「ユング」
地下の大王
コリン・ウィルソン 安田一郎・訳 1985/4 河出書房新社 原書 LORD OF THE UNDERWORLD, Jung and the Twentieth Century 1984
著作リスト
を見ると、コリン・ウィルソンには、ざっとかぞえただけで百数十冊の日本語訳の本があるようだ。とても全部は目を通すことはできないだろうけど、せめて
「至高体験」
とか
「オカルト」
などには、目を通しておく必要があるのかな。しかし、例によって
、かなりの百科全書的な知識や情報の豪雨には、ちょっと耐え切れないところも感じる。これもまた、このブログの境界域だなぁ。
この本はまさに、ユングというキャラクターと、コリン・ウィルソンというキャラクターの相克という感じさえする。ユングは、自らを科学者と強調しながら、どんどん神秘主義の世界にずぶずぶと沈みこんで行ったりする。コリン・ウィルソンは、実存的リアリストを気取りながら、実はそのテーマを神秘主義の世界にターゲットをあわせたときが一番キャラが立っている感じがする。どちらもどちらだが、どちらも読むことによって、ようやく合わせ技一本、という感じがするところがある。
コリン・ウィルソンは、ユングの「集合的無意識」や「元型」という概念は眉唾物だと述べている。しかし、フロイト心理学にも限界があるように、当然ユングにも限界があるわけだが、「集合的無意識」や「元型」という概念が果たしてきた功績は、あまりに大きいと言える。この本は、このブログのカテゴリーで行くと、むしろ「ブッタ達の心理学」がふさわしいようではあるが、流れからいうと「レムリア」で読んでいこうと思う。ところが、ウィルソンの満遍なくいきわたるサービス精神は、必ずしもユングの「地下の大王」たる部分に対する言及は途中で終わってしまっているような感じがする。この本にはアガルタやレムリアなどという言葉もでてこないし、そこまで言及するを、やめているところがある。
私はユングの思想と態度について批判的注釈をすることを控えようとしてきたが、私がユングについてたくさんの保留をしたことは、本書を読んでいくうちにおそらくあきらかになったろう。(中略)私は個人的には、ユングのオカルト主義には文句を言わない。というのは、それはすべて個人的な体験に基づいているからである。しかし私は、彼の純心理学的な理論のあるものはきわめて疑わしいと思っている。
p179
オカルティスト・ユングは認めるが、心理学者ユングは認めないと、コリン・ウィルソンは言っているのである。徹頭徹尾オカルティストだったら、きっとユングは凡庸なオカルティストでしかなかっただろう。あるいは、徹頭徹尾フロイト流の心理学の後継者になったら、ユングは自らの存在を際立たせることもできず、心理学者としてもなんら業績を上げることができなかったかもしれない。オカルト心理学者であるからこそ、ユングたりているわけであるが、そのコンビネーションをコリン・ウィルソンは四方から眺めてみては、どうも怪しい、と危ぶんでいる。
この辺の怪しさは、ケン・ウィルバーなどに引き継がれたトランスパーソナル心理学の中で、どのように昇華されているのだろうか。短絡的な結論はだすことはできないが、個人的には私は、その「怪しさ」は、まだまだ解決されていない、と思っている。つまり「ブッタ達の心理学」は、この系譜の中では完成されていない。いや、むしろ、無理なのではないか、と絶望視さえしている。それは、まるで、コンピュータが進化すれば、個的な意識を持った人工知能を作り出せるという「妄想」(と、今はとりあえず言っておこう)的試みに似ているのではないか、とさえ思う。
1926年に、彼がアフリカからもどったとき、この希望は消えた。「私が見ることができるかぎり、グノーシスと現在とを結びつけたかもしれない伝統は断ち切られていたように思われた。グノーシス主義---あるいはネオ・プラトン主義---から現代の世界に通じる橋を見つけることは不可能であることが長い間にわかった」。しかしこのような橋が必要だという感じは依然として強かった。そして1928年に、解決の一断片が彼の友人リヒアルト・ヴィルヘルムによって提供された。ヴィルヘルムは彼に、「黄金の華の秘密」という中国の神秘的な本の翻訳を送った。これは実際、東洋の神秘主義と錬金術の奇妙な結合で、瞑想のゴールを「生の霊薬(レリキサー・オブ・ライフ)」として象徴化している。ユングは、この本にマンダラ象徴がのっているのを見て、すぐに感動してしまった。
p146
そういえば Oshoにも
「黄金の華の秘密」
があることを
思い出した。そのうち落ち着いたら再読しよう。
アンビバレンスは、1950年代に出たもっとも異論の多いもう一つの著書「空飛ぶ円盤。空中に見られた物の現代の神話」(1958年)のなかにはっきりあらわれている。ユングの理論は、空飛ぶ円盤は集合的無意識の「投影」であるというものである。彼は、それらが、円---マンダラのように---であることはきわめて重要だとみなした。そうすると、それらは、救世主---あるいは結局同じことになるが、個性化---を求める無意識的な渇望の「投影」である(マンダラは、神と自己の象徴である)。
p168
このユングの説明にコリン・ウィルソンは勿論、異を唱える。そうあってしかるべきだが、またユングがこのようなものを自らの力で心理学という「科学」の中に取り込もうとした努力も評価されてしかるべきだ。だが、それも、なんの努力だったのか、コリン・ウィルソンの追及は続く。
UFOを見たのが「幻影」である可能性は、あきらかにわずかである。ある場合はまぎれもなくうそであり、ある場合は絶望的な考えであり、ある場合は本当に間違いである。しかしこれらの説明がぜんぜんあてはまらない場合---飛行機の全乗客がその飛行物体を見たとき---がたくさんある。ユングの「投影」説は、目撃者がなにか---実験機にせよ、他の惑星からの使者にせよ、他の次元の世界からの訪問者にせよ---を見たという説より本当らしくない。それで事実は無視された。UFOについてのユングの本は、実際には彼の元型理論の宣伝であって、新しく、広汎な読者に関心をもたせることを目指したものである。リンドバーグとのインタビューから、ユング自身が自分自身の理論を信じていなかったか、あるいは彼がこの本を書いてから考えを変えたことがあきらかになる。ともかく彼は、自分の考えを秘密にしておいた。リンドバーグは、ユングのなかのはったり的要素について一言述べたときに、これに気づいたらしい。
p194
このエントリーにおいて、ユングについても、コリン・ウィルソンについても、結論めいたことを書くことは、目的ではない。とにかく、そのような窓の外の風景を見ながら、こちらはこちらとして、アガルタなり、レムリアなりへの旅路を急ぐことにする。
ヘッセの水彩画 2007.11.04
ヘルマン・ヘッセ 雲 2007.11.04
わが心の故郷 アルプス南麓の村 2007.11.04
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