「ウィトゲンシュタイン」
言語の限界
飯田隆2005/10 講談社 全集・双書 379p
No.972 ★★☆☆☆
こ
の本、ひょっとすると人気のある本なのかも知れない。図書館からゴソっとウィットゲンシュタイン本を借りてきたはいいが、どうやらこの本の古いヴァージョン 「現代思想の冒険者たち(第07巻)」
のほうも一緒に借りてきてしまった。こちらは1997年発行。装丁は若干の違いはあるが、内容はほとんど同じとお見受けした。つまり絶版になったので改訂版を増刷したということなのであろうが、一つの図書館で、この二冊を並べておく必要性の是非はいかに・・・・・?
ウィトゲンシュタインの意図を尊重しながら「論考」を読もうとするのであれば、各命題の番号に含まれている指示にしたがってよむべきである。だが、そうすることは、普通の本の場合に許されるような直線的な読書というものを断念するに等しい。ひとつの文章を理解するために、それがどの命題のコメントになっているのか、また逆に、その文章にはどのようなコメントがあるのかを、常に確かめながら読むということになれば、前の頁に戻ったり後の頁に飛んだりといったことを繰り返さなければならない。こうした読み方が要求されるのであれば、百頁の本であろうが、その忠実な読者にとって、それが、その数十倍どころか、数百倍の長さの書物と映っても不思議ではない。
p32
ウィットゲンシュタインが現代に生きていたら、かならずや、ワープロやネット活用の達人になったに違いない。すくなくともハイパーリンクの活用は彼の哲学表現の必須条件になったであろう。
モ
ンクの伝記を見る限り、ウィトゲンシュタインは、単に同性愛的傾向の持ち主であったばかりではなく、はっきりと同性愛者であったと言ってよい。証拠が必要ならば、後年ケンブリッジに戻ってからの、彼のフランシス・スキナーとの関係について、モンクが述べているところを読めばよい。
p120
世紀を代表する天才哲学者になるというのはかくも大変なことなのか。頭の中身だけではなく、お尻の素行まで調べられてしまうのである。
モ
ンクによれば、ウィトゲンシュタインは、階級的にも知的にも自身とそれほどかけ離れていない相手を同性愛の対象とし、それに満足していたのに対して、バートレーによれば、それはじつは、より強烈な要求---自分とはかけ離れた階級に属し、知的にも洗練されていない、むしろ野蛮な若者への要求---から身を守るための戦略であったことになる。 120p
これが、仮に、異性愛についてであったとして、「彼が近くのオバハンたちとの愛にうつつを抜かして満足していたのは、あの、若くてピチピチしたギャルたちから身を守るためであったのである」というような文章を読まされている、ことになる。
ヘンなの・・・・・・?
男
性に対してであろうが、女性に対してであろうが、愛は、かれにとって貴重なものであった。かれは愛を、ひとつの賜物、ほとんど神聖と言ってもよい賜物とみなしていた。しかしながら、ヴァイニンガーと同様、かれにとって、愛は、性からはっきり区別されるべきものであった。性的興奮は、同性愛的・異性愛的を問わず、かれに大きな苦悩をもたらした。それが、自分がなりたいと思っていた種類の人間とは両立しえないと、考えていたと思われるからである。
p121
やっぱり、哲学者なんてのは、ほとんど病人の世界だなぁ。箸がころんでも笑う年頃、というのもあるが、哲学者とやらは、なにがなんでも、なにかにかこつけて「悩む」ネタを探しているのだろう。万死一生、ここで「悩まなければ損だ!」って、とにかくネタを探しつづけているような生き方だ。
「男
性に対してであろうが、女性に対してであろうが、愛は、かれにとって貴重なものであった。」
こんなことをいちいち聞かされるのであれば、わたしゃぁ、哲学など学ばなくてもよい。愛は誰にとっても貴重なものであるに決まっている。貴重だからこそ「愛」というのであろう。哲学とはフィロソフィー、知を愛する、という意味だ。知は大切で貴重なものだから、愛するのであろう。愛は粗末なものであるはずがない。へんなの・・・???
「男
性に対してであろうが、女性に対してであろうが、」
なんじゃろか、この文章は・・? 私はごくごくありふれたヘテロでござりまするから、よそさまの「お楽しみ」を邪魔する気もないし、その「苦悩」を代わって背負ってあげるいわれもない。思うに、ネコ好きか、犬好きか、でさえ、論争が起きるというのに、ここではなんでもござれ、ですか・・? キミはウドン派か、ソバ派か、あるいは両刀使いか・・? まぁ、とにかく、浜のスナゴは尽きるとも、世に哲学のタネはつきまじ・・・・、ということかいな。
こ
のもうすぐ21世紀になろうとする現在、哲学などというものが未だ存在することは不思議だという人々に対して、哲学の存在意義を説く場合、よく見られる二つのパターンがある。ひとつはその理論的意義を解くものであり、もうひとつはその実践的意義を説くものである。
p188
もうすぐじゃなくて、すでに21世紀になっちゃいました。しかも8年経過いたしました。
ま
ず気付かれるのは、このどちらもが、哲学に対して、科学の補完者という位置を与えていることである。哲学は、一方で、科学の領域を広げる先導者であり、他方で、科学の領域がどれだけ広がっても残る部分における案内人である。科学との関係においてのみ哲学の存在意義をを考える必要は、いったい、どこから出て来るのか。それはきっと、もちろんいくつかの留保をつけてのことではあろうが、科学をさらに発展させることが社会にとってよいことだと一般に考えられているからであり、この通念に乗っかって自身の存在意義を説くことが有効だと思われるからであろう。
p189
これじゃぁ、まぁ、あれだなぁ、何もその息の根を止めなくてもいいかな。勝手にご自身で息を引き取っていただくに限るかも。
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