「肚 老子と私」
加島祥造 2005/07 日本教文社 単行本 190p
★★★☆☆
「え~と、これ、なんて読むんですか? (モジモジ)」って、あんた、図書館の職員がこの文字くらい読めなきゃだめでしょ、ハラ、ってよむんですよ。
って、ちょっとびっくりした。だけど、私もいきなり「肚」と出されたら、読めないかもしれない、と思った。「と?」いや違うな、なんじゃろ。ちなみに私のパソコンで「はら」と打ってもこの文字はでてこない。楽天のアフェリエイトの表記にいたっては「竓」なんて、これまた読めないへんてこな文字が表記されている。それだけ「肚」は現代日本人からはかけ離れた存在になってしまっている。ところがこの文字、ある意味、日本精神史に燦然と輝く究極の一文字かも知れないのだ。
肚。「月」偏に「土」のつくり。これなかなか言い得ている。月は肉月だから、肉体にかかわることがらに関係する。そして、土、これは大地だ。人間の肉体と地球の大地をつなぐもの、それが「肚」---ハラなのだ。意味は重い。
地球人というとき、私は、丸い地球儀に二本の足で立つ一人の人間の姿を思っていた。では、地球と人間を結ぶものは足ですか。それも一つの正解であるにはちがいない。しかし、「肚」は、いやちがう、地球と人間の命をつなぐものは「肚」だ、と主張する。
このブログでは、思 い立って、
チベット密教関連本
も数十冊
読んでみた。そして結局は二つの方向性がでてきた。ひとつは、やはりチベット密教の最高峰ダライ・ラマの著作や言動を追うことがまずは現代のチベット密教とのつきあいだということ。そして、もうひとつは 、
シャンバラの道
をたどることだった
。そういえば、そのシャンバラへの旅も、すこし地下にもぐり 、、
Oshoのハラ・センターでのレクチャー
あたりでで
沈静していたのだった。
Blow the heart there are three centers, above the heart there are three centers. But all these seven centers grow like a tree from the original source of the hara. That's why, in Japanese, suicide is callde hara-kiri. People don't cut their throats, they don't cut their heads. They simply pierce a small knife into the hara center---just exactly two inches below the navel---and the person dies. OSHO
ハートの下に三つのセンターがあり、ハートの上に三つのセンターがある。しかし、すべての七つのセンターは、ハラの源泉から木のように成長する。日本において自殺がハラキリとなる理由だ。人々は、喉も切らないし、頭も切らない。彼らは、ちょうど臍より2インチ下のハラ・センターに小さな刀を刺す、そして人は死ぬ。
OSHO
この本は、著者が77歳の時に体験したことを基に、3年の熟成期間をおいて書かれている。四住期の例えで言えば、学生期、家住期、林住期を経て、著者の最後の遊行期の心境が語られていると言ってもいいだろう。どことなく、最後の虚飾を取り払った覚悟の諦観という意味 では、
玉川信明
の晩
年の著作群に似ていないこともない。
新井満の
「自由訳 老子」
と
同じところの訳があったので、並べて読み比べると面白い。
道(タオ)につながる人は
柔らかなのだ。
その柔らかさは、ベビーの柔らかさだ。
ベビーっていうのは
まったく邪心がないから、
毒虫だって刺さないし、蛇だって咬まないよ。
ましてや虎や鷲なんかは手を出さない。
ベビーっていうのは
骨は細いし筋肉はふにゃふにゃだよ。
それでいて手を握ったときの
あの拳(こぶし)の固さはどうだ!
男と女の交わりなど知らんくせに、もう
オチンポはしっかり立つ!
それはベビーに
真の精気(エナジー)が満ちているからだよ。
一日中泣きわめいたって
声が嗄(しゃが)れないのは
身体(からだ)全体が調和しているからさ。
何に調和しているのか、といえば、
道(タオ)の本源の精気と調和しているのさ。 (第55章)
p166
<異説>親鸞・浄土真宗ノート 2009.03.15
意識は科学で解き明かせるか 2009.03.14
感じる脳 2007.09.10
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