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第7官界彷徨
五味文彦先生の平家物語その2
「西光が斬られ」
山門の大衆が座主を取り返したことを聞いて、法皇は不安だった。そこに西光が、今回の山門の大衆は、行き過ぎているので、きつくいましめるべきと進言します。
鹿の谷の酒盛りの折りに、瓶子の首を折った西光です。
山門騒動のさなか、新大納言成親は、平家打倒をしようとはしていたけれど、なかなか進まなかったらしい。実行を依頼された多田蔵人行綱は、準備をしたけれど、平家の繁昌と比べれば余りに軍勢が少ないので、これでは負けると思い、先に密告して自分は助かろうと思います。
安元3年5月29日、行綱は西八条の清盛の屋敷を尋ねます。
盛国がまず聞こうとすると、人伝には言えないと言うので、清盛が直々に聞くことになります。
「それは法皇が山を攻められるという話ではないか」と聞けば、そうではなく、康頼が、俊寛が、西光が、と平氏打倒のたくらみを語ります。
清盛は、貞能を召して、平家を傾けようとする謀反のことを一門に知らさせます。たちまちのうちに6、7千騎の兵が西八条に集まって来ます。
(右大将宗盛、三位中将知盛、頭中将重衡、左馬の頭行盛(清盛の孫、基盛の子)など。
翌朝一日早朝、清盛は行綱の密告が本当かどうか探るため、安倍資成を召して、院の元を尋ね新大納言成親以下の謀反の疑いがあるが、との使いに行かせます。
院は内々の謀が漏れてしまった、大変なことになったと慌てて、はっきりとしたお返事をしませんでした。
資成は急いで帰ってその様子を伝えると、清盛は行綱の言う事は本当だったと、筑後守貞能、飛騨守景家を召して、関係者を捕えるよう、命令を下します。
清盛は、新大納言成親に申し合わせたいことがあると使いを出します。美しく着飾ってでかけた成親は、西八条近くなって、ものものしい様子に驚きます。
そのまま大納言は捕え縛られ、一間に押しこめられてしまいます。
蓮浄、俊寛、山城守基兼、式部大輔正綱、平康頼、宋信房、平資行なども捕えられます。
西光は、このことを聞いて、急いで院の御所に駆けつけようとした所を、六波羅の兵たちにつかまってしまいます。
(つづき)
昨日の大河ドラマ「平清盛」。
保元の乱で負けた崇徳上皇はさすらい歩いたのちに仁和寺で剃髪し、傷を負った藤原頼長は父の邸に助けを乞うが、一族の将来のために門を開けない父の苦悩、それから、崇徳上皇側についた叔父の忠正を匿って、信西に善処を求める清盛。
義朝の妻の由良御前は、崇徳上皇側についた義家を保護し、義朝に、幼い頼朝のために父親を大事にする姿を見せてほしいと言う。
勝者も敗者も苦衷の中にいて、後白河帝も不安の中。
先日NHKの歴史ヒストリアで頼長さまの日記「台記」を紹介していました。たんたんと細かく書いてある貴重な資料。昨日の大河では、頼長邸で焦げた巻物を信西が取り出して読んでいましたが、この後、京都を焼き尽くす大火が起きるのだし、平成の今まで、誰がどこに保管してあったのでしょうか?
日本の書物の文化ってすごいです。
さて、昨日の平家物語の続きです。
西光法師は、急いで後白河院の所に行こうとして、六波羅の兵たちに捕えられます。
兵たちに馬から引きずり下ろされて、西八条邸の御坪の中に引き立てられ、清盛の詮議を受けます。
(ここで清盛は怒って西光の顔をふんずける、なんて書いてあるけど、松ケン清盛は、そんなことするはずはないので、カット!)
西光は、悪びれず居直ってあざ笑い、
♪そもそも御辺は故刑部卿忠盛の嫡子にておはせしが、十四、五までは出仕もし給わず、故中納言家成卿の辺に立ち入り給ひしをば、京童は、例の高平太とこそ言ひしか。
殿上の交はりをだに嫌われし人の子孫にて、今、太政大臣までなりあがったるや過分なるらん。♪
憚る所もなう言ひ散らしたりければ、入道相国、余りに腹を据えかねて、暫しは物をも宣はずベベン、ベン。
西光は拷問の上、五条西の朱雀にて処刑されました。
「小教訓」
小部屋に押しこめられた大納言成親の所に、怒った清盛が来て、「平治の乱の折りに処罰されるべきを助けたのに、何の遺恨があってこういう企てをするのだ」と、西光の白状を読み聞かせます。
そして、庭へ引き落とせと命令する清盛、しかし侍たちは重盛の縁戚なので躊躇しつつも引き落とします。
小松殿の重盛は、時間が過ぎてから、兵を一人も連れずに息子の維盛とともにやってきます。
車から降りた重盛に貞能が近づき、「こんな大事な時になぜ兵も連れずに来たのか」と言いますと、重盛は「これは天下のことではない。私事である」と言って中に入り、成親を救出します。
重盛の北の方は成親の妹で、維盛もまた成親の婿なのです。
父祖の善悪は子孫に及ぶ。善を積む家には余慶があり、悪を積む家には良くない事が起きると重盛が言えば、清盛もそうかもしれないと思い直して、死罪を思いとどまります。
「小教訓」は、親が子を諌めるという意味だそうですが、今回は逆説的に子(重盛)が親(清盛)を諌める意味で使われているそうです。
まだ終わらないのですが、長くなるので今週はこの辺で。
2012年6月10日
さて、今週のNHKラジオ第2放送、五味文彦先生の古典講読の時間「平家物語」は、鹿ヶ谷の陰謀後の関係者の処罰の続きです。
ここでも清盛は瞬間湯沸かし器型の人物で、嫡男の重盛は道理をわきまえた沈着冷静な人に。
大河ドラマの清盛が好きなので、平家物語のこの設定は気に入らないけど、重盛役の窪田正孝くんはピッタリだと思って応援しているので、許せます。
「烽火の沙汰」
後白河院の処分にたいして、重盛は清盛に
「自分は法皇の恩を得てこれまで来た、しかし父への恩もある、どうしていいか進退窮まったので、「私の首を取ってほしい」と言います。
♪君の御為に奉公の忠を致さんとすれば、迷盧八萬の頂よりもなほ高き父の恩勿に忘れんとす。痛ましきかな、不孝の罪を遁れんとすれば、君の御為には、すでに不忠の逆臣ともなりぬべし。
進退これ窮まれり。
申し請くるところ詮は、只重盛が首を召され候へ♪ベベん、べん♪
涙ながらの訴えに清盛は困り果てます。
その後、一大事ということで清盛に断り無く重盛の小松殿には兵たちが集まったので、清盛は重盛が自分を討つのかと思ったが、そうではないと家人の貞能に諭されて、合戦の装束を脱いで、袈裟ををかけて念仏を唱えています。
小松殿では、盛国が馳せ参じた者たちの名を書きとめます。その数は1万余騎。
その後、重盛は中門に出て、馳せ参じたことを讃え、中国の故事を侍たちに語ります。
♪君の為には忠あって、父の為には孝あれと、文宣王の宣ひけるに、違はず♪
重盛について、姿も心も人に優れ、才知才覚も称賛に値する人物だと、時の人々は感じたのです。
♪国に諌むる臣あれば、其の国必ず安く、家に諌むる子あれば、其の家必ず正しと言へり。上代にも末代にも、有り難かりし大臣なり♪べん、べん。
平家物語のこの段は、重盛亡きあと法皇を鳥羽院に押し込める布石。
「新大納言の流され」
重盛のとりなしで命をとりとめた成親は、6月2日、流刑前の最後の食事を供さますが、胸が塞がって箸も持てません。
重盛りに合わせてほしいと言っても叶わず、車に乗せられて朱雀を南へ下り、舟に乗せられます。
舟に乗る前に言いおきたいと、自分の関係者はいるかと尋ねても、だれも名乗りを上げないのでした。
そして、鳥羽から舟で尼崎、備前の児島に流されたのです。
途中の
♪さすが露の命は消えやらず、跡の白波隔つれば、都は次第に遠ざかり、日数漸漸重なれば、遠国はすでに近づきぬ♪
は、後に芝居の「道行き」に使われる文章、なんですって!
「阿古屋の松」
鹿ヶ谷に連座した人たちの処遇が書かれ、流罪となった成親の嫡子成経の処分が書かれます。
福原の別邸にいた清盛は、門脇どのの所に盛澄を使いに出し、身柄を預けておいた成経を差し出すように言います。
成経には3歳の子がおり、いろいろ語る父と、分からないまでもうなずく子との別れの場面が、人々の涙を誘うのです。
成経は備中に流されます。
父の成親の流刑地の近くかと思い、聞くと、片道12、3日はかかると言われてしまいます。
そこで、当時(鎌倉時代)に流行った、日本の地理の説明が入ります。
(つづき)
昨日の大河ドラマ、平清盛、保元の乱の後の処分で、信西の命令により、清盛は叔父とその子たちを、義朝は父と兄弟を斬ることになります。
大叔父忠正が斬られに行くとき、清盛の三男(のちの平家の総大将知盛?)は
「帰って来られたら、竹馬を作ってくださいね。きっとですよ」
と、甘えます。
義朝が父を斬る時、義朝の三男(のちの頼朝)は、母の由良御前に言われてその場に立ち会います。
それぞれの場所で、なかなか斬れない清盛と義朝。
二人の持っている太刀は、清盛が父から貰ったものと、義朝が叔父?を殺して奪い取ったもの。
処刑される人たちは、平家、源氏の家の存続のために死ぬことを望んでいます。
なかなか斬れなかった清盛は叔父やいとこに促され、その首をはねることができますが、何と、すごく武士っぽかった義朝は父の首をはねることができないのです。
由良御前は、義朝は源氏の総大将の器ではないと思ったのかしら?
息子の鬼若は、父上の力になりたい、と、元服して「頼朝」となります。
清盛の妻時子も「武家の棟梁の妻」意識に目覚め、妹の滋子を宮中に差し出すことを決めます。これから滋子は後白河天皇の寵愛を受けるのね。
平家物語の悪役、師光、成親たちも物語の中心に出て来る感じ。
というわけで、平家物語の続きです。
「阿古屋の松」
成経は備中に流され、父の成親の流された所と近いかと聞いたら、12、3日はかかると言われた、、、。
ところから、日本の各地の国々の話になります。これは、平家物語が書かれた鎌倉時代に、多くの地図が作製され、また多くの流人が流されたことで各地の交流が増えた、ためらしい。(読者の要求?)
そこで、歌人として名高い実方中将(998年没)が、赴任先で「歌枕として名高い阿古屋の松を見たい」という話を入れたらしいとのことです。
「大納言の死去」
「さる程に」、これは時の変化、話の変化によく使われるんですって。
俊寛、成経、平康頼は、喜界が島に流されます。船も通わない未開の地です。
成親の北の方の所には、誰も寄り付きません。しかし、信俊という侍が一人通ってきてくれていたので、北の方は、成親の所に手紙を届けてくれるよう頼みます。
成親とともに自分も流刑地について行きたいと思っていた信俊は、喜んで承知します。
備前の国有木の別所で信俊と対面した成親は、北の方からの伝言、子ども達の手紙などを見て、涙にくれます。
4、5日後、成親と最後まで共にいたいと言う信俊の願いは叶えられず、成親の手紙を託されて都に帰ります。
北の方が開いてみると、中に髪の一房が入っていて、形見の品かと北の方、若君、姫君は泣いて哀しんだのでした。
同じ月の8月19日、成親は有木の別所で亡くなります。
その最後は、酒に毒を入れたけれど飲まなかったとか、崖の下に鉄の菱を設置して上から突き落としたとか、言われているそうです。
知らせを聞いて嘆き哀しんだ北の方は、後白河法皇の思い人を下賜された人で、素晴らしい美人だったそうです。
五味文彦先生の「一口コラム」
平氏の家人について
1/文官
・家貞(殿上の闇討ちのときに忠盛に従っていた)1167年5月、81歳で没
・その子ー貞能(鹿ヶ谷事件の折りに清盛を諌めたりする)
・平盛国(清盛のそば近く仕え、清盛に殉死したらしい)
・源すえさだ(歌人。清盛に仕え、のちに宗盛に仕える)
2/侍としての家人
・せのうかねやす
・たんばつねとう
(成親、成経を配流先まで付き添ったりする)
3/諸国にいる平家の武人たち
*鎌倉幕府は、3番目の割合が多かった、、、のだそうです。
今週はこの辺で。
2012年6月24日
今週のNHKラジオ第2放送、五味文彦先生の「平家物語」は、喜界が島に流された人たちのその後についてでした。
「康頼祝(のっと)」
流された、成経、康頼、俊寛の3人は、成経の舅である教盛の領地の、肥前の鹿瀬の庄から衣食が送られてくるので、それを頼りに生きながらえていました。
この庄は現在の佐賀市加瀬町で有明海に面した場所だそうです。
康頼は流される途中で周防の室積山(今の山口県光市)で出家し、性照という法名をもらい、
*つひにかく背きはてける世の中をとく捨てざりし事ぞ悔しき
(出家するのなら、なぜもっと早く出家しなかったのかが悔やまれる)
という歌を詠んだそうです。彼は1174年検非違使になり、今様が上手で、愚管抄には「猿楽狂い」と書かれていたらしい。
ちょっと好感持てます!
熊野信仰に篤い、成経と康頼は、島の中で熊野に似た場所を探します。
すると神さびて那智のお山によく似た場所を発見!
この嶺は新宮、あれは本宮、これはあの王子と名をつけて、康頼入道を先達に、成経とともに詣でて、毎日熊野権現へ、帰京をかなえてほしいと、祈りの祝詞を捧げます。
御幣の紙もなかったので、花を手折って捧げながら、
本宮=阿弥陀如来
新宮=薬師如来
那智権現?=千手観音
に毎日毎日祈ったのです。
俊寛は、比叡山の僧だったので、熊野への信仰心は薄かったのでした。
「卒塔婆流し」
二人は、いつもは三所権現の御前に参り、夜通し過ごす事もありました。
ある夜、二人で夜通し今様を踊り(楽しそう♪)明け方少しまどろんでいると、二人の夢に沖から白い帆をかけた船がやってきて、赤い袴の女房達が渚に上がり、鼓を打ちながら
♪よろづの仏の願よりも 千手の誓ぞたのもしき
枯れたる草木も忽ちに 花咲き実なるとこそ聞け♪
千手観音が二人の願いを叶えてくれると、くり返し歌うのでした。
ある夜は、沖の風が運んで来た木の葉が、熊野の霊木である「ナギ」の葉だったりしたのです。
康頼入道は、あまりに故郷が恋しくて、卒塔婆を海に流すことを思いつきます。
千本の卒塔婆を作り、卒塔婆に阿字(大日如来)の梵字、年月、名前を書いて、流したのです。
書き添えた歌は
*薩摩がた沖の小島にわれありと親には告げよ八重の潮風
*思ひやれしばしと思ふ旅だにもなほふるさとは恋しきものを
せめて、一本でも都へ伝えてくださいと、沖つ白波の寄せては返すたびごとに、卒塔婆を海へ浮かべたのでした。
その中の一本が、安芸の国、厳島大明神の前の渚に、打ち上げられたのでした!
「卒塔婆流し」
康頼が流した卒塔婆の一本が、厳島神社の前の渚に流れ着き、それを西国修行に出ていた康頼の縁者の僧が拾います。
「薩摩がた沖の小島にわれありと」と読めます。
都に持ち帰り、康頼の老母や妻子に見せます。それを聞いた法皇は、それを見て
「あな無惨、この者どもが命の未だ生きてあるにこそ」と涙を流したのです。
この卒塔婆は、重盛から清盛に伝えられ、清盛は、人麻呂や赤人の頃からの歌の力を感じるのでした。
「蘇武」
ここで、中国の逸話との比較が入ります。
♪昔もかく験ありけるにや。古へ漢王胡国を攻め給ひし時♪
この時に、雁のつばさに文をつけて漢へ送ったら届いた、、という故事があり、通信文を「雁書」という語源だそうよ!
♪漢家の蘇武は、書を雁のつばさにつけて旧里へ送り、本朝の康頼は、波の便りに歌を故郷へ伝ふ。かれは一筆のすさみ、これは二首の歌。彼は上代、これは末代、胡国喜界が島、堺を隔てて、世はかはれども、風情は同じ風情、有り難かりし事どもなり♪
次に、巻の三
「赦文=ゆるしぶみ」
当時の貴族は、後の人に知らせるために、こまかく日記をつけていたそうです。巻三も、そのイメージで、日付から入ります。
治承2年正月1日、高倉天皇が院の御所を訪ねます。
法皇は、成親卿以下周辺の人々がいなくなってしまったので、物憂いお気持ち。
7日には東の方角に彗星が出現して、18日には光を増してきます。
そんな折り、清盛の娘の中宮徳子が病気になり、平癒祈願の読経その他手を尽くしたものの効果が無く、結局は懐妊と分かります。
天皇は18歳、中宮は22歳で、未だに皇子は生まれていないのです。
もし皇子の誕生ならば、、、と平家の人々は勇んで喜びます。
6月1日、着帯の儀が行われましたが、中宮は月が重なるにつれて体調が思わしくなく、その上、多くの物の怪にも取り憑かれているようなのです。
よりましの術に掛けてみれば、讃岐の院の御霊、悪左府の怨霊、成親の死霊、西光の悪霊、喜界が島の流人の生き霊など。
これらの霊をなだめるために、讃岐の院を崇徳天皇にするなどを、します。
教盛は、兄の清盛がさまざまな処置をすることに対して、生きている喜界が島の成経をなだめた方がいいと、重盛と相談します。
重盛がそのことを清盛に言えば、清盛はいつになくその言葉を受入れるのでした。
2012年7月1日
今週は「赦文=ゆるしぶみ」の続きから。
教盛と相談した重盛が、徳子のお産に障ってはならないと、鬼界が島に流された3人の赦免を願い出ると、
「入道相国、日頃よりことのほか和らいで♪」
二人の罪は許そう、しかし俊寛はいけない、と言います。
重盛からそれを聞いた教盛は、涙を流して喜びます。
流人たちが許されることが決まったので、清盛の赦文を持った使いが7月下旬に都を立ちます。教盛はうれしさのあまり、正式な使者のほかに、自分の使いもつけたのでした。
俊寛はなぜ許されなかったのかといえば、清盛が目をかけ、法性寺の実務を担う仕事をあたえ、500人ほどの眷属に囲まれた裕福な暮らしをさせていた。
そして、鹿ヶ谷では、成親と西光は中心人物として殺害され、次の罪が重い3人が鬼界が島に流された。
成経は、本人というより父の縁で流罪。
康頼は後白河院の近くにいたための流罪。
俊寛は、この2人よりも位が上であることと、清盛の思いを踏みにじった、、、で、許されなかったのです。
船は、夜昼をかけて走ったけれど、波風をしのいで進んだので、9月の20日頃に鬼界が島に着きます。
「足摺=あしずり」
♪御使いは丹左衛門の尉基康と言ふものなり。急ぎ船より上がり、これに都より流され給ひし、平判官康頼入道、丹波の少将やおはすと、声声にぞ尋ねける。
二人の人々は例の如く熊野詣でして、なかりけり。
俊寛一人ありけるが、これを聞いて、余りに思へば夢やらん。と、あわてふためき、走るともなく、倒るるともなく、急ぎ御使ひの前に行き向かって、これこそ流されたる俊寛よ、と名乗り給へば、雑色が首にかけさせたる文袋より、入道相国の赦文出で奉る♪
二人は、鬼界が島の熊野詣でに行っていたのね。
この「首にかけたる文袋」って、昔は、重要書類を運ぶ時は、首に掛けていたんだそうです。
どこを見ても自分の名前がない俊寛は嘆き狂います。
その中に二人が帰ってきて喜びますが、俊寛は、自分も一緒に連れて帰ってくれと懇願します。
都まではだめでも、せめて九州の地まででもいいから、、、と。
成経は、赦されていないのに3人で島を出れば、また勘気に触れるかもしれない。先に都に上って、いろいろな人たちと相談して必ず迎えを寄越すから、、と。
納得出来ない俊寛は、船が出ようとするときも、船に乗っては下り、降りては乗ってをくり返します。
船が出ればその綱にとりつき、背が届かなくなると船にとりつきます。
使いは仕方なく、その手を引き退けるのです。
残された俊寛は渚で幼い子のように足踏みをし、
♪これ乗せて行け、具して行けと宣ひて、喚き叫び給へども、漕ぎ行く船の習ひにて、跡は白波ばかりなり♪
「御産」
二人は、九州の加瀬の庄にて、春を待ちつつ養生します。
11月12日清盛の弟、頼盛の邸、六波羅の池殿にて、中宮徳子が御産の気配。
法皇の御幸を始め、関白を始めとして官位の高い人たち全てが集まります。
名のある社寺はすべて安産祈願の祈りをするよう、続々と使者が発ちます。
騒ぎが落ち着いた頃、クールな重盛は、息子達の車を動員し、衣40領、銀剣7つを、12頭の馬に引かせて参ります。
これは、一条天皇の中宮彰子が御産の時に、彰子の父藤原道長の馬献上の例にならったのです。
五条大納言は馬を2頭進上し、伊勢神宮から安岐の厳島までの70以上の神社に神馬が献上され、内裏にも数十匹の馬が献上されます。
沢山の高僧たちの読経が行われ、悪霊も退散し、そんな中平安に御産が行われ、しかも待望の皇子が誕生したのです。
♪三位の中将重衡の卿、その時は未だ中宮の亮にておはしけるが、御簾の中よりつと出て「御産平安、皇子誕生候ぞ」と高らかに申されたりければ、法皇を始め参らせて、、、、、、、堂上堂下、一同にあっと喜び合はれける声は、門外までもどよみて、暫しは静まりもやらざりけり。
入道相國嬉しさのあまりに、声を上げてぞ泣かれける。♪
徳子が無事に皇子を生んだので、清盛は声を上げて嬉し泣き。
♪小松の大臣(重盛)は、急ぎ中宮の御方へ参らせ給ひて、金銭九十九文、皇子の御枕に置きて、天を以て父とし、地を以て母と定め給ふべし。御命は「はうし」東方が朔が齢を保ち、御心には天照大神入り替らせ給へとて、桑の弓、蓬の矢を以て、天地四方を射させらる♪
これは、中国の「礼記」「内則篇」に倣っているらしい。
「公卿揃へ」
皇子の乳母には宗盛の北の方の予定だったが、7月に難産のため亡くなっていたので、時忠の北の方が乳母となった。
法皇がお帰りになるというので、清盛は嬉しさの余りに、金一千両、富士の綿二千両を進上した。
たくさんの公卿が集いいろいろな慶祝行事がある中で、
♪可笑しかりしは、入道相国のあきれ様、めでたかりしは小松の大臣の振る舞い♪
なあんて書かれてしまっています。
「大塔建立」
中宮が無事に皇子を出産したのは、清盛と時子が毎月の厳島詣でをした御利益。
まだ清盛が安岐の守だったときに、高野山の大塔を修理し、それが終わったとき、詣でた奥の院で老僧に会い、荒れ果てた厳島神社の再建を示唆されたのです。
「頼豪」
かつての白河院の頃の山門と三井寺の抗争の挿話です。
そして、12月8日、皇子は東宮となり、(伝みたいな字の役職)には重盛が着任、東宮大夫には頼盛がなったのでした。
2012年7月8日
て、今週のNHKラジオ古典講読、五味文彦先生の平家物語は、鬼界が島に流された人たちのその後です。
「少将都還り」
1月末に成経と康頼は肥前を発ち、海が荒れて時間がかかったものの、2月10日頃に備前に着きます。そして父の成親の流された有木を訪ねます。
そこで2人は柱や障子に書かれた文字を発見し、読んでは泣くのでした。
墓を訪ねれば土盛りがあるだけなのでした。
2人は墓の前で今までを語り、かき口説いて泣くのです。
そして墓を築き堂を建てて7日7晩の読経をし、後ろ髪を引かれる思いでそこを発ち、都で待つ人たちのもとへ帰ります。
3月16日、成親の鳥羽の山荘に着きます。そこは
♪築地はあれども蓋もなく、門はあれども扉もなし。庭に立ち入り見給へば、人跡絶えて苔深し。池のほとりを見廻せば、秋の山の春風に、白波頻りにをりかけて、紫鶯白鴎逍遥す。
興ぜし人の恋しさに只尽きせぬものは涙なり。
♪昔の主はなけれども、春を忘れぬ花なれや。♪
成経は花の下に立って
*故郷の花の言ふ世なりせば如何に昔の事を問はまし
と、昔の歌を歌い、康頼ともども袖を濡らしたのでした。
この場所は、白河院の造営した鳥羽の院の所で、もとは白河院に寵愛された、成親の父の家成の邸だったのです。
二人は名残を惜しみつつもその地を発ち、七条河原にて離れ難い思いで別れます。
成経の母は成親の死後出家して東山の霊山においでだったが、帰京を聞いて宰相教盛の所で待っています。
北の方は、面変わりするほど痩せています。
3歳で別れた子も大きくなっていて、3つほどの見知らぬ子がそばにいるので、聞けばそれは流された時に北の方のお腹にいた子なのでした。
成経は再び院へお仕えします。
康頼は東山雙林寺に落ち着きそこに籠って、のちに「宝物集」という物語をまとめたといいます。
この寺は西行も籠ったらしい。
成親の回向をした康頼ですが、「吾妻鏡」に、義朝が果てた土地の、茨で覆われた粗末な墓を整備、お堂を建ててねんごろに供養したのが康頼で、1190年に源頼朝が上洛の折り、義朝の墓を訪ねたところ、立派なお堂ができていたのに感激して、康頼に感謝した、、、という話があるそうです。
康頼の人柄を窺わせるエピソードですね。時の権力者の敵であっても、死者を回向するのが出家した身の務めと思って行動したらしい。
平家物語は、盛者必衰のお話と言いますが、それは平家だけでなく、成家、成親もそうだし、多くの人々の盛者必衰を語っているのですって!
「有王が島下り」
成経と康頼が去った鬼界が島に、一人残された俊寛を心配して、俊寛に仕えていた有王という童子が、俊寛の姫に会い、手紙を託されて島に渡ります。
途中、着ているものをを剥がれたりしながら、姫の文は「もとどり」の中に忍ばせ、苦難の末に商人船に乗って島へ着きます。島の人に聞いても知らないと言うばかり。
有王は嶺に登り、谷を分けて探しますが、なかなかみつかりません。
或る朝、磯の方から都の乞食よりもひどい有様のやせ衰えた者がよろよろと歩いているのを見つけます。
有王は気がつかなかったけれど、俊寛の方が気がついて感動のあまり手にした海藻を投げ捨てて倒れ伏します。
抱え起こした在王に俊寛は夢ならば覚めたのちはどうしようと、嘆き喜びます。
そして
一人残され死んでしまおうかと思ったが、迎えに来ると言う成経のことばを頼みに生きていた。人の食物のない島で、硫黄というものを採って売り、食べ物に変えていたが今はそれもできずに、貝や海藻を食べて生きつないで来たと、その家とも言えぬ家に案内します。
有王は、俊寛流罪後の家族の様子を語ります。
北の方は幼子と鞍馬の山奥に隠れていたが、幼き人は父を恋いつつこの2月に疱病に亡くなり、北の方は、その哀しみの余り、3月2日に亡くなってしまわれた。
今は姫御前が奈良の姨御前の所に忍んでおいでなので、文を賜ってまいりました、と、文を差し出します。
12歳にしては幼いその文を見て俊寛は、
「こんなにはかなくては、宮仕えもできないだろう。人の親の心は闇にあらねども、子を思ふ道に迷ふとは」
と嘆きます。
そして
「姫のことは気にかかるけれど、生きていれば何とか過ごすことができるだろう。自分は長らえて生きるのも我ながら情けないことだ」
と言ってそれからは何も食べずに
♪ひとへに弥陀の名号を唱へ、臨終正念をぞ祈られける。
有王渡って二十三日と申すに、僧都庵の中にて遂に終り給ひぬ。歳三十七とぞ聞こえし。
有王空しき姿に取りつき奉り、天に仰ぎ地に伏し、心の行く程泣きあきて、やがて後世の御供仕べく候へども♪
♪しばし生き永らへて、御菩提を弔ひ参らすべしとて、庵を切りかけ、松の枯れ枝、蘆の枯れ葉をひしと取り懸けて、藻塩の煙となし奉り、荼毘事を終へぬれば、白骨を拾ひ首に懸け、、又商人船の便にて、九国の地にぞ着きにける♪
有王は姫の所に行き一部始終を語ります。
伏しまろびて泣いた姫は、12の歳で法華寺の尼となり、有王は俊寛の遺骨を高野山の奥の院へ納め、諸国七道修行をして主の後世を弔ったのでした。
以上が有王の下りでした。
柳田国男は、日本各地に俊寛の墓があることに着目、それは有王と称するものが各地を語り歩いた、、そこから平家物語が成立したのではないか、、、との考えを発表したようです。
しかし、やはり、平家物語がもとにあって、有王の話が各地に流れて行った、、、のが穏当らしい。
有王は「童」であるが、童は社会の規制を受けずに自由に動けたため、当時は情報の担い手でもあったそうです。
「平治物語」では、義朝の最期を常磐に語るのも義朝に仕えた「金王丸=こんのうまる」という童子。
NHKのそばに「金王神社」があるが、金王丸は渋谷氏の出なんですって!
また義経も童の時には牛若丸として自由に動き力を発揮したが、成人して義経になると社会の秩序に組み込まれると、その中で動かざるを得ない。力が発揮できない、ということになる。
世の人々は童という存在に期待していたのだそうです。
では、渋谷の金王八幡宮についてHPより
=金王丸木像. 渋谷金王丸常光のちの土佐坊昌俊は源義朝、頼朝親子に仕えた武将. 木 像は、17歳のとき保元の乱出陣の折自ら彫り、形見として母に残したもの. 金王丸の 名声は高く、のちに神社の名称となる. 特別開帳. 毎年3月最終土曜日=
渋谷!行ってみたいですね!来週、金王丸は大河に出るのかな?
2012年7月15日
「辻風」からです。
5月12日の牛の刻に辻風が起きます。本文では
♪風は中の御門京極より起こって、羊猿の方へ吹いていくに、棟門・平門吹き抜いて、四五町十町ばかり吹き持て行き、桁、長押、柱などは虚空に散在し、檜皮、葺き板の類、冬の木の葉の風に乱るるが如し。
夥しう鳴りどよむ音は、彼の地獄の業風よりとも、これには過ぎじとぞ見えし。
ただ舎屋の破損するにのみならず、命を失ふもの多し。牛馬の類を知らず打殺さる。
これただ事にあらず。♪
この段は方丈記に依るものらしい。違いといえば、平家物語は、治承3年としてあるが、方丈記は治承4年で、平家物語は脚色。これを前段階として、重盛を失う平家一門を描いたらしい。
この辻風は、竜巻であり、今年栃木、茨城を襲ったものと同じ程度みたい。
次は
「医師問答」
小松の大臣重盛は、この事態に何かを察し、熊野権現に詣でて夜通し心のうちを語り祈ります。
長男として、父入道の横暴を止める器量もないので、平家の没落を見るよりも、来世の菩提を求めたいので、命を縮めてほしい、と。
すると
♪燈籠の灯のやうなる物の、大臣の御身より出でて、ぱっと消ゆるが如くして失せにけり♪
熊野から帰京の途中、一行は岩田川という川を渡り、重盛の嫡子維盛など公達たちが白い浄衣の下にうす紫の衣を着て川遊びをしていうるうちに、濡れた浄衣に色が移って、薄墨色の喪服に見えるのです。
貞能がこれを見とがめて、着替えるように言いますと、重盛は
「願いが叶ったのだから、着替える必要はない」と言ってすぐに熊野にお礼の御幣納めの使いを立てます。
都に帰ってほどなく、重盛は病の床につきますが、熊野の神のおぼしめしだから、と言って治療も祈祷もなさいませんでした。
清盛は心配して、渡来していた宋の名医に重盛を治療させようとしますが、重盛は「先世の業病はので治らない」「異国の医者に見せるのは国の恥」と断るのです。
7月28日、重盛は出家し名前を浄蓮となります。
8月1日、亡くなります。御歳43歳。
清盛のなだめ役としての重盛がいたからこそ、世は今日まで穏やかに過ぎて来たものを、、、。
「無文の沙汰」
重盛は不思議な能力があり、未来の予見できたという。
4月7日に、春日大明神の鳥居の前で、清盛の首が刺し貫かれて掲げられたという夢を見る。
夢から覚めて泣いていると、やってきた瀬尾太郎兼康も同じ夢を見たという。
翌日、重盛は嫡子維盛を呼び、太刀を渡す。それは黒漆一色の無文の太刀。自分の葬儀にはそれを亡きがらの供にしてくれという事だった。
「燈籠」
重盛は東山の麓に四十八間の精舎を建てて、一間ごとに燈籠をかかげ、そこに6人の女房たち、総勢288人で経をあげさせる供養を行い、来迎引接の悲願を立て、臨終に際して仏が現れて導いてくれるように願った。
それで、人々は重盛のことを「燈籠の大臣」と呼んだという。
「金渡し」
治承の前の安元(1175-77)の春に、重盛は船頭妙典というものを鎮西から召して、金を渡し、自分の後世を弔うよう、宋へ出発させた。
船は無事宋の国へ着いたが、その頃重盛はすでに亡くなっていたのでした。
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