そよかぜにっき

そよかぜにっき

Dさんの本




涙の封印

私がDさんと出会ったのは、20歳の時だった。

彼は7つ年上で、スペインに留学した経験を持っていた。

私は、彼が行ったことのある

外国の話を聞くのが大好きだった。

私も彼のように、いつか外国に住めたら

どんなに楽しいだろうと思いながら、

いつも話を聞いていた。

 ある日、彼が私に、一冊の文庫本をくれた。

「とても、感動したんだ。一度読んでみて・・・。」

『湖の伝説  画家・三橋節子の愛と死』

    梅原猛   新潮文庫

画家として、活躍し、2児の母である女性が、

ガンによる右腕切断という現実に直面したあとも、

希望を捨てず、左手で、

絵を描き続けたという内容だった。

 その後、Dさんは、何故か、メキシコ料理店で、

働きながら、歌を歌ったりする仕事を始めた。

そのユニークさから、

TVの番組でよく取り上げられ、

仕事を辞めてからも、

彼の姿を時々目にしていた。

本をもらってから、十三年ほどたち、

私は、彼のことも忘れ、

子育てに追われていた。

8月の上旬のある日、

急に、本が読みたいなと思い、

以前にもらったその本を読み返してみた。

そして、お盆もすぎた頃、

仕事をしていたころの友人から

1本の電話をもらった。

「8月の初めにDさんが事故で亡くなったから、

お別れ会をするので、来れたら来てね。」

8月初め? 私が丁度、10年ぶりくらいに

彼からもらった本を手にした頃じゃないか・・・。

お別れ会がある日は、

夫も仕事で子供の面倒を頼む事もできなかった。

子供は、やっと1歳と3歳と7歳になったところで、

そのような、静かな席に連れて行くことはできない。

 私は、大切な友人の葬儀にも出る事ができないことに

悲しくなり、台所で、座り込んで泣いてしまった。

ひとしきり、泣いていると、

何か心に『ひとすじの光』のようなものを感じた。

「もう、分かったから、泣かないでくれ・・・」

声にもならない何かが、そう、

亡くなった彼の声が聞こえたような気がした。

亡くなった人には、

心で思うだけで通じるのかもしれない。

その時、私は、そう思ったのです。




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