「アウトサイダー」
C・ウィルソン 福田恒存・中村保男・訳 1975/4 紀伊国屋書店 原書1956
コリン・ウィルソンについては 、
「スターシーカーズ 」
1980、
「ユング 地下の大王」
1984、
「コリン・ウィルソンの『来世体験』」
1985、
「ルドルフ・シュタイナー 」
1985、
「二十世紀の神秘家 ウスペンスキー」
1993、
「アトランティスの暗号」
2006、などなどを読んできた
。とても、その全容を見れたわけではない。まさに天空を飛翔する龍が落としたウロコ一つを拾い上げて、チラッと眺めては首をかしげている、という段階だろう。
この「アウトサイダー」は1956年、コリン・ウィルソンが26歳の時に出した処女作だ。まずはともあれ、この本を読まないことには、彼の全体像は見えない。
1931年レスターに生まる。靴屋の息子としてアカデミックな教育は受けていない。学校を中途退学し労働者・埋葬人夫・収税吏などの職業を転々とした。思索する時間がないためパリに遊んだこともあるが、1954年帰英、昼は英国美術館に日参、夜は皿洗い等しながら著述に専念。1956年処女作「アウトサイダー」をロンドンのVictor Gollanczから出版。英米論壇に多くの問題を投げた。その後テレビ、講演等に活躍。引き続きロンドン・マガジンにすぐれた評論を発表。第二作「宗教と反抗人」を発表。
著者紹介
アウトサイダーという言葉は、ウィルソンの発明ではないが、鮮明にその概念を描きだした彼の手法は、旧来のアカデミズムの外の流れにいながら、大英図書館に日参したその文献主義から生み出された。必ずしも大作ではないが、その網羅している世界は広い。このブログに関係ありそうなところだけをちょっぴり拾い上げておく。
現在までにおけるヘッセ最後の大作は、1937年にあらわれはじめ、1945年に決定版の刊行をみたものであるが、これは、かれのもっともすぐれた作品である。ロマン主義特有のしつこさがなくなっているこの小説には、ヘッセとしては新しい傾向といえる簡素なスタイルが形式が見られる。
この「ガラス玉演戯」の時代は、未来のある一時期に設定されている。貴族的なインテリ階級、カスターリエン階級が国家によって維持され保障されている時代である。
p63
全体としてみれば、ヘッセの業績に比肩しるものは近代文学にはほとんど見あたらない。ヘッセの全作品は、一つの観念、いかにして「より充実した人生をおくるか」という基本的、宗教的観念がたえず上昇しつつ描く曲線にほかならない。シェイクスピアやトルストイに想像力があったという意味では、ヘッセは想像力をほとんどもっていなかった。が、ヘッセの観念には、それを償って、あまりある活力があった。なによりもまず、かれは、「われわれの人生をいかにすべきか?」の問題探究のために小説を利用した小説家であり、人生をゆきあたりばったりにうけいれる代りに、いかに生きるべきかに関心をいだく人間は、それだけで、おのずから「アウトサイダー」なのだ。
p65
「ガラス玉演戯」は、未来小説なのだが、私には、過去の理想郷のお話のように聞こえる。別なところでウィルソンはグルジェフを取り上げる。
南フランスにあるグールドドジェフの「学校」は、「人間の調和的生育を目的とする道場」と呼ばれているが、つまりそれは、人間の三つの要素を調和的に育てあげるという意味である。グールドジェフ方式のめざす目標と「アウトサイダー」の求めるものが同一であることはまちがいない。
p294
ヘッセが求めた人間像が「アウトサイダー」あり、グルジェフのスクールがめざす人間像が「アウトサイダー」なら、コリン・ウィルソンが求めたものと、このブログの主テーマである「地球人スピリット」とは、当然のごとく深い関連性がでてくるであろう。
月は地球の弟で、地球は太陽の弟であるとか、遊星は人間と同じような生きものであるとかいった説は、読者の好みに応じて、眉つばものだといえぬこともない。しかし、心理学者としてのグールドジェフが驚くべき洞察力のもち主であることは疑問の余地がない。かれが本書の領域にはいってくるのは、この心理学的な面においてである。
p294
このブログにおいては、レムリア→シュタイナー→コリン・ウィルソンと繋がってきたのであるが、シュタイナーのレムリアについての特殊な表現は、グルジェフの「宇宙観」とともに、ウィルソンは、とりあえず、ここでは埒外としているということだろう。
ヘッセの水彩画 2007.11.04
ヘルマン・ヘッセ 雲 2007.11.04
わが心の故郷 アルプス南麓の村 2007.11.04
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