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K/Night
藍椿
「こっちだ、いたぞ!」
「くそっ……もう追っ手がっ」
傷付いた仲間に肩を貸していた男は、見えた浅葱色の羽織に顔を歪ませた。
俺を置いて逃げろ、と息も絶え絶えな声が聞こえたが、そんなこと、志を同じくするものを見捨てるなどということは到底出来ることではなかった。
しかし、自分とて怪我をしている身。ましてや狭い路地の上、こちらは二人、相手は闇夜で見えないが恐らく多数。それでも、男は決意する。
易々と殺されるくらいなら、一人でも……。
腰の刀に手を伸ばす男の肩を、背後から手が掴んだ。
「此処は引き受ける。早く行け」
男にしては少し高い声。後ろに引かれて見えたその人物は、真黒な髪を高く一つに結っている。中性的な顔立ちだが、眼光鋭く、その頬にも藍色の着物にも白い袴にも、未だ乾ききらない血が付いていた。
「か、かたじけない。御免!」
男は突如入った助けに少しばかりの希望を顔に出し、仲間を抱え路地の奥へと消えて行った。残ったのは、浅葱色の羽織の男達と、藍色の着物の人物。
「何奴?」
羽織の男が一人、腰の刀を抜きつつ前に進み出る。着物の人物は左手で鞘を握り直し、鍔に親指をかける。
「……藍椿」
風が起こる。藍色の着物が靡く。両袖に見えたのは、一輪の紅い椿。
「あお、つばき……?!」
鞘走る音と共に、前の男の身体が傾いだ。鮮血が、羽織も、地面も、藍色の着物さえも染めていく。
「……っ! 油断するな!」
羽織の男達が、各々それぞれの刀を抜く。藍椿と名乗った人物は、血を被った無表情で男達をみつめ、そして右手の血濡れの刀を構えた。
ぱしゃり。
手桶の水が波打った。もう水でしか濡れていない両手を、まだ水で洗い流す。藍色の着物も、井戸で頭から被った水で濡れていた。
「……椿」
台所で一人立つ着物の人物は、その名を呼ばれても視線を向けただけで、手を洗い流す動作を止めようとはしない。開けた台所の戸の前に立つ男は、その様子に眉を寄せた。
「濡れた着物を着ていては風邪を引く。早く部屋に戻れ」
ぱしゃり。
両手が水から引き上げられる。着物の人物は自分の手を引き上げた手の持ち主である男を見る。
「……血の、匂いが消えないんです」
「……」
男は掴んだ手を解放する。着物の人物は、濡れた手で手桶の水を外に流した。
「椿、お前はもう、手を引いた方が良い。これ以上は危険だ」
「危険なのは、貴方も皆さんも同じでしょう?」
男に背を向け、手拭いで手や顔の水滴を拭っていく。
「だが、お前は女だ」
高く結った真黒な髪が背に落ちる。
「女だから、『藍椿』の正体は何時までも知られないんです」
誰も女と刀を交えてるなんて、思わないでしょう?
項で髪を結い、振り返ったその表情は少し哀しげな微笑み。
「……やはり、お前に人斬りをさせるべきではなかった」
苦渋の表情で搾り出すように吐かれた言葉に、哀しげな表情は少しだけ、柔らかくなる。
「私は目の前に映る人達の幸せを守りたいと思って、自ら此処へ来たんです。後悔はしていません、桂さん」
失礼します、と男、桂の横を通り過ぎる藍色。板張りの廊下に、着物から落ちた水滴が点々と跡を付けて行く。
「椿、お前は何時からそのような笑みの浮かべ方しか出来なくなった?」
桂の問いに、その人物は、椿は先程と同じように、少し哀しそうな表情を浮かべるだけだった。
「おかみさん、他にお手伝いする事はありますか?」
夜が明け、椿は袴を脱いで女の着物を着る。浅黄色の着物には、紅い椿が咲いていた。
「それじゃあ、買出しに行ってもらおうかね」
椿や、他の同士が暮らす旅館のおかみは、前掛けで手を拭い、紙切れ一枚を手渡す。今日の夕餉の材料らしい。
いってきます、と告げて外に出て歩けば遭った、遠巻きに見遣る人の中心の騒動。見れば優男、刀を腰に帯びているにも関わらず、それを抜こうともせず、不逞の輩三人に絡まれている。何度か暴行されたのか、高く結った黒髪も、鳶色の着物や白の袴も土で汚れ、口の端からは血が滲んでいた。それでも屈託のない笑みを浮かべ、済みませんと謝る。
こういう世の中だから、だから守りたいばかりに斬ってきたのに。
「済みません、私の知り合いが何か致しましたか?」
気づいたら、男を庇う様に立つ自分。不逞の輩の表情が緩む。
「何だ、姉ちゃん。此奴の知り合いかい? なら、姉ちゃんに俺達の相手でもして貰おうか」
目の前の男の手が、椿の顎を捉える。椿が目を細めた瞬間、隣に鳶色の着物が映る。刃を返してはいるが、目の前の男の喉元に突き付けられた刀。
「俺に何しようと構わないが、女性に手を出そうとするのは頂けないな」
先程の笑みは無く、鋭い眼光が輩を射抜く。顔を真っ赤にさせた輩が、やっちまえとお決まりの台詞を吐いて、勝負は決まった。一瞬にして地面に沈んだ輩三人を振向き様に見ながら、椿は男に手を引かれた。京の町を歩いて辿り着いたのは、一軒の甘味屋。
「助けてくれて有難う」
啜った湯呑みを卓に置き、頭を下げる男にも困惑するが、目の前の餡蜜にも困惑する椿。
「お礼をするべきなのは私の方です。助けるつもりが結局助けられてしまいました」
強いのであれば何故、先程のように早々と片付けてしまわなかったのか。疑問にすれど口にはしなかったが、其れを汲んだように、俺の方からぶつかってしまったからね、と男が笑い、餡蜜を勧めた。頭を下げて、椿は餡蜜に手をつける。
「そういえば、名乗っていなかった。紀一と申す。巻き込んでしまい、本当に申し訳ない」
「……椿と申します」
優しい笑みを浮かべる男、紀一に椿は笑い返せない。どう笑返せば良いか分からない。思案しながら見遣る紀一の顔は、殴られた跡が残っている。
「椿さん?」
卓を挟んだ紀一の顔に手を伸ばす。熱を持った其れに、暫し椿は眉を寄せる。
「家に戻ったら、必ず冷やしてくださいね」
「……有難う」
あれから、椿は良く紀一と会う。買出しや、ただ散歩をしている時、紀一は目の前に現われた。どうやら旅館と近からず遠からずの場所に暮らしているようで、良く此の辺りを出歩いているらしい。
「椿さん」
紀一に呼ばれるのが、どうもくすぐったい。微笑まれるのは、どうも気恥ずかしい。
紀一は椿と会うと、買出しの時は荷物を持ち、そうでない時はその辺を巡りながら話をし、偶に甘味屋へと誘う。椿は何時もしてもらってばかりの紀一に、旅館の仕事が終わった後会う約束を取り付け、家まで夕餉を作りに行った。そんな事をしてもらっては悪い、と紀一は慌てたが、有無を言わさず居間に座らせた。夕餉を出す時は心臓は早鐘を打ち、美味いと聞けば胸を撫で下ろす。
紀一の笑顔に癒される。人斬りという自分を忘れられる。
相変わらず、これから来る、新時代の為に人を斬る日々だが、紀一と居る時だけは、血の匂いを忘れる事が出来た。
そんな生活が、三月過ぎた。
「椿」
紀一の椿に対する呼び方は、何時の間にか変わっていた。そして、紀一の笑顔に対し、椿は小さく微笑み返す。
「そんなに走って、どうかしたんですか?」
今日の夕餉の材料を抱え、膝に手を付き息を整える紀一の顔を椿は覗き込む。椿と視線が合った紀一は、咄嗟に顔を逸らした。心なしか、顔が赤い。
「あの……目を、瞑ってはくれないか?」
「目を?」
聞き返せば、相変わらず目は合わさないが頷く姿。分かりました、と椿は目を閉じる。
「良いと言うまで開けないでくれよ」
少し上ずった声に、紀一が今どんな表情をしているのか想像出来て、小さく笑う。笑うな、と少し拗ねた声が聞こえると、ふわりと紀一の匂いが広がった。何事かと椿が身を硬くすると、頭上から、もう少し待って、と声が降ってくる。仕方無しにそのまま待つと、紀一が離れた気配がした。
「もう良いよ」
その声を合図に目を開き、自分を見渡すが何が起こったのか分からない。
「鏡、見て?」
訳が分からず、差し出された鏡を椿は覗き込む。髪を結わく緋色のリボン。
「……え?」
触れると柔らかい感触。鏡から顔を上げると、紀一の微笑み。
「椿に、似合うと思ったんだ」
椿の頬に添えられる温かい手。その手に自分の手を添え、泣きそうになるのを堪えて気恥ずかしくも嬉しそうに微笑む。
紀一は、力強く椿を掻き抱いた。
一緒になろう。
その言葉を聞いて、どんなに嬉しかった事か。
しかし、もう戻れないと、其処は告げていた。
「……向かう敵の首を落とす。『藍椿』の由来は此処から来ているのか」
闇夜の血溜まりの中、血濡れで立つ椿の背後から、聞き間違う事のない声が聞こえた。
路地の奥から現われたのは、浅葱色の羽織。その表情に、何時もの微笑みは無い。
「……き、いちさ、ん」
自分が今、『藍椿』だという事を忘れて、その名を呼んだ。声も、足も震えた。刀を握る手は、力の加減を忘れて更に白くなる。
「出来ればこのままずっと、『藍椿』とは会いたくなかった」
苦しそうに吐かれる言葉に、椿は崩れるように座り込んだ。
「き、いち……さっ」
紀一は抜き身の刀を握り直す。徐々に椿との距離が縮まっていく。
「御免、なさい……有難う」
刀を向ける事は出来なかった。椿の頬を、一筋の涙が落ちる。
紀一の歩調が早まる。そして、
「え……?」
腕を引かれたと同時に、目の前に鮮血が飛んだ。
椿に凭れ掛かる紀一の身体と、紀一の目の前で血飛沫をあげる浅葱色の羽織を着た身体。していく事は出来ず、しかし手放す事が出来ずに懐に入れておいた緋色のリボンが凭れ掛かる紀一の身体によって、藍色の着物の合わせ目から滑り落ちる。
目の前の男を紀一が斬ったのだと気付くのに、時間が掛かった。
「きっ……紀一さんっ!」
斬られた左胸を押さえる紀一の身体を、椿は抱えた。背後から狙われた自分を、紀一が助けてくれたのだと、其処で気付く。
「ど、うして……」
「椿を初めて見たのも、こんな風に椿が仲間を抱いて静かに涙を流してる時だった。女だとは直ぐには気付かなかったけれど」
苦しい筈なのに、微笑みさえ浮かべる紀一に、椿は唯涙を流す。
「血塗れなのにとても綺麗で、誰を斬ろうと、誰が斬られようと、哀しそうな表情を浮かべて……そんな君に、もう人斬りはさせたくなかった」
そんな君と、一緒に居たいと思った。
「祝言をあげたら、君を連れて京を出るつもりだった。そうしたら、もう人斬りをせずに済むと思ったから」
紀一は椿の頬に手を添える。愛おしそうに、その頬を撫でる。
「椿……好きだ」
宿敵同士だったけれども、この気持ちは本当だから。
椿は頬の手に自分の手を添える。しかし、紀一の手は椿の手をすり抜けた。
「紀一さん……紀一さん……」
椿の頬に涙が伝う。自分の腕の中にある身体を、力一杯抱き締める。
「きいちさん」
昔々、幕末の時代京都で、ある一人の剣客がいた。藍椿と呼ばれた剣客は、敵方にその力を恐れられていたが、ある時ふと、その姿を消した。以後、その姿を見た者はいない。
浅黄色の着物が風に揺れる。川原の土手に座る女のその姿に、道行く人は目にも留めない。しかし、一人だけその姿に気付き、近寄って来た。
「探した」
「……あなた」
男の鳶色の着物から手が差し出され、その手を相手は取って立ち上がる。項で結わかれた髪に、緋色のリボンが結ばれている。
「手が冷えている。こんな所で何をしていたんだい?」
「昔を、思い出していました」
「……もう、十年も経ったのか」
冷えた手を自分の手で温め、男も昔を思い出す。鳶色の着物の合わせから、左胸の刀傷が覗く。
「私は、数え切れない位人を斬ってきました。そんな人斬りが、幸せになって良いなど……」
静かに女は瞳を閉じ、もう片方の手を男の手に乗せる。
「それでも、私は貴方に会えて良かった。貴方を好きになって良かった。貴方が生きていてくれて、貴方と一緒になれて良かった」
男は女の頬に手を添え、一筋流れた涙を拭う。
「俺もだ」
優しげに微笑む姿は昔と何ら変わらない。変わったのは、男の髪が短くなった事だけ。
「さあ、帰ろう。子ども達が待っている。午後の稽古が待ち遠しいらしい」
「ええ」
男は女の手を引いて歩く。
「確かに、俺も君も、人斬りだった。けれど、今は違う」
腰に帯びた刀は、昔のままだけれど、この刀がこの十年血を吸った事はない。
「人を活かす剣。人を斬る剣なんかじゃない。俺達は、自身の罪を持って、子ども達に教えていけば良い」
「……ええ」
振り返って見ると、泣きそうな顔が目に映る。そんな顔をさせたかった訳じゃないのに、男は立ち止まり、女を抱き寄せる。
「あなた?」
「今を、一緒に生きよう。幸せになってはいけないなんて、そんな事は無い筈だ。君は、十分苦しんだ」
男の背に女の手がまわる。感じる温もりに、泣きそうになる。
「椿……好きだ」
「私もです。紀一さん」
二人は互いに微笑み合うと、顔を寄せ合った。
終
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