■ 荒川尭
とは、いったいどんな選手だったか。
荒川は早稲田実を卒業後、早稲田大に進学し2年時に東京六大学・春季リーグ戦に1番ショートで神宮デビュー。対立教大1回戦では3打席連続本塁打を放った。1試合3打席連続、3本塁打はいずれも史上初だった。このことから「長嶋二世」とも騒がれた。特にリーグ最多勝利記録をもつ法政大・山中正竹に滅法強く、初本塁打、10号、15号、18号と4本の本塁打を放った。
早稲田時代の通算成績は、リーグ通算71試合出場、268打数90安打、打率.336、19本塁打(リーグ記録4位タイ)、43打点。ベストナインに4回選出された。
また、義父・荒川博の弟子では「1番・王貞治、2番・榎本喜八、3番・荒川尭」と評された。後にヤクルト監督として荒川を見た三原脩は「打撃の確実性は、豊田泰光に似たタイプ。しかし、センスの良さは豊田と比較にならない」といい、同じくヘッドコーチの中西太は「山崎裕之と比較して、パンチ力、確実性、下半身の強さは圧倒的に荒川が上」と評した。
■それほどの逸材である、交渉権を獲得した大洋はいかなる手段を講じても獲りたい選手だった。しかし、一年間の浪人生活を送るため1970年2月に米国に渡った荒川との交渉を再開するも難航し、大洋は荒川を断念せざるを得なくなった。
そこで考えついたのが三角トレードだった。大洋が荒川をいったん獲得した上で、荒川が希望する巨人かヤクルトにトレードし、その見返り(金銭もしくは選手)を得る方法だ。かくしてヤクルトと金銭トレードの裏交渉が成立し、実行に移された。
前年のドラフト会議指名選手の交渉期限が切れる2日前、70年10月7日に大洋と荒川が正式に契約、その2日後の9日に入団を発表した。そして荒川は(ヤクルト移籍を前提に)大洋の秋季キャンプに参加して練習を続け、12月26日には予定どおりヤクルトへのトレードが発表された。
■以上が荒川をめぐる三角トレードのあらまし。だが、当然のことながら「待った!」がかかった。野球協約142条「・・・他の球団に譲渡することを条件として選手契約を締結することはできない」に抵触するものとして、1か月間出場辞退の処分が行われた。
まるで後に起きる「江川の空白の一日」と瓜二つの事件である。これについて1か月出場辞退という処分が妥当なのか、また、そもそも選手にとって「職業選択の自由」とは何か? などの議論が交わされたようだが、ボクの興味はそれよりも、前出の『ドラフト1位・・・』の、次の一文にあった。
「(三角トレードについて、三原の後日談によると)三原は、ヤクルトの監督就任にあたって、松園オーナーに第一条件として荒川の獲得をお願いした。勝負に勝つことも大切だが、荒川を一流選手に育て上げることも大きな任務だ」。どうも三角トレードには、三原の思惑もあったようだ」。
■三原とは、もちろん 三原脩
のこと。その三原は近鉄バファローズ最後の年となった70年、娘婿・中西太を介してヤクルト・松園オーナーと会い、71年からヤクルトアトムズ監督の就任を内諾していたようだ。
※このことは『三原脩と西鉄ライオンズ 魔術師』(立石泰則著、小学館刊)に詳しい。
つまり近鉄の監督をしつつ、一方で荒川獲得の裏工作にも何らかの形で関与していたとみることができる。70年という年は、三原が本気で近鉄を初優勝に導こうと意気込んで開幕した年だったはずである。にもかかわらず、他球団の裏工作にも関与していたのであれば、それはまさに「魔術師」としての面目躍如といえるかもしれないが、近鉄ファンとしては「なんだかなぁ・・・」。
■余談になるが、前出の『・・・魔術師』には、三原がヤクルト監督時代、荒川尭の起用法をめぐり松園オーナーと対立したことが書かれていた。松園がクレームをつけ、三原との決定的な対立が生まれたシーンである。それは72年のシーズン後半のできごとだった。
「松園が大クレームをつけたのは、荒川が3打数3安打の大当たりした試合で、彼の4打席目に代打を送ったことだ。看板選手が大当たりし、観客も大喜びしている試合で、なぜ代打を送ったのかというオーナーの不満である。それに対し、三原の考えは4打席連続ヒットの可能性はきわめて低いから、加点や逆転のチャンスに打席が回れば、代打を送るのは当然と言うものである。
三原一流の言い方を真似るなら、3打席連続ヒットでその選手はツキを使い果たしたので代えた、ということになろう」。
(写真)ヤクルトアトムズ監督時代の三原脩。
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