本題に入る前に、まずは新年のご挨拶を申し上げます。お蔭様で昨年末に当ブログの総アクセス数が230万件を突破することができました。今年も不定期ながらコツコツ更新を続けて参りますので、何卒変わらぬご支援の程、宜しくお願い申し上げます。
■さて、半年ぶりに【大和球士著『野球百年』(時事通信社)を後ろから読む】企画を再開し、このブログも新年をスタートさせたいと思います。従い、時計の針を1962年(昭和37年)に戻すことにします。
この年、 内村祐之 氏がプロ野球コミッショナーに就任しました。氏は後半生をキリスト教の伝道に捧げ、『求安録』などの著書もある内村鑑三のご子息ですが、父の反対を退けて野球生活を貫徹し、一高(現・東京大)野球部のエースかつ主軸を打つバッターでもありました。のちに東大医学部を卒業、東大医学部長になり、現代精神医学の泰斗としても知られています。
大和球士さんは内村氏のプロフィールをいつものように淡々と記すのですが、途中でふと疑問をもちます。内村氏ははたして3代目のコミッショナーなのか、いや4代目なのか? と。それは正力松太郎を初代とするか、福井盛太を初代とするかで変わります。もし正力ならば内村氏は4代目、福井ならば3代目。その理由は、本来初代であるはずの正力がコミッショナーに就任した後、米国進駐軍の指示により、慌ただしく解任された経緯があったから。
そのため正力を初代と認めないと見るムキもありますが、いったん筆を止めた大和さんは、暫し黙考した後、こう断言します。
「丸の内の工業クラブで、進駐軍のマッカート少将、八球団代表、選手代表若林忠志らが出席して、正式のコミッショナー認証式が行われた記録が残っている以上、正力を初代コミッショナーと認めるのが妥当であろう」
と。
即ち、初代は昭和24年に就任した正力、2代目が26年に就任した福井、3代目が31年に就任した井上登であり、そして4代目が内村ーーー。
■まぁ、プロ野球コミッショナーなんつうものは、所詮「飾り」みたいなもの、別に何代目だって構わないじゃないか!という声が聞こえてきそうですが、上記の正力vs.GHQの経緯については書籍『鈴木龍二回顧録』(ベースボール・マガジン社)に詳しいので、次回もう少しだけ書きたいと思います。
(写真)4代目のプロ野球コミッショナーに就任した内村祐之氏。~『激動の昭和スポーツ史』(ベースボール・マガジン社)より
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