木になった僕 後編



僕が木になってからどれくらいたっただろう。
僕は、人間に戻りたいということもあまり考えなくなってきた。

子供たちが僕の周りで遊んでいる。
子供の一人が、石を使って僕に文字を彫ったりしている。痛みは感じるが、気にはしない。
気にしたところでどうすることもできないのだし。
子供が僕の体にした落書きを他の友達に見せると、真っ赤な顔をして一人の子が怒り出し、落書きをした子を追ってその辺りを駆け回った。他の子たちはそれを見て笑っている。どうやら、その子とその好きな子の相合傘でも書いたようだ。その光景が微笑ましくて、落書きされた時は少し悲しかった僕も、自然と楽しい気持ちになった。

子供たちが僕に上り始めた。競うように高くに上っている。
一人の子が足を滑らした。さっき落書きをした子だ。僕はドキリとした。
しかしその子はなんとか踏ん張って、ぎりぎり落ちるのを免れた。
良かった。
みんな、怪我をしないで元気に育って欲しいと、僕は願った。


僕の枝では、たくさんの鳥たちがいつも羽を休めている。
最初は気になったが、慣れてからは彼らがやってくるのを待つようになった。
彼らの鳴き声を聞いていると、とても心が休まる。

ある時、僕に鳥の巣がひとつ作られた。
何の鳥かは詳しく分からないが、小さなかわいらしい鳥の巣だ。
卵が産まれたようで、母鳥はいつも巣で卵を温めている。
何日かしてひなが産まれた。
母鳥はえさを取ってきてはひなに与えた。
母鳥は一生懸命子育てをしていた。
ひな鳥達は一生懸命エサを食べて、生きようとしていた。
そしてひな鳥達は大きくなり、立派に巣立っていった。
無事にすべてのひな達が育ち。少し寂しかったけれど、とてもうれしかった。


僕は、人間に戻りたいということをあまり考えなくなった。
僕は、心から木になり始めているのかもしれない。

木のように、大きな心で、しっかりと大地に根を張って、優しく全てを受け入れる。
僕はいつの間にか、そんな気持ちを持つようになっていた。



ある日、雨が降ってきた。僕の足元で女の子が雨宿りをしている。
はやく雨がやめばいいのに。
少女が雨にぬれてでも家に帰ろうか迷っていた時、向こうから心配した彼女の母親が傘をさして迎えにきた。
少女は最高の笑顔を見せた。


・・・僕は木になった。大きなある1本の木になった。
自由に動くことができない。何もすることができない。
けど毎日の天気を、風を、空気を感じる。
僕の周りにたくさんの人や生き物が集まり、 僕とともに落ち着いた時間を過ごす。
僕は彼らの成長を見守り、彼らの幸せを祈った。

僕は、そうやって過ごす時間を、本当に幸せだと感じるようになっていた。
木になって、よかった。



目が覚めると、僕は病院のベッドの上に居た。
目の前で母さんが泣いている。
ああ、そうだ。青信号を渡ろうとした時に、急に車が突っ込んできて・・・。
医者が僕の意識を確認して、もう大丈夫と言った。
母さんは泣き崩れた。「良かった。ほんとに、良かった。」と何度も言いながら。
母さんが少し落ち着いてから、僕は聞いた。
「僕、どれくらい眠っていたの?」
「丸2日、目を覚まさなかったのよ。」
たった2日間か。あれは、やっぱり夢だったのかな。
なんにせよ、目覚めて良かった・・。
・・良かった?僕は目覚めて良かったのだろうか・・。

僕は、木になって良かったと思っていた。
多くの生命の幸せを願って、ゆったりとした時間を過ごす。
・・けど、僕は人間に戻った。
もう、彼らを守る大きな枝葉も無い。
あの幸せな時間は、二度と戻ってこない。

僕は数日で退院することになった。
運良く、体は擦り傷程度で、脳のほうにも障害は無かった。
僕は、また普通の人間として生きることになった。
自分が生きるために、毎日時間に追われ、動き回る。
普通の人間として生きることになった。


ある日、道を歩いていると、木を見上げる少女が居た。
少女は枝にかかる風船を見上げていた。
僕は、少女に声をかけた。
「あれ、キミの風船?」
「うん。」
「取ってきてあげるよ。」
僕は、木に登った。
思っていたよりも登りにくかったが、何とか風船を掴み下りることが出来た。
風船を渡すと、少女はありがとうと言い、満面の笑みを浮かべた。


僕は、木になった。

そして、人間に戻った。

人間に戻った僕には、木だった時のように落ち着いた時間を過ごすことは出来ない。
毎日時間に追われ、自分が成長していかなくてはならない。
けれど、僕には、この体がある。
無限の可能性を持ったこの体で、大きな心を育んでいこう。

僕は、木になってよかった。
木のままで居たかったという気持ちもある。
けれど、いつか言えるようになりたい。
人間に戻れてよかった、と。


おわり


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