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子規が「探幽の失敗」を書いてから25年後、子規の死から17年後……。大正2年12月12日、母校の第一高等学校で「模倣と独立」という講演を行いました。この講演で漱石は、人間の本性には「イミテーション」と「インディペンデント」があり、明治という時代を終えて、日本は西洋のモノマネに終始することなく、日本独自のものを目指すべきだと説きました。ただ、この中で「イミテーション」を完全に否定するのではなく、「イミテーション」と「インディペンデント」の「両方を持っていなければ、私は人間とはいられないと思う」とも語っています。また、「流行」も人の真似から始まるといい、人間は「人は模倣を喜ぶものだということ、それは自分の意志からです、圧迫ではないのです。好んで遣る、好んで模倣をするのです」と断じています。 それでこのヒューマン・レースの代表者という方から考えて、人間という者はどんな特色、どんな性質を持っているか。第一私は人間全体を代表するその人間の特色として、第一に模倣ということを挙げたい。人は人の真似をするものである。私も人の真似をしてこれまで大きくなった。私の所の小さい子供なども非常に人の真似をする。一歳違いの男の兄弟があるが、兄貴が何かくれろといえば弟も何かくれろという。兄が要らないといえば弟も要らないという。兄が小便がしたいといえば弟も小便をしたいという。それは実にひどいものです。総て兄のいう通りをする。丁度その後から一歩一歩ついて歩いているようである。恐るべく驚くべく彼は模倣者である。 近頃読んだ本でありませんがマンテガッツァの『フィジオロジー・エンド・エキスプレション』という本の中にイミテーションということについて例を沢山挙げてありましたが、私は今一々人間という者は真似をするものであるということの沢山な例を記憶しておりませんが、ここに二つ三つあります。例えば、一人の人が往来で洋傘を広げて見ようとすると、同行している隣りの女もきっと洋傘を広げるという。こういう風に一般にある程度まではそうです。往来で空を眺めていると二人立ち三人立つのは訳はなくやる。それで空に何かあるかというと、飛行船が飛んでいる訳でも何でもない。けれども飛行船が飛んでいるとか何とかいえば、大勢の群集が必ず空を仰いで見る。その時に何か空中に飛行船でも認めしむることが出来ないとも限らない。 それほど人間という者は人の真似をするように出来ている情けないものであります。それでその、人の真似をするということは、子供の内から始まって、今いったような些末の事柄ばかりでない、道徳的にもあるいは芸術的にも、社会上においてもそうである。無論流行などは人の真似をする。われわれが極く子供の内は東京の者はこんな薩摩飛白などは決して着せません。田舎者でなければ着ないものでした。それを今の書生は大抵皆薩摩飛白を着る。安いからか知りませんが、皆着るようになった。それから一時白い羽織の紐の毛糸か何かの長いのをこう――結んで胸から背負って頸に掛けておった。あれも一人やるとああなるのであります。私たちの若い時は羽織の紋が一つしきゃないのを着て通人とか何とかいって喜んでいた。それが近頃は五つ紋をつけるようになった。それも大きなのが段々小さくなったようだが、近頃どの位になっているのか。私は羽織の紋が余り大きいから流行に後れぬように小さくした位それほど流行というものは人を圧迫して来る。圧迫するのじゃないが、流行にこっちから赴くのです。イミテーターとして人の真似をするのが人間の殆ど本能です。人の真似がしたくなるのです。こういう洋服でも二十年前の洋服は余り着られない。この間着ていた人を見たけれども可笑しいです。あまり見っともよいものではない。殊に女なんぞは、二十年前の女の写真なんぞは非常に可笑しい。本来の意味では可笑しいとは自分で思っていないけれども、つくづく見ると、やはり模倣ということに重きを置く結果、どうもその自分と異なった物、あるいは世間と異ったものは可笑しく見えるのであります。そういう風にそれを道徳上にも応用が出来ます。それから芸術上は無論のことですね。そんな例は沢山挙げてもよいけれども、時間がないから略して置きます。とにかく大変人は模倣を喜ぶものだということ、それは自分の意志からです、圧迫ではないのです。好んで遣る、好んで模倣をするのです。(模倣と独立) この講演で漱石はゴーギャンを例に引きました。ゴッホと親交を結び、のちにタヒチに渡って島民の生活を描いたあの人です。 繰り返して申しますが、イミテーションは決して悪いとは私は思っておらない。どんなオリヂナルの人でも、人から切り離されて、自分から切り離して、自身で新しい道を行ける人は一人もありません。画かきの人の絵などについて言っても、そう新しい絵ばかり描けるものではない。ゴーガンという人は仏蘭西の人ですが、野蛮人の妙な絵を描きます。仏蘭西に生れたけれども野蛮地に這入って行って、あれだけの絵を描いたのも、前に仏蘭西におった時に色々の絵を見ているから、野蛮地に這入ってからあれだけの絵を描くことが出来たのである。いくらオリヂナルの人でも前に外の絵を見ておらなかったならば、あれだけのヒントを得ることは出来なかったと思う。ヒントを得るということとイミテートするということとは相違があるが、ヒントも一歩進めばイミテーションとなるのである。しかしイミテーションは啓発するようなものではないと私は考えている。(模倣と独立) ただ、漱石は明治22年当時の子規のように、模倣を軽蔑しているわけではありません。イミテートは啓発されるようなものであり、そこからインディペンデントなものを目指す必要があると説きます。たとえ「イミテーション」と「インディペンデント」が人間の本質であるとしても「真似ばかりしておらないで、自分から本式のオリヂナル、本式のインデペンデントになるべき時期はもう来てもよろしい。また来るべきはずである」と、若き観衆に期待をかけています。 今の日本の現在の有様から見て、どっちに重きを置くべきかというと、インデペンデントという方に重きを置いて、その覚悟をもってわれわれは進んで行くべきものではないかと思う。われわれ日本人民は人真似をする国民として自ずから許している。また事実そうなっている。昔は支那の真似ばかりしておったものが、今は西洋の真似ばかりしているという有様である。それは何故かというと、西洋の方は日本より少し先へ進んでいるから、一般に真似をされているのである。丁度あなた方のような若い人が、偉い人と思って敬意を持っている人の前に出ると、自分もその人のようになりたいと思う――かどうか知らんが、もしそう思うと仮定すれば、先輩が今まで踏んで来た径路を自分も一通り遣やらなければここに達せられないような気がする如く、日本が西洋の前に出るとここに達するにはあれだけの径路を真似て来なければならない、こういう心が起るものではないかと思う。また事実そうである。しかし考えるとそう真似ばかりしておらないで、自分から本式のオリヂナル、本式のインデペンデントになるべき時期はもう来てもよろしい。また来るべきはずである。……自分でそれほどのオリヂナリテーを持っていながら、自分のオリヂナリテーを知らずに、あくまでもどうも西洋は偉い偉いといわなくても、もう少しインデペンデントになって、西洋をやっつけるまでには行かないまでも、少しはイミテーションをそうしないようにしたい。芸術上ばかりではない。私は文芸に関係が深いからとかく文芸の方から例を引くが、その他においても決して追っ着かないものはない。金の問題では追っ着かないか知らぬが、頭の問題ではそんなものではないと思っている。あなた方も大学を御遣りになって、そうしてますますインデペンデントに御遣りになって、新しい方の、本当の新しい人にならなければいけない。蒸返しの新しいものではない。そういうものではいけない。 要するにどっちの方が大切であろうかというと、両方が大切である、どっちも大切である。人間には裏と表がある。私は私をここに現わしていると同時に人間を現わしている。それが人間である。両面を持っていなければ私は人間とはいわれないと思う。唯どっちが今重いかというと、人と一緒になって人の後に喰っ付いて行く人よりも、自分から何かしたい、こういう方が今の日本の状況からいえば大切であろうと思うのであります。(模倣と独立)
2020.05.30
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小娘の花の使の文箱かな 子規(明治28) 麥蒔や色の黒キは娘なり 子規(明治28) 愚陀仏は主人の名なり冬籠 漱石(明治28) 漱石は、明治28年5月、二番町にあった上野義方に寓居し、「愚陀仏庵」と名付けました。子規は病気療養のため、松山に帰郷し、漱石のところに厄介になることを決めました。「愚陀仏庵」は、現在の大街道の西、二番町と三番町をつなぐ横丁にあって、現在はパーキングになっています。 高浜虚子の『漱石氏と私』には「明治二十九(本当は28)年の夏に子規居士が従軍中咯血をして神戸、須磨と転々療養をした揚句松山に帰省したのはその年の秋であった。その叔父君にあたる大原氏の家に泊ったのは一、二日のことで直ぐ二番町の横町にある漱石氏の寓居に引き移った。これより前、漱石氏は一番町の裁判所裏の古道具屋を引き払って、この二番町の横町に新らしい家を見出したのであった。そこは上野という人の持家であって、その頃四十位の一人の未亡人が若い娘さんと共に裏座敷を人に貸して素人下宿を営んでいるのであった。裏座敷というのは六畳か八畳かの座敷が二階と下に一間ずつある位の家であって、漱石氏はその二間を一人で占領していたのであるが、子規居士が来ると決まってから自分は二階の方に引き移り、下は子規居士に明け渡したのであった」と書かれています。 柳原極堂の『友人子規』には、さらに詳しく「上野の家は今もなお昔のまま現存しておる(=昭和18年当時)。二番町と三番町とをつなぐ横町が四本ある。そのもっとも東の横町を二番町の本通から三番町の方へ曲って少し行くと、東側に更科蕎麦と看板をかけた蕎麦屋がある。そのすぐ北隣で西向きに繻子窓格子戸造りの軒端の低い相当古びた平家がある。それが当時の上野の家で、今は持ち主が変わっている。その蕎麦屋は前には無かったもので、漱石時代には大島梅屋という松風会員がそこに住んでいた。その梅屋は昭和八年物故した。何から誤伝されたか知らぬが、漱石時代の上野の家は今は蕎麦屋になっている、子規漱石二文豪同居の遺跡は、その蕎麦屋の奥に在るのだというような風説が一時立って、態々蕎麦屋へ尋ねて来た旅人などがあったと間いたが、怪しからんことだ」と、松風会員の梅屋が流したと考えられる風説に文句をしたためています。 また「上野義方という人は旧松山藩の士族で当時六十幾歳七十にもなっていたろうか、背のスラリとした色つやの良い上品な老人で、頭は紡麗に剃り落していた。松山の富豪「米九」の支記人を勤めておるのだと聞いていた。その配偶の老嫗と中年の婦人とその婦人の子でお君さんと呼ばるる白い十四五歳の娘と都合四人家内で、炊事など家内の世話はもっぱらその中年婦人が任じていたように見うけた。主人義方は隠居で長男の某が別に家を持っているというようなことも間いたが、その人は一度も見たように思わぬ。右の中年婦人は義方の長女で、どこかへ嫁していたのが離縁になったか、夫に死なれたかして親里に戻っているのだという説もあったが、その真偽は知らぬ。これら上野家についての話は多く梅屋辺から伝わるものらしかった」と書かれています。 続けて、極堂は「子規が上野に漱石と同居して後約一ヶ月もして上野家に、も一人寄宿者が殖えた。十二三歳の少女で松山高等小学の生徒だということであった。義方の二女が松山の士族宮本某に嫁し、その一家は今西條町近くの某鉱山にいるが、その娘は学校の都合で松山に居残り、祖父の家に寄宿しているのである。夏休中を父母の所に遊んで今松山に帰ってきたのであるということも、梅屋から聞かされたと覚えている。折々は伯母とともに子規の室に来て俳席を眺めたりしていた。前から見てい娘は色の白いボッテリとした愛らしい顔で、今度来た娘は色の小黒いキッと引締まって見るからに利発そうな顔だ、などと松風会員が品評などしていたのを覚えている。時には白がとか黒がとか異名をもって、両人の噂をするのも聞いたことがあった。而してその少女こそ今日のホトトギス派女流俳人・久保より江夫人であることを近頃になって予は承知したのであった」と書いています。 久保より江は、明治17年9月17日生まれ。子規、漱石と出会ったのは明治28年の秋で、当時11歳でした。父親の宮本某は西条の鉱山に勤めていたといいますから、西条市市之川地区にあった市之川鉱山(現在閉山)に勤めていたのでしょう。市之川鉱山は輝安鉱(アンチモン)を産出し、世界最大級の結晶も見つかっています。明治15年から昭和30年にかけて、国内アンチモン鉱の半分を算出したといいますから、鉱山技師として働いていた父親は、あまり家族をかまうことができなかったのでしょう。アンチモンは、活字金や砲弾の硬度を高めるために使われました。 より江は明治32年に上京し、府立第二高等女学校に学んで卒業しました。のち福島県二本松の医学博士・久保猪之吉に嫁いでいます。久保は、耳鼻咽喉科の医師以外にも歌人として知られ、子規門下の長塚節とも親交がありました。猪之吉が明治40年に九州大学教授となって福岡に赴任します。福岡には松根東洋城との悲恋で知られる伊藤白蓮が住んでおり、ふたりはたちまち親しくなました。大正7年ころ、本格的に句作をはじめ、高浜虚子に師事してホトトギス同人となりました。 より江は、子規と漱石の思い出を『二番町の家』で綴り、親交のあった虚子は『漱石氏と私』でより江の手紙を紹介しています。 数年前の春、久々で帰松した時、酒井黙禅さんたちと二番町の横丁を通って見た。それは子規先生、漱石先生のかりの宿として有名になった私の祖父の上野の家が、現在では蕎変屋とかになっているという風説があったために、実際どの家が昔のほんとの上野か、たしかた所を見定めて欲しいという御希望もあったし、私としても幼ない時住み馴れた家をよそながらでも見たいと思ったからであった。 それに今一つ同行の主人にとっても、この横丁は因縁がないでもなかった。 いつか松山の話が出た時に「自分も昔行ったことがある。中学時代(福島県の安積中学)特にお世話になった先生が松山中学に転任されていたので行って見たんだ」という。短い滞在ではあったし、古いことだし、どの町だったかは主人の記憶に残っていないが、その先生が犬塚又兵先生だと聞いて驚いた。犬塚先生ならば同じ町内で、上野よりも三番町によった同じ側に住んでいられ、立派な白髭の持王でお習字の先生でよくお見受けしていた。そうすると、主人が泊めていただいたのもこの横丁のお家だろうと思われる。第一高等中学校の学生時代とばかりで、明治何年だったかをハッキリ思い出せないのが残念だが、丁度その日が日蝕に当り、犬塚先生と盟に水を汲んで見守っていたのだという。 とにかく昔は静かな屋敷町で石川という大きな門構えのお家の横あたり、竹藪つづきで恐ろしい位だったのに、この頃は大街道に抜けられる意気な小路が出来たり、なかなかにぎやかな街となったらしく、従って「上野の隠居家変じて蕎麦屋となる」というような噂もたったのであろう。 しかし幸にそれは単に風説に過ぎなかった。思ったよりも軒のひくい上野の家は依然として櫺子窓、格子戸造り、ひっそりとしたものであった。黙禅さんが案内を乞われると、婦人が出て応待されたが、今は母家と離れ座敷と全く別になっており、離れの方の持王は時々見えるばかりで、大抵はしめ切ってある。今日も留守とのこと、その上入口も全く別で鍵のかかっている左の門がそうだという。 その左の門というのはもちろん建て替ったのではあろうが、昔の不浄口の所で便所汲取以外には使わなかった。母家とは昔から壁で境され、下水の小溝が片側にある細長いじめじめした通路が物骰につき当たって庭に出られるようになっていた。 今後旧跡見物の人たちがこの細道を子規先生や漱石先生の朝夕の通い路だったかと、在りし日を懐しまれる恐れがあるからハッキリ断っておく。両先生や多くの俳人は皆、この母家の格子戸を出入りされたので、暗い土間、井戸端の御影石を踏んで小庭に出てめかくしの垣根をくぐって離れの沓脱に到着、雨の日などは傘をたたんだりさしたりお気の毒であった。このことは極堂先生はじめ御記憶にあるであろう。 今後の保存会では、この母家と離れとがどう取扱われるか知らないが、この格子戸から奥への通路以外、母家は先生がたに無関係である。漱石写真帖には「二六、松山の宿の表八畳の間」として上野の母家の座敷が出ており「子規居士松山に帰省して寄寓せしよりともに裏二階に移りしという」とあるが、この写真の部屋は漱石先生に何の関係もない。先生は、最初から離れに引越して来られたので、はじめは下座敷だったのを、子規先生同居の時二階にお移りになったのである。この写真の部屋は上野の客間兼祖父の部屋兼私たちの寝室で、私にとっては忘れられないものである。 ついでだから書き添えておくが、あの写真帖の「三〇、松山市二番町の宿階下、ここに子規居士寄寓して約二ヶ月を送る。門下を集めてしきりに句作に耽りしという」とある写真の部屋はどうも次の間らしい。かんじんの子規先生の病室は、左の方の障子一枚見えてる方ではないかという気がする。その内一度実地を見たいと思う。 あの離れは祖父が母家を買い入れ、港町から引移って後に新築したもので、材木の切れはしを大工にもらって積木をしたり、襖のカマチのクイチガイの切れはしを小人形の椅子にして嬉しがったりした。そんな記憶があるところから推すと、明治二十一年か二年頃出来たのであろう。祖父はここに隠居するつもりで建てたのだが、跡継の出来がわるくて隠居ができず、先生がたにお貸したため、却ていつまでも保存されることになった。祖父も地下でさぞよろこんでいよう。もしもこれが上野の所有のままであったならと考えるにつけ、私はあの柔和な品のいい祖父が、晩年あまり幸福でなかったことを悲しむ。 祖父は三十一年にあの家で亡くなったが、その後不幸つづきで、まもなく売ってしまい、二番町の代家のなかの一つに引越し、そこで淋しく永眠したのである。両先生のお世話を手一つに、その上祖父母の世話からわがままな私のことまで女中相手にかいがいしく働いていた伯母は、それより以前に家を出てしまい、祖母の最期にも居合さなかった。 先生がたのいらっしゃった明治二十八年といえば私は十一歳、丁度日清戦争の頃で、三つ組のオ下ゲをチャンチャン坊主とからかわれ通しであった。 その当時両親は東予の鉱山に行っていたが、私は学校を替るのがいやで祖父の家に預けられていた。子規先生が離れにお見えになった頃は夏休みで、父母の手許へ遊びに行っており、九月はじめに帰松してはじめて病人のお客様がふえたことを知った。私の帰ってきた日、暑気あたりだといって祖母は一番風通しのいい中の間に寝ていた。物珍しい鉱山の様子を私が話して聞かすと祖母は嬉しそうに起き直って、あとを促した。何もない山の中、せめておみやげにといって母がことづけたのは、山の裾を流れるカモ河(=加茂川)の焼鮎であった。たぶん両先生のお膳にもその晩あたり載ったのであろう。 伯母のうしろにひきそうて、はじめて子規先生のお部屋へ行った時、一番先目についたのは支那からでもお持ちになったのであろう、真紅な長い枕であった。 まだ子供だった私、先生がたについてのことはあまり思い出せない。しかし短時日ではあったけれど、ずいぶんかわいがっていただいたものだと、有難く思う。照葉狂言がすきだというのでいつも連れて行って下すった。句会の末座にかしこまった夜もあった。離れにえらい先生がいらっしゃるというので、学校でも肩身が広かった。校長先生はじめたくさんの先生が句会に来られた。学校の帰りなど教員室の窓から手紙を托されたり、「きょうは用事があって行かれんというておくれ」などとことづけられたりするのが内心得意だった。 今でもめに残っているのは子規先生の外出姿、ヘルメットにネルの着流し、ややよごれた白縮緬のヘコ帯を痩せて段のない腰に落ちそうに巻いていられた。(久保より江 二番町の家) 博多には珍しい雪がお正月からふり続いております。きのうからそのために電話も電燈もだめ、電車は一時とまるという騒ぎです。松山は如何ですか。けさちょっと新聞で下関までおいでの事を承知いたしましたので急に手紙がさし上げたくなりました。それに二月号の『ホトトギス』を昨日拝見したものですから。その上一月号の時も申上げたかったことをうっちゃっていますから。 一月号の「兄(けい)」では私上野の祖父を思い出して一生懸命に拝見いたしました。祖父は以前は何もかも祖母任せの鷹揚な人だったと思いますが、祖母を先だて総領息子を亡くして、その上あの伯母に家出をされ、従姉に(あなたが私と一しょに考えていらっしった)学資を送るようになってからは、実に細かく暮していたようです。そして自分はしんの出た帯などをしめても月々の学資はちゃんちゃんと送っていましたが、その従姉は祖父のしにめにもあわないで、そしてあとになって少しばかりの(祖父がそんなにまでして手をつけなかった)財産を外の親類と争うたりしました。ようやく裁判にだけはならずにすんだようでしたが、そのお金もすぐ使い果して今伯母も従姉も行方不明です。 おはずかしいことを申上げました。いつもお作を拝見しては親類中の御親しみ深い御様子を心から羨しく思っていたものですから、ついついぐちがこぼれました。おゆるし下さいまし。 あの一番町から上って行くお家に夏目先生がいらっしゃったことは私にとってはつ耳です。私は上野のはなれにいつから御移りになったのか何にも覚えておりません。ただ文学士というえらい肩書の中学校の先生が離れにいらっしゃるということを子供心に自慢に思っていただけです。先生はたしか一年近くあの離れに御住居なすったのですのに、どういう訳か私のあたまには夏から秋まで同居なすった正岡先生の方がはっきりうつっています。――松山のかただという親しみもしらずしらずあったのでしょうが――夏目先生のことはただかわいがっていただいたようだ位しきゃ思い出せません。照葉狂言にも度々おともしましたが、それもやっぱり正岡先生の方はおめし物から帽子まで覚えていますのに(うす色のネルに白縮緬のへこ帯、ヘルメット帽)夏目先生の方ははっきりしないんです。ただ一度伯母が袷と羽織を見たててさし上げたのは覚えています。それと一度夜二階へお邪魔をしていて、眠くなって母家へ帰ろうとしますと、廊下におばけが出るよとおどかされた事とです。それからも一つはお嫁さん探しを覚えています。先生はたぶん戯談(じょうだん)でおっしゃったのでしょうが祖母や伯母は一生懸命になって探していたようです。そのうち東京でおきまりになったのが今の奥様なんでしょう。私は伯母がそっと見せてくれた高島田にお振袖のお見合のお写真をはじめて千駄木のお邸で奥様におめにかかった時思い出しました。 実は千駄木へはじめて御伺いした時は玄関払いを覚悟していたのです。十年も前に松山で、というような口上でおめにかかれるかどうかとおずおずしていたのですが、すぐあって下すって大きくなったねといって下すった時は嬉しくてたまりませんでした。そして私の姓が変った事をおききになって、まあよかった、美術家でなくっても文学趣味のあるお医者さんだからとおっしゃったのにはびっくりいたしました。先生は私が子供の時学校で志望をきかれた時の返事を伯母が笑い話にでもしたのをちゃんと覚えていらっしったものと見えます。松山を御出立の前夜湊町の向井へおともして買っていただいた呉春と応挙と常信の画譜は今でも持っておりますが、あのお離れではじめて知った雑誌の名が『帝国文学』で、貸していただいて読んだ本が『保元平治物語』と『お伽草紙』です。 興にのって大変ながく書きました。おいそがしい所へすみません。あの二番町の家は今どうなったことでしょう。長塚さんもいつかこちらへお帰りに前を通ってみたとおっしゃっていました。あの離れはたしか私たちがひっこしてから、祖父の隠居所にといって建てたもののようです。襖のたて合せのまんなかの木ぎれをもらっておひな様のこしかけにしたのを覚えています。 ほんとにくだらない事ばかりおゆるしを願います。松山にはどれ位御逗留かも存じません。この手紙どこでごらん下さるでしょう。 寒さの折からおからだをお大切に願います。よりえ この手紙をよこした人は本誌の読者が近づきであるところの「中の川」「嫁ぬすみ」の作者である久保よりえ夫人である。この夫人はこの上野未亡人の姪に当る人である。ある時早稲田南町の漱石氏の宅を訪問した時に席上にある一婦人は久保猪之吉博士の令閨(れいけい)として紹介された。そうしてそれが当年漱石氏の下宿していた上野未亡人の姪に当る人だと説明された時に、私は未亡人の膝元にちらついていた新蝶々の娘さんを思い出してその人かと思ったのであったがそれは違っていた。文中に在る従姉とあるのがその人であった。このよりえ夫人の手紙は未亡人のその後をよく物語っている。あの家は今は上野氏の手を離れて他人の有となっているということである。(高浜虚子 漱石氏と私) 照葉狂言の泉助三郎一座は鏡花の「照葉狂言」と一緒になって私の記憶をいつまでも鮮かなままでおく。助三郎の妻の淋しいおもざし、小房、薫、松山で生れた松江などとりどりになつかしい。そして一度はあの遠い古町の小屋まで連れて行っていただいたのに、折あしく休場で空しく堀端を引返した。その時先生の右手には私が縋(すが)っていたが、左には中学校の校長だった横地地理学士の上のお嬢さんが手をひかれていらっしった。私より一つ二つ年下であったろう、かわいいかたであった。 松山時代の先生を偲べば従って正岡先生も思い出さずにはいられない。夏休みを父母の許で送って九月のはじめに、また二番町の家へ帰った私は離れに別の客を見た。御病人だということでいつも床が敷かれて緋の長い枕が置いてあった。学校の先生や大勢のかたが毎日見えた。学校の帰りなど教員室の窓から校長さんが首を出してよりさんと呼ばれるので、何か叱られるのかとおづおづ引きかへすと「きょうはせわしゅうて行けぬ(今日は忙しくて句会に行くことができない)と正岡さんにいうておくれ」などとおことづけを承ったりした。句座のすみにちいさく畏って短冊に覚束ない筆を動かした夜もあった。お従弟にあたる大原の坊ちゃんが薬瓶を一日おき位に届けに見えた。その秋、学校で展買会があるというので、正式の学芸品以外に何か出品しなければならないはめになった私はありったけの智慧をしぼり出して、正岡先生の俳句を刺繍することにきめた。刺繍を習ったこともないくせに随分大胆な企をしたものだと今思うと恥しいようである。何かの表紙をしきうつしにした紅業と流れの上に快く 行く秋のながめなりけりたつた川 子規 と書いて下さったのを俄かじたての枠にはったあたり前の絹糸をわいて縫いはじめた。そういうことのすきな伯母が大抵手伝ってくれた。 その刺繍のできあがらないうちに正岡先生は急に御上京になった。学校から帰った私に伯母は(正岡先生が)御出立の前もわざわざこちらの座敷まで見にいらっしって「わりあいによく出米た。できあがりを見ないで立つのが残念だとよりさんにいってくれ」とおっしゃったときかせてくれた。 私は虚子先生にもその時分御めにかかったことがあるように思う。「高浜さんはまだお若いような」と伯母が祖母に話しているのを聞いたことがある。(久保より江 嫁ぬすみ 夏目先生のおもいで)
2019.07.16
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東菊活いけて置きけり火の国に住みける君の帰り来るがね 晩年の子規は、絵に夢中になりました。 明治32(1899)年、子規は中村不折にもらった使い残りの絵の具を用い、机の上に活けてある秋海棠を写生しました。その絵がみんなから誉められたため、子規は気分を良くして次々に絵を描くようになります。翌年3月10日「ホトトギス」に掲載された『画』には「僕に絵が画けるなら俳句なんかやめてしまう」ととまであり、子規の熱中ぶりが伝わってきます。 ○十年ほど前に、僕は日本画崇拝者で西洋画排斥者であった。その頃、為山(=下村)君と邦画洋画優劣論をやったが、僕はなかなか負けたつもりではなかった。最後に、為山君が日本画の丸い波は海の波でないということを説明し、次に日本画の横顔と西洋画の横顔とを並べ画いてその差違を説明せられた。さすがに強情な僕も全く素人であるだけに、この実地論を聞いて半ば驚き、半ば感心した。ことに日本画の横顔には正面から見たような目が画いてあるのだといわれて、非常に驚いた。けれども形似は絵の巧拙に拘かかわらぬという論でもって、その驚きを打ち消してしもうた。その後、不折君とともに『小日本』におるようになって毎日位顔を合すので、顔を合すと例の画論を始めていた。この時も僕は日本画崇拝であったから、いうことが皆衝突する。僕が富士山は善い山だろうというと、不折君は俗な山だという。松の木は善い木であろうというと、それは俗な木だという。達磨は雅であろうというと、達磨は俗だという。日本の甲冑は美術的であろうというと、西洋の甲冑の方が美術的だという、一々衝突するから、同じ人間の感情がそれほど違うものかと、余り不思議に思ってつくづくと考えた。そのうち、ふと俳句と比較して見てから大に悟る所があった。俳句に富士山を入れると俗な句になりやすい、俳句に松の句もあるけれど、松の句には俗なのが多くて、かえって冬木立の句に雅なのが多い、達磨なんかは俳句に入れると非常に厭味が出来る、これ位のことは前から知っていたのであるけれど、それを画の上に推おし及ぼすことが出来なんだのである。俳句を知らぬ人が富士の句を見ると非常に嬉しがるのと、我々が富士の画を見ると何かなしに喜ぶのと、同じことであるということが分って、始めて眼が明いたような心持であった。けれどもまだ日本画崇拝は変らないので、日本画をけなして西洋画をほめられると、何だか癪に障ってならぬ。そこで日本と西洋との比較を止めて、日本画中の比較評論、西洋画中の比較評論というように別々に話してもろうた。そうすると一日一日と何やら分って行くような気がして、十ヶ月ほどの後には少したしかになったかと思うた。その時、虚心平気に考えて見ると、始めて日本画の短所と西洋画の長所とを知ることが出来た。とうとう為山君や不折君に降参した。その後は西洋画を排斥する人に逢うと、癇癪に障るので大に議論を始める。ついには昔為山君から教えられた通り、日本画の横顔と西洋画の横顔とを画いて「これ見給え、日本画の横顔にはこんな目が画いてある、実際、君、こんな目があるものじゃない」などと大得意にしゃべっておる。その気加減には自分ながら驚く。○僕は子供の時から手先が不器用であったから、画は好きでありながらそれを画くことは出来なかった。普通に子供の画く大将絵も画けなかった。この頃になって彩色の妙味を悟ったので、彩色絵を画いて見たい、と戯れにいったら、不折君が早速絵具を持って来てくれたのは去年の夏であったろう。けれどもそれも棚にあげたままで忘れていた。秋になって病気もやや薄うすらぐ、今日は心持が善いという日、ふと机の上に活けてある秋海棠を見ていると、何となく絵心が浮んで来たので、急に絵の具を出させて判紙展べて、いきなり秋海棠を写生した。葉の色などには最も窮したが、始めて絵の具を使ったのが嬉しいので、その絵を黙語先生や不折君に見せると非常にほめられた。この大きな葉の色が面白い、なんていうので、窮した処までほめられるような訳で、僕は嬉しくてたまらん。そこでつくづくと考えて見るに、僕のような全く画を知らん者が始めて秋海棠を画いて、それが秋海棠と見えるは写生のお蔭である。虎を画いて成らず、狗に類すなどというのは写生をしないからである。写生でさえやれば、何でも画けぬことはないはずだ、というので忽ち大天狗になって、今度は、自分の左の手に柿を握っている処を写生した。柿は親指と人さし指との間から見えている処で、これを画きあげるのは非常の苦辛であった。そこへ虚子が来たからこの画を得意で見せると、虚子はしきりに見ていたが分らぬ様子である。「それは手に柿を握っておるのだ」と説明して聞かすと、虚子は始めて合点した顔附で「それで分ったが、さっきから馬の肛門のようだと思うて見ていたのだ」というた。○僕の国に坊主町という淋しい町があって、そこに浅井先生という漢学の先生があった。その先生の処へ本読みに行く一人の子供の十余りなるがあったが、いつでもその家を出がけに、そこの中庭へ庭一ぱいの大きな裸男を画いて置くのが常であった。それとも知らずそのうちの人が外へ出ようとすると、中庭に大男が大物を抱いておる画があるので、度々驚かされる。今日もまた例の画がかいてあったと、そのうちの人が笑いながら話すのを僕が聞いたのも度々であった。その時の幼い滑稽絵師が、今の為山君である。○僕に絵が画けるなら俳句なんかやめてしまう。(正岡子規 画) 最晩年の子規は写生を日課としました。明治35年5月から草花、6月には果物を描き始め、8月になると玩具を描写しています。 この年の8月7日の『病牀六尺』には、「草花の一枝を枕元に置いて、それを正直に写生していると、造化の秘密が段々分かって来るような気がする」とあり、8月9日には「ある絵の具とある絵の具を合わせて草花を画く、それでもまだ思うような色が出ないとまた他の絵の具をなすってみる。同じ赤い色でも少しずつの色の違いで趣が違って来る。いろいろに工夫して少しくすんだ赤とか、少し黄色味を帯びた赤とかいうものを出す」と記されています。 子規は、明治32年10月頃に描いた東菊の画を漱石に贈りました。漱石は『子規の画』で「子規の画は拙くてかつ真面目」と記します。「余は子規の描いた画をたった一枚持っている。亡友の記念(かたみ)だと思って長い間それを袋の中に入れてしまっておいた」で始まる漱石の文は、子規への複雑な思いに満ちています。スラスラと頭から出てくる俳句とは異なり、不自由な体で、病人としては嫌になるほどの時間をかけてあまり上手くない絵を描く子規を、漱石は愛おしく思っているのです。ただ、その絵が拙であるほど、病人で子規の苦労がしのばれるのに、愚直に絵を描く子規。 厳しいとも思われる漱石の評は、子規の辛さを思いやる逆説に満ちています。 余は子規の描いた画をたった一枚持っている。亡友の記念(かたみ)だと思って長い間それを袋の中に入れてしまっておいた。年数の経つに伴れて、ある時はまるで袋の所在を忘れて打ち過ぎることも多かった。近頃ふと思い出して、ああしておいては転宅の際などにどこへ散逸するかも知れないから、今のうちに表具屋へやって懸物にでも仕立てさせようという気が起った。渋紙の袋を引き出して塵を払いて中を検べると、画は元のまま湿っぽく四折に畳んであった。画のほかに、無いと思った子規の手紙も幾通か出て来た。余はそのうちから子規が余に宛てて寄こした最後のものと、それから年月の分らない短いものとを選び出して、その中間に例の画を挟んで、三つを一纏に表装させた。 画は一輪花瓶に挿した東菊で、図柄としては極めて単簡なものである。傍に「これは萎み掛かけた所と思い玉え。下手いのは病気のせいだと思い玉え。嘘だと思わば肱を突いて描いて見玉え」という註釈が加えてあるところをもって見ると、自分でもそう旨いとは考えていなかったのだろう。子規がこの画を描いた時は、余はもう東京にはいなかった。彼はこの画に、東菊活いけて置きけり火の国に住みける君の帰り来るがねという一首の歌を添えて、熊本まで送って来たのである。 壁に懸けて眺めて見るといかにも淋しい感じがする。色は花と茎と葉と硝子ガラスの瓶とを合せてわずかに三色しか使ってない。花は開いたのが一輪に蕾が二つだけである。葉の数を勘定して見たら、すべてでやっと九枚あった。それに周囲が白いのと、表装の絹地が寒い藍なので、どう眺めても冷たい心持が襲って来てならない。 子規はこの簡単な草花を描くために、非常な努力を惜しまなかったように見える。わずか三茎の花に、少くとも五六時間の手間をかけて、どこからどこまで丹念に塗り上げている。これほどの骨折は、ただに病中の根気仕事としてよほどの決心を要するのみならず、いかにも無雑作に俳句や歌を作り上げる彼の性情からいっても、明かな矛盾である。思うに画ということに初心な彼は、当時絵画における写生の必要を不折などから聞いて、それを一草一花の上にも実行しようと企てながら、彼が俳句の上ですでに悟入した同一方法を、この方面に向って適用することを忘れたか、または適用する腕がなかったのであろう。 東菊によって代表された子規の画は、拙くてかつ真面目である。才を呵して直ちに章をなす彼の文筆が、絵の具皿に浸ると同時に、たちまち堅くなって、穂先の運行がねっとり竦んでしまったのかと思うと、余は微笑を禁じ得ないのである。虚子が来てこの幅を見た時、正岡の絵は旨いじゃありませんかといったことがある。余はその時、だってあれだけの単純な平凡な特色を出すのに、あのくらい時間と労力を費さなければならなかったかと思うと、何だか正岡の頭と手が、いらざる働きを余儀なくされた観があるところに、隠し切れない拙が溢れていると思うと答えた。馬鹿律義なものに厭味も利いた風もありようはない。そこに重厚な好所があるとすれば、子規の画はまさに働きのない愚直ものの旨さである。けれども一線一画の瞬間作用で、優に始末をつけられべき特長を、とっさに弁ずる手際がないために、やむをえず省略の捷径を棄てて、几帳面な塗抹主義を根気に実行したとすれば、拙の一字はどうしても免れがたい。 子規は人間として、また文学者として、最も「拙」の欠乏した男であった。永年彼と交際をしたどの月にも、どの日にも、余はいまだかつて彼の拙を笑い得るの機会を捉え得た試がない。また彼の拙に惚れ込んだ瞬間の場合さえもたなかった。彼の歿後ほとんど十年になろうとする今日、彼のわざわざ余のために描いた一輪の東菊のうちに、確かにこの一拙字を認めることのできたのは、その結果が余をして失笑せしむると、感服せしむるとに論なく、余にとっては多大の興味がある。ただ画がいかにも淋しい。でき得るならば、子規にこの拙な所をもう少し雄大に発揮させて、淋しさの償いとしたかった。(夏目漱石 子規の画)
2019.01.26
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病牀に夏橙を分ちけり(明治33) 明治33(1900)年6月20日、子規は漱石に宛てた手紙に熊本の夏橙を送ってきたお礼を記しました。「夏橙壱函只今山川氏から受取ありがたく御礼申上候。御留学のこと新聞にて拝見。いづれ近日御上京のことと心待に待おり候。先日中は時候の勢か、からだ尋常ならず独りもがきおり候処、昨日熱退きその代わり、昼夜疲労の体にてうつらうつらと為すこともなく臥りおり候。『ホトトギス』の方は二ヶ月余全く関係せず、気の毒に存候えども、この頃は昔日の勇気なく、とてもあれもこれもなど申事は出来ず、歌よむ位が大勉強の処に御坐候。小生たとい五年十年生きのびたりとも、霊魂は最早半死のさまなれば全滅も遠からずと推量被致候。『年を経て君し帰らば山陰のわがおくつきに草むしをらん』。風もらぬ釘つけ箱に入れて来し夏だいだいはくさりてありけり(みなにあらず)」とあり、密閉に近い状態で送ったため、子規のもとに届いたときには夏橙がほとんど腐っていたというのです。 そのあとに「小生たとい五年十年生きのびたりとも霊魂は最早半死のさまなれば全滅も遠からずと推量被致候」とあり、自分の命があとわずかしかないことを子規は悟っていたようです。腐っていた夏橙に我身を重ねたのでしょうか。子規は漱石の手紙に「年を経て君し帰らば山陰のわがおくつきに草むしをらん」という、イギリスに留学する漱石が子規と再び巡り会えるかどうかわからないという内容の短歌を添えています。 この手紙の前の6月中旬に、子規は漱石に東菊の絵を送りました。「これは萎みかけた処と思いたまえ。画がまずいのは病人だからと思いたまえ。嘘だと思わば肱ついて描いて見たまえ」と書き、「あづま菊いけて置きけり火の国に住みける君の帰り来るかね」という和歌を添えました。 晩年の子規は、絵に夢中になりました。明治32年(1899)、中村不折が進呈した使い残りの絵の具を用い、机の上に活けてある秋海棠を写生しました。その絵が誉められたため、子規は次々に絵を描くようになります。明治33年の『画』には「僕に絵が画けるなら俳句なんかやめてしまう」とあり、子規の熱中ぶりが伝わってきます。 僕は子供の時から手先が不器用であったから、画は好きでありながらそれを画くことは出来なかった。普通に子供の画く大将絵も画けなかった。この頃になって彩色の妙味を悟ったので、彩色絵を画いて見たい、と戯れにいったら、不折君が早速絵具を持って来てくれたのは去年の夏であったろう。けれどもそれも棚にあげたままで忘れていた。秋になって病気もやや薄らぐ、今日は心持ちがよいという日、ふと机の上に活けてある秋海棠を見ていると、何となく絵心が浮かんできたので、急に絵の具を出させて判紙展べて、いきなり秋海棠を写生した。葉の色などには最も窮したが、初めて絵の具を使ったのが嬉しいので、その絵を黙語先生や不折君に見せると非常にほめられた。この大きな葉の色が面白い、なんていうので、窮したところまでほめられるような訳で僕は嬉しくてたまらん。そこでつくづくと考えてみるに、僕のような全く画を知らん者が初めて秋海棠を画いてそれが秋海棠と見えるは写生のお陰である。虎を画いて成らず狗に類すなどというのは写生をしないからである。写生でさえやれば何でも画けぬことはないはずだ、というので忽ち大天狗になって、今度は、自分の左の手に柿を握っている処を写生した。柿は親指と人さし指との間から見えている処で、これを画きあげるのは非常の苦辛であった。そこへ虚子が来たからこの画を得意で見せると、虚子は頻りに見て居たが分らぬ様子である。「それは手に柿を握っているのだ」と説明して聞かすと、虚子は始めて合点がてんした顔附で「それで分ったが、さっきから馬の肛門のようだと思うて見ていたのだ」というた。…… 僕に絵が画けるなら俳句なんかやめてしまう。(画) 最晩年の子規は写生を日課としました。5月から草花、6月には果物を描き始め、8月になると玩具を描写しています。 『病牀六尺』では、34年8月7日に「草花の一枝を枕元に置いて、それを正直に写生していると、造化の秘密が段々分かって来るような気がする」とあり、8月9日には「ある絵の具とある絵の具を合わせて草花を画く、それでもまだ思うような色が出ないとまた他の絵の具をなすってみる。同じ赤い色でも少しずつの色の違いで趣が違って来る。いろいろに工夫して少しくすんだ赤とか、少し黄色味を帯びた赤とかいうものを出す」と記されています。 夏目漱石は『子規の画』で「子規の画は拙くて且真面目」と記しました。続く「平凡な特色を出すのに、あの位時間と努力を費やさなければならなかった」の文は、子規への複雑な思いに満ちています。この評は、子規の辛さを思いやる漱石の逆説なのかもしれません。 余は子規の描いた画をたった一枚持っている。亡友の記念(かたみ)だと思って長い間それを袋の中に入れてしまっておいた。年数の経つに伴れて、ある時はまるで袋の所在を忘れて打ち過ぎることも多かった。近頃ふと思い出して、ああしておいては転宅の際などにどこへ散逸するかも知れないから、今のうちに表具屋へやって懸物にでも仕立てさせようという気が起った。渋紙の袋を引き出して塵を払たいて中を検べると、画は元のまま湿っぽく四折に畳んであった。画のほかに、無いと思った子規の手紙も幾通か出て来た。余はそのうちから子規が余に宛てて寄こした最後のものと、それから年月の分らない短いものとを選び出して、その中間に例の画を挟んで、三つを一纏に表装させた。 画は一輪花瓶に挿さした東菊で、図柄としては極めて単簡な者である。傍に「これは萎み掛けた所と思い玉え。下手いのは病気の所為だと思い玉え。嘘だと思わば肱を突いて描いて見玉え」という註釈が加えてあるところをもって見ると、自分でもそう旨いとは考えていなかったのだろう。子規がこの画を描いた時は、余はもう東京にはいなかった。彼はこの画に、東菊活けて置きけり火の国に住みける君の帰り来るがねという一首の歌を添えて、熊本まで送って来たのである。 壁に懸けて眺めて見るといかにも淋しい感じがする。色は花と茎と葉と硝子の瓶とを合せてわずかに三色しか使ってない。花は開いたのが一輪に蕾が二つだけである。葉の数を勘定して見たら、すべてでやっと九枚あった。それに周囲が白いのと、表装の絹地が寒い藍なので、どう眺めても冷たい心持が襲って来てならない。 子規はこの簡単な草花を描くために、非常な努力を惜しまなかったように見える。わずか三茎の花に、少くとも五六時間の手間をかけて、どこからどこまで丹念に塗り上げている。これほどの骨折は、ただに病中の根気仕事としてよほどの決心を要するのみならず、いかにも無雑作に俳句や歌を作り上げる彼の性情からいっても、明かな矛盾である。思うに画ということに初心な彼は、当時絵画における写生の必要を不折などから聞いて、それを一草一花の上にも実行しようと企てながら、彼が俳句の上ですでに悟入した同一方法を、この方面に向って適用することを忘れたか、または適用する腕がなかったのであろう。 東菊によって代表された子規の画は、拙くてかつ真面目である。才を呵かして直ちに章をなす彼の文筆が、絵の具皿に浸ると同時に、たちまち堅くなって、穂先の運行がねっとり竦んでしまったのかと思うと、余は微笑を禁じ得ないのである。虚子が来てこの幅を見た時、正岡の絵は旨いじゃありませんかといったことがある。余はその時、だってあれだけの単純な平凡な特色を出すのに、あのくらい時間と労力を費さなければならなかったかと思うと、何だか正岡の頭と手が、いらざる働きを余儀なくされた観があるところに、隠し切れない拙が溢れていると思うと答えた。馬鹿律義なものに厭味も利きいた風もありようはない。そこに重厚な好所があるとすれば、子規の画はまさに働きのない愚直ものの旨さである。けれども一線一画の瞬間作用で、優に始末をつけられべき特長を、とっさに弁ずる手際がないために、やむをえず省略の捷径を棄てて、几帳面な塗抹主義を根気に実行したとすれば、拙の一字はどうしても免かれがたい。 子規は人間として、また文学者として、最も「拙」の欠乏した男であった。永年彼と交際をしたどの月にも、どの日にも、余はいまだかつて彼の拙を笑い得るの機会を捉とらえ得えた試しがない。また彼の拙に惚れ込んだ瞬間の場合さえもたなかった。彼の歿後ほとんど十年になろうとする今日こんにち、彼のわざわざ余のために描いた一輪の東菊のうちに、確かにこの一拙字を認めることのできたのは、その結果が余をして失笑せしむると、感服せしむるとに論なく、余にとっては多大の興味がある。ただ画がいかにも淋しい。でき得るならば、子規にこの拙な所をもう少し雄大に発揮させて、淋しさの償いとしたかった。(子規の画)
2018.04.26
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小石にも魚にもならず海鼠哉(明治25) 平鉢に氷りついたる海鼠哉(明治26) 大海鼠覺束なさの姿かな(明治27) 剛の坐は鰤臆の坐は海鼠哉(明治33) 吉野左衛門の『子規居士の追憶其他』に海鼠に関するエピソードが書かれています。「明けて三十年の正月には池の端の長酡亭で日本派俳人の第一回新年会が催されたが、居士も出席され、其村や墨水の講談落語などがあって、非常の盛会であった。この時面白いと思って今でも記憶している一つの失敗談は、子地層の中にある甘い酢の物のあったのを虚子君に聞けば君も知らず、傍の故事に例の松山弁で『升さん、これは何ンぞな」ときくと、居士は、『お前、これをお知凛のか、これは海鼠じゃがな』といって笑割れた。その癖虚子君も、自分等もその食っても味の解らぬ海鼠の句を大威張でつくっていたのだから面白い」というのです。子規は海鼠の味は分かっていたのですが、弟子はその味を知らなかったというものです。 吉野左衛門は東京三鷹の生まれで、明治28(1895)年に子規の門人となり、国民新聞俳壇の選者をつとめます。のちに国民新聞社・京城日報社の社長となりますが、42才の若さで歿しました。 「日本人」明治29年1月5日号に発表された『新年二十九度』という子規の文章には「天地混沌として未だ判れざる時腹中に物あり恍たり惚たり形海鼠のごとし。海鼠手を生じ足を生じ両眼を微かに開きたる時化して子規となる。なお鷺のかい子のうちにあり。余が初めて浮世の正月に逢いたるは慶応四年なれば明治の新時代はまさに旧時代の胎内を出んとする時なりき。この時の余は余を知らず。まして四囲の光景は露知らざりしも思えばきわどき年を重ね初めたるものかな」とあります。 渾沌をかりに名づけて海鼠哉(明治26) 天地を我が産み顔の海鼠かな(明治27) 漱石の『吾輩は猫である』に「もし我を以て天地を律すれば一口にして西江の水を吸いつくすべく、もし天地を以て我を律すれば我はすなわち陌上(はくじょう)のちりのみ。すべからく道(い)え、天地と我と什麼(いんも)の交渉かある。……始めて海鼠(なまこ)を食い出(いだ)せる人はその胆力において敬すべく、始めて河豚を喫せる漢(おとこ)はその勇気において重んずべし。海鼠を食えるものは親鸞の再来にして、河豚を喫せるものは日蓮の分身なり。苦沙弥先生の如きに至ってはただ干瓢の酢味噌を知るのみ」とありますが、子規の『新年二十九度』の文章と雰囲気がよく似ています。海鼠と河豚は、どちらも食べるのに勇気が必要だということで、子規の句には「海鼠」と「河豚」を対比させたものがあります。 念佛は海鼠眞言は鰒にこそ(明治29) 臘八や河豚と海鼠は從弟どし(明治29) 海鼠黙し河豚嘲る浮世かな(明治30) 河豚讒して鮭死す海鼠黙々たり(明治30) 海鼠眼なしふくとの面を憎みけり(明治31) 漱石は、初めての子が誕生した際に「安々と海鼠の如き子を生めり」という句を詠んでいます。しかし、子規の「渾沌をかりに名づけて海鼠哉」の句や『新年二十九度』などから、海鼠は天地開闢の象徴であり、海のものとも山のものとも解らぬ存在が成長して、素晴らしい人間となっていくことへの願いを詠み込んでいます。 ただ、海鼠は海のものであり、全くの未知の存在ではないことに、長女の筆子は少しばかり安堵したことでしょう。 筆子は『夏目漱石の「猫」の娘』で「これは私の生れた明治三十二年五月の感想を詠んだ父の句ですが、結婚して三年目に、しかも以前に一度流産の経験もあって、漸くに子供を得た父にとっては、この『安々と』という感慨はひとしお深かったものと思われます。多分流産の後頃のことと存じますが、その崇りの故か、若い母はひどいヒステリーを患っており、夜半に家を按け出し、側の橋の上で投身自殺をくわだてたことがあるそうで、それ以来父は毎晩、母と手首を結んで寝たそうです。父の驚きの心痛が並ありません。そういう性で子種に恵まれ、なまこのようであれ何であれ、ともかく易々と生まれた、その瞬間父がどんなに喜んだか良く解る気がします」と書いています。
2018.03.20
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子規と漱石の交際の間には、二人の仲が険悪になったこともありました。 明治24(1891)年11月のことです。 子規の手紙は現存していないのですが、読売新聞に掲載されていた『明治豪傑譚』が単行本になった際、子規はこの第一巻に、自分の考えを記した「気節論」を加えて漱石の元に送ったのでした。 この時期の漱石は、江藤淳が『漱石とその時代』で漱石の恋愛感情があったとする、兄・和三郎の嫁・登世をこの年の7月28日に亡くし、心の傷が癒えていない頃でした。 漱石は8月3日の子規宛の手紙で「不幸と申し候は、余の儀にあらず。小生嫂(あによめ)の死亡に御座候。実は去る四月中より懐妊の気味にて悪阻と申す病気にかかり、とかく打ち勝れず漸次重症に陥り、子は闇から闇へ、母は浮世の夢二十五年を見残して冥土へまかり越し申候。天寿は天命死生は定業とは申しながら洵に洵に口惜しき事致候」と書き、「朝貌や咲た許りの命哉」「人生を廿五年に縮めけり」「君逝きて浮世に花はなかりけり」「何事ぞ手向けし花に狂ふ蝶」の句を送っています。 心が塞いでいた漱石は、この論に対して怒り、長い手紙をしたためました。もともと子規は、藩士の家柄を誇っていて、こうした豪傑譚を盲目的に好んでいたのです。 漱石は、元士族で名主てはありますが、町人として育ったので階級的な差別に小田わりませんでした。「君の議論は、工商の子たるが故に気節なしとして、四民の階級を以て人間の尊卑を分たんかの如くに聞ゆ。君が故かかる貴族的の言葉を吐くや。君若しかくいわば、吾これに抗して工商の肩を持たんと欲す」と反論します。そして「朋友がかかる小供だましの小冊子を以て季節の手本にせよとて、わざわざ恵投せられたるは、つやつやその意を得ず」「君何を以て、この書を余に推挙するや。余殆ど君の世を愚弄するを怪しむなり」と送りつけました。 子規は、漱石の剣幕に驚き、急いで漱石に詫び状(現存せず)を送りました。漱石の手紙には、子規の「偏えに前書及び本書の無礼なるを謝す」という詫びを記し、「ただ君の方で足下呼わりで難しく手掛けられた故つい乗気になり、色々の雑言申し上げ恐縮の至りに不堪。決して決してお気にかけられざるよう願上候」と、怒りの矛を収めました。 この後、二人の友情は長く続きました。この諍いが二人にとってプラスに働いたようです。 十一月十日(火)牛込区喜久井町一番地 夏目金之助より本郷区真砂町常盤会寄宿舎 正岡常規へ 僕が二銭郵券四枚張の長談議を聞き流しにする大兄にあらずと存じおり候処、案の如く二枚張の御返礼にあずかり、金高よりいえば半口たらぬ心地すれど、芳墨の進化は百枚の黄白にも優り嬉しく披見仕候。仰の如く小生十七、八以後かかるまじめ腐ったる長々しき囈語を書き連ねて紙筆に災ひせし事なく、議論文などは君に差上候。手紙にも滅多に無之、ただ君の方で足下呼わりでむずかしく出掛られた故、つい乗気不堪決して決して御気にかけられざるよう願上候。 頑固の如くには候えども、片言隻行にては如何にしても気節は見分けがたくと存候。良雄(忠臣蔵・大石良雄のこと)喜剣の足を抵る。良雄の主義、人の辱(はずかしめ)を受けざるにあれば、足を舐るは気節を損したるなり。良雄の主義、復讐にあれば、足を舐るは気節を全うしたるなり。喜剣良雄の墓前に死す。喜剣の主義、長生にあらば墓前に死するは節を損したるなり。喜剣の主義、任侠にあれば墓前に死するは節を全うしたるなり。去れば一言一行をその人の主義に照り合せざれば、分らぬ事と存候(その人の主義の知れておる時は例外)。 気節は(己れの見識を貫き通す)事と申し上候つもり。これ(見識)は智に属し(貫く)(即ち行う)は意に属す。行わずして気節の士とは小生も思い申さず、唯行へと命令する者が情にもあらず、意にもあらず、智なりと申す主意に御座候処、筆が立ぬ故、そこまでまわり兼疎漏の段、御免被下たく候。 僕、決して君を小児視せず、小児視せば笑って黙々たるべし。八銭の散財をした処が君を大人視したる証拠なり。恨まれては僕も君を恨みます。 君は人の毀誉を顧みず。毀誉を顧みぬ君に喃々(なんなん)するは君を褒貶するの意にあらず。唯、僕の説が道徳上嘉(よみ)すべき説なりや、道徳上悪しき説なるやを判じ給えとの意に御座候。唯、卑説の論理に傾きたるため善悪の字を以て正否の字に見違えらる。これまた僕の誤り(説に善悪あり、また真偽あり。多妻論は耶蘇教徒より見れば論理的なると否とを問わず悪説なり。進化主義も神造物者主義より見れば悪説なり。社会主義は伊天原連より見れば悪説なり)。「その悪を極口(くちをきわめて)罵詈せしとて、その人と交らぬというにはあらず」御説明にて恐れ入候。叩頭謝罪。 僕、前年も厭世主義、今年もまだ厭世主義なり。かつて思うよう世に立つには世を容るるの量あるか、世に容れられるの才なかるべからず。御存の如く僕は世を容るるの量なく世に容れらるるの才にも乏しけれど、どうかこうか食う位の才はあるなり。どうかこうか食うの才を頼んで、この浮世にあるは説明すべからざる一道の愛気隠々として或人と我とを結び付るがためなり。この或人の数に定限なく、またこの愛気に定限なく、双方共に増加するの見込あり。この増加につれて漸々慈憐主義に傾かんとす。しかし大体より差引勘定を立つればやはり厭世主義なり、唯極端ならざるのみ。これを撞着と評されては仕方なく候。 最後の一段は少々激し過ぎたる由、貴意の如くかも知れず。(僕の愚を憐んで可なり)などと出られては真に断憐不禁、再び叩頭謝罪。 道徳は感情なりとは御同意に候。絶大の見識もその根本を煎じ詰れは感情に外ならず、形而下の記号にて証明しがたければなり。去れど、この理想の標準に照し合せて見る過程(プロセス)が智の作用と存候。 君の道徳論について別に異議を唱うる能はず、唯、貴説のごとく悪を嫉むの一点にて君と僕の間に少しく程度の異なる所あるのみ。どう考えても君の悪を嫉む事は余り酷過ぎると存候。 微意の講釈は他日拝聴仕るべく候。 君の言を借りて、(偏えに前書及び本書の無礼なるを謝す。不宣) またまた行脚の由あいかわらず御清興賀し奉候。 秋ちらほら野菊にのこる枯野かなの一句千金の価あり。 睾丸の句は好まず、笠の句もさのみ面白からず。 十一月十日夜 平凸凹乱筆 子規 臥禅傍
2018.01.27
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明治22(1889)年9月、漱石は子規が書いた『七草集』に誘発され、漢詩集『木屑録』を書き上げました。 子規は、明治24(1891)年3月25日に十日ほどの房総行脚の旅に出ました。もちろん、漱石の『木屑録』を辿る旅でした。常盤会寄宿舎を出発した子規は、市川で昼飯はとり、菅笠を買いました。そこから痩せ馬で大和田に着き、「榊屋」に泊まりますが、枕が堅くて寝られません。 26日の朝7時に宿を出て、白井から佐倉、成田に至り、佐倉宗吾の社と成田山新勝寺に参詣します。午後2時に成田を出発し、日もすっかり暮れた頃に、馬渡の「上総屋」に入りました。宿の飯は軟らかったのですが、固い蒲団が一枚きり。11里(約41キロメートル)も歩いた子規は足に豆をこさえ、肩をひどく凝らしました。 27日、子規は朝7時半に「上総屋」を発ち、篁(竹薮)に入って竹の杖をつくります。正午に千葉に着き、笠を持って記念撮影。昼飯に鰻飯としゃもを食べました。鰻はあまり美味しくなく、しゃもは少し甘いのですが、漬物をとても美味しく感じました。数丁歩いた後、竹杖を忘れたことに気づき、取りに戻ります。寒川から海岸に出た子規は、浜伝いに浜野、潤井戸を経て、長柄山に向かい、東京湾の眺望を楽し見ます。子規は「富士山がないのが惜しい」と思います。7時に宿の「大黒屋」に入ると、この宿の飯は軟らかく、初めて食べたせいろ(セグロイワシ)の刺身と、はりはり漬けのおかずを美味しいと思い、大きな茶碗に4杯もご飯を食べました。昨夜、一昨夜と同じように木枕のため、子規はよく眠れませんでした。 28日、朝7時に宿を出ると霧が出ています。曇天の下を歩くと、雨が降り始めました。路傍の穴の中で雨宿りし、長南に着いても、まだ小雨が降っています。そこで蓑を買いますが、この蓑は終生、子規のお気に入りとなりました。この喜びが、『かくれみの』という紀行文のタイトルになりました。雨が激しくなってきたので、大多喜の蕎麦屋を兼ねた大きい旅館「酒井屋」に子規は泊まります。夜半には雨が上がり、月が出てきました。 29日、子規は朝8時に宿屋を出ます。前日、笠の紐をきつくしばっていたためか、唇がはれ上がっていました。台宿から小湊の誕生寺に向かいます。漱石の『木屑録』には、鋸山とともに誕生寺の風景が描かれています。子規は、「鶯や此の山出れば誕生寺」と詠みました。漱石の『こころ』には「小湊という所で、鯛の浦を見物しました。……丁度そこに誕生寺という寺がありました。日蓮の生まれた村だから誕生寺とでも名を付けたものでしょう、立派な伽藍でした」と書かれています。 町はずれで寿司を食べた子規は、トンネルを通って天津に出ると日は暮れていました。路傍の少女や老婆に問うと、宿は学校の隣にあるといいます。木賃宿「野村」ではすぐに夕食が出ました。湯がないので湯屋に行くと混浴で、しかも混雑していました。子規は初めて按摩を呼び、気持ちのよさにようやく熟睡できました。 30日、硬い朝飯を食べて、朝8時に宿を出た子規は、今年初めてのレンゲの花を見ます。和田の茶屋で昼食をとりますが、飯が硬く、魚が臭くて食べられません。そこで海に臨む茶店に入り、寿司と生卵を食べました。朝夷で日が暮れたので、平磯の「山口屋」に泊まります。湯屋に行くと湯が臭い。夕食の飯は軟らかいのですが、魚が昼と同じで臭くて食べられませんでした。 31日、朝8時に宿を出て、野島崎灯台に行きましたが、修理中で見られませんが、太平洋の眺めを楽しむことはできました。滝口で菓子を買い、それを昼食がわりとしました。北条へ向かう山中で1時間ほど寝て、5時前に館山の宿に入ります。新築で一人も客がいないのに、子規は最下等の部屋に案内されました。 4月1日、宿を8時過ぎに出ます。子規は、那古の観音に行き、左甚五郎の彫刻を見ようと思いますが、これも修理で望みはかないません。諏訪神社で菓子を食べ、市部に向かう途中のトンネルで昼食をとりました。加知山を経て保田で宿に入理、鏡を見ると顔が真っ黒になっていました。これで、人が子規をジロジロと見ていた理由がわかりました。 2日は、羅漢寺から鋸山に登り、五百羅漢を見ました。山頂から武蔵、相模、房総を望めます。船で帰京し、常盤会宿舎に着いた頃には日が暮れていました。 房総の旅を終えた子規は、叔父の大原恒徳と大谷是空に手紙を送りました。是空には「菅笠を戴き蓑をかぶり、一足のわらんじも二日はくなどその勇気その打扮(いでたち)、君ら富家の子弟には薬に見せたきくらいに御座候。この夏も同じ姿で木曽道中と出かけるつもり(四月七日是空宛書簡)」と旅の予定を綴っています。
2018.01.26
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親交を深めた子規と漱石は、頻繁に手紙をやりとりしました。明治22年(1889)の子規の喀血は、肺病を患う兄を持つ漱石にとって他人事ではありませんでした。 漱石は、5月13日に病状の経過と養生の大切さを説きました。5月27日には、滅入りがちな気分を笑い飛ばそうと、漱石の雅号を間違えて書いた自分を笑います。6月5日には、学校を休んでいる子規のために、試験の日取りや授業内容を連絡しました。9月27日には、漱石の奔走により子規の落第が回避されたことをユーモラスに伝え、子規に早めの上京を促しています。 これらの手紙は、漱石の細かい気くばりを感じさせるものばかりです。 只、子規の病状が良くなったと知るや、漱石は式の考え方に異を唱えます。 12月31日の手紙では、天真爛漫に思いつくまま文章を書き綴る子規に対して、漱石は思想やアイデアを養い、読書に力を注ぐことを忠告しています。また、翌年1月の手紙でも、漱石は最良の思想をそのまま移して読者に伝えることが最上の文章だとしました。文章の技法より、思想こそが大切だと訴えたのです。 それに対して、子規は、1月18日にレトリックに満ちた文章こそ文学の要だと返書しています。内容と形式のどちらを重視するかは、小説と詩の差異、子規と漱石の文学に対する取り組みの違いでもありました。 子規と漱石は、親密な交遊を続けていたからこそ、本音を語ることができたようです。 とかく大兄の文はなよなよとして婦人流の習気を脱せず、近頃は篁村流に変化せられ、旧来の面目を一変せられたるようなりといえども、未だ真率の元気に乏しく、従うて人をして案を拍って快と呼ばしむる箇所少なきやと存じ候。すべて文章の妙は胸中の思想を飾り気なく平たく造作なく直叙スルガ妙味と存ぜられ候。さればこそ瓶水を倒して頭上よりあびる如き感情も起こるなく、胸中に一点の思想なくただ文字のみを弄する輩はもちろんいうに足らず、思想あるもいたずらに章句の末に拘泥して、天真爛漫の見るべきなければ人を感動せしむること覚束なからんと存じ候……伏して願わくは(雑談にあらず)御前少しく手習をやめて、余暇をもって読書に力を費やし給えよ。御前は病人なり。病人に責むるに病人の好まぬことをもってするは苛酷のようなりといえども、手習をして生きていても別段馨しきことはなし。(明治22年12月31日 正岡子規宛書簡) 文章 is an idea which is expressed by means of words on paper故に、小生の考えにてはideaが文章のEssenceにてwordsをarrangeする方はelementには相違なけれど、essenceなるideaほど大切ならず。(=文章は紙に書かれた言葉の意味を表明するものであるゆえ、小生の考えでは思想が文章の本質にて、言葉を整理する方は基本には相違なけれど、本質なる思想ほど大切ならず)」(夏目漱石 明治23年1月初旬 正岡子規宛書簡) Rhetoric軽而Idea重乎、突如而来未有無Rhetoric之文章也、冒頭足下謂Idea good而Rhetoric bad則不過good idea為bad rhetoric幾分所変也、引用他書翰来、甚称書牘体、而何不謂Good idea expressed by bad rhetoric与Bad idea expressed by good rhetoric其価値略相等耶。(=修辞は軽くて思想は重いのだろうか、修辞のない文などあろうはずがない。思想が優れていて修辞が悪いとすれば、優れた思想は悪い修辞ということなのだろうか? ならば悪い修辞によって表記された良い思想と、良い修辞によって表記されたくだらぬ思想は同じということなのだろうか?)(正岡子規 明治23年1月18日 夏目漱石宛書簡)
2018.01.25
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幼い頃から、子規も漱石も寄席が好きでした。 幼い子規は、松山の大街道にあった「遠山席」とも「改良座」とも称した寄席に掛けられる軍談(講談)に夢中になりました。当時、松山で人気を集めていたのは軍談師の燕柳でした。柳原極堂著『友人子規』には、燕柳は「大阪風の講釈ぶりで大きな張扇で机をバタバタ叩きながら威勢よく盛んな調子」だったとあります。 明治11(1878)年、子規と親戚の三並良(はじめ)は、親に無断で親戚に金を借り、寄席に潜りこみました。そのことが発覚して家の戸を閉められ、閉め出されたこともありました。 上京してからも子規は、友人たちと連れ立って寄席に出かけました。木戸銭の捻出に借金や質屋を利用したこともあります。「白梅亭」は神田連雀町、「立花亭」は日本橋通石町にあり、猿楽町の下宿からも近かったためでした。 当時は「娘義太夫」がブームとなっていて、書生たちは「堂摺連」を結成して、奇声を発しました。名前の通り、サワリの部分で「どうするどうする」と囃したて、拍手喝采するのですが、子規たちもそれに倣ってはしゃぎました。 南方熊楠は、大学予備門で同級だった子規や秋山真之が大流行していた奥州仙台節を習っていると記しています。子規は、『筆まかせ』で三遊亭円朝を文章の手本とするようにと記しています。円朝は、本名が出淵次郎吉で、前田備前守に仕えた江戸留守居役を祖父に持つといいます。伊予国出淵庄を領していたという噂もあり、子規はこれを誇っていたのでしょうか。 漱石は、『僕の昔』で「何分兄等が揃って遊び好きだから、自然と僕も落語や講釈なんぞが好きになってしまったのだよ」といい、明治41年9月号の「ホトトギス」掲載の『正岡子規』には、「忘れていたが、彼と僕と交際し始めたも一つの原因は、二人で寄席の話をした時、先生も大に寄席通を以て任じて居る。ところが僕も寄席のことを知っていたので、話すに足るとでも思ったのであろう、それから大いに近よって来た 」とあるように、漱石も子規も寄席が好きでした。 漱石の贔屓は柳家小さんで、小説『三四郎』の中で「小さんは天才である。あんな芸術家は滅多にでるものじゃない。……彼と時を同じうして生きている我々は大変な仕合せである。今から少し前に生れても小さんは聞けない。少し後れても同様だ」と絶賛しています。 子規と漱石は、幼い頃からの寄席通いが共通し、その縁でさらに親しくなっていきました。 余はこの頃、井林氏とともに寄席に遊ぶことしげく、寄席は白梅亭か立花亭を常とす。しかれども懐中の黄衣公子意にまかせざること多ければ、あるいは松木氏のもとに至り、あるいは豊島氏のもとに至り、多少を借りきたりてこれをイラッシャイという門口に投ずることしばしばなれども、未だかつて後にその人に返済したることなし。必ずうたてき人やとうとまれけん。また、人をして余らの道楽心を満足せしむることは、度々できることにあらざれば、時として井林氏は着物を質に置き、その金にて落語家の一笑を買うたることもありたり。寄席につとめたりというべし。(『筆まかせ』「寄席」) (明治)二十一年の頃には、君と僕とは土曜日の夜ごとに落語を聞きに寄席へ出かけた。落語家の手腕を比較して番付さえ作った。君は落語を哲学的に評論するというて、大分書かれたものもあった。(大谷是空『正岡子規君』) 落語か。落語はすきで、よく牛込の肴町の和良店へ聞きにでかけたもんだ。僕はどちらかといえば子供の時分には講釈がすきで、東京中の講釈の寄席はたいてい聞きに回った。なにぶん兄らがそろって遊び好きだから、自然と僕も落語や講釈なんぞが好きになってしまったのだ。落語家で思い出したが、僕の故家からもう少し穴八幡のほうへ行くと、右側に松本順という人の邸があった。あの人は僕の子供の時分には時の軍医総監ではぶりがきいてなかなかいばったものだった。円遊やその他の落語家がたくさん出入りしておった。(夏目漱石 僕の昔) 松山の今は銀座通りと呼ばれる大街道に、今は残っていないが寄席があって、それに軍談(講談のこと)があった。燕柳という男のが、我々には面白かった。彼は真田三代記が得意で、大坂冬の陣、夏の陣を読んでいた。彼は家康がきらいで、幸村にめちゃめちゃにやられる光景を、ものも鮮かに演じたり、家康が六文銭の旗を見ると、腰をぬかして、彦左「またぬけた」などいう辺りを面白おかしく述べ立てるので、我々は夢中になっていた。……景浦の夜学に行く晩に、子規と寄席の前を通って、昨晩の続きが聴きたくて仕方がなくなった。代金は一人前全部で五、六厘だったと記憶するが、その頃私どもには小使いというものが特別に渡されなかったので、一文だって金銭は所有していなかったが、それでも何かの残りが、誰かの袂に四、五厘はあった。もう五、六厘あれば、入れるのだった。相談の結果、子規の親類が近所にあるので、彼がそこへ借りに行って難なく借りてきて、一緒に講談を聴いて、いつもの通り、通学から帰ったつもりにしてくると家の大戸がしまっていて、開かない。いくらたたいても何の返事もない。変だが悪事露見したのかと思っていると、子規が飛んできて、どうした、お前も入られんのかという。運命は同じなのだ。どんどんたたいていると、母の声がして『今夜はもう開けてやらん、夜学へ行くといって寄席へ行くものなんかは入らさんぞな』という。その中に子規のお母さんが見にきてくれて、升も入らすから幸さんもお入れといってくれたので、やっと門が開いた。どうして露見したかというと、その晩おり悪しく雨が降り出したので、子規の母と私の母とが雨傘と下駄を持って、景浦先生のところまで行ったのであったが、今夜は二人とも来ないといわれ、それではてっきり、燕柳を聴きに行ったと図星をさされ、双方の母たちが相談して門をしめて入れなかったのだ。(三並良『子規の少年時代』) いそがしき手習のひまに長々しき御返事、態々御つかわし被下候段、御芳志の程ありい(洋語にあらず)、かく迄御懇篤なる君様を何しに冷淡の冷笑のとそしり申すべきや。まじめの御弁護にていたみ入りて穴へも入りたき心地ぞし侍る程に、一時のたわ言と水に流し給へ。七面倒な文章論かかずともよきに、そこがそれ人間の浅ましき。終に余計なことをならべて君にまた攻撃せられて大閉口、何事も餅が言わする雑言過言と御許しあれ。 当年の正月は不相変雑煮を食い、寝てくらし候。寄席へは五六回程参り、かるたは二返取り候。一日神田の小川亭と申にて鶴蝶と申女義太夫を聞き、女子にでもかかる掘り出し物あるやと愚兄と共に大感心。そこで愚兄、余に云う様「芸がよいと顔迄よく見える」と。その当否は君の御批判を願います。 米山は当時夢中に禅に凝り、当休暇中も鎌倉へ修行に罷越したり。山川は不相変学校へは出でこず、過日十時頃一寸訪問せしに未だ褥中にありて、煙車を吸い、それより起きて月琴を一曲弾て聞かせたり。いつもいつものん気なるが、心は憂欝病にかからんとする最中也。これも貴兄の判断を仰ぐ。兎角この頃は学校でも吾党の子が少ないから、何となく物淋しく面白くなし。可成早く御帰りお帰り。もう仙人もあきがきた時分だろうから、一寸已めにしてこの夏にまた仙人になり給え。云々別紙文章論今一度貴覧を煩はす云々 埋塵道人拝 四国仙人 梧下 七草集、四日大尽、水戸紀行、その他の雑録を貴兄の文章と也。文章でなしと仰せらるれば失敬御免可被下候。(明治23年1月 夏目金太郎 子規宛書簡)
2018.01.24
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明治22年(1889)から、子規は生涯の友となる夏目金之助と交友を深めます。 明治17年(1884)に子規と金之助は東京大学予備門に入学しました。子規は、明治18年(1885)の学期末試験で不合格となって落第しましたが、金之助も腹膜炎のため、翌年の進級試験を受けられず、落第の憂き目を見ていたのでした。 落第で同級という、偶然の絆を結んだ二人は、子規の『七草集』をきっかけとして、話を交わすようになりました。『七草集』は、明治21年(1888)の夏に向島にある長命寺境内の桜餅屋に寄宿して書き上げたのです。秋の七草から題を取り、漢文の「蘭之巻」、漢詩の「萩之巻」、和歌の「をミなへし乃巻」、俳句の「尾花のまき」、謡曲の「あさかほのまき」、「かる萱の巻」で構成されるこの本は、後に向島の地誌「葛之巻」と小説の「瞿麦の巻」を書き足し、「かる萱の巻」をはずしました。この『七草集』は、友人たちの間で回覧されて評判となりました。 金之助は、この文集の評で初めて「漱石」の号を用いました。この雅号は、子規がかつて名乗っていたこともある雅号だったのです。 子規が書いた『七草集』に誘発され、 漱石は漢詩集『木屑録』を書きました。これを読んだ子規は、「甚だまずい」漢文で「頼みもしないのに跋」を書いてよこしたと、漱石は『正岡子規』の中で語っています。 互いの技量を知った二人は、書簡を頻繁に交わして友情を深めました。 漱石は「一体正岡は無暗に手紙をよこした男で、それに対する分量はこちらからも遣った」(『正岡子規』)と語っていますが、文学観や人生観、苦悩する心情などに彩られた手紙は、二人の心を結びつけました。 子規は、これらの手紙で自分を「妾」、漱石を「郎君」と書いて、我が身を女性に擬していますが、現実の子規は、漱石を子分のように扱っていました。 僕も詩や漢文を遣っていたので大いに彼の一粲を博した。僕が彼に知られたのはこれが初めであった。ある時、僕が房州に行った時の紀行文を漢文で書いて、その中に下らない詩などを入れておいたそれを見せたことがある。ところが大将頼みもしないのに跋を書いてよこした。……非常に好き嫌いのあった人で、滅多に人と交際などはしなかった。僕だけどういうものか交際した。一つは僕の方がええ加減に合わしておったので、それも苦痛なら止めたのだが苦痛でもなかったからまあできていた。こちらが無闇に自分を立てようとしたら、とても円滑な交際のできる男ではなかった。例えば発句などを作れという。それを頭からけなしちゃいかない。けなしつつ作ればよいのだ。策略でするわけでもないのだが自然とそうなるのであった。つまり僕の方が人がよかったのだな。……も一つは向こうの我、こちらの我とが無茶苦茶に衝突もしなかったのであろう。忘れていたが彼と僕と交際し始めたも一つの原因は、二人で寄席の話をした時、先生も大いに寄席通をもって任じておる。ところが僕も寄席のことを知っていたので、話すに足るとでも思ったのであろう。それから大いに近よって来た。(夏目漱石『正岡子規』) 「子規という男は何でも自分が先生のようなつもりでいる男であった。俳句を見せると直ぐそれを直したり圏点をつけたりする。それはいいにしたところで僕が漢詩を作って見せたところが、直ぐまた筆をとってそれを直したり、圏点をつけたりして返した。それで今度は英文を綴って見せたところが、奴さんこれだけは仕方がないものだからVery goodと書いて返した』と(漱石は)言ってその後よく人に話して笑っていた。(高浜虚子『漱石氏と私』) 子規が始終敬服していたのは、何といっても漱石であったようだ。しかし漱石にも無条件で敬服することは彼の覇気が許さぬようだった。『江戸児には奇気が乏しい、それが文章の上にも露われると夏目に言ってやったら、反駁めいた長い手紙が来たよ』と語られたことがあった。(菊池仙湖『予備門時代の子規』)
2018.01.23
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夏目漱石と正岡子規の学友に、米山保三郎がいました。彼は、『吾輩は猫である』の天然居士・曽呂崎のモデルだといわれています。この「天然居士」という名は、鎌倉の円覚寺管長の今北洪川から与えられたといいます。 漱石は『吾輩は猫である』の中で、「天然居士は空間を研究し、論語を読み、焼芋を食い、鼻汁を垂らす人である」と書きました。米山は、哲学科で空間論を研究していましたが、29歳で夭折しました。漱石は、建築家を志していましたが、米山は「文学をやれ、文学なら勉強次第で幾百年幾千年の後に伝えるべき大作もできるじゃないか」と説き、漱石に文学の道を志すようになりました。子規は、もともと哲学者を志していましたが、米山のような傑物がいるのではとても太刀打ちできないとして、文学者の道を選びました。 二人が文学に進んだのは、この天然居士のせいでもあったのです。 漱石は、彼の死について斎藤阿具への手紙に次のように書いています。「米山の不幸かえすがえす気の毒の至に存じ候。文科の一英才を失い候こと、痛感の極みに御座候。同人如きは文科大学あってより文科大学閉ずるまでまたとあるまじき大怪物に御座候。蟄龍(ちつりょう)未だ雲雨を起こさずして逝く。碌々の徒あるいはこれを持って轍鮒(てっぷ)に比せん。残念」 僕の残った級(クラス)には松本亦太郎などもおって、それに文学士で死んだ米山と云う男がおった。これは非常な秀才で哲学科にいたが、大分懇意にしていたので僕の建築科にいるのを見てしきりに忠告してくれた。僕はその頃ピラミッドでも建てる様な心算(つもり)でいたのであるが、米山は中々盛んなことをいうて、君は建築をやるというが、今の日本の有様では君の思っておるような美術的の建築をして後代に遺すなどということはとても不可能な話だ、それよりも文学をやれ、文学ならば勉強次第で幾百年幾千年の後に伝えるべき大作もできるじゃないか。と米山はこういうのである。僕の建築科を択んだのは自分一身の利害から打算したのであるが、米山の論は天下を標準としているのだ。こういわれて見ると成程そうだと思われるので、また決心を為直(しなお)して、僕は文学をやることに定めたのであるが、国文や漢文なら別に研究する必要もないような気がしたから、そこで英文学を専攻することにした。その後は変化もなく今日までやってきているが、やってみれば余り面白くもないので、この頃はまた、商売替をしたいと思うけれど、今じゃもう仕方がない。初めは随分突飛なことを考えていたもので、英文学を研究して英文で大文学を書こうなどと考えていたんだったが‥‥‥。(落第) 新たに行を改めて「さっきから天然居士のことをかこうと考えている」と筆を走らせた。筆はそれだけではたと留ったぎり動かない。主人は筆を持って首を捻ったが別段名案もないものと見えて筆の穂を甞めだした。唇が真黒になったと見ていると、今度はその下へちょいと丸をかいた。丸の中へ点を二つうって眼をつける。真中へ小鼻の開いた鼻をかいて、真一文字に口を横へ引張った、これでは文章でも俳句でもない。主人も自分で愛想が尽きたと見えて、そこそこに顔を塗り消してしまった。主人はまた行を改める。彼の考によると行さえ改めれば詩か賛か語か録か何なんかになるだろうとただ宛もなく考えているらしい。やがて「天然居士は空間を研究し、論語を読み、焼芋を食い、鼻汁を垂らす人である」と言文一致体で一気呵成に書き流した、何となくごたごたした文章である。それから主人はこれを遠慮なく朗読して、いつになく「ハハハハ面白い」と笑ったが「鼻汁を垂らすのは、ちと酷だから消そう」とその句だけへ棒を引く。一本ですむところを二本引き三本引き、奇麗な併行線を描く、線がほかの行まで食み出しても構わず引いている。線が八本並んでもあとの句が出来ないと見えて、今度は筆を捨てて髭を捻って見る。(吾輩は猫である 3) この間に、ジャムを食べすぎると意見する妻と苦沙味の間で一悶着あり、 主人はまた天然居士に取り懸かかる。 鼻毛で妻君を追払った主人は、まずこれで安心といわぬばかりに鼻毛を抜いては原稿をかこうと焦る体であるがなかなか筆は動かない。「焼芋を食うも蛇足だ、割愛しよう」とついにこの句も抹殺する。あまり唐突だから已ろ」と惜気もなく筆誅する。余す所は「天然居士は空間を研究し論語を読む人である」という一句になってしまった。主人はこれでは何だか簡単過ぎるようだなと考えていたが、ええ面倒臭い、文章は御廃しにして、銘だけにしろと、筆を十文字に揮って原稿紙の上へ下手な文人画の蘭を勢よくかく。せっかくの苦心も一字残らず落第となった。それから裏を返して「空間に生れ、空間を究め、空間に死す。空たり間たり天然居士噫(ああ)」と意味不明な語を連ねているところへ例のごとく迷亭が這入って来る。迷亭は人の家も自分の家も同じものと心得ているのか案内も乞わず、ずかずか上ってくる、のみならず時には勝手口から飄然と舞い込むこともある、心配、遠慮、気兼きがね、苦労、を生れる時どこかへ振り落した男である。「また巨人引力かね」と立ったまま主人に聞く。「そう、いつでも巨人引力ばかり書いてはおらんさ。天然居士の墓銘を撰しているところなんだ」と大袈裟なことをいう。「天然居士というなはやはり偶然童子のような戒名かね」と迷亭は不相変らず出鱈目をいう。「偶然童子というのもあるのかい」「なに有りゃしないがまずその見当だろうと思っていらあね」「偶然童子というのは僕の知ったものじゃないようだが天然居士というのは、君の知ってる男だぜ」「一体だれが天然居士なんて名を付けてすましているんだい」「例の曾呂崎のことだ。卒業して大学院へ這入って空間論という題目で研究していたが、あまり勉強し過ぎて腹膜炎で死んでしまった。曾呂崎はあれでも僕の親友なんだからな」「親友でもいいさ、決して悪いといやしない。しかしその曾呂崎を天然居士に変化させたのは一体誰の所作だい」「僕さ、僕がつけてやったんだ。元来坊主のつける戒名ほど俗なものは無いからな」と天然居士はよほど雅な名のように自慢する。迷亭は笑いながら「まあその墓碑銘という奴を見せ給え」と原稿を取り上げて「何だ……空間に生れ、空間を究め、空間に死す。空たり間たり天然居士噫」と大きな声で読み上げる。「なるほどこりゃあ善い、天然居士相当のところだ」主人は嬉しそうに「善いだろう」という。「この墓銘を沢庵石へ彫り付けて本堂の裏手へ力石のように抛り出して置くんだね。雅でいいや、天然居士も浮かばれる訳だ」「僕もそうしようと思っているのさ」と主人は至極真面目に答えたが「僕あちょっと失敬するよ、じき帰るから猫にでもからかっていてくれ給え」と迷亭の返事も待たず風然と出て行く。(吾輩は猫である 3)
2017.12.10
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明治34(1901)年11月6日、子規は倫敦の漱石へ宛て、手紙を出しました。「僕はもーだめになってしまった、毎日訳もなく号泣しているような次第だ、それだから新聞雑誌へも少しも書かぬ。手紙は一切廃止。それだから御無沙汰してすまぬ。今夜はふと思いついて特別に手紙にかく」という前置きで手紙は始まります。 そして、唐突に「倫敦の焼き芋の味はどんなか聞きたい」と漱石に質問を投げかけています。「僕はとても君に再会することはできぬと思う。万一できたとしてもその時は話もできなくなってるであろー。実は僕は生きているのが苦しいのだ。……書きたいことは多いが苦しいから許してくれ玉え」と続きます。 子規は、親しい人であればあるほど、愚痴をこぼします。漱石宛ての手紙には、その場限りと注文をつけながらも愚痴がいっぱい溢れています。子規の漱石に対する甘えが、手紙の文章にあふれています。 この手紙を紹介した『吾輩は猫である 中篇自序』には、「憐れなる子規は余が通信を待ち暮らしつつ、待ち暮らした甲斐もなく呼吸を引き取ったのである」とありますが、それは作家の嘘でした。漱石は12月18日に手紙を返しています。当時の郵便事情では、日本とイギリスの間で30日以上もかかるので、すぐに返事の手紙を書いたと思われます。 しかし、「倫敦の焼き芋」については何も書かれておらず、セント・ジェームス・ホールで行われた日本の柔術使と西洋の相撲取の勝負と引越について記すばかりでした。 漱石は、こう続けます。「子規はにくい男である。……漱石は倫敦の片田舎の下宿に燻って、婆さんからいじめられているという様なことをかいた。こんなことをかくときは、にくい男だが、書きたいことは多いが、苦しいから許してくれ玉へなどと云われると気の毒で堪らない。余は子規に対してこの気の毒を晴らさないうちに、とうとう彼を殺して仕舞った」と後悔しています。 この時代の漱石は、倫敦の下宿にひきこもり、『文学論』の研究に没頭していました。そのなかで神経を病み、悪戦苦闘の日々を過ごしていたのです。自分の悩みを延々と語り、唐突に倫敦の焼き芋の味を聞いてくる子規のとんちんかんぶりに、漱石はかつての子規との交友を思い出したことでしょう。 漱石が子規の死を知ったのは、11月下旬に届いた高浜虚子からの手紙でした。12月5日にロンドンを立つ漱石は、12月1日に虚子に報告感謝の手紙を送り、子規哀悼の句を詠みました。 倫敦にて子規の訃を聞きて 筒袖や秋の柩にしたがはず 手向くべき線香もなくて暮の秋 霧黄なる市に動くや影法師 きりぎりすの昔を忍び帰るべし 招かざる薄に帰り来る人ぞ このうち「招かざる薄に帰り来る人ぞ」は、子規が漱石の洋行の際に贈った「萩すすき来年あはむさりながら」に応えたものです。 漱石を少しばかり弁護すると、「倫敦の焼き芋の味」に答えるのは、少し難しいのです。なぜならば、倫敦のサツマイモは、日本のものと味も風味も大きく違います。 倫敦で流通しているサツマイモは、エリザベス朝時代(1558〜1603)に中南米からもたらされましたが、寒いイギリスでは栽培が難しく、ほとんどが輸入品でした。なかがオレンジ色をしたボーレガード種やジュエル種のサツマイモは、焼き芋にしても美味しくありません。そこで、スープの具にしたり、砂糖を足してスイーツにします。 また、イギリスでは温州みかんをSATSUMAといいます。文久3(1863)年におこった生麦事件を発端に薩摩とイギリスが戦いましたが、もちろん、イギリスの勝利に終わり、薩英同盟が結ばれます。そのとき、薩摩藩から英国に温州みかんの苗が贈られたことで、温州みかんが「サツマ」と呼ばれるようになったといいます。 僕はもーだめになってしまった、毎日訳もなく号泣しているような次第だ、それだから新聞雑誌へも少しも書家ぬ。手紙は一切廃止。それだから御無沙汰してすまぬ。今夜はふと思いついて特別に手紙を書く。いつかよこしてくれた君の手紙は非常に面白かった。近来僕を喜ばせたものの随一だ。僕が昔から西洋を見たがっていたのは君も知っているだろー。それが病人になってしまったのだから残念でたまらないのだが、君の手紙を見て西洋に往ったような気になって愉快でたまらぬ。もし書蹴るなら僕の目の明いている内に今一便よこしてくれぬか(無理な注文だが)。画はがきもたしかに受け取った。ロンドンの焼き芋の味はどんなか聞きたい。 不折は今巴理にいてコーランのところへ通打ておるそうじゃ。君に逢うたら鰹節一本贈るなどどいうておったがもーそんなものは食うてしまってあるまい。 虚子は男子を挙げた。僕が年尾とつけてやった。 錬卿死に非風死に皆僕より先に死んでしまった。 僕はとても君に再会することはできぬと思う。万一できたとしてもその時は話もできなくなっているであろー。実は僕は生きているのが苦しいのだ。僕の日記には「古白曰来(こはくいわくきたれ)」の四字が特書してあるところがある。 書きたいことは多いが苦しいから許してくれ玉え。(明治34年11月6日 正岡子規 夏目漱石宛て書簡) (前略)日曜日に「ハイド、パーク」などへ行くと盛に大道演説をやっている。こちらでは「イエス、キリスト」の神よ「アーメン」先生が皺枯声で口説いていると、五、六間離れて無神論者が怒鳴っている。「地獄? 地獄とは何だ。もし神を信ぜん者が地獄に落ちるなら、ヴオルテールも地獄にいるだろう、インガーソルも地獄にいるだろう、吾輩はくだらぬ人間の充満している極楽よりもかかる豪傑の集っている地獄の方が遥かにましだと思う」。僕の理想的アマダレ演説よりもよほど気焔が高い。これを称して鼻息あらき演説というので、これも雄弁法などに見当らない形容調のつく使いようだ。この無神論者の向側にHumanitarianの旗を押立てて「コムト」の仮色を使っている奴がある。その隣では頻りに「ハックスレー」の説を駁している。その筋向にシナビた先生がからだに似合ない太い声を出して「諸君予は前年日本に到りかの地にて有名なるマーキス、アイトー(伊藤侯爵のこと)に面会して 同氏が宗教に関する意見を親しく聴き得たのであります……」。どれもこれも善い加減な事ばかり述立てている。 先達「セント、ジェームス、ホール」で日本の柔術使と西洋の相撲取の試合があって二百五十円懸賞相撲だというから早速出掛て見た。五十銭の席が売り切れて入れないから一円二十五銭奮発して入場仕ったが、それでも日本の聾桟敷見たようなところで向の正面でやっている人間の顔などはとても分らん。五、六円出さないと顔のはっきり分かるところまでは行かれない。すこぶる高いじゃないか、相撲だから我慢するが美人でも見にきたのなら一円二十五銭返してもらって出て行く方がいいと思う。ソンナシミッタレタことは休題として肝心の日本対英吉利の相撲はどう方がついたかというと、時間が後れてやるひまがないというので、とうとうお流れになってしまった。その代り瑞西(スイス)のチャンピヨンと英吉利のチャンピヨンの勝負を見た。西洋の相撲なんてすこぶる間の抜けたものだよ。膝をついても横になっても逆立をしても両肩がピタリと土俵の上へついてしかも一、二と行司が勘定する間このピタリの体度を保っていなければ負でないっていうんだから大いに埒のあかない訳さ。蛙のようにヘタバッテいる奴を後ろから抱いて倒そうとす流、倒されまいとする。座り相撲の子分みたような真似をしている。御蔭に十二時頃までかかった。ありがたき仕合である。翌日起きて新聞を見ると、夕十二時までかかった勝負がチャンとかいてあるには驚いた。こっちの新聞なんて物はエライ物だね。 僕はまた移ったよ。五乞閑地不得閑、三十五年七処移(五たび閑地を乞うて閑を得図、三十五年七処に移る)なんと三十五年に七度居を移す位なことでは自慢にゃならない。僕なんか英吉利へ来てからもう五返目だ。今度の処は御婆さんが二人、退役軍人という御爺さんが一人まるで老人国へ島流しにやられたような仕合さ、この御婆さんが「ミルトン」や「シェクスピヤー」を読んでいておまけに仏蘭西語をベラペラ弁ずるのだからちょっと恐縮する。「夏目さんこの句の出処を御存知ですか」などと仰せられることがある。「あなたは大変英語が御上手ですがよほどおちいさい時分から御習いなすったんでしょう」などと持上げられたこともある。人あに自ら知らざらんや。冗談言っちゃいけないと申たくなる。こちらへ来てお世辞を真に受けていると大変なことになる。男はさほどでもないが、女なんかはよく”Wonderful”などと愚にもつかないお世辞をいう。下手な方に”Wonderful”ですかと皮肉をいうこともある。(中略)今や濃霧窓に迫って書斎昼暗く時計一時を報ぜんとして腹を撫し食を欲することしきりなり。この美しき数句を千金の掉尾として筆を擱く。十二月十八日。(明治34年12月18日 夏目漱石 正岡子規宛て書簡)
2017.10.24
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稻の葉や袂にふくむ風の味(明治23) 背戸も見えず晩稻かけたる竝木哉(明治27) 稻の穗の嵐になりし夕かな(明治28) 何となけれとそゞろありきや稻の花(明治28) 稻の穗に十里の雨の靜かなり(明治28) 稲刈りて地藏に化ける狸かな(明治29) 干稻に鷄上る夕日かな(明治29) 稻の畫をかき直さゞる話かな(明治31) 遠村に稻刈る人の小さゝよ(明治32) 晩稻田の水も落してしまひけり(明治32) 雨ふくむ上野の森や稻日和(明治35) 正岡子規は「稲」の句を多く詠んでいます。子規の親友である漱石は、田に実る稲穂と米の違いを学生頃まで知らなかったといいます。子規は、このことを『墨汁一滴』に書きました。 のちに芥川龍之介が、このことを漱石に聞きました。すると、漱石は「いや俺は、米は田圃に植えるものからできることは知っている、田圃に植っているものが稻であると云うことも知っている、唯、稻──目前にある稻と米との結合が分らなかっただけだ。正岡はそこまで論理的に考えなかったんだ」と威張っったといいます。 東京に生れた女で四十にもなって浅草の観音様を知らんというのがある。嵐雪の句に 五十にて四谷を見たり花の春というのがあるから嵐雪も五十で初めて四谷を見たのかも知れない。これも四十位になる東京の女に余が筍の話をしたらその女は驚いて、筍が竹になるのですかと不思議そうにいうていた。この女は筍も竹も知っていたのだけれど二つの者が同じものであるということを知らなかったのである。しかしこの女らは無智文盲だから特にこうであると思う人も多いであらうが、決してそういうわけではない。 余が漱石とともに高等中学にいた頃、漱石のうちをおとずれた。漱石の内は牛込の喜久井町で、田圃からは一丁か二丁しかへだたっていない処である。漱石は子供の時からそこに成長したのだ。余は漱石と二人田圃を散歩して早稲田から関口の方へ往たが大方六月頃のことであったろう、そこらの水田に植えられたばかりの苗がそよいでいるのは誠に善い心持であった。この時余が驚いたことは、漱石は、我々が平生喰うところの米はこの苗の実であることを知らなかったということである。都人士の菽麦を弁ぜざることは往々この類である。もし都の人が一匹の人間になろうというのはどうしても一度は鄙住居をせねばならぬ。(墨汁一滴 明治34年5月30日) 正岡子規が「墨汁一滴」だか何かに、先生と一緒に早稻田あたりの田圃を散歩していた時、漱石が稻を知らないで驚いたということを書いている。そうして先生とその話が出たことがあった。そうしたら先生が言うのには、いや俺は、米は田圃に植えるものからできることは知っている、田圃に植っているものが稻であるということも知っている、唯、稻──目前にある稻と米との結合が分らなかっただけだ。正岡はそこまで論理的に考えなかったんだと、威張っておられた。(芥川龍之介 夏目先生) 稻の穗のうねりこんだり祝谷(明治25) うぶすなに幟立てたり稻の花(明治28) 眞宗の伽藍いかめし稻の花(明治28) うぶすなに幟立てたり稲の花(明治28) 南無大師石手の寺よ稻の花(明治28) 松山の城を載せたり稻莚(明治28) 四國路や小山の底の稻莚(明治28) 稻の穗に温泉の町低し二百軒(明治28) 四國路の小さき馬や稲の花(明治31) 子規の「稲」の句には秋の風情を稲に託して詠み上げたものに秀句が多いのですが、ふるさとで稲を詠んだ句もいくつかあります。稲を見る機会に恵まれていた子規は、上のエピソードのように、都会生まれではありません。上京した当時に、子規は親戚の藤野漸の家に下宿しましたが、そこに茶碗のエピソードがあります。当時から子規は大食らいで、ある日茶碗が割れた時、ご飯を多くよそうことができるように、一番大きな茶碗を選んだといいます。 神田仲猿楽町時代 中六番町に一年位もいましたか、次ぎは神田の仲神楽町に引越しました。もっともそこにも一年位しか住まなかった。何しろ六年間に七度引越をしたのですから……・ ですが、升さんについて記憶に残ってゐるのは、猿楽町の時分が一番です。 相当の大食で、御飯もお八ツも人並みではすまなかった。宅で蚕豆を煮ることがよくありました。古い蚕豆を水に冷やして柔かくした其の皮をとるのを手伝ってもらいましたが、一升位の蚕豆は、大抵一度無くなる位でした。 それで時々お腹をわるくする。宅の主人が、これからは毎食三杯、必ず生飯(湯も茶もかけない) で食うように言いつけて、それを実行させましたが、或時其の茶碗が割れて、近所の勧工場へ買いに、私どもと一諸に往った。升さんは、その中でも一番大きな茶碗をとって、これにします、というので覚えず苦笑せずにはおれませんでした。 二男の準ー刀自の長男が、その時分二っか三つで、升さんにお守りをしてもらったこともありますが、もとらぬ口で、升さんのことを「ウワウワ」と言っていた。お腹のわるい時でもあったのか、升さんが牛乳を飲んでいた。準がよく、ウワオチチというので、升さんが時時牛乳を準にも飲ませてくれるのだなとも気づいていた。升さんが宅を出て下宿したあとに、前言った大きな茶碗が残っているのを、準が、ウワお茶碗、と指ざしては、宅の皆を笑わせるのでした。(藤野磯子 始めて上京した当時の子規)
2017.10.04
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子規はココアをよく飲んでいます。『仰臥漫録』の明治34(1901)年9月を見ると、2日に間食で牛乳一合ココア入り、7日は朝に牛乳半合ココア入り・間食で牛乳半合(ココア入り)、11日の朝に牛乳一合ココア入り、17日から19日の間食に牛乳七勺(ココア入り)、22日の間食に牛乳一合(ココア入り)23日の間食に牛乳五合(ココア入り・注五勺か?)、25日の朝に牛乳(ココア)、27日の間食に牛乳半合(ココア入り)とあります。ココア以外に紅茶を入れた日(12日・13日)もあり、かなりハイカラな食生活を送っていました。 明治35(1902)年6月11日の『墨汁一滴』にも「明治病室の片側には綱を掛けて、陸中小坂の木同より送り来し雪沓十種ばかり、そのほかかんじき蓑帽子など掛け並べ、そのつづきには満洲にありしという曼陀羅一幅極彩色にて、青き仏赤き仏様々の仏たちを画がきしを掛け、ガラス戸の外は雨後の空心よく晴れて庭の緑したたらんとす。昨日歯齦を切りて膿汁つひえ出でたるためにや、今日は頬のはれも引き、身内の痛みさへ常よりは軽く堪へやすき今日の只今、半杯のココアに牛乳を加へ一匕(さじ)また一匕、これほどの心よさこの数十日絶えてなき事なり」と、ココアで幸せを満喫していることが書かれています。 なぜ、ココアを飲んでいたかいうと、牛乳の味を子規はあまり好きではなかったからです。 高浜虚子は、子規が神戸病院へ入院したときに、牛乳嫌いを語る子規を描写しています。 その後になって居士は当時の心持を余に話したことがあった。「滋養灌腸と聞いた時には少し驚いたよ。何にせよ遼東から帰りの船中で咯血し始めたので甲板に出られる間は海の中に吐いていたけれど、寝たっきりになってからは何処にも吐く処がない、仕方がないから皆呑み込んでしまっていたのさ。それですっかり胃を悪くして何にも食う気がなくなってしまった。私は咯血さえ止まればいいとその方の事ばかり考えていたので、厭な牛乳なんか飲まなくっても大丈夫だと思っていたのだが、滋養灌腸を遣られた時にはそんなにしてまで営養を取らなけりゃならんほど切迫していたのかとちょっと驚かされたよ。」 実際、これで滋養灌腸が旨く収まらなかったら、駄目かも知れぬと医者は悲観していた。が、幸なことには居士はその以後力めて栄養物を取るような傾きが出来て来た。 医師から今晩は特に気を附けなければならんと言われた心細かった一夜は無事にしらしらと白らんだ。恐らくその晩が病の峠であったろう。前日少し牛乳を取ったためであろうか、その暁の血色は今までよりはいくらかいいようであった。その日から咯血もやや間遠になって来た。(高浜虚子 子規居士と余 10) 明治35(1902)年1月2日、子規は唐紙を伸ばして福寿草を描き、それにココアの詩を添えました。食べ物をねだる言葉と心のつぶやきの羅列が、まるで呪文のように心に残る詩です。 ココアを持て来い 無風起波 ココア一杯飲む 小人閑居不善ヲナス 菓子はないかナ 仏ヲ罵ツテ已マズ又組ヲ呵セントス もなかではいかんかナ いかん塩煎餅はないかナ ない 越州無字 ンー 打タレズンバ仕合セ也 左千夫来ル 咄牛乳屋 御めでたうございます 同 健児病児同一筆法 空也せんべいを持て来ました 好魚悪餌ニ上ル 丁度よいところで 釣巨亀也不妨 空也煎餅をくふ 明イタ口ニボタ餅 ……………… ……………… 空ハ薄曇リニ曇ル何事ヲカ生ジ来ラントス ……………… ココアを持て来い………蜜柑を持て来い 蜜柑ヲ剥ク一段落 ンーン 何等の平和ゾシカモ大風来ラントシテ天地静マリカへル今五分時ニシテ猛虎一嘯(いっしょう)暗雲地ヲ捲テ来ラン アナオソロシ〔自筆稿 明治35〕 明治時代、牛乳は健康飲料として乳幼児や病人に飲用されはじめましたが、その匂いのために一般にはあまり好まれませんでした。明治30年代になると、その匂いや味をごまかすため、ココアや紅茶を牛乳に入れるようになりました。 日本で初めてココアを飲んだのは、徳川家最後の将軍・徳川慶喜の弟の水戸藩主・徳川昭武です。1867年にパリで開かれた万国博覧会に幕府代表として赴いた時にココアを飲んでいます。8月3日の日記に「この日フランス・シェルブールのホテルにて朝8時、ココアを喫んだ後、海軍工廠を訪ねる」と書かれています。 国産ココアは、大正8(1919) 年の森永製菓が発売したミルクココアです。ココアを飲むには、輸入品に頼らざるを得ませんでした。ココアパウダーは、オランダの化学者コンラッド・バン・ホウテンが1828年にココアバターの一部を搾油する方法で、世界第一号の特許を獲得しています。子規はおそらく、「バンホーテン」のココアを使っていたに違いありません。 ココアの詩といえば、石川啄木が思い出されます。 啄木は、岩手生まれで、与謝野鉄幹に認められ、明星派の歌人としてデビューし、歌集に『一握の砂』『悲しき玩具』があります。啄木は一種の生活破綻者で、多くの借金をつくりました。それらの借金は、見栄と浪費のために使われました。啄木は先輩の金田一京助に金の無心を続けました。息子の金田一春彦は「彼(啄木)の借金のほとんどはこうした遊興に費やされ、それが為の貧困だった」と語っています。 啄木は、借金の記録を残していますが、月給25円、原稿などの収入を含めて多く見積もれば約50円でありながら、63人から1372円50銭の借金がありました。啄木のつくる哀しい歌は、被害者を装った加害者の歌なのです。 明治42(1899)年3月より、啄木は『東京朝日新聞』の校正係になりました。この時代、漱石は啄木と接点があります。 明治43年(1910)7月1日と5日、長与胃腸病院に入院していた漱石のもとを啄木が見舞いに訪れています。当時、啄木は『二葉亭四迷全集』の校正と編集事務を担当していました。漱石は、四迷訳のツルゲーネフ作品『けむり』を英訳版の『ツルゲーネフ全集』と対比することを提案し、5日に英訳版『ツルゲーネフ全集』第5巻を啄木に渡しています。 のちに肺結核のために病に伏した啄木のところに、漱石は2度にわたって見舞金を届けています。小宮豊隆『漱石先生と私』には「石川啄木君が肺患のために社も休んで、夏頃から小石川久堅町に籠居していたが、年末に金に窮して、先生のもとへ手紙で合力を申込んで来た。先生は直ちに金拾円を私に託して、同家へ持参するように命じられた」と書いてあります。また、明治45年1月22日の啄木の日記には、「午頃になって森田君が来てくれた。外に工夫はなかったから夏目さんの奥さんへ行って十円もらって来たといって、それを出した。私は全く恐縮した。まだ夏目さんの奥さんにはお目にかかったこともないのである」とあります。 26歳の若さで亡くなった啄木ですが、その晩年は社会主義思想に惹かれて、革命を考えるまでになっていました。 天皇暗殺を企てたとされる大逆事件に関心を寄せていました。「ココアのひと匙」は、その頃に書かれています。 ココアのひと匙 われは知る、テロリストの かなしき心を―― 言葉とおこなひとを分ちがたき ただひとつの心を、 奪はれたる言葉のかはりに おこなひをもて語らむとする心を、 われとわがからだを敵に擲なげつくる心を―― しかして、そは真面目まじめにして熱心なる人の常に有もつかなしみなり。 はてしなき議論の後の 冷さめたるココアのひと匙を啜すすりて、 そのうすにがき舌触に、 われは知る、テロリストの かなしき、かなしき心を。
2017.08.20
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明治24(1891)年9月13日、夏目漱石は大宮にいた正岡子規を訪ねて、鶉(ウズラ)の焼いたものを生まれて初めて食べています。このことは、『正岡子規』という文に書かれています。 ある日突然手紙をよこし、大宮の公園の中の万松庵にいるからすぐ来いという。行った。ところがなかなか綺麗なうちで、大将奥座敷に陣取って威張っている。そうして其処で鶉か何かの焼いたのなどを食わせた。僕はその其形勢を見て、正岡は金がある男と思っていた。処が実際はそうでは無かった。身代を皆食いつぶしていたのだ。 子規は、保養と追試験の準備のため、大宮公園(氷川公園)の「万松楼」に泊まっていました。この頃、東京近郊から一泊もしくは日帰り観光ができるところとして、埼玉の大宮が東京の奥座敷として売出注目されていました。氷川神社のある大宮公園内には、桜並木や池が設えられ、名物の「鯉こく」や鶉料理を出す旅館が何軒かできています。子規は10日ほどの休暇を、松林に位置した「万松楼」で過ごしたのでした。 もともと鶉は鳴き声を楽しむ愛玩用の鳥でした。しかし、鶉の肉には旨みがあるので、やがて食べられるようになりました。 江戸時代の料理書『料理物語』には、「汁。くしやき。いり鳥。こくしょう。せんば。ほねぬき」というメニューが挙げてあります。また、『大草家料理香』には「鶉汁の時は、少し焼き候て、烏六ツ程に切りて、何にても時の物を加へて、ふくさみそにて吉き也。または焼き候て、けし、くるみなどにてあえ候事も有るベし。また丸ながらわたばかり取りて、くるみ、栗、けし、はじかみなど入れてぬいふさぎて、醤油にてにしめて、筒切にしても出し候也」と書かれています。 『料理物語』によると鶉汁、串焼き、鶉肉炒り、鶉の洗い、野菜と鶉をたっぷりの汁で煮たもの、骨を取った鶉などが鶉料理のメニューで、『大草家料理香』によれば、鶉を少し焼いて細切れにし旬の野菜を入れてふくさ味噌(米と麦、豆などを混ぜ合わせた味噌)で味付けるのが「鶉汁」、焼いた鶉をケシやクルミなどと和えたもの、一匹のままの鶉の内臓を取り出してクルミや栗、ケシ、はじかみなどを入れて切ったところを縫い合わせて醤油煮にして筒切りで出すという料理法が記されています。 江戸時代の百科事典『本朝食鑑』には、以下のように書かれています。 〔集解〕鶉の形状は、鶏・雉の雛くらいで、頭は小さく尾が短く、羽毛は蒼黒・黄赤・白斑になって甚だ肥えている。夜が明けたころ、よく鳴く。声は高く、長短がある。雄は鳴き声を出し、足が高く、雌は声が微(かすか)で、足は卑(ちいさ)い。性質は然、寒に弱い。常に田野に在て、人の姿を見ればいち疾(はや)く叢間(くさむら)に入り、いくら探索しても見えない。夜は群れて飛び、昼は草に伏している。網を張り、箱を設けて捕えるが、あるおとりはしたかといはまた、雌を媒(おとり)として誘って捕える。鷂(はしたか・鷹の一種)でもよく鷙(と)る。味は極めてよ炎く、炙食が最もよい。好事家は竹の漆画の籠に多く飼養し、美声を誇り競っている。その声は、高く大きく、円やかで亮(さ)えていて、長く鳴くのを勝れているとする。あるいは冨土野・那須野、信州の田畠、及び摂州・播週の山野を渉猟して、早朝に声を聴いて、媒鳥(おとり)で捕える。三・四月の田麦の伸びる時に取ったのを麦鳥(むぎどり)と呼び、冬月の雪中に取ったのを雪鳥(ゆきどり)と呼ぶ。およそ鶉は、甲州・信州・下野の産を上とし、摂州・播州・濃州の産がこれに次ぐ。 村井弦斎の小説『食道楽』冬の巻には、「小鳥料理」という章があります。猟天狗「料理の方では小鳥の焼き加減が難しいと聞いておりました、鳥によって焼き加減が違いますか」……中川「……鶉と鹿と猪は焼けすぎてもならず、焼けすぎないでもならず、丁度よく火が通らなければいけません」猟天狗「……小鳥の中では何が一番美味しいでしょう」中川「……もちろん鶉でも場所と季節で味が違います。まず雲雀に鶉それから鴫などが美味しいものでしょう」 猟天狗「小鳥の料理法はたくさんありましょうね」中川「……ごく手軽にすれば塩胡椒を振ってバターで十分間ぐらいもフライしてパンへ乗せて出しますし、あるいは背開きにして塩胡椒を振って金網の上でバターを塗りながら十分間焼いてグレーにもします。しかし野鳥類の料理はサルミーといって骨のソースで煮込んだのが美味しいので、それは鶉でも鴫でも、山鴫、雉、山鳥、水鶏(くいな)の類を胸の肉ばかり別に取っておいて、残った肉や骨をよく叩きます。それからバターでジリジリといためて玉葱人参セロリーの細かく刻んだのを混ぜてまたよくいためて狐色になったところへコルンスタッチ(コーンスターチ)を少し入れて今度は中の品物がみんな焦げるくらいにいためます。つまりブラウンソースを拵えるのですからコルンスタッチやバターはその分量で見計らいます。そこへセリー酒(シェリー酒)を大さじ一杯にスープを一合の割合で注してトマトソースを大さじ一杯入れて塩胡椒で味をつけて一時間半煮ます。もしも略式にすればセリー酒がなくっても構いませんし、このソースを裏ごしにしてすぐ鳥の肉を入れて一時間も煮ればごく手軽なサルミーになります。しかし上等にすると鳥の肉も別にセリー酒大さじ三杯、スープ大さじ三杯、バター大さじ一杯に塩胡椒で味をつけて弱火で三十分煮ます。それから出た汁をソースへ混ぜてまた弱火で鳥を三十分間煮ます。もう一層上等にすると、この中へ葡萄酒を入れてソースを二度も漉して鳥を煮ます」 子規と漱石が、どのような鶉料理を食べたかは書かれていません。和食だったのか、西洋料理だったのか、とても興味が持たれます。 京都の伏見稲荷では、参道の店で鶉の焼き鳥が売られています。伏見稲荷は深草の里にあり、「夕されば野辺の秋風身にしみて鶉鳴くなり深草の里」という藤原俊成の短歌にちなみ、鶉を名物料理にしようとしているようです。 もともと伏見稲荷の参道では、雀のやきとりがよく知られていました。穀物を食い荒らす雀を捕まえて、五穀豊穣を叶える稲荷への供物として「やきとり」にし、参拝客に売っていました。かつては東京入谷の鬼子母神などでも、雀の「やきとり」が売られていたといいます。 しかし、野鳥保護法の成立で雀を獲ることがむずかしくなり、中国などからの輸入に頼っていたのですが、中国で野鳥類の輸出が禁止されるようになりました。現在では国内産の雀となり、入手が困難になって売られていないこともあります。 そのため、鶉に目が向けられるようになったというわけです。ただし、伏見稲荷の近くでウズラは飼育されていないようですが……。
2017.06.14
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若き日の夏目漱石は、未来を知りたいと熱望していたようです。 明治23(1890)年に書かれた正岡子規の『筆まかせ』「正岡易占」によると、漱石は子規に占いを頼みました。子規は、竹内鍛からにわかに占いを学んだところでした。そこで、漱石の未来を筮竹で占うと「地風升」に「地水師」という卦が出ます。 子規が占った卦は以下の通りでした。(わかりやすく書いています) 「地風升」は、気が地中に生じるという卦である。君は今、学校にあって、教師に至るまで人望を得ている。君はますます運気が上昇して、第一位になる。これは大吉である。君は大学を卒業して、文壇に登る才能を持っている。 「地水師」は、地中に水があるという卦だ。「地風升」に「地水師」の二つが合わさると、地中の水が草木を育てるように、みんなを数育する任をもつ。そして、文壇の将として君臨し、ものごとを牛耳るのだ。君が自分の説を論じ、文章を書くときにもこの道理をわきまえ、わずかでも論理に背き、哲理に合わない議論をするべきではない。間違いがあればそれを正すが良い。 君の文才を、天下がその妙を賞賛し、外国人も驚嘆することがあるだろう。君の名声は、すぐに天下を圧するわけではない。文学の世界では、君に抵抗するものもあり、そのために白旗を掲げねばならないもあるだろう。だが、大失敗にもならず、君の栄誉が謗られることもない。だが、交際のために名誉を落とすこともあるので、友人選びが肝要になる。 総じて、君の学問の進展は著しく、必然的に頭角をあらわすし、ついにはその名声は、国の内外に聞こえるようになるだろう。天下の学生は、君を慕ってくる者が多くなるのは間違いないが、君の言論文章には一癖あるので、天下を毒することにもなる。 学者に偏見のあることは別に咎めることはないけれど、その言に天下を毒するものが含まれることに注意すべきだ。君の所論を言うときには、千思萬考し、偏見を持たぬよう心がけなさい。この易占があたるかどうかは、日を待たねばならない。(正岡子規著『筆まかせ』「正岡易占」) 子規は、漱石を占うと、「いいことを言ったのだから西洋軒(精養軒か?)の昼飯に出かけやしょう、安いものです」と漱石に食事をねだりました。 子規のひねり出した卦を漱石の生涯に照らし合わせると、「文壇に君臨」「文才を天下が賞賛」「名声は国の内外に聞こえる」など、当たっている部分も多く、付け焼き刃でもこれだけ占うことのできた子規は、占い師になってもいっぱしの預言者になっていたかもしれません。 古くから日本では、食べ物で吉兆を占うことをしてきました。例えば、餅を搗いたとき、いくつかの餅を伏せた臼に入れ、どれにカビがつくかで稲のできを占う「臼伏せ」、囲炉裏の灰の上に大豆をならべ、豆の焼けた様子によって吉兆を占う「豆占」、粥の中に竹筒を入れ、その中に米粒が幾つ入っているかで豊作を占う「粥占」など、生活に身近で、貴重な食べものを使っての占いが、神事などで行われてきました。 明治27(1894)年、漱石は大学の寄宿舎を出て、小石川の伝通院に近い表町七十三番地の法蔵院という浄土宗の寺に下宿しました。住持の豊田立本は、「易断人相見などに有名な人」で、この人にも占いを頼んでいます。 ある時何かのついでに、話がつい人相とか方位とかいう和尚の縄張り内に摺り込んだので、冗談半分私の未来はどうでしょうと聞いて見たら、和尚は眼を据えて余の顔を凝(じっ)と眺めた後で、大して悪いこともありませんなと答えた。大して悪いこともないと云うのは、大して好いこともないと云ったも同然で、即ち御前の運命は平凡だと宣告したようなものである。余は仕方がないから黙っていた。すると和尚が、貴方は親の死目には逢えませんねといった。余はそうですかと答えた。すると今度は貴方は西へ西へと行く相があるといった。(『思い出す事など』28) 明治14(1881)年1月9日、実母のちえが亡くなったとき、漱石は兄の大助の官舎を訪れていて、母の死に立ち会えていません。明治30(1897)年6月29日、実父の直克が没したときにも、漱石は熊本にいたため、臨終を見とることはできませんでした。 この占い以後、漱石は松山から熊本へと教師生活を送り、果てはロンドンで学ぶことになりました。西へ西へと行くという占いも、見事に当たっていたのです。
2017.05.13
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正岡子規の文章に「カレーライス」が登場するのは、明治34(1901)9月17日の『仰臥漫録』で、夕食にライスカレー3椀を食べたとあります。漬物は福神漬けではなく奈良漬でした。出前なのか、家でつくったのかははっきりしませんが、新物喰い・子規の面目躍如といったところです。 漱石の日記にライスカレーが登場するのは明治33(1900)年10月1日です。記録されたものに限ると、子規より漱石の方が早くカレーライスを食べています。 イギリス留学へ向かう途上、コロンボに上陸し、市内を見物して回った後に「6時半旅館に帰りて晩餐に名物の『ライス』カレを喫して帰船す」と記されています。この時、漱石がカレーを食べたのは「ブリティッシュ・インディア・ホテル」で、おそらく英国風のカレーライスだったのでしょう。 漱石は、『三四郎』『明暗』といった小説の中にもカレーライスを登場させています。 三四郎には淀見軒の「ライスカレー」が出てきます。 昼飯を食いに下宿へ帰ろうと思ったら、きのうポンチ絵をかいた男が来て、おいおいと言いながら、本郷の通りの淀見軒という所に引っ張って行って、ライスカレーを食わした。淀見軒という所は店で果物を売っている。新しい普請であった。ポンチ絵をかいた男はこの建築の表を指さして、これがヌーボー式だと教えた。三四郎は建築にもヌーボー式があるものとはじめて悟った。帰り道に青木堂も教わった。やはり大学生のよく行く所だそうである。赤門をはいって、二人で池の周囲を散歩した。(『三四郎 3』) 「ぼくはいつか、あの人に淀見軒でライスカレーをごちそうになった。まるで知らないのに、突然来て、君淀見軒へ行こうって、とうとう引っ張っていって……」 学生はハハハと笑った。三四郎は、淀見軒で与次郎からライスカレーをごちそうになったものは自分ばかりではないんだなと悟った。(『三四郎 6』) 真事の言葉には後がありそうだった。津田はそれが知りたかった。 「あすこへ行くといろんなものをくれるだろう」 「ううん、そんなにくれない」 「じゃ御馳走するだろう」 「僕こないだ岡本の所でライスカレーを食べたら、そりゃ辛かったよ」 ライスカレーの辛いぐらいは、岡本へ行かない理由になりそうもなかった。(『明暗 24』) 日本人初のカレーライス見聞者は、文久3(1863)年の「池田遣欧使節団」にいた三宅秀(みやけ・ひいず)です。フランスのモンジュル号という砲艦に乗り込んだ時に、インド人たちが「飯の上へトウガラシ細味にいたし、芋のドロドロのようなものをかけ」、手づかみでカレーライスを食べているのを眺めたものでした。秀は「至って汚きものなり」と評しています。 日本初のカレーライス飲食者は、明治4(一八七一)年にパシフィック・メイル号でアメリカをめざした会津出身の山川健次郎で、肉料理ばかりの船内食に耐えられなくなった健次郎は絶食を続けました。このままだと死んでしまうと思った健次郎は、カレーライスを注文し、もっぱら下のご飯だけを食べたのだそうです。健次郎は、日本初の理学博士となり、東京帝国大学総長まで上り詰めました。 明治5(1872)年に刊行された仮名垣魯文の『西洋料理通』には、「ケルリートフヒシユ 粉なで煮る魚の儀」と「カリードヴィル・ヲル・ファウル カリーの粉を肉或いは鳥を料理する云」としてカレー料理が載っています。「ケルリートフヒシユ」のケルリートは「curry」、フヒシユは「fish」で、「魚のカレー」のことになります。「カリードヴィル・ヲル・ファウル」、ヴィルは「bull」、ヲルは「or」フォウルは「fowl」で「雄牛か家禽のカレー」という意味でしょう。 冷たる煮魚第二等の黒汁に混合、食匙でケルリー(カレー)の粉一盛、醤油茶匙に一盛、ボートル(バター)一斤の十六分の一、柚子の半分の絞り汁、丹、胡椒、塩加減、葱一本。【右製法】 葱を分斬にし、ボートルと交え火にて焙り葱の色薄黒くなるを目度として、その鍋の中に焙るより、さて外の品々を一同に緩火を以って煮ること半時にして、ケルリーの粉を散点せしむ。ケルリーに好適の魚は鮭、黄エイ、伊勢海老、シャコ、牡蠣なりむ。牡蠣汁は四時程煮るべし。外五種の物は半時程煮るべし。食に臨み皿に飯を添て出すべし。(ケルリートフヒシユ) 冷残の子牛の肉或いは鳥の冷残肉、いずれも両種の中有合物にてよろし。葱四本刻み、林檎四個皮を剥き去り刻みて、食匙にカリーの粉一杯、シトルトスプウン匙に小麦の粉一杯、水或いは第三等の白汁いずれにても其の中へ投下、煮る事四時間半。その後に柚子の露を投混て炊きたる米を、皿の四辺にぐるりと円く輪になる様もるべし。(カリードヴィル・ヲル・ファウル) 同年出版の敬学堂主人著『西洋料理指南』には 「カレー」の製法はネギ一茎、ショウガ半個、ニンニク少しばかりを細末にし、牛酪(バター)大一さじを持って煎り、水一合五勺を加え、鶏、エビ、鯛、カキ、赤蛙などのものを入れてよく煮、のちに「カレー」の粉小一さじを入れ煮る。一時間すでに熟したるに塩に加え、また小麦粉大さじ2つを水にて解き入れるべし。 「ジャム(原文ジャミ)」は木実のタネを去り、あるいは去らざるもあり、砂糖をもって煮る。その実の形を失えるを度となす。すなわち「エキス」のごときものなり。 「チャツネ(原文チャフ子)」というものあり。インド地方より出す。これは我国の小麦製の醢(ひしお)にほぼ似たり。西洋人もこれをインド地方に求む。製法は知れりと言えども、今我国に製して易(益)なし。舶来せるものを買うべし。 これらのカレーのつくり方を見てみると、どちらも葱を使っています。明治の初めの頃には、玉ねぎは一般に普及しておらず、北海道開拓使によって北の地に栽培されるようになり、昭和に入ってから一般家庭に普及するようになりました。 また、どちらもカレー粉とありますが、当時の日本にあったのはイギリス製のC&B(Crosse & Blackwell)で、洋食店ではこのメーカーを使ってカレーライスがつくられていました。
2017.05.02
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4月30日(日)午後1時からのフジテレビ「さまぁ〜ずの神ギ問」に、私・土井中照が愛媛の名字研究家として登場します。 「さまーずの神ギ問」では、現在、「京都、沖縄、愛媛という名字は実在するか」ということを調べているのですが、30日は全国の視聴者に向けて、生放送で呼びかけるという構成になっています。 谷川彰英先生をはじめ、地名・苗字研究のお歴々が名字について討議するというコーナーがあり、私は「愛媛」の成立について説明する役割を与えられました。私には『えひめ名字の秘密』という著書があり、どうやらその本によって白羽の矢が立てられたようです。 キー局の番組に出演するのは、3年ばかり前に日本テレビ「ZIP」にやきとり研究家として登場して以来になります。 明治6年2月、石鉄(せきてつ)県(石鎚山のこと)と神山(かみやま・じんざん)県(神山は八幡浜にあるが場所が特定されていない・出石山か?)が合併した際に、「愛媛」という県名がつけられました。 『古事記』の国生みの記述の四国を男神と女神のペアであるという説明の中に「伊予国は愛比売」とあります。女神につけられる「比売」を「姫」とせず「媛」にして「愛媛」というのは、「愛」との字形の相性が良いと考えられたようで、「媛」は美女を意味します。 当時、『古事記』に「愛比売」があることを知っているのは相当のインテリでした。庶民は、伊予国を「愛媛」と呼ぶなど、ほとんど知らなかったのです。 では、なぜ、京都、沖縄、愛媛という名字がないかという理由は、是非とも番組をご覧ください(私の住んでいる愛媛ではこの番組が放送されていませんが)。 名字には私たちの住んでいた地域の歴史が刻み込まれています。それは子規の「正岡」や漱石の「夏目」も同様です。 子規の父は、松山藩士・正岡常尚といい、佐伯家に生まれましたが、正岡家の養子となって十六歳で家を継ぎました。常尚の藩職は、大小姓をはじめとして、元治元(1864)年に御馬廻加番(加番とは候補の意味)を務め、以後、御馬廻格番頭支配、御馬廻番と順調に出世しています。慶応4年(1868)9月には、大坂住吉表の警戒護衛にあたりますが、廃藩置県により禄を失ってしまいました。常尚の兄は佐伯政房といい、祐筆をつとめ、和歌や俳句に親しんだ人物で、幼い頃の子規はこの政房に書道を学んでいます。 正岡家の先祖は、梅室道寒禅定門で二代目は今治の手代をつとめていた寺路久左右衛門良久。松山初代藩主・松平定行の時代に、小普請手代として松山藩に召し抱えられました。正岡の姓になるのは、三代の磯右衛門将重の代になります。 子規は『筆まかせ』「玄祖父」で次のように書いています。 余が玄祖父は正岡一甫というてお茶坊主の役をしたまいき。その道には心を委ねられし人と聞きしかば、定めて風雅なる話やしゃれたる諸道具もありしなるべきが、時代の古きと明治二年に我家の祝融にかかりしとにて、また一物をとどめず。……翁が正月礼にまわる時には必ず一枝の寒梅を袖にして「のどかな春でございます」といい給いしとか。またかつて五右衛門風呂を木炭にてわかし、その湯に入りて「薪にてわかせしとは入り心地が違う」といい給いしと。洒落の風、想ひ見るべし。 正岡家は、玉川龍岡にあった幸門城主に関係していて、伊予国豪族・越智氏の系譜となります。 夏目家は、江戸の名主でした。名主には草分名主・古町名主・平名主・門前名主に分かれますが、そのうちの草分名主であったといいます。武州豊島郡牛籠村に住んで元禄15年(1702)に名主役を仰せつけられた夏目四兵衛直情が漱石の祖先で、四兵衛直情の子の四兵衛直晴が享保10年(1725)に名主の役を継いだといいます。 『泰平御江戸鑑』をみると、夏目家は「二十番組」の名主の筆頭に立っていて、江戸第一の大きな名主といわれないかもしれませんが、相当大きく顔の売れている名主だったのです。 夏目家の近くにあった坂が「夏目坂」と呼ばれていることについて、漱石は『硝子戸の中』で、次のように記しています。 父はまだその上に自宅の前から南へ行く時に是非共登らなければならない長い坂に、自分の姓の夏目という名をつけた。不幸にしてこれは喜久井町ほど有名にならずに、ただの坂として残っている。しかしこの間、或人が来て、地図でこの辺の名前を調べたら、夏目坂というのがあったと云って話したから、ことによると父の付けた名が今でも役に立っているのかも知れない。 また、夏目家の紋について、 私の家の定紋が井桁に菊なので、それにちなんだ菊に井戸を使って、喜久井町としたという話は、父自身の口から聴いたのか、または他のものから教わったのか、何しろ今でも私の耳に残っている。父は名主がなくなってから、一時区長という役を勤めていたので、或いはそんな自由も利いたかも知れない。 と書いています。しかし、漱石のつけていた紋は、「菊菱」でした。これは「菊に井桁」に使われている十六弁の菊が、明治の初年に皇室以外の一般に用いることを禁じられたためでした。
2017.04.28
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日暮里駅前に、「HABUTAE1819」という看板のあがったモダンな建物があります。創業が文政2(1819)年といい、この「HABUTAE」から少し歩いたところに本店があるのですが、ホームページを見ると改装中だというので、行くのを断念しました。 お目当はもちろん団子で、上品な甘さの餡団子と、生醤油をつけてじっくり焼かれた焼き団子の2本にお茶がついたセットをいただきました。 羽二重団子の澤野家は、加賀前田藩江戸屋敷に出入りする植木職人で、文政2年に澤野庄五郎が掛け茶屋を開き、敷地に藤棚があったことから「藤の木茶屋」とか「藤茶屋」と呼ばれました。本店の南には根岸と谷中を結ぶ芋坂があり、芋坂団子の名も持ちます。それが「羽二重団子」といわれるようになるのは、団子のキメが細かく羽二重のような舌触りだったためで、それが屋号になりました。 正岡子規は、根岸に住んでいたので「羽二重団子」と関係が深く、文章や俳句を残しています。 芋阪も團子も月のゆかりかな(M27) 花の雲言問団子桜餅(M29) 芋阪の團子屋寐たりけふの月(M30) 芋阪に芋を賣らず團子賣る小店(M30) 芋阪の團子の起り尋ねけり(M31) 名物や月の根岸の串團子(M31) 春の日や根岸の店の赤団子(M33) 紀行文の『道灌山』には、人力車で通りかかった子規が「羽二重団子」の様子を描写しています。 芋坂団子の店あり。繁昌いつに変わらず。店の中には十人ばかり、腰かけて喰伊織。店の外には、女二人佇みて、団子のできるを待つ。根岸に琴の鳴らぬ日はありとも、この店に人の待たぬ時はあらじ。戯れに俚歌をつくる。 根岸名物芋坂団子売切申候の笹の雪 夏目漱石の『吾輩は猫である』にも「羽二重団子」が登場します。多々良三平が散歩に誘われるシーン……。 「行きましょう。上野にしますか。芋坂へ行って団子を食いましょうか。先生、明日この団子を食ったことがありますか。奥さん、いっぺん行って食ってご覧。柔らかくて安いです。酒も飲ませます」 「羽二重団子」は文人たちに愛されました。泉鏡花の『松の葉』、久保田万太郎、大槻文彦などがこの店のことを作品に登場させました。田山花袋は、『東京の近郊』で紹介するとともに、「羽二重団子」の文字を揮毫しています。 また、根岸の里も古くから文人たちに愛されました。子規が根岸に住む以前にも、饗庭篁村を中心とした「根岸派」「根岸党」と呼ばれる文人の一派があり、幸田露伴や岡倉天心、須藤南翠、森田思軒が属していました。
2017.04.20
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明治33(1900)年2月12日、子規は夏目漱石に長い手紙を出しました。熊本から送られた見事な大きさの金柑に対する礼状にかこつけ、気心の知れた漱石には怒りや愚痴、恨み言や泣き言を書き連ねた手紙を、子規は送ったのです。 今回の手紙は、「例の愚痴談だからひまな時に読んで呉れたまえ、人に見せては困る、二度読まれては困る」で始まります。このことで、本音に満ちた手紙であることが漱石はわかりました。 漱石へのお礼は、届いた金柑への驚きでした。内藤鳴雪は、金柑をひねりまわして見て「これはどうしても金柑以外のものじゃない」、叔父の藤野漸は「これは金柑じゃない」、子規は「この金柑を寒いところに植えると小さくなるのであろう」といったら皆が「まさか」といったなど、周りの人々の反応を記しています。 こうしたお礼が終わると、子規の不満が爆発しはじめます。 忙しくてたまらない。原稿を書こうとすると客が来る。昼間は来客のために仕事ができないので、夕方から書こうとすると、夕方から熱が出る。時候が良ければ徹夜してでも書くのだが、寒さで書くことができない。浣腸と繃帯取替をして頑張ろうとするが、風邪をひいて咳が出てきた。だから原稿が書けない。今回の手紙は腹が立って立ってたまらんのでも腹の立ち処がないので貴兄への手紙にこうした文句のあれこれをしたためることになった。 以下、こまごまとした近況報告が続くきますが、ようやく子規の本音が現れてきます。 『日本』は売れない、だが『ホトトギス』は売れている。『日本』新聞社長の陸羯南氏は、子規に新聞掲載記事の題材や体裁について時々いうけれど、僕に記事を書けとはいわない。『ホトトギス』を妬むこともない。子規が『ホトトギス』のために忙しくなっていることは十分知っているため………… と、子規は涙を流します。 子規は、「ホトトギス」の成功を喜びながらも、「日本」新聞の売上の悪さを心配しなければならないという立ち位置の微妙さを綴って、「何か分らんことにちょっと感じたと思うとすぐ涙が出る」と涙もろくなったことを嘆くのです。 しかし、子規は「この愚痴を真面目にうけて返事などくれては困るよ」と強がります。癖になってしまった涙もろさに「君がこれを見て『フン』といってくれればそれで十分」なのだといいます。手紙は「金柑の御礼をいおうと思うてこんな事になった。決して人に見せてくれ玉うな。若もし他人に見られては困ると思うて書留にしたのだから」で終ります。 子規は、漱石が送ってくれた金柑のほろ苦い甘さにつられ、自身の甘えを誰かに聞いてもらいたくなったのでしょう。しかし、その相手は、心を許した漱石にほぼ限られていたのでした。 「風邪が流行ると金柑が売れる」といわれるほど、金柑は風邪の妙薬とされました。漱石は子規の身体を気づかって金柑を送ったのかもしれません。金柑は、皮の部分にビタミンCやカルシウムがたくさん含まれ、動脈硬化や心筋梗塞といった生活習慣病予防や、新陳代謝の促進、冷え性の改善といった効能があります。 宮崎では大ぶりの甘い金柑が作られていて、「たまたま」という名前がつけられています。摘果をすればするほど、いじればいじるほど、金柑「たまたま」は大きくなるのだそうですwww。
2017.04.10
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道後にある松山市立子規博物館の常設展が、4月1日、リニューアルオープンしました。映像機器が導入され、「子規ゆかりの地」、「俳句をつくろう」、人形作家・森川真紀子さんの作品、「絶筆三句」コーナーに加え、愚陀仏庵コーナーが新しくなっています。 「愚陀仏庵」は、明治28年(1895)4月9日に、愛媛県尋常中学校の英語教師として松山に赴任した夏目漱石の寓居で、6月下旬から二番町と三番町をつなぐ横町にあった上野義方の離れです。現在は、コインパーキングになっていて、片隅に「夏目漱石仮寓愚陀仏庵址」という石碑が建っています。 一方、正岡子規は日清戦争取材の旅から帰国していたその年の5月17日、大連湾から日本へ向かう船上で、喀血しました。船医がいたものの手当てはなく、吐いた血を飲み込むしかなかったので、さらに病状が悪化することになりました。 翌日、下関に着いたものの、船内でコレラが発生したため、下船できません。結局、船は22日の午後に神戸の和田岬に着きました。子規は、23日に和田岬検疫所に入り、記者仲間に介抱され、釣り台に載せられて神戸病院に行きました。 喀血は止まらず、一時重体に陥って母親に電報を打つところまでいきましたが、静養の結果、6月の後半には俳句がつくれるまでに回復しています。 7月23日には須磨保養院へ移って健康を取り戻した子規は、8月20日に保養院を退院して松山へ向かいました。 子規は、8月25日、松山に帰り大原恒徳宅へ入りましたが、27日には漱石の居候となります。大家は肺病が感染するのではないかと忠告しましたが、漱石はそれを気に止めず、子規と同居しはじめます。階下の二間が子規の居室となり、主人の漱石は二階へと移りました。 愚陀仏庵で二人が暮らした52日は、互いの人生に大きな影響を及ぼし、その後の日本語にも変革をもたらしました。作家・司馬遼太郎は「子規・漱石が両輪となって、文章日本語をつくり出した」と語っています。 漱石は『正岡子規』という文で当時の様子を書いています。「僕が松山にいた時分、子規は支那から帰ってきて僕ところヘ遣って来た。自分のうちへ行くのかと思ったら自分のうちへも行かず親族のうちへも行かず、ここにいるのだという。僕が承知もしないうちに当人一人で極めている。御承知の通り、僕は上野の裏座敷を借りていたので二階と下、合わせて四間あった。上野の人がしきりに止める。正岡さんは肺病だそうだから伝染するといけないおよしなさいとしきりにいう。僕も多少気味が悪かった。けれども断わらんでもいいとかまわずにおく。僕は二階にいる、大将は下にいる。そのうち松山中の俳句を遣る門下生が集まってくる。僕が学校から帰ってみると毎日のように多勢来ている。僕は本を読むこともどうすることもできん。もっとも当時はあまり本を読む方でもなかったが、とにかく、自分の時間というものがないのだから止むを得ず俳句を作った。それから大将は昼になると蒲焼きを取り寄せて御承知の通りぴちゃぴちゃと音をさせて食う。それも相談もなく、自分で勝手に命じて勝手に食う。まだ他の御馳走も取り寄せて食ったようであったが、僕は蒲焼のことを一番よく覚えている」
2017.04.02
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明治25(1892)年7月、子規は夏目漱石とともに東京を出発して京都や大阪を巡り、子規は旅の途中で郷里・松山に帰りました。漱石が子規を訪ねたのはこの年の8月中旬で、子規の母・八重がつくった「松山ずし」が漱石に饗せられました。 たまたま正岡家に来ていた高浜虚子は、このときの様子を「時は明治二十四、五年の頃で、場所は松山の中の川に沿うた古い家の一室である。それはある年の春休みか夏休みかに子規居士が帰省していた時のことで、その席上には和服姿の居士と大学の制服の膝をキチンと折って坐った若い人と、居士の母堂と私とがあった。母堂の手によって、松山鮓とよばれているところの五目鮓がこしられてその大学生と居士と私との三人はそれを食いつつあった」「漱石氏は洋服の膝を正しく折って静座して、松山鮓の皿を取上げて一粒もこぼさぬように行儀正しくそれを食べるのであった。そうして子規居士はと見ると、和服姿にあぐらをかいてぞんざいな様子で箸をとるのであった(『漱石氏と私』)」と記しています。 あぐらをかいて、やや乱暴にふるまう子規と、きちんと正座をして食べる漱石。子規の家に来ているという気持ちもあったのでしょうが、子規と漱石の関係を垣間見せてくれます。 「松山鮓」は、いわゆるチラシ寿司ですが「散らす」のは縁起が悪いと考えられたのか、松山では混ぜるという意味の方言「もぶり」を使って「もぶり鮓」と呼ばれます。魚の臭みを少なくするために焼いた魚の骨や頭を甘い寿司酢に入れ、魚の旨さを酢に移し、酢がきつい時は、火にかけて味を和らげる。普段は使うことの少ない砂糖をたっぷりと効かすのも、もてなしのしるし。野菜を用いた具は煮含めて濃い味にし、旬の魚を乗せますが、アナゴを必ず入れるのが「松山鮓」流なのだそうです。「松山鮓」は、新鮮な魚介類が獲れる松山ならではの味わいです。 子規は、このときの漱石の来宅を思い出したのか、「われに法あり君をもてなすもぶり鮓(明治29)」と句に詠んでいます。「松山鮓」には、客をもてなす主家の心がたっぷり詰まっています。子規は、それが「ふるさとの味」だと伝えているのです。
2017.03.28
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