前回の続き。
え~、本日もお運びいただき、まことにありがとうございます。火事は江戸の華、乱闘は野球の華なんてぇことを申しまして・・・。本日は、昭和48年(1968年)9月18日にありました巨人対阪神の乱闘劇をお題にした噺などを・・・。
※参考:大和球士著『野球百年』(時事通信社)
■ 「おい、バッキー、危ないじゃないか。気をつけろよ」
「え、なんですか、王さん。ぼく、辻さんのサインどおりにインコースに投げただけよ」
「そうか・・・」
阪神・ バッキー
の投げたインコースの球に、巨人・ 王貞治
は思わずのけぞってしまいました。その直前の球も王の身体ぎりぎりに来ていたものですから、バットを持ったまま、つかつかとマウンド上のバッキーに歩み寄り、こんな会話になったのですね。
王はバッキーの一言に納得した様子で、本当ならば、この2人の会話で、事態は丸く収まるはずだったのです。
ところが・・・、
■王が打席に引き上げようとしたその時、三塁側から巨人のコーチやら選手やら多数がバッキーを目掛けて突進をしたのです。最初にバッキーに近づいたのは 荒川博
コーチでありました。
そしてバッキーと荒川がなぐり合ったかと見る間に阪神の選手もマウンド付近にどっと押しかけ、大乱闘劇になったのであります。
バッキーは、
「王さんがそうか判ったと言って引き上げたのに、巨人のコーチが走ってきて、ぼくのこと蹴とばしたね、ぼく、仕様がないから、こうしてパンチで防いだよ。守るためにね。32番と35番がぼくをなぐった。どうしてあんなにぼくをいじめたんだろう・・・」。
バッキーの言うコーチとは、もちろん荒川コーチであります。そして32番、35番とはいったい誰? そうお思いの方に補足説明いたしましょう。32番は滝、35番は千田(せんだ)でございました。
そして、荒川コーチの話。
「・・・いきなり千田が走ったので、これはいかん、止めようとしたらバッキーがぼくになぐりかかった、だから足でパンチを防ごうとした」。
バッキーは”いじめられた”と訴え、荒川は”守りのキック”を用いたと言い、どちらも正当防衛を主張したのであります。喧嘩とはだいたいそういうものでございましょうか。結局、三方一両損、いえいえ、両者同様に成敗されて退場を命じられたのでございます。
■そして、この乱闘劇には続編がありました。二つ目の噺でございます。
荒川コーチにパンチを浴びせて右手を負傷したバッキーに代わり、マウンドに上がっのは 権藤正利
でした。この権藤がいけなかった・・・。いきなり王の後頭部に死球をぶつけたのです。王は倒れ、両足をくの字に曲げ、頭を両手で抱えて起き上がれない状態になってしまったのです。
かくして第2Rのゴングが鳴りました。再び、巨人の選手たちがマウンドに駆け寄り、阪神の選手たちもこれに応じて、再びもみあいになったのです。ところが、この第2ラウンド終了のゴングを鳴らしたのは、意外や意外、ほかならぬ巨人・川上哲治監督だったのです。「権藤がビンボールを投げるはずがない」とおっしゃり、乱闘に飛び出した選手を呼び戻したのです。他球団の、しかも川上に信頼されるほどですから、権藤は素晴らしい人であったに違いありません。
■ところが、ところがです。この素晴らしき人格者、権藤にも腹に据えかねたことがありました。これが三つ目、最後の噺でございます。
バッキー・荒川退場事件から5年後の昭和48年(1973年)、権藤は、当時の阪神・金田正泰監督の言った一言に無性に腹が立ったのです。それは、権藤の容貌について「サルでもタバコを吸うのか?」と発言したことでした。まぁ、怒るのもやむなしと思うのは私だけでしょうか。
そして、権藤は自らの引退を決意した後、11月23日阪神のファン感謝デー終了後に事件が起きました。イベント後に権藤は監督室に金田を訪ね、発言に対しての謝罪を求めたのですが受け入れられなかったため、ついに金田を殴打したのです。
その代償は大きいものでした。リーグからは厳重戒告処分、球団から謹慎処分が下されました。しかし、権藤はすでに引退を決意していたため、12月12日に球団から自由契約を通告されてそのまま退団し、実働20年の連盟表彰を自ら放棄したのでございました。
■実は、これには裏話がございます。権藤が監督室に赴く際、その子分として同行したのは、なんと江夏豊でありました。事前に「監督にはもう我慢できない」と打ち明けられていた江夏は「後輩として手助けをやります」と返答した経緯があったようです。
そして権藤が入室後、江夏は監督室のドアの外に立ち、ほどなくして殴られた金田の悲鳴を聞きました。なぜ江夏は外に立っていたか。それは、人が来てドアをこじ開けようとしても絶対に開けまい、そこで踏ん張っていたのでありました。しばらくして、中を覗いた江夏が「権藤さん、納得した?」と尋ねると権藤は「うん」と答え、二人は一緒にその場を立ち去ったのであります。
最後は、各種表彰などクソ喰らえで、監督に立ち向かった「男」権藤正利の武勇伝でございました・・・。
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