圧倒的大差で試合が終わると、顧問の先生がコートをずかずかと横切って近づいてくる。帽子の下からはおそらく20代後半と思われるまぶしい笑顔が現れた。弱小チームであることがばれてしまった俺たちには目もくれず、マイケル君に向かって流暢な英語で話しかけた。ジャクソンファイブのファンであることをすごく回りくどい言い方で告げた後、1曲だけでいいから歌ってくれないかと頼んできた。 マイケル君が俺の方を向いた。伴奏できるかと言う。 「Sure, I could. But where?」 誰に向かってというわけでない俺の問いは先生が引き取って、体育館にピアノがある、これから開けるからぜひお願いしたいと言った。 「じゃあ、ちょうどいい、俺が伴奏する。その代わり、俺の腕前を見てくれ」
バレーコートが2面とれそうな大きな体育館のステージ脇にヤマハのグランドピアノがほこりをかぶっている。両校の屈強な連中があっという間に真中まで運び入れる。さて、何を歌おうか。みんなが歌える曲がいいな。先生が言った。じゃあ、I'll be there かな。俺に問いかけるような視線が来る。I'll be there ね。先々週譜面を見たばっかりだ。 「弾けるよ、それで、みんなはI'll be there のところでリフレインだからね」 よし、じゃあ、この曲は。マイケル君は俺だけに聞こえるくらいの小さい声で、この曲にはアカペラの編曲があり、ごく素直な和音進行だけ弾いてくれれば十分だから、気を楽にして、僕のボーカルのリードを追いかけてくれば素晴らしいセッションになるよ、君のチームメートたちは少なくとも声だけは立派だから、適当に抑制した声にしてくれれば僕が勝手にそれに乗っていくから問題ない、と言った。そして、今度はみんなに聞こえる声で、I'll be thereのリフレインは、気持ちはフォルテなんだけど、その気持ちが胸の中で高まってしまって大きな声にならない、という気持ちでメゾピアノくらいで歌ってください、と言った。俺は一瞬がーんとなった。そうか、音楽の表現って、そういうことなのか。譜面から読み取るべきは音と強弱だけじゃないんだ。
例によってクラシック系の不協和音をはさんだり、「just look over your shoulders, honey!」という最高潮の手前でモーツアルトのドミナント連鎖を入れてやったりした。と、ひとり体育館のフロアに出したパイプいすに座って、真っ赤に上気して聞いている先生に向かってステージを飛び降り、振りかえって、じゃなくて、おいでおいで、僕のハニー。そう歌いながらマイケル君が近づいて行った。先生は顔をおおっている。泣いているみたいだ。ステージの上では I'll be there のリフレインが続いている。
ばっちっこ その30(下)
じゃあ、今晩、キャピトル東急で、10時過ぎには戻ってると思うから。マイケル君は必要最低限のメッセージを伝えると、件のゴールキーパーと二人で即席ステージを降りた。 「俺よりずっと上手なベーシストがいるんだけど」 と、あとから思うといわゆるもじもじした態度で後ろ姿に声をかけると、じゃあ両方来ればいい、May well say so. という答えが返ってきた。
じゃあ腕前を聞かせてもらおう。ゴーディ氏が口火を切った。俺はフロアの隅で出番を待っていたかのように澄まし顔をしているスタインウェイに向かった。いくつか和音を響かせてみる。まるでさっき調律を受けたかのように音程が正しい。 「何を弾きましょうか」 思えば馬鹿な質問をしたものだ。帰ってきた答えは、As you like.だった。マイケル君をそっと見ると、昼間のI'll be thereでどうか、と小声で言った。 「私はソロになるつもりはありません。才能もないし、その気もない。だからソリストを引き立たせる音楽を提供したいと思います」 そう告げてから、I'll be thereのイントロを弾き始めた。マイケル君がロビーの客の耳をそばだたせはするが決して邪魔にもならず、熱狂も生まない程度の音量で歌ってくれる。