「スピノザ エチカ抄」
バルーフ・ド・スピノザ /佐藤一郎 2007/03 みすず書房 310p
★★★★★
この本、<再読>とは言うものの、 初読 は店頭でのそそくさとした立ち読みだったのだから、今回が初読と言ってもいいくらいだ。しかし、前回は、店頭にて、この本を発見しただけで、ただただ感動したのだった。どうも古びた世界のスピノザは、図書館でも影に隠れた一角に追いやられていて、かび臭いコーナーに鎮座していた。しかもなかなかこのブログのスピードについてきてくれない頑固さがあったように感じていたからだ。
だから、この本を店頭で手にした時は、ようやく熟読できる本にであったかな、という期待感がわんわんと沸きあがってきたのだ。このブログにおいて「マルチチュード」カテゴリが始まったのが2006.10.08。つまり、その時点ではこの本はこの世になかった。その後半年してこの本が登場したのだった。
このカテゴリにおいて <再読>したい3冊 として残ったのは、スピノザ関連の3冊だったけれど、結局、そのうちの2冊はスピノザ解説本であった。スピノザとは誰か、スピノザは何を言っていたのか、という解説である。ところが、こちらの本は、前書きもなく、いきなりスピノザの「エチカ」が始まる。、もっとも、最新のいかにも洗練された日本語で表現されたスピノザだし、5部構成のうち、第3部と第4部の一部がカットされている、というから、まるまるの「エチカ」ではないだろう。「抄」と名づけられた所以である。
とは言え、こちとら、350年前の原書が読めるわけでもなく、また、その重要性に気づいてさえいないのだから、今は、解説本から、ようやく原書の翻訳書までたどり着いたということを喜ぶべきであろう。マルチチュード、あるいはシンギラリティを追っかけて、ここまできたのだが、もうここまでくると、一単語がどうの、というより、なにはともあれ、スピノザの合理性、理性、知性までたどり着いたことを喜びとしよう。
このようにして、人々が自然の物を完全または不完全と呼ぶことに慣らされたのは、それらを真に認識しているよりも、先入見からであるということをわれわれは見てとる。じっさい、第一部の付録でわれわれは、自然が目的を考慮してはたらくのではないことを示している。われわれが「神」あるいは「自然」という名で呼ぶ、あの永遠にして無限な存在者は、実在するのと同じ必然ではたらきを行うからである。というのも、実在するこにかけての自然の性の必然と同じ必然で、その存在者がはたらきを行うことをわれわれは示したから(第一部命題十六)。そうすると、神、言いかえるなら自然がはたらく理由あるいは原因と、それが実在する理由あるいは原因とは一つの同じものである。それゆえ、それが実在するのが何の目的のためでもないように、はたらきを行うのもまた何の目的のためでもない。それどころか、実在することと同じく、はたらくことにも、始まりをなす原理や終りとなる目的を何ももたないのである。他方、「目的原因」と言われる原因は、人間の要求衝動が何かのものごとの始まり、言いかえると一次的な原因のように考えられるかぎり、まさにその要求以外になにものでもない。 p196
この本こそは、再読どころか、三読、四読、そして、<熟読>されるべき一冊となるだろう。このブログにおいては、一定の速度で読書を進めているために、この一冊に密度の高い時間をかけることはしないが、いずれはそのような時がくるに違いない。すくなくとも、初回の立ち読みに続いて、今回は、少なくとも数週間から一月は私の手元にこの本があるのであり、その間はゆっくり楽しめるということである。
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