1960年の大統領選挙には、共和党のニクソン副大統領と民主党のジョン・フィッツジェラルド・ケネディ上院議員が立候補した。ケネディは労働組合とマフィアの癒着を追及したマクレラン委員会での活躍があったとはいえ、知名度でニクソンに及ばなかった。しかしこの選挙で初めて導入された候補者同士のテレビ討論でケネディは逆転し、薄氷の勝利を収めた。当時ケネディは43歳、史上最年少での当選であり、また35代目にして初のカトリック(アイルランド系)の大統領でもある。その選挙運動で彼は「ニューフロンティア精神」を掲げた。10年以内に人類を月面に送るという彼の決意はその一つとされた。 就任早々の翌年4月、ケネディは大失敗を犯す。キューバのカストロ政権打倒を目指したCIA(米中央情報局)の指導を受けた亡命キューバ人による上陸作戦が行われ、大失敗に終わる(ピッグス湾事件)。さらに同年夏には分裂した東西ドイツ問題をめぐって米ソが対立、ソ連の指示を受けた東ドイツは8月13日に「ベルリンの壁」を建設して西ベルリンを包囲し、また自国民の西側逃亡を防ごうとした。この緊張を受けてケネディは予備役兵15万の動員と防衛費30億ドル増額を決定する。のち1963年6月に西ベルリンを訪問したケネディは「現在、自由世界において最も誇らしく言うことが出来る言葉、それは『私はベルリン市民である(Ich bin ein Berliner)』」と演説して自由世界防衛の意志を闡明し、西ドイツ国民を感激させた。 翌1962年に事態はさらに先鋭化する。10月、米軍偵察機によりキューバに建設中のソ連の核ミサイル基地が発見された。アメリカはキューバを海上封鎖し、戦争の危機となった。すんでの所でケネディはフルシチョフにミサイル基地の撤去を申し入れ、キューバへの攻撃回避、トルコからの米軍ミサイル引き揚げと交換にソ連はキューバのミサイル基地建設を中止し、危機は辛うじて回避された。 アジア・アフリカ諸国が次々と独立する中1961年に非同盟諸国会議が開かれ、米ソも注意を払う必要が生じていたが、このキューバ危機を機に米ソは対話に転じ、翌年8月には部分的核実験禁止条約が締結された(核兵器保持を目指すフランスと中国は不参加)。しかしフルシチョフは弱腰を理由に1964年に失脚させられる。 1954年の最高裁判決にも関わらず南部では依然として黒人に対する差別的制度が残っていたため、ケネディ政権下でも黒人の公民権運動は盛り上がりを見せ、1963年には20万人が参加してワシントンで大規模なデモが行われた。ケネディは人種差別政策を続けるアラバマやアーカンソーの州知事と対決姿勢を見せ、また1963年6月には新しい公民権法案を提出している。 キューバ危機は回避したものの、東南アジア情勢は緊迫の度を増していた。旧宗主国フランスが敗退した1954年にヴェトナムは南北に分裂して独立を勝ち取ったが、親米の南ヴェトナムは民心を得られず、統一を目指す北ヴェトナムの支援を受けた共産ゲリラ(ヴェトコン)によるテロ攻撃が頻発していた。アメリカは南ヴェトナムに1万6千人の軍事顧問団を派遣し軍事援助を行った。1963年11月にはアメリカの意を受けた軍部によるクーデターが起きゴ・ディン・ディエム政権が倒れたが、事態は好転しなかった。ケネディはヴェトナムからの米軍早期撤退を計画していたという。 1963年11月22日、遊説のためテキサス州ダラスを訪問していたケネディは、オープンカーに乗っているところを狙撃され死亡した。即日副大統領のリンドン・ジョンソンが昇格して第36代大統領に就任した。この暗殺の背景には未だに不審な点が多く全容解明には程遠いが、少なくともこの暗殺によって「ケネディ伝説」が始まり、またヴェトナム戦争や公民権運動の激化によってアメリカ社会が騒然とし、暗転していく契機となった。「黄金時代」の終末であった。