、また次の次の次の年まで生きのびたら、「今度は天人を一人呼び下して……」と考えていたら、押込の方で笑い声が聞えました。先日、中村不折が大津画の鬼が自転車に乗っている姿の絵を押入れにしまっていたのでした。きっと、あの鬼が笑ったのたと、子規は考えました。 ○また新年を迎えた。うれしい。紙鳶をあげて喜ぶ男の子、善き衣着て羽子板かかえて喜ぶ女の子、年玉の貰いをあてにする女髪結、雑煮が好きで、福引が好きで、カルタが好きで、カルタよりもカルタの時に貰うお鮓や蜜柑が好きだというお鍋お三、これ等の人を外にして新年が嬉しいというのは大方自分のような病人ばかりだろう。自分はおととしの新年を迎えた時に非常に愉快でたまらなかった、それは前年の大患を斬り抜けて、とにかく次の年を迎えたということが愉快でたまらなかったのである。しかし、それと同時に未来を考えた、それは来年の正月を迎られるかどうかということなので、これは自分に取っては容易ならぬ問題である。なにまだ死なないよ、今年一ぱいは大丈夫だ、などと自分勝手な判断をしていたが、首尾善く去年の正月も迎えた。発会式はあしたに迫った、福引の品を揃えねばならぬ、烏帽子と島田のかつらがぜひほしい、根岸になければ浅草へ往たらある、などと身は病牀にありながら、独りいそがしがって居るのが、心では嬉しくてたまらん。固よりかの会式も嬉しい、福引も嬉しい。けれどもそれよりも今年の発会式や福引に逢うことが出来たという、その事が一番嬉しいのだ。しかし、この嬉しさの底には「来年の正月に逢えるか逢えぬか」という大問題が首を出しているということは誰も知るまい。なに今年も大丈夫だ、と自分で手軽くやってのけた。が「なに今年も」といった去年は、そう手軽くは行かなかった。少しは苦しめられもし、騒がしもして、余り平和な年でもなかったが、それもようようおさまって、また新年を迎えた。うれしい。うれしい。その「うれしい」がまだ尽きぬうちに、はや次の大問題は首を拳げて来る、「来年の正月は」。さてこの大問題に逢著したところで「なに今年も」とやってのける勇気は最早なくなった。「初暦五月の中に死ぬ日あり」とも詠んだ。しかし、それは嘘だ。まだ五月なんかに終る気遣は無い。とにかく来年の正月までは生きる積りだ。といってはみたが「とにかく」「までは」「積りだ」という言葉を省くことは出来なかった。○役に立たぬつまらぬことを考えて延喜(=縁起)でも無いから、みそぎをして汚れをはろうてしまおうと思うていると、箱の底から、前年台湾土産に貰うた赤い紙が一束ね出て来た。紙は幅三寸竪六寸位で支那人の名刺にするのだそうだが、それを見ると、ふと支那の家に貼ってある赤紙のことを思い出して、その紙へ、めでたい縁喜の善い慾ばったような言葉を選んで書きつけた。それを何処へ貼ろうかと仰いで室内をながめたが、西側には、伊逹政宗が羅馬(ローマ)法王にやった手紙の写真版が額になって掛っている。北側には、柱の短冊掛の上に支那の団扇が掛けてあって、その横に、趙陶齋の書、安倍仲丸の歌と仲丸の秘書監になったことを書いた幅が掛っている。西側が羅馬で北側が支那であったのは偶然であった。南側には彫刻師が鶏を彫っている絵が小い額になっている。東側の押込のある方には真中の柱に蓑と笠が掛けてあるばかりだから、ここヘ貼ることにきめた。先ず菅笠の上へ「立春大吉」というのを貼って、あとは勝手に貼らせたら、左の鴨居に「辮財天女」「歳徳神」「福如東海」「鶴亀松竹」「寿如南山」、右の鴨居に「卯歳男」「大願成就」「錢殞如雨」「百事如意」「吉祥天」「南無三宝」という順に貼られた。日本風の薄っペらな家にはこの真赤な紙が調和せんので目立ってことさらに見える。この位目立ったら禍の神にも見えぬことはあるまい。これで禍が来ぬなら福の神が悪いのだ。○それでもまだ福が来そうに無いので、更に福寿草を買った。蕾が三つばかり横平たい鉢に植えてあるが、まだ咲き初めもせぬ。これが一輪咲いたら例の写生をやろうと思うて、その咲くのを待っていた。 絵の具は不折がくれた泥絵の具があるからその使い初めもしたいと考えたのだ。しかし福寿草だけでは興味が無いから、何か善き配合物はあるまいかと部屋中見廻したが、どうも思いつきが無くて困っていた。然るにある朝、眼を覚まして見ると福寿草の側に寒暖計が置いてあったので、この偶然の配合が非常に面白く感じた。この寒暖計は室内の下の方の空気の温度を測るためにことさらに低く畳の上に置くようにしてあるのだ。この配合を得たから、花の咲くのを待って写生しようと思うて、楽んでいると、ある日、鬼史が来て「病室の寒暖計や福寿草」と先ず俳句にしてしもうた。○去年の正月と今年の正月と自分に格別違うたことも無いが、少し違うたのは、からだの余計に弱ったと思うことと、元日の蜜柑の喰いようが少かったことと、年賀のはがきが意外に澤山来たことと、病室の南側をガラス障子にしたことと、位である。ガラス障子にしたのは寒気を防ぐためが第一で、第二にはいながら外の景色を見るためであった。果してあたたかい。果して見える。見えるも、見えるも、庭の松の木も見える、杉垣も見える。物干竿も見える。物干竿に足袋のぶらさげてあるのも見える、その下の枯菊、水仙、小松菜の二葉に霜の遣いているのも見える、庭に出してある鳥籠も見える、籠の烏が餌を喰うのも見える、そうして一寸尻をあげて糞するのも見える、雀が松の木をあちこちするのも見える、鶸(ひわ)が四五羽つれだって枯木へ来たと思うと、直にまたはらはらと飛んでしまうのも見える、鶯が一羽黙って垣根をあさりながらふいふいと飛びまわるのも見える、裏戸あけて水汲みに行くのも見える、向いの屋根も見える、上野の森も見える、凍ったような雲も見える、鳶の舞うているのも見える、四角な紙鳶と奴紙鳶と二つ揚っているのも見える、四角な紙鳶がめんくらって屋根の上に落ちたのも見える、それを下から引張るので紙鳶が鬼瓦に掛ってうなづいているのも見える。ことに雪の景色は今年つくづくと見た。山吹の枝に雪の積んだのが面白いということも今年知った。しかし、これらはガラス障子につきて畧予想したことであったが、その外に予想しない第三の利益があった。それは日光を浴びることである。真昼近き冬の日は、六畳の室の奥までさしこむので、その中に寝ているのが暖いばかりで無く、非常に愉快になって終には起きて坐って見るようになる。この時は病気という感じが全く消えてしまう。枕もとを見ると寒暖計は九十度近くまで上って福寿草の蕾は一点の黄をあらわして来た。○外出するのに、人力車に乗っては腰が痛いばかりで無く、冬は寒くて困るから、何か善い乗物はあるまいかと考えた。駕籠では外が見えないし、馬車や牛車では田甫の小道を行くことが出来ぬ。いっそ膝行(いざり)車をこしらえてはどうだという人もあったが、こいつは箱根権現の霊験でもあって初花という美人が曳いてくれるのなら別だが、三尺の棒を櫂にして自ら漕いで行くのは余り面白くも無いから、先ず願いさげとして、一つ善い物を工夫した。それは板でも網代でも七島でも何でも善いからそれで駕籠のようなものをこしらえて、そしてぐるりにガラス窓をつけて置く、もっとも中の広さは足を伸べられる位、まさかの時は横に寝られる位にする、肱もたせもこしらえる、勿論手爐や燈爐などは入れられる、鉄瓶はたぎっている、側に茶や菓子や菓物が備えてある、というような具合になっている。これなら腰も痛くなし、冬でも寒くもなし、田甫の小路でも何でも行けるし、咽喉が渇いたからとて茶店を尋ねる必要もないし、何処でも景色の善い処で駕籠を下して休むことも出来るし、花見月見雪見何でも出来るという誠に重宝な物であろう。これで根岸の郊外へ出たら人は日暮里の焼場へ行くのかと思うだろうが、そう思われるのはむしろ幸だ。もし来年まで無事でいたら、こういう駕籠を一つこしらえて見たい。もし、またその次の年までながらえていたら、底にばねのある寝床を求め、その側に暖炉を据えつけ、奇麗奇麗窓掛を掛け、天井から丸いガラスの釣花をぶら下げてそれに下ヘ垂れて咲く花を活けて置きたいと思う。もし、また次の次の年まで生きていたら、自分の門の前までレールを敷いて特別汽車を仕立てて、日本中何処へでも行けるようにしよう。もし、また次の次の次の年まで生きのびたら、今度は天人を一人呼び下して……。ここまで書いて来ると、押込の中で角のある笑い声が聞えた。はてなと思うて考えて見ると、先日不折が、大津画の鬼が奉加帳腰にさげて自転車に乗っている処を画いてくれたのがある。きっと、あの鬼が笑ったのであろう。(新年雑記)
2019.01.07
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明治41(1908)年3月22日、漱石は寺田寅彦とともに自宅を出て、上野にあった東京音楽学校(現・東京芸術大学)の奏楽堂で催される音楽会へ向かいました。寅彦の趣味は音楽演奏で、3月18日に寅彦へ宛て「日曜日の音楽会には行きたいと思う。フロックコートを着て新しい外套を着て行きたい。切符御求願候。待ち合わせる時と場所を乞う。子規へ掲載の演説書き直してみるとなかなか長くなり骨が折れそう也。万一出られねば前日までに断り状を出し候。ただし切符代はどちらにしても小生担任のこと」と書いたハガキを送っています。 漱石は、奏楽堂で催された音楽会のことを『野分』に書いています。 楽堂の入口を這入ると、霞に酔うた人のようにぽうっとした。空を隠す茂みのなかを通り抜けて頂に攀じ登った時、思いも寄らぬ、眼の下に百里の眺が展開する時の感じはこれである。演奏台は遥かの谷底にある。近づくためには、登り詰めた頂から、規則正しく排列された人間の間を一直線に縫うがごとくに下りて、自然と逼まる擂鉢の底に近寄らねばならぬ。擂鉢の底は半円形を劃して空に向って広がる内側面には人間の塀が段々に横輪をえがいている。七八段を下りた高柳君は念のために振り返って擂鉢の側面を天井まで見上げた時、目がちらちらしてちょっと留った。(野分 4) 「もう時間だ、始まるよ」と活版に刷った曲目を見ながら云う。「そうか」と高柳君は器械的に眼を活版の上に落した。 一、バイオリン、セロ、ピヤノ合奏とある。高柳君はセロの何物たるを知らぬ。二、ソナタ……ベートーベン作とある。名前だけは心得ている。三、アダジョ……パァージャル作とある。これも知らぬ。四、と読みかけた時拍手はくしゅの音が急に梁はりを動かして起った。演奏者はすでに台上に現われている。 やがて三部合奏曲は始まった。満場は化石したかのごとく静かである。右手の窓の外に、高い樅もみの木が半分見えて後ろは遐はるかの空の国に入る。左手の碧の窓掛けを洩れて、澄み切った秋の日が斜に白い壁を明らかに照らす。 曲は静かなる自然と、静かなる人間のうちに、快よく進行する。中野は絢爛たる空気の振動を鼓膜に聞いた。声にも色があると嬉しく感じている。高柳は樅の枝を離るる鳶の舞うさまを眺めている。鳶が音楽に調子を合せて飛んでいる妙だなと思った。 拍手がまた盛んに起る。高柳君ははっと気がついた。自分はやはり異種類の動物のなかに一人坊っちでおったのである。隣りを見ると中野君は一生懸命に敲いている。高い高い鳶の空から、己をこの窮屈な谷底に呼び返したものの一人は、われを無理矢理にここへ連れ込んだ友達である。 演奏は第二に移る。千余人の呼吸は一度にやむ。高柳君の心はまた豊かになった。窓の外を見ると鳶はもう舞っておらぬ。眼を移して天井を見る。周囲一尺もあろうと思われる梁の六角形に削られたのが三本ほど、楽堂を竪に貫つらぬいている、後ろはどこまで通っているか、頭を回らさないから分らぬ。所々に模様に崩した草花が、長い蔓と共に六角を絡んでいる。仰向いて見ていると広い御寺のなかへでも這入った心持になる。そうして黄色い声や青い声が、梁を纏う唐草のように、縺れ合って、天井から降ってくる。高柳君は無人の境に一人坊っちで佇んでいる。 三度目の拍手が、断わりもなくまた起る。隣りの友達は人一倍けたたましい敲き方をする。無人の境におった一人坊っちが急に、霰のごとき拍手のなかに包囲された一人坊っちとなる。包囲はなかなか已まぬ。演奏者が闥(たつ)を排してわが室に入らんとする間際になおなお烈しくなった。ヴァイオリンを温かに右の腋下に護りたる演奏者は、ぐるりと戸側に体を回らして、薄紅葉を点じたる裾模様を台上に動かして来る。狂うばかりに咲き乱れたる白菊の花束を、ひるがえる袖の影に受けとって、なよやかなる上躯を聴衆の前に、少しくかがめたる時、高柳は感じた。――この女の楽を聴いたのは、聴かされたのではない。聴かさぬというを、ひそかに忍び寄りて、偸み聴いたのである。(野分 4) 奏楽堂は、明治23(1890)年にできた日本最古のコンサートホールです。明治30年代から本格的な音楽会が開催されるようになり、滝廉太郎、三浦環、山田耕作らがこの場所で楽曲を初演しています。老朽化のために取り壊されそうになりましたが、上野公園内に移築され、現在もコンサートが行われています。 この日かどうかはわかりませんが、寅彦は、当時のことを思い出して『蛙の鳴声』というエッセイを書いています。 何年頃であったか忘れてしまったが、先生の千駄木時代に、晩春のある日、一緒に音楽学校の演奏会に行った帰りに、上野の森をブラブラあるいて帰った。 その日の曲目の内に管弦楽で蛙の鳴声を真似するのがあった、それはよほど滑稽味を帯びたものであった。先生はあるきながら、その蛙の声を真似して一人で面白がってはさもくすぐったいように笑っておられた。 それから神田の宝亭で、先生の好きな青豆のスープと小鳥のロースか何か食ってそして一、二杯の酒に顔を赤くして、例の蛙の鳴声の真似をして笑っていた。 考えてみると、あの時分の先生と晩年の先生とは何だかだいぶちがった人のような気がするのである。(寺田寅彦 蛙の鳴声) カエルの鳴き声を模した楽曲は、何だったのでしょう。「管弦楽」と書いていますから、小曲ではありませんから、ハイドンの四重奏曲第6番「蛙」か、テレマンのヴァイオリン協奏曲「蛙」かもしれません。 とにかく、酔っ払ってカエルの鳴き声を真似る漱石先生。この時期は神経衰弱が酷くなっていた時期といいますから、カエルになって現実逃避をしたかったのでしょうか。
2018.11.24
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送火や朦朧として佛だち(明治24) 送火や烟朦朧として佛達(明治24) 烏帽子着て送り火たくや白拍子(明治25) 送火の煙見上る子どもかな(明治25) 送火の何とはなしに灰たまる(明治25) 送火の灰の上なり桐一葉(明治25) 送火のあとやもうき焦れ石(明治27) 送火のもえたちかぬる月夜哉(明治28) 送火にさつさと歸り給ひけり(明治29) 子規と盂蘭盆の関係について調べてみましたが、めぼしいものが出てきません。明治33(1900)年7月15日に第四回万葉集輪論会が開かれ、夕方より臨時歌会(七月第二会・盂蘭盆会)が開かれています。 これでは、文章が持たないので、愛媛の盆にまつわる伝説をご紹介します。 愛媛では、ミサキという幽霊が信仰されています。ミサキは成仏できずに迷っている霊で、人をあの世に誘うとその人数分だけ成仏できるため、凄まじい祟りをもたらすといわれます。柳田国男は『みさき神考』で「人間の非業の死を遂げて、祀り手もないような凶魂を意味する」と記しています。 忽那諸島ではミサキが憑くと、火をつけた七本の線香で身体を撫で、海岸に線香を立てて祈ります。夜、幼児に災いが及ばないようにするため、竃のススを幼児の頭につけ「インノコ、インノコ」と唱えるのです。南予では、落人の霊といい、水をかけて霊を弔う「流れ灌頂」を施します。 非業の死を遂げた者がよくないことを起こすという考えを「御霊信仰」と呼びます。天変地異は怨霊の祟りだと考えられ、菅原道真のように神として祀り鎮魂する方法がとられました。 平家の落人、落武者などは、霊を慰める人がいないため、里に祟りを及ぼすと考えられました。里人はそうしたまつろわぬ霊のために墓や塚、祠を建て、ミサキとして霊を祀ったのです。 海の事故で突然に命を絶たれた人の霊もミサキになるとして恐れられました。海で事故に遭うことは死を意味することも多く、漁業や海運の従事者はそうした霊を恐れます。また、海では天候の激変や自然の怪異も多く、平安な海の航行を望むために、霊を慰める信仰が生まれたようです。 宇和島市津之浦で行われる「いさ踊り」は鎮魂の踊りです。宝永6年(1710)に下波村結出で遭難した讃岐の漁師・長次郎の霊を慰めるため、供養の盆踊りを始めました。踊りをやめようとしたところ、幽霊に取りつかれ、「踊りをやめると地獄の苦しみに耐えられない」と訴えたため、行事を続けることになったそうです。 同様に宇和島市の「戸島はんや踊り」も鎮魂の踊りです。山伏が大崎鼻(明浜)沖にある三双碆で遭難し、死体が蔣淵の赤崎鼻に流れ着いてから不幸が続いたので、これらの霊を慰めるために日向の踊りを伝えたといいます。 愛媛の盆踊りには、こうした鎮魂の意味が込められています。 虚無僧の深あみ笠や盆の月(明治25) 盆の月團子の數も見えてけり(明治25) 盆の月亡者の歸る鉦の音(明治25) 盆の月亡者の歸る軒端哉(明治26) 盂蘭盆の鵲鳴くや墓印(明治28) 盂蘭盆や無縁の墓に鳴く蛙(明治28) 盆過の小草生えたる墓場哉(明治28) 盆の月佛くさくもなかりけり(明治29) 盆過の月明かに雨の音(明治32)
2018.08.17
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正岡子規は、幼い頃に弱虫でし、怖い話が苦手でした。18歳の頃の「妖恠談」では子供に怖い話をしてはいけないと書き、21歳の頃の「八犬伝第二」では荒唐無稽な話に対する疑問点をあげ、22歳の頃の「見聞以外」には、人間の想像力には限りがあると書いています。 子規のいとこに藤野古白がいます。古白は、子規が日清戦争の取材のために広島で出発を待ち受けていた際、古白自殺の報を受け取ります。古白は、東京専門学校の卒業にあたって書き上げた戯曲「人柱築島由来」が、世間から無視されてしまったことに落胆していました。もともと神経衰弱気味だった古白は、そのために「現世に生存のインテレストを喪」ってしまったのでした。 明治34年10月13日の『仰臥漫録』には、鬼気迫る文が書かれています。一人になった子規は、硯箱にある小刀と千枚通しで自殺を考えました。自殺できそうな剃刀が次の間にあることは分かっていましたが、そこまで行くことはできません。「死は恐ろしくはないのであるが、苦しみが恐ろしいのだ」と考えていると、八重が帰ってきました。子規は、病床で死を誘いかけてくる死霊を感じたのでした。※古白の幽霊はこちら※古白についてはこちら 翌年の『病牀六尺』8月16日には幽霊についての文が書かれています。ただ、内容は怪奇譚を語るよりも教育についての論評なのですが、「子供の時幽霊を恐ろしいものであるように教えると、年とってもなお幽霊を恐ろしいと思う感じがやまぬ。子供の時毛虫を恐ろしいものであるように教えると、年とって後もなお毛虫を恐ろしいもののように思う。余が幼き時婆々様がいたく蟇(ひき)を可愛がられて、毎晩夕飯がすんで座敷の縁側へ煙草盆を据えて煙草を吹かしながら涼んでおられると手水鉢の下に茂っておる一ツ葉の水に濡れている下からのそのそと蟇が這ひ出して来る。それがだんだん近づいて来て、其処に落してやった煙草の吹殻を食うてまたあちらの躑躅(つつじ)の後ろの方へ隠れてしまう。それを婆々様が甚だ喜ばれるのを始終傍におって見ていたために、今でも蟇に対すると床しい感じが起るので、世の中には蟇を嫌う人が多いのをかえって怪しんでいる。読書すること、労働すること、昼寐すること、酒を飲む事こと、何でも子供の時に親しく見聞きしたことは自ら習慣となるようである。家庭教育の大事なる所以である。(八月十六日)」とあります。 また、子規は『俳人蕪村』の中で、蕪村の句には「積極的美」「客観的美」「人事的美」「理想的美」「複雑的美」「繊細的美」を感じると論評し、蕪村の句の「用語」「句法」「句調」「文法」「材料」などで具体的な句を列挙しています。その中の「材料」では、妖怪について触れています。 蕪村は狐狸怪を為すことを信じたるか、縦令(たとい)信ぜざるもこの種の談を聞くことを好みしか、彼の自筆の草稿『新花摘』は怪談を載すること多く、かつ彼の句にも狐狸を詠じたる者少からず。 公達に狐ばけたり宵の春 飯盗む狐追ふ声や麦の秋 狐火やいづこ河内の麦畠 麦秋や狐ののかぬ小百姓 秋の暮仏に化る狸かな 戸を叩く狸と秋を惜みけり 石を打狐守る夜の砧かな 蘭タ狐のくれし奇楠を炷ん 小狐の何にむせけん小萩原 小狐の隠れ顔なる野菊かな 狐火の燃えつくばかり枯尾花 草枯れて狐の飛脚通りけり 水仙に狐遊ぶや宵月夜 怪異を詠みたるもの、 化さうな傘かす寺の時雨かな 西の京にばけもの栖て久しくあれ果たる家ありけり今は其さたなくて 春雨や人住みて煙壁を洩る 狐狸にはあらで幾何か怪異の聯想を起すべき動物を詠みたるもの 獺(おそ)の住む水も田に引く早苗かな 獺を打し翁も誘ふ田植かな 河童の恋する宿や夏の月 蝮(くちばみ)の鼾も合歓の葉陰かな 麦秋や鼬啼くなる長がもと 黄昏や萩に鼬の高台寺 むささびの小鳥喰み居る枯野かな この外犬鼠などの句多し。そは怪異というにはあらねどかくの如き動物を好んで材料に用いたるもその特色の一なり。(俳人蕪村) 「妖怪」ということばは、明治時代の研究者・井上円了が命名した、人々が不思議に思っている現象のことを示す学術用語です。現在ではすっかりおなじみになり、日常でも使われるようになりました。 柳田国男は『妖怪談義』のなかで、「出現する場所」「相手」「出現する時刻」によって、妖怪と幽霊の違いを記しています。しかし、この定義はのちの研究者にとって議論の対象となりました。諏訪春雄は『日本の幽霊』のなかで、「もともと人間であったものが死んだのち人の属性をそなえて出現するものを幽霊、人以外のもの、または人が、人以外の形をとって現われるものを妖怪」と定義しています。柳田は妖怪を「零落せんとする前代神の姿」とする興味深い指摘をしています。かつて神であったものが次第に信仰されなくなったものが妖怪で、そのため自分の力を信じないものを罰そうとし、信じるものには祝福と宝をもたらすというのです。
2018.06.30
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明治34(1901)年9月27日の『仰臥漫録』には、自らの給与の変遷が記されています。「中田氏新聞社よりの月給(四十円)を携え来る」とあり、日本新聞社から受け取る当時の子規の給与は40円でした。それに「ホトトギス」から10円が支給され、月50円の給与となりました。明治25(1892)年の日本新聞入社時には月給15円。以後は「廿六年一月より二十円。廿七年初新聞小日本を起し、これに関することとなりこれより卅円。同年七月小日本廃刊『日本』の方へ帰る。同様卅一年初四十円に増す。この時は物価騰貴のため社員総て増したる也」とあります。 当初、子規の描いていた給料は50円でした。「余書生たりしときは大学を卒業して少くとも五十円の月給を取らんと思えり。その頃は学士とりつきの月給は医学士の外は大方五十円のきまりなりき。その頃の五十円といえば今日の如く物価の高きときの五十円よりは値打多かりしならん(仰臥漫録 明治34年9月27日)」と考えていたのです。 しかし、子規はこの給料に甘んじます。叔父の大原恒徳に送った手紙には「右手紙書き畢らぬところへ陸より呼びに来たり参り候ところ、いよいよ毎日出社のことに相決まり候。しかし別にこれというほどの職業も御坐なく候ゆえ、いやな時は出勤致さずともよろしくと申し候。そのかわり月俸十五円に御坐候。これは陸一人よりいえば大いに気の毒がるところなれども、社の経済上予算相定まりおり候ゆえ、本年中は致し方これなく、来年になれば五円か十円のところはともかくも相なり申すべくと申しおり候。それまでのところ足らねば、自分が引き受け申すべくよし、懇に申しくれ候。……もっとも我が社の俸給にて不足ならば、他の国会とか朝日新聞とかの社へ世話致し候わば三十円ないし五十円くらいの月俸は得らるべきにつき、その志あらば云々と申し候えども、私はまず幾百円くれても右様の社へは入らぬつもりにござ候。(明治25年11月18日 大原恒徳宛書簡)」と記しています。 「さて余が書生時代の学費はというに高等中学在学の間は常盤会の給費毎月七円をもらい、大学在学の間は同給費十円をもらいたり(この頃は下宿料四円位が普通也)されど大学へ入学以後は病身なりしため故郷よりも助けてもらいし故一ヶ月十三円乃至十五円位を費したり(仰臥漫録 明治34年9月27日)」と書いています。ただ、明治25年に小説『月の都』で文壇に躍り出ようと考えたとき、正岡家の財産は破綻寸前でした。明治8年の家禄奉還にともなう一時金1200円を叔父の大原恒徳に管理してもらい、五十二銀行の株配当金や公債の利子で、一家の家計は支えられていました。その財産は、いわば子規の学生時代の放蕩(そんなに大げさではありませんが)により、風前の灯火となっていたのです。 それを心配した従兄の佐伯政直は、子規の『月の都』執筆のための移転の忠告とともに、正岡家の家計の現状を知らせた手紙を明治25年1月20日に送ります。 政直はこの中で「貴家の財政上を案ずるに(失敬は御免)別紙の如き計算と可相成と推察」とことわった上で、正岡家の収支を書きしるしています。それによれば、明治25年の収入は銀行株10株より生ずる配当金80円、公債100円の利子6円の合計86円。支出は八重と律の生活費で72円、子規への学資が120円、借入金650円の利子65円で合計257円となっています。正岡家の家計は171円の赤字となっていました。そこで政直は、手持ちの株券を遂次売却して借入金を返済してはどうかと提案したのです。 子規が「月の都』の執筆に必死になったのは、こうした背景もありました。しかし、小説は出版に至りませんでした。※『月の都』(にしの子)についてはこちら※『月の都』(焼き芋)についてはこちら※『月の都』(幸田露伴)についてはこちら その顛末を、子規は「然るに家族を迎えて三人にて二十円の月給をもらいしときは金の不足するはいう迄もなく、故郷へ手紙やりて助力を乞えば自立せよと伯父に叱られ、さりとて日本新聞社を去りて他の下らぬ奴にお辞誼して多くの金をもらわんの意は毫も無く、余はあるとき雪のふる夜、社よりの帰りがけ、お成道を歩行きながら蝦蟇口に一銭の残理さえなきことを思うて泣きたいこともありき。余はこの時まだ五十円の夢さめず、縦し学士たらずとも五十円位は訳もなく得らるるものと思えり。されど新聞社にては非常に余を優遇しある也。余は斯くて金の為に一方ならず頭を痛めし結果、遂に書生のときに空想せし如く、金は容易に得らるるものに非ず。五十円はおろか一円二円さえ之を得ること容易ならず。否一銭一厘さえおろそかに思うべきに非ず。こは余のみに非ず、一般の人も裏面に立ち入らば随分困窮に陥りおる者少からぬよう也。五十円など到底吾等の職業にては取れるものならずということを了解せり。金に対する余の考はこの頃より全く一変せり。これより以前には人の金はおれの金というような財産平均主義に似た考を持千足。従って金を軽蔑しおりしが、これより以後金に対して非常に恐ろしききような感じを起し、今迄は左程にあらざりしも、この後は一、二円の金といえども人に貸せというに躊躇するに至りたり」と書いています。学生時代の子規は、金は天下の回り物と考え、自由に生活していたツケが、ようやく回ってきたのです。しかし、愚陀仏庵に身を寄せていた時代、漱石に対しては無頓着な金遣いを要求していますが、これには漱石の給料が月八十円と聞き、これなら甘えてもいいかなと考えたのかもしれません。 『仰臥漫録』の最後には「三十円になりて後、ようよう一家の生計を立て得るに至れり。今は新聞社の四十円とホトトギスの十円とを合せて一ヶ月五十円の収入あり。昔の妄想は意外にも事実となりて現れたり。以て満足すべき也」と、我が身の経済がようやく落ち着いたことに安堵し、二つの句を挙げています。 夕顔ノ実ニ富ヲ得シ話カナ(宇治拾遺) 鶏頭ヤ糸瓜ヤ庵ハ貧ナラズ 拝啓 時冱寒に候処愈御消康之趣奉賀候。当地も昨今は珍敷時々吹雪あり。積むこと三寸許、今日の午後漸く道路の雪相消候程なり。貴地も定て烈寒に有之別而感冒御用心専要に奉存候。さて前日も詳細に御報道被下候処、その後大原尊叔ともしみじみ御談致候間合も無之。その内大原叔には両三日中御出立東上被成、小生も本日出発上の筈(風波のため一日延)藤野叔には未だ御着松無之。旁御相談等の運に不至。乍然野生貴家の財政上を案ずるに(失敬は御免)別帋の如き計算と可相成と推察致候。付ては自今毎月十五円宛の学資送付は何分にも大蔵省の支出難整、強てこれを送付するときは貴君御卒業と資産の○に帰すると同時と可相成ト存候。もっとも御卒業後、直に歳費収入の途相立候ば、○に帰するもいささか頓着無之儀なれども兼ねがねと御噂の如く、直に一身を売り田舎へ引込ことも御厭また買人の有無も難斗左候えば、その後一ヶ年二ヶ年間位は一家凍餒を免るの謀は必要と被存候。依て愚考するに一ヶ月十円以内の学資にて可及丈一身の摂養と大学の課題を欠かざることとし、一先卒業の後に於て後半分の著述を終える御計画被成候外は有之間敷と存候。御申越の支出予算案は野生民党より如何に切込んとするも御一身の摂養及勤学に必要のもののみと被存、削減を施さんとするの条項を見出さず。書籍雑誌の類購求はもっとも必要かつ著述(追ってにもせよ)に欠くべからざるものとは存候得共、如何せん財政の許さざる施なれば、その購求は暫く御忍有之候外なし。而して今回の御転寓一戸御借入も右著述のためなれば御再考可有之、一身御摂養のためなれば既定の歳出と一般容易に削減をなすべからざる儀と存候。また学資の送付も毎月五円とか十円とか一定超過すべからざるの額を定め置き、途付のことと不相成、而ば送金上しばしば尊叔に於ても御困難之事有之候に付、この際その額をも決定置可然と存候。 目下小生に於て両尊叔へ御相談致さんとするも、前陳の件に先貴君の御諾否を不承候ては、相始らざることに付御賢考の上重而、何分の御報相煩度。もっとも大原尊叔御東上に付、万瑞親敷御協議相成候えば無比上事に付、別に御報道を煩にも不及。精々御勘考被下度候。先は要用而已。匆匆拝具。 一月廿日夜認 政直 常規様 廿五年中収入予算 収入之部 一、金八拾円 銀行株十より生る配当金 一、金六円 六分利公債百円の利子 〆八拾六円 支出ノ部 一、金七拾二円 北堂令妹一ヶ年中ノ食料諸雑費(月六円) 一、金六拾五円 御借入金六百五十円に対する一ヶ年利子(年一割ノ利) 一、金百二十円 学費(一ヶ月十円宛) 小計 二百五十七円 差引百七十二円不足に付借入 一、金八円 前不足金借入に対する凡六ヶ月分利息 支出総計 二百六十五円 不足額 百七十九円 負債額 九百十五円 利子額 七十三円 廿五年十二月末 右之通にて押行ときは廿六年度は今一層の困難となるべし。よってこの際、所有株等売却、負債を償却して利息を払わざることとなし、而して漸次基本財産売却金を以て数年間を経過する外無之ことと存候。今日之を処分するときは左の如し。 一、金六百六十円 銀行株五株売却代 一、金百三円 公債証書百円売却代 〆七百六十三円 内 金六百五十円 負債償却 差引残百十三円 一、金百十三円 在金 一、金二十円 五株に対する七月配当金 〆百三十三円 一、金四十八円 一家入用 八ヶ月分 一、金八十円 学資八ヶ月分 一、金五円 臨時費 〆百三十三円 差引○ 右ニテ廿五年二月より九月迄済 一、金百三十二円 廿五年十月売却銀行株一枚代 一、金十六円 廿六年一月から四株配当金 〆百四十八円 一、金百四十八円 前例により九ヶ月中消費 右にて廿六年六月迄済 一、金百三十二円 廿六年七月銀行株一枚売却代 一、金十六円 七月銀行配当金四株分 〆百四十八円 金三十六円 松山一家諸費六ヶ月分 金百十二円 貴君卒業後凡六ヶ月の費用 差引○ 廿六年中済 残り財産 銀行株三枚 住家 一棟 右之通と相成趣に被存候。(明治25年1月20日、佐伯政直から子規への手紙)
2018.06.28
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