第7官界彷徨

第7官界彷徨

源氏物語ー夕霧、御法


 心の中ではこのままでは済まされようもないと思い、時が経てば余計に思いが募るのでした。
 落葉の宮の母君の御息所も、世にも珍しいご親切なお心遣いであることと、いよいよもの寂しい所在ないお暮らしに、夕霧が絶えず訪問なさるので、お気持ちが慰められることも多いのでした。
 初めから色めいたことを申し上げることもなかったのですが、急に打って変わって色めいた振る舞いをするのも気恥ずかしく、夕霧はただ、自分の深い気持ちをお見せしておけば、自分に打ち解けて下さる時もないことはないでしょうと、思いながら、何かの用事にかこつけて、落葉の宮のご様子や態度に気を配っておいでなのでした。
 落葉の宮は、ご自分でお相手をなさるようなことは全くないのでした。夕霧は何かの良いおりがあれば、自分の気持ちもはっきりと申し上げて、宮のご様子を見よう、とお思いでしたが、あるとき、御息所が、もののけによる病気でたいそうおお苦しみになって、比叡山の麓の小野のあたりの別邸にお移りになられました。

 以前から山ごもりして修行中のご祈祷の師僧が、人里に下りない誓願をたてておいでなのを、近くに来て下山して頂きなさるためなのでした。
 お乗りになる車からそれに仕える者たちなどを、夕霧はお差し向けなさいましたが、かえって本来の亡き柏木との関わりから、親しいはずの弟君たちは、仕事に忙しいめいめいの暮らしにかまけて、お思い出し申し上げるゆとりもお持ちでないのでした。
 柏木のすぐ下の弟、弁の君は落葉の宮に下心がないわけでもなく、そのような素振りを匂わせになりましたが、もってのほかのすげないおあしらいをなさったので、無理にお尋ねすることもなくなってしまっています。
 この夕霧は、たいそう上手に立ち回り、さりげないおつきあいをして親しくなられたようです。


2006/12/
「夕霧の巻です。
 親友柏木の死後、残された女二の宮を訪れた夕霧は、地味な彼女に惹かれていきます。まだ会ってもいなくて、間に入った一条の御息所(二の宮・落葉の宮の母)との間に歌を読み交わしていたりしています。

 今日は、一条の御息所が生き霊よけのために小野のあたり(比叡山の下のあたり)の別荘に行っているところを訪れた夕霧が、やっと落葉の宮の衣擦れの音を聞いて「こんなふうな人なんだ~」と想像して嬉しくなるところ。
 このあたりは、夕霧の性格があらわれていて、面白いが難しい場面だとか。

 柏木が死んで足かけ三年、落葉の宮の所に通っているのに、全然話が進展しなくて、夕霧が
「積もりはべりぬる心ざしをも知ろしめされぬは、本意なきここちなむ」と泣き言を言うと、
「げに」と人々も聞こゆ。」(落葉の宮のおつきの女房達も、ほんとですねえ、と相づちをうってくれたようです)

 これから、まじめな夕霧は落葉の宮と結ばれて、いとこで本妻の雲居雁と半分ずつ几帳面に行ったり来たりしながら、しあわせな人生を送るらしい。


2007/5/10
=紫は唯物論の色と知り=
今日は源氏の日でした。会費のノートをつけていて日付を見たら、1回目は1993年、平成5年の4月です。長い時間をかけて、夕霧まで来ました。

 今日は居眠りをした記憶がないのですが、気分的には昼寝をしたあとのような気分、もしかしていつもの条件反射で爆睡してた・・・かも。

 そこで復習です。
 源氏の本妻、女3の宮と不義をした柏木は、罪の意識をかかえたまま亡くなります。残された柏木の妻、落葉の宮(女3の宮の姉・2の宮)に、柏木の親友で、源氏と葵の上の息子の夕霧が惹かれていきます。

 今日は、落ち葉の宮の母御息所からの文を、夕霧の妻、雲居の雁(柏木の妹)がとりあげて隠してしまうところ。

『誰も誰も御台参りなどして、のどかになりぬる昼つかた、思ひわずらひて「昨夜の御文は何事かありし。あやしう見せたまはで。今日もとぶらひに聞こゆべし。なやましうて、六条にもえ参るまじければ、文をこそはたてまつらめ。何事かありけむ」とのたまふが、いとさりげなければ、文は、をこがましう取りてけりと、すさまじうて、そのことをばかけたまはず・・・』

 どなたもお食事など済ませたりなさって(子どもがいっぱいいる)やっと静かになった昼ごろ、困ってしまった夕霧は(文を隠した妻の雲居の雁に聞きます。)
 「昨夜の文はどんな内容でしたか。あなたは見せてくださらなくて。今日もお見舞い申さねばなりません。(夕霧は文を六条の花散里(母代わり)から来たとうそをついた)気分がすぐれなくて、六条の院に参上できそうもありませんので、手紙を差し上げることにしよう。どんな御用事だったのだろう」とおっしゃるが、その言い方が何気ない言い方なので、雲居の雁は手紙を取ったりしたのは、ほんとに馬鹿な真似をしたものだと、気持ちがそがれて、しかし、手紙のことは口になさらないで・・・。

 と、細かい描写がえんえんと続きます。結局手紙は夕霧の座布団の下に隠してありました。紫式部は本当にリアルな文章を書くリアリストのきっと唯物論者だと思います。源氏物語を原文で読む会を14年もやってきて、1000年も前の唯物論者の存在を理解した次第です。



 夕霧と娘の落ち葉の宮の恋の行方に心を痛めながら、御息所が亡くなってしまったあとのことです。

 御息所の急逝を聞いて、夕霧は落葉の宮の所を訪ねますが、落葉の宮は落胆のあまりほとんど病人状態。夕霧は近くの自分の荘園の人たちに手伝わせて、大勢で葬儀をとり行わせました。
 しかし、落葉の宮は嘆き悲しむばかり

「名残だになくあさましきことと、宮は臥しまろびたまへどかひなし。」
 火葬されてしまって、母君の跡形もなくなられて、何と悲しいことかと、宮は身をもんで涙に沈まれるが、仕方がありません。

 そこで、作者紫式部のコメントがつきます。
「親と聞こゆとも、いとかくはならはすまじきものなりけり」
 親と申し上げる間柄でも、ほんとにこんなに悲しまれるほど、日頃から仲むつまじくしてはいけないことなのでした。
 と。

 あくまでクールな紫式部でした。
 落葉の宮は母屋をさけ、しつらいも質素にして30日間の忌みのおこもりに入ります。
 今日は3ページしか進みませんでした。







=夕霧と落葉の宮の草葉露=
 夫柏木が、女三の宮と不義をおかし、失意のうちに死んでしまったあと、残された落葉の宮に対して恋心を抱くようになった源氏の息子、まじめ男の夕霧。彼には柏木の妹、いとこ同士、相思相愛で結ばれた雲居の雁という妻がいます。

 季節が変わっても、母を失った落葉の宮の悲嘆は変わらず、夕霧はあまりに悲嘆が長く続くので、聞き分けもない子どものようだ、とうらめしく思っています。

 落葉の宮は、母が亡くなったのは、夕霧のせいだと思い詰め、心を開きません。彼女は尋常ではないマザコンだったのです。

 夕霧は、自分や雲居の雁の祖母の大宮が亡くなったとき、みんなたんたんと事を済ませたのにと、思い出したりしています。
 雲居の雁は、心を痛め、二人の間の男の子にありあわせの紙に書いた手紙をもたせたりします。夫婦喧嘩の子はかすがい!ですね。

 それをはぐらかして、夕霧は思い立って落葉の宮の籠もっているさびしい小野の地(比叡山の下のほう)を訪ねます。紫式部の文章は、夕霧の勇んだこころを説明します。
『今はこの御なき名の、何かはあながちにもつつまむ。ただ世づきて、つひの思ひかなふべきにこそは、とおぼし立ちにけり。』
『九月一余日、野山のけしきは深く見知らぬ人だにただにやはおぼゆる。山風に堪えぬ木々の梢も、峰の葛葉も、心あわたたしうあらそひ散るまぎれに、尊き読経の声かすかに人のけはひいと少なう、木枯らしの吹き払ひたるに、鹿はただまがきのもとにたたずみつつ、山田の引板(鳴子)にもおどろかず、色濃き稲どものなかにまじりてうち鳴くも、愁え顔なり。』

 この鹿は、夕霧のことでもあるんですね。このあと、みんな枯れてしまった中で、リンドウだけが「われひとりのみ心長うはひ出て」とあり、枕草子の「草の花は」にもにた記述があるそうです。

 昨日はこの辺まででした。なかなか進みません。



=夕霧はりちぎもんです子沢山=
夕霧と雲居雁の間には、4人の若君と3人の姫君が生まれています。子ども達がにぎやかなアットホームな家庭で、夕霧は落葉の宮の静かなたたずまいに惹かれてしまうんですね。
 そしてまた夕霧には、源氏の乳母兄弟?であり遊び友達、めのと子の惟光の娘の藤典侍との間にも、2人の若君と3人の姫君をもうけています。その大君は後に東宮妃になります。

 イロハかるたに「りちぎものの子沢山」というのがありますが、夕霧はまさにそう?
 でも、落葉の宮との間には子どもはできません。

 昨日は5ページほど進みました。

 夕霧が小野の里をたずね、落葉の宮のおつきの少将の君をかきくどく様子が事細かに書かれています。少将の君は、困ってしまってお返事も出来ません。

 夕霧は歌を詠みます。
人里も遠いので、この小野の篠原を踏み分けてきて、私もあの鹿のように泣いています

 少将が答えます。
喪服も涙でしめりがちな私たちは、鹿の鳴く音に声を添えて泣きくらしております

 夕霧は少将を通じてなんとか宮に対面したいのに、会ってもらえず、空しく帰るその途中で、落葉の宮の本邸に寄ります。
 そして柏木が庭の池で音楽の催しなどをしたのを思い出します。

見し人のかげすみ果てぬ池水に
ひとり宿守る秋の夜の月

 そして雲居の雁のいる自分の屋敷に帰ってきても

 「月を見つつ、心はそらにあくがれたまへり」の様子なので、女房たちは
「さも、見苦しう、あらざりし御癖かな」と、
 みんなで憎らしがったのでした・・・

 ここまでで、夏休みです。
 少将もそうですが、どこのお屋敷でも、気の利いた女房が仕切っていて、姫たちのかわりに歌を詠んだり、殿方との間を取り持っていたりしていますね。
 平安のキャリアウーマンですね。




=夕霧を思う源氏の昨日今日=
 さて、今日は、源氏のいる六条の院に用事があってでかけた夕霧に、源氏がその気持ちを探ります。
「朱雀院の姫のうちで、女三の宮の次に院がかわいがっておいでだったのだから、人柄もいいんだろうね」と源氏が聞けば、夕霧は
「お人柄はどんな方か存じません」とそっけなく話をそらします。

 落葉の宮の母御息所の四九日の法要も、夕霧は万端取り仕切って行うので、夕霧の行いは人々に知れ渡ってしまいます。

 当の落葉の宮は夕霧の妻になる気は全然無く、出家したいと願っていますが、それを聞いて父の朱雀院が心配して、自分も、女三の宮も出家して、落葉の宮まで出家して尼の姿に身をやつしたら、外聞が悪い。
 夕霧にもてあそばれた挙げ句に夕霧が煮え切らないので出家したと世間は取りざたするのではないか。この世のしあわせも来世の往生もかなわぬことになるだろうから、もうすこし冷静になってから出家は考えて欲しい、とご意見なさったのです。
(娘を持つ父は大変ですね)

 夕霧は、落葉の宮がはっきりしないので、亡くなった母御息所が承知したと世間に言ってしまおうと決意。落葉の宮が小野から一条の屋敷にお帰りになる日を決めて、しかも、その日は結婚の日と自分だけで決めて吉日を選び、婚儀の支度や屏風、や家具などに気を配っていろいろなものを持って準備万端・・・

 というところで今日はおしまいでした。
 夕霧って真面目男なんですが、このまめまめしさ!しかも律儀もんの子だくさんで、雲居雁との間に七人の子ども。惟光(源氏の乳母子)の娘の藤典侍との間に五人の子どもをもうけています。
 次回は落葉の宮が泣く泣く帰京するところです。






=千年の後は自立のおんな宮=
 今日の先生のお話は「広辞苑」改訂のお話。若者言葉も入れて、10000語が増えるとのことで、あまり辞書を引く事はなくなったが、先生も購入なさるそうです。私も買うと思います。
 若者言葉を取り入れることには、反対だとは言っていらっしゃいました。また、意外と皆さんが知らない言葉に、俳句の季語がある、という例として、朝日俳壇に載った
「穴まどい振り向きし妻の泣きぼくろ」
 というのをあげられ、「穴まどい」とは、寒くなったので、蛇が冬眠しようかしまいかと、迷っていることなんだそうです。
 変な季語だな~と蛇嫌いな私は敬遠です。

 今日の源氏は、夕霧が、落葉の宮の一条のお屋敷を、勝手に整えて(小野の別邸で泣いている)落葉の宮を迎えるところでした。

 帰京の当日、落葉の宮は夕霧との結婚は嫌なのでこのまま死んでしまいたい、と思っていると、亡き母の兄の大和の守が、「自分は任地へ行かなくてはならないし、宮一人ではどうにもならないだろう、夕霧との再婚は必ずしも望ましい事ではないけれど、皇女の再婚の例は今までにもあるのだから、自分の身の振り方を考えれば、夕霧の妻になるしかないだろう」と(敬語ばっちりながら)なだめすかし、女房たちも、落葉の宮が出家しないように、はさみなどを隠してしまいました。

 今までの喪服から、婚礼のあざやかな着物に着替えさせられて、宮は「この世に未練などないのだから、何を子供のように髪を下ろしたりはしない、むしろ死にたいくらいなのだから」と思っています。

 女房たちは急いで、荷造りなどもその辺の袋に入れるくらいに適当にして(この辺描写が細かい)運んでしまったので、落葉の宮は一人だけそこに残っているわけにもいかず、泣き泣き車に乗ります。いつも隣にいた母御息所の席が、空席なので、病気で苦しい中にも宮の髪を撫でてくれたことを思い出してまた涙。
(落葉の宮はマザコンなんです)

 母の一条の屋敷に行きますと、夕霧がすっかり手配して人手がたくさんあり、にぎやか。元とはすっかり様子が変わっているので、宮はうとましく不愉快な感じがして、車から降りないので、女房たちは「なんと子供っぽいお振る舞い』とはらはらとして見守っています。
 夕霧はもう、自分のコーナーまで作ってすっかり主人気取りです。

 本宅の三条のお屋敷では、すっかりあきれています。
[「いつのほどにありしことぞ」と驚きけり。
 なよらかにをかしばめることを、好ましからずおぼす人は、かくゆくりかなることぞうちまじりたまうける。]
 (色めいた艶っぽいことを苦手とする、夕霧のような人は、こうした突拍子もない振る舞いに、時として及ばれるものなのだ。)

 ☆今回は特に紫式部の人物描写の筆が冴えているところ。
 最後のところなど、この観察のリアルさは、古典にはないもので、明治以降になってようやく出現するものなのだ、そうです。
 夕霧はまめ男、まじめ男でいいやつなんだけど、落葉の宮にとっては特に好きでもないタイプなんですね。落葉の宮は平安王朝のガーリッシュ、自分が一番、大事なのは自分だけ、なのかも知れません。
 それでも、生きていくにはそれなりの財力のある男の後ろ盾がなければ、というジレンマのさなかのようです。1000年経って、姫君たちは自立できたかな?





=塗籠は落葉の宮のバリケード=
 今日は源氏の日でした。好きな源氏の姫君は?と聞かれれば、迷わず「玉鬘」と答えた私でしたが、なんか地味な落葉の宮が一番好きなような気がします。彼女こそ、誰よりも「ガーリッシュ」ですね。
 この前は、小野の別邸から都に帰りたくなかったのですが、荷物もみんな運び出され、一人で残っているわけにもいかず、渋々車に乗って帰った都の我が家は、すでに夕霧が整えてあって家来もいっぱいいて、我が家のような気がしなくて、車から降りるのをシブって「なんとまあ子どもっぽい」などとおつきの女房にたしなめられる始末。

 今日は、
 食事が済んで夕霧がやってきておつきの女房少将の君にせっつきます。少将は「姫は母を亡くした悲しみのあまり、死人のように横たわっておいでなので、母上のように亡くなってしまわれるのではないかと心配です。」などと弁解。

 そんなに言われても夕霧は見当をつけて宮のところに押し入ります。宮はこう思うのです。
「情けない人々の心根だこと。子どもっぽい振る舞いだと思われてもままよ!」
 そう思って塗籠(ぬりごめ)(納戸みたいなところ)に茵を敷かせて、内側から鍵をかけて寝てしまいます。そして心の中では
(こんなことをしていても、いつまで身を守れるというのだろう)

 夕霧は、心外なひどい仕打ちだとは思うけれど、こうなっては相手も逃れようのないことだからと思い「足引きの山鳥の尾のしだり尾の長々し夜をひとりかも寝む」の心地でいるうちに明け方になってしまった。
 帰ろうとして「ほんの少しの隙間でも開けてください」といってもつれなくて返事もない。
そこで
*怨みわび胸あきがたき冬の夜にまた鎖しまさる関の岩門
 という歌をよんで泣く泣く帰って行きました。

 六条の院に帰って、夕霧は母がわりの花散里のところに行ってくつろぎながら、胸の内をかたりつつ弁解もします。
 雲居雁という妻がありながら、亡き柏木の未亡人との恋愛沙汰について、亡き御息所から落葉の宮の行く末を頼まれたことや、源氏にこの話が聞こえて、「面白からぬ料簡を起こしたと小言を頂戴するかもしれないが、こういう女性問題については、人の意見にも自分の心にもおとなしく従えないということがわかりました。」
 と、そっと花散里に申し上げたのです。

 本日はここまででした。塗籠(部屋)に入って鍵をかけてしまう、落葉の宮ってかわいいですね。何しろ彼女が一番大事なのは他ならぬ自分!これがガーリッシュとしての基本の心得です。

=いづちいづち雲居雁の乱れ恋=
 今日は源氏の日でした。落葉の宮のもとから3条に帰った夕霧は、母親代わりの花散里のもとに行きます。

花散里は言います。
「世間のあらぬ噂かと思っていましたが、本当にそういうことでいらっしゃったんですね。三条の姫君はどんなにお嘆きか、おいたわしいことです。」と申し上げると、夕霧は
「姫君などとかわいらしげにお呼びになるものですね。まるで鬼のようですよ」と言います。

 そして2人で、事を荒立てないのが、妻としてのあるべき態度でしょう、などと話して、源氏にも会い、日が高くなってから、三条のお屋敷に帰りました。

 子ども達がかわいらしくまとわりついて甘えている中で、雲居雁は、着物をかぶって打ち伏しています。
 夕霧は雲居雁のかぶっている着物を引きはがすと、雲居雁が
「ここをどこだと思っているのですか?お門違いでしょう?まろはとっくに死んでしまいました。いっそ鬼になってしまおうと思います。」
 と言うと、 夕霧は
「お気持ちは鬼よりももっとおそろしいお方だが、姿は憎らしげもないから、嫌いにはなれそうもない」と平気でいうので、雲居雁は怒って
「どうぞもう、お見限りあそばせ。今日のようにたまに訪ねてくるようなこともしてほしくない。むだに長い年月をつれそったのも悔やまれます」
 と、起き上がりなさった様子は、大変かわいらしく、つやつやとしている。

 怒った雲居雁の言葉はリズミカルです。
「何事言うぞ。おいらかに死にたまひね。まろも死なむ。見れば憎し。聞けば愛嬌なし。見捨てて死なむはうしろめたし」と言います。

 その姿はいかにも愛くるしい様子が増すばかりで、夕霧はこみあげるように笑ってしまいます。

 そして、雲居雁は大変無邪気で素直なかわいげのある心根をお持ちなので、自然に機嫌を直しているのを、いとしい人だとは思うものの、夕霧は、心は落葉の宮のことばかり。

 万が一、どうしても自分と一緒にるのが嫌だと言って、尼にでもなられたらどうしよう!と、夕方には気もそぞろ、ここ当分、途絶えなく通わねば!と、決意するのでした。

 今日はこんなところでした。それにしても、描写の細かさに驚きます。1000年前の夫婦喧嘩が、いきいきと甦る感じです。




 先生が言われるには、夕霧の巻は紫式部があぶらののりきった時に書いたもので、抽象的な部分も多いし、複雑な心理描写もある。今の私たちとは違った面で、果たして平安時代の多くの読者が理解できていただろうか?という疑問がある。
 もしかして、よくわからないで、読んだり聞いたり、していたのではないか?とのことです。よくわからないけど、流行ものだからって聞いている女官たちの存在っていうのも、なんだか親近感が湧きますね。

 今日は雲居雁と夕霧との夫婦げんか。お互いけんかをしても男4人、女3人の7人の子持ち。夕霧は
「こうやってお憎みになっても、見捨てられない子ども達が面倒を見きれないほど大勢いるのだから、出て行くわけにもいかないでしょう。」というし、雲居雁も
「世にまたとないほど仲の良かった昔」のことを思って、やっぱり深い因縁に結ばれているんだわ、と思い直したりします。

 でも、夕霧がしわしわになった衣装を脱いで、新調した見事な衣装に香を薫きしめ、出かける用意を始めると、脱ぎ捨てた肌着を引き寄せて
「これを裁って尼の着物にしようかしら、出家したいわ」と、歌を詠みます。
 それを聞いていた夕霧は
「いくら長年連れ添って飽きたからと言って、私を見限ったという評判を立ててもいいものでしょうか」という歌を詠みます。
 これに、作者が出て来て独り言
「お出かけ間際で、気のないお歌だこと!」がつきます。

 落葉の宮は、まだ塗籠から出て来ません。夕霧は世にも珍しい仕打ちだと、情けない思いで、女房の少将の君に、なんとかしてほしいと、頼み込みます。

 という所で、あとは来年です。

 さて、12月23日は蕪村忌だそうです。東京新聞の夕刊に俳人の真鍋呉夫氏が、「蕪村忌を前に」という文を寄せていらっしゃいました。
 蕪村と芭蕉。芭蕉の作風は求心的、蕪村の作風は遠心的といってもいいがーーとして
「にもかかわらず、蕪村はいったい如何にして、わが国の俳諧史上における突然変異とでもいうべき、あの清新多彩な句境を展開することができたのか。その最大の契機が、芭蕉のいわゆる「此一筋」の本義をみずから簡潔に敷衍(ふえん)した原理「古人の跡を求めず、古人の求めたるところを求めよ」をそのまま方法化した、本質的な意味での「本歌(句)どり」であったことは、次の1例を紹介しておくだけで十分であろう。
*さびしさや華のあたりのあすならふ    芭蕉
*さびしさに花咲きぬめり山櫻       蕪村」

☆よく理解できませんが、芭蕉の精神を追い求める蕪村が見えて来そうです。
 そして、真鍋氏は、全国に芭蕉の句碑は3151基もあり、
「これはもはや単なる民族問題ではない。すでに文化問題であり、思想問題である。なぜなら、独裁的あるいは宗教的な偶像化と似て非なるこの事実は、鎌倉幕府の創建以来「権力対権力」という力ずくの図式から超出してきたわが国の生民の、ほとんど本能的とでもいうべき当為にほかならないからである。

 ただし、この当為を貫いている「此一筋」は、まだわが国の社会の地下(じげ)を潜流している。もし、これが社会の表面に現れて生民の共通感覚になれば、かつて寺田寅彦が書いたとおり、わが国の平和は半永久的に保証されるであろう。」

☆と書いてありました。芭蕉って、俳人というよりもっとすごい人だったんですね。
 そして真鍋氏の友人たちは、芭蕉忌は伊賀上野をはじめ各地で頻繁に行われてきたが、蕪村忌はなかった。というわけで、蕪村がしばしば大祇などと一座した島原の角屋(すみや)で蕪村忌をやろうじゃないかと計画。実現したのが1昨年で、今回は3回目だそうで、真鍋氏も体調を整え、参加を楽しみにしていらっしゃるそうです。

父天門は吉岡禅寺洞の俳友なりき
*蕪村忌へ父の形見の杖を突き    呉夫


=うちつけは落葉の宮の家司など=
 今日は源氏の日でした。落葉の宮に夕霧という立派な後ろだてがついたので、今までいい加減だった家司(けいし)(庶務の事務官)なんかまでが、仕事にはげむようになったという、1000年前の人の心。

 あらすじはこんなふうです。
 もう仕方ないので、落葉の宮はバリケードから出て、居間に戻りました。母の喪中なのだが、新婚でもあるので、それを目立たないように屏風などに気を配っているのだが、それは皆おじさんの大和の守の手配です。
 大和の守はなんだかんだといっても落葉の宮のしあわせを願っているのです。
 女房たちの着るものも
「山吹、掻練(かいねり、紅色のかさね)、濃き衣(濃い紫)、青鈍(あおにび)など」薄紫の裳、青朽葉(赤みがかった黄色)など、いろいろ着替えさせました。
 大和の守は、数少ない下男たちもきちんとさせ、こんな思いがけない身分の高いお方(夕霧)がお通いになるようになったと聞いて、以前はなまけていた家司など、手のひらをかえすように、仕事に励むのでした。

 いっぽう、夕霧の妻の雲居の雁は、怒って実家にかえってしまいました。そこには、姉の冷泉院の女御が里帰りをしていたので、家に帰る気も起きないでいます。

 夕霧は腹を立て、こう思います。
「さればよ、いと急にものしたまふ本性なり。
 いとひききりにはなやいたまへる人々にて、めざまじ、見じ、聞かじなど、ひがひがしきことども、、、」(紫式部の筆ははずんでいますね!)
 (気短かな性質のお人だ。すぐ思い切ったことをする派手なご性分の父娘だから、(自分のことを)けしからん、顔も見たくない、話も聞きたくない、など、離婚問題に発展しかねない)

 三条の院には、雲居の雁の残して行ったこどもたちが、不安がって夕霧にまつわりつくので、夕霧は雲居の雁を迎えに行きますが、雲居の雁は連れて行ったこどもたちを乳母に預けて、姉の部屋に行ったままです。
 夕霧は「こどもたちをほったらかして、娘時代のように姉の寝殿で遊んでいるなんて」と、ふんまんやるかたない様子です。

 夕霧が、子ども達のことを「くだくだしき人」(手のかかる子ども達)と言えば、雲居の雁は「あやしき人々」(自分の産んだこどもたちは(見苦しいこどもたち)と売り言葉に買い言葉の応酬があって、1000年前の夫婦げんかがリアルに展開してるところです。



「夕霧」最後の章
=雲居雁なまけやけしとはみたまへど=
 さて、お題の雲居雁のことですが、ご機嫌斜めな落葉の宮に気もそぞろな夕霧に、心を痛めている妻の雲居雁。その彼女に、源氏の乳母子、惟光の娘で、昔、雲居雁との中を裂かれていた夕霧が愛人にしていた典侍(ないしのすけ)(夕霧の子を、5人ほど生んでいます)が、雲居雁に歌を詠みます。
*私が人の数にでも入る女でしたら、わが身のこととして思い知られるでもありましょう、夫婦仲のつらさでしょう。今はあなたさまのために涙で袖を濡らしております。

これを読んで雲居雁は思うんです。
なまけやけし!
「このわたくしに、同情を寄せるなんて、生意気な!!」
 だけど、典侍もさぞかし心おだやかではいられまい、と思い、雲居雁は歌を返します。

*人の夫婦仲の不幸を気の毒だと思った事はありますが、わが身のこととまでは思いませんでした。同情していただきありがとう。

 そして夕霧の巻はめでたく終わりました。紫式部のことば
「この方たちのことは、とても語り尽くせたものではないとのことでございますよ。」でおしまいです。
 次は「御法」(みのり)で、いよいよ紫の上が死んでしまいます。出家をしたいと願っていたのですが、病気が重くなってその願いも叶わなかったんですね。







 今日は源氏の日でした。「御法、みのり」の巻、2回目。
 紫の上が、自分の死期が近いことを悟り、法華経千部の供養をしたりする所です。私は、紫の上は、あんまり好きではないんですね。
 源氏が一番に愛した姫で、理想に近いよくできた人なのですが。ある年齢になった頃、紫の上はしきりに「出家」を望みます。しかし源氏は、「現世」の夫婦として暮らしたいとの思いで、認めません。
 そして、今になってその望みを叶えてやりたいと思うのですが、すでに病におかされた紫の上は、出家する体力もなくなってしまっているのです。

 今日の所は、
「紫の上は、ここ数年、一人の願として書かせていた法華経千部を、二条の院で、いそいで供養なさいました。
 紫の上は、たいそうなイベントだとは源氏にいっていなかったのですが、宮中を上げての行事となり、その行き届いた紫の上の、仏道にもよく通じたたしなみの深さに、源氏は感心するのでした。また、この行事を成功させるために、まめ男の夕霧が、いろいろな手はずを整えてお手伝いをしています。

 位の高い坊さんたちへのお供物もいろいろで、また、東宮や、后の宮の、秋好中宮と、明石の中宮、花散里や明石の上などからのお布施の品々が、あふれるほどに集まっています。
 読経の声や鼓の音ににぎやかではあるのですが、それが途絶えた時には、しみじみと寂しく、紫の上は、残り少ない命を思うのです。
 そして、紫の上は、自分の思いを誰かに伝えたいと、匂宮(5歳)をお使いに、一番親しい明石の上に手紙を書くのです。
 この匂宮は、明石の上の娘の明石の中宮の子どもで、源氏にとっては孫にあたります。長じて、宇治十帖では、源氏の悪い所を全て受け継ぐプレイボーイとして登場するのだそうです。
 そして、源氏の子とはいうものの、本当は柏木と女三の宮の息子、薫と、ライバルになるのです。薫は、律儀なまじめな好青年に成長します。

 手紙に書いた歌は
「惜しくもないわが身ですが、これを最後に命が尽きるのがさびしいです」と。
 受け取った明石の上は、そのままの返歌だと、のちのち縁起でもない歌を書いたと非難をされると困るので、
「法華経讃仰の思いは、今日をスタートの日にいたしましょう。こののち、仏法のために尽くす道はまだまだ長くお仕えせねば」
 という歌を返しました。

 夜を通して、はなやかな情景が繰り広げられ、わが身の余命がいくばくもないと感じている紫の上は、人々が興じている姿を見るにつけても、すべてあはれに思えるのでした。

 起きておすわりになっていたために、翌日、紫の上は病床に臥しました。さまざまな人たちのことが思いだされて、誰もいつまでも生きていられるわけではないけれど、まず自分一人が、行方も知らぬあの世に旅立って行くことを思い続けると、とても悲しい紫の上でありました。

2008、3/27
=やがて来る命の果ての桜かな=
御法のところ。忘れないうちにメモしておきます。
「3月10日頃、桜の花の盛りの頃、紫の上は法要が終わり、花散里と歌を詠みかわします。
紫の上
*もうこれで、私がこの世で催す法要は、最後だと思いますが、この結縁で、来世まで結ばれたあなたとのご縁が、頼もしく思われます。
花散里が返して
*私たちの契りは後の世まで絶えることはないでしょう。普通の人には多くは催せない御法ではありますが、あなたさまは末永く命が続き、法会も催されますことでしょう。

 源氏はこの法要に引き続き,数々の尊い仏事をおさせになります。

 夏になって暑い日には意識を失いそうな時がたびたびあります。見るからに病人めいてお苦しみになることはないのだが、日に日に弱ってしまわれるのです。
 そんなご容態なので、明石の中宮(明石の君の姫ですが、紫の上が養女として育て、今は中宮になっている)が、お見舞いのため、宮中を退出なさいました。
 その到着の儀式なども、この世のこうしたしきたりも、もう見納めなのだと、紫の上は思うのでした。

 紫の上は、ご自分がいなくなったあとのことなど、いろいろ思いをめぐらすのですが、世の中の無情なども、ご自分のことではなく、世間一般のこととして話されるのです。
 そして、ご自分にお仕えしている女房たちの、身寄りのない者たちの今後を、明石の中宮にお願いするのでした。
 紫の上は、明石の中宮の生んだ子どものうち、三の宮(後の匂宮)と、一の姫を手元でお育てになっていたので、特に思いが深く、ご気分の良いある日、三の宮を前に座らせて、女房たちに聞かれないように
「私がいなくなっても、時々思い出してくださいますか」と聞きますと、
 匂宮(5歳)は
「とても恋しいことでしょう。まろは父帝よりも、母中宮よりも、おばあさまをもっと大切に思っているのです」と、目をこすって涙をかくしています。
 その姿がかわいらしく、紫の上は思わず笑いながら涙をこぼします。そして
「大人に成られた時には、この2条の院に住まわれて、この前にある紅梅と桜は、花の折々に楽しんでください。
 そして、何かの折りには、仏となった私にも供えてくださいね」
 そう紫の上が話しますと、
 匂宮はうなずいて、紫の上の顔を見守り、涙がこぼれそうなのを見せまいと、立って行ってしまわれました。
 ほかの宮とはちがって、取り分けかわいがって育てたので、お世話したまま大きくなるまで命長らえて、見届けられないことを、紫の上は悲しく思うのでした。」

 幼い匂宮との悲しいやりとり。細かい描写が生きてます。紫式部、快調です!

2008/4月10日
 紫の上は、夏に病気がいよいよ悪化し、秋になった頃です。

 ようやく秋になって、世の中が少し涼しくなって、ご気分もわずかに良くなるようではあるが、それでも、どうかするとまたお悪くなる。
 中宮は、中宮は宮中から早く帰ってほしいとのお使いも来るのだが、もう少しいてほしいとも言えない紫の上です。

 かつてはあでやかに、この世の花の美しさにも例えられるようだったのに、今は何ものにも例えようのないほどの愛らしく美しいご様子で、もう、この世にいるのもいくばくもないと思っていられるご様子は、いたわしくも、もの悲しいのです。

 風が見にしむように吹く夕暮れに、庭をご覧になりたいと思われて見ておいでの時に、源氏が訪れて
「今日はよく起きていられることだ。中宮の御前なので、この上なく気分も晴れ晴れとなさるのでしょう」と話しかけられる。

 紫の上は、自分が死ぬ時には、源氏がどんなに心を乱されるだろうと思うと、しみじみと悲しいので、
*起きていると見えてもはかない命です。風に乱れる萩の露のような私の命
 という歌を詠みます。

 源氏は
*どうかすると先をあらそって消えてゆく露、それにも等しいはかない世に、遅れ先立つことはしないで、一緒に消えてゆきたいものです
 という歌を返して泣きます。

 中宮は
*秋風にしばらくの間も留らない露の命は、草の上だけではありません。わが身も同じはかない命です
 と歌を詠み、源氏はこのままで、千年も過ごすことができれば良いのに、と思いつつ、人の命を引き止める手だてのないことを悲しむのです。

 紫の上は気分がひどく悪くなり、中宮には「失礼になるので、もうあちらへお帰りください」というのですが、中宮に手をとられたまま、消えゆく露のように、ご臨終を迎えました。
 以前にもののけのために一旦息が途絶えた時がおありになったので、(若菜)また息を吹き返なされるかと、尊いお経を読んだり加持祈祷を捧げられたりしたのですが、その甲斐もなく亡くなってしまわれたのでした。

 中宮は、内裏に帰らずにいて、こうして臨終に立ち会えたことを、深い因縁だったと感慨無量の思いです。(中宮は明石の君の娘で、紫の上の養女として育てられた)
 回りの方々も、これは夜明け前の暗がりに見た夢ではないかと、まだ信じられないご様子です。
 源氏はお気持ちを鎮めるすべもなく、泣くのでしたが、訪れた夕霧をはじめて紫の上の部屋に上げ、(自分の過ちを思って、紫の上の近くには、自分の息子といえども近づけさせなかった)
 「出家したがっていた思いをとげさせてやりたいので、髪をそって望みをとげさせてやりたい」と頼みます。
 源氏は気丈に振るまおうとしておいでなのですが、お顔の色もいつもとは違い、涙が止まらないのを、夕霧も無理のないことだと悲しくみつめるのでした。

 しかし、冷静な夕霧は源氏の願いを止めて、
「亡くなったあとで髪を下ろされても、特に後世の功徳にはならないでしょう。髪を剃っても、かえってそのお姿に、目前の悲しみが増すばかりです」と申し上げなさって、御忌みのための準備を、僧たちにお命じになるのでした。」

 今日はここまででした。幼女の頃に源氏がさらってきて、理想的に育てた紫の上も、43歳でとうとう亡くなってしまいました。

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