「ソフィーの世界」
哲学者からの不思議な手紙 <3>
ヨースタイン・ゴルデル /池田香代子
「スピノザは、聖書は一字一句まで神の霊感にみちている、ということを否定したんだ。聖書を読む時は、それどんな時代に書かれたのか、しっかり見きわめなくてはならない、とスピノザは考えた。この批判的な読み方をすると、聖書のいろんな書や福音書のあいだに矛盾がぼろぼろとでてくる。しかしそれでもなお新約聖書のテクストを深くさぐれば、神の代弁人としてのイエスに出会う。イエスのメッセージはまさに、コチコチになってしまったユダヤ教からの解放を告げていた。イエスは、愛がなによりも貴いという、理性にもとづく宗教を説いた。スピノザはこの愛を、神への愛であり、ぼくたち人間同胞への愛だ、と考えた。でもキリスト教もまたたくまにコチコチの教義として空しい儀礼にこり固まってしまった。 p314
「まぁね・・・・スピノザは、存在するものはすべて自然だと言っただけではない。神と自然をイコールで結びもした。だから『神すなわち自然』という言い方をしている。スピノザは存在するすべてのなかに神を見た。そして、存在するすべてを神のなかにあるものとして見た。」
「だったらスピノザは汎神論者だったのね」
「そのとおり。スピノザにとって神とは、かつてある時この世界をつくって、それからは自分の創造した世界をただ傍観している者ではなかった。ちがうんだ、神は世界で ある のだ。スピノザはちょっと違う言い方もしている。世界は 神のなか にある、と言ったんだ。スピノザはアレオパゴスでのパウロの話を引用している。パウロは、『なぜならわたしたちは神のうちに生き、動き、存在しているからです』と言った。だけど、スピノザ自身の考えの道筋をたどってみよう。彼のいちばん重要な本は『幾何学的方法にもとづく論理学(エチカ)』」
「幾何学的・・・・・・・論理学?」 316p
「でもスピノザはこの分け方を受けいれなかった。スピノザは、あるのはたった一つの実体だ、と考えた。存在するすべては、もとをたどれば一つのものだ、と考えたんだ。そしてこの一つのものをずばり『実体』と名づけた。ほかのところでは『神すなわち自然』とも呼んでいる。スピノザはデカルトのような二元論で現実をとらえなかったわけだ。だからスピノザは一元論者と呼ばれている。全自然とすべての生命をたった一つの実体へとさかのぼらせた、ということだ」
「じゃぁ、二人は一致するところがまるでなかったのね」
「ところが、デカルトとスピノザの違いは、それほどでもないんだ。デカルトも、自分の力で存在するのは神だけだ、と言っていた。ただしスピノザが神と自然を、あるいは神と世界を同じものと見た時、デカルトからぐんと離れてしまったし、キリスト教やユダヤ教の考え方とも離れてしまった。
「だって、そうだとすると自然が神 である ってことになってしまうものね。これは破門されるわ」 p317
「こないだ会った時は、デカルトとスピノザの話をしたんだったね。そして、二人には重要な共通点がある、ということを確認した。つまり、二人とも筋金入りの合理主義者だってことだ」
「合理主義者っていうのは、理性が大切だと考える人のことね?」
「そう、合理主義者は、理性が知の源だとして信頼をよせる。人間には生まれつきそなわった観念がある、と考えているばあいも多い。生得観念っていうんだけど、そういう観念が経験とは関係なく、人間のなかにあるとされるんだ。そして観念が明らかであればあるほど、現実のものとますますぴったり一致する、とね。デカルトが『完全なもの』とはっきりした観念を認めていたこと、憶えているね? デカルトはこの観念から出発して、神は本当に存在すると結論した」
「わたし、そんなに忘れっぽいほうじゃないわよ」
「こういう合理主義的な考え方が17世紀の哲学の主流だった。中世にもあったし、プラトンとソクラテスにもあったけど、ところが18世紀になると、この合理主義に批判が出てきた。批判はするどくなるいっぽうだった。多くの科学者たちは、感覚的経験をしないうちはぼくたちは意識の内容なんかもっていない、という立場をとった。そういう見方が『経験主義』だ」 p331
スピノザを読んでも、スピノザを解説している本を読んでもなかなか理解できない。でも14才の少女と一緒に学習すると、なるほど、わかりやすい。
<4>につづく・・・・かも
悟りへの階梯 2008.10.27
ツォンカパ チベットの密教ヨーガ 2008.10.26
聖ツォンカパ伝<2> 2008.10.25
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