「坐禅和讃」
Osho 白隠禅師を語る <1>
スワミ・プレム・ラジヤ/ スワミ・アナンド・ヴィラーゴ/訳 1990/3 瞑想社
Vol.2 No.0020 ★★★★☆
Oshoの禅の風合いも、いわゆるPune1の最後期における歯科椅子シリーズのひとつ 「私が愛した本」
などにでてくる禅の響きと、 Pune2の最後期にあたるいわゆるZenシリーズ
における禅の響きには、微妙な違いがある。いや、大きな違いがあると言ってもいいかも知れない。
Pune1においては、禅の伝統を借りながら、さかんに禅にラブコールをしている風にさえ感じられる。ところが、Pune2においては、禅というより、Zenといったほうがいいくらい、日本や中国における伝統は伝統として、そこからはもうすでに遠く立ち去ったかに感じられるOshoがいるように感じる。Oshoは和尚ではなく、彼が語るZenは禅ではない。そんな感じさえする。
この「坐禅和讃」は、よく調べてみる気もないので、不明だが、Pune2のZenシリーズの一冊ではないのではないだろうか。 セツの「シーポヨのしわざ」
によれば、この本の原書「THIS VERY BODHI THE BUDDHA」は77/12/11に講話が始まっていることになっている。まさに私がPuneでテイクサニヤスした2日後に始まっていることになっている。
当処即ち蓮華国
此の身即ち仏なり
白隠禅師の「坐禅和讃」のなかの言葉は、当然、白隠禅師の存在があったればこそ生きてくる言葉ではあるが、すでに、この講話がなされて30年後に再び感じてみれば、この言葉を、Oshoの存在を通して感じなおしてみれば、
THIS VERY BODY THE BUDDHA
THIS VERY PLACE THE LOTUS PARADISE
という言葉もなんとも味わい深い。しかも、「身」と「処」の順序が変わっている。日本語訳の翻訳者たちは、このタイトルの講話の(たぶん)10日のうちの、第1日目と、第6日目を翻訳して、一冊にしている。本来であれば、このタイトルの10日間を通して読んでみたいところだが、(もう出ているのかもしれない)、ちょっぴり物足りない感じがする。
Oshoに、自分の知っている世界を解釈しなおしてもらいたい、新しい光をあててもらいたい、という気持ちはわかるのだが、しかし、あれから30年経過してみれば、Oshoは伝統に衣装を借りてはいたものの、自ら表現しようとしていたことは、むしろ、その伝統を断ち切ることだった。もっと現代的(つまり21世紀的に)なセンスで、この本はもういちど翻訳しなおされてもいいのではないだろうか。
THIS VERY BODY THE BUDDHA
THIS VERY PLACE THE LOTUS PARADISE

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