「虹と水晶」
<3> チベット密教の瞑想修行
ナムカイ・ノルブ /永沢哲 1992/02 法蔵館 単行本 242p
すべてを生み出す王である心を、あるがままの本然の境地に置いておくのでなければ、たとえ密教の「生起次第」や「究境(ママ)次第」を修行し、無数回、マントラを唱えたとしても、完全な解脱にいたる道を進んでいるとはいえない。一つの国を征服するには、国王や重臣など、中心となる者たちを屈伏させる必要がある。国民の一部や大臣を何人か従えたところで、自分の目的を果たすことはできない。
気を散らすことなく、目ざめたまま、自分の心を観察し続けるのだ。それができずに、心が外にさまよい出ていくようでは、終りのないサンサーラから、自分を解き放つことは不可能だ。散失と忘却と幻影の支配から心を解き放ち、自分をコントロールして、覚醒を保ちながら真の境地にとどまる。そうすれば、すべての教えのエッセンス、すべての道の根本を自分のものにすることができる。 p198
ここで、何が語られ、何が語られなかったのか、は、一読書子としては明確な判断はつかない。ゾクチェンの真髄、ゾクチェンの境地、それらの言葉やシンボルから、判断するだけだが、ここで指し示されようとしていることは、そのまま、違和感なく飲み込むことができる。
行為における自己解放が、ゾクチェンのタントラ、アーガマ、ウパデャすべての基本原則だと言うと、現代の若者たちは大喜びする。だが、中には、覚醒した知恵が自己解放の真の土台だということを理解していないものもいる。それ以外にも、理論上はそれについてすこしは知っているため、議論はできても、あいかわらず現実に実践しないという欠点を持っている者も多い。薬の性質と効能を良く知っている病人がいて、その薬を上手に説明することができたとしよう。それでも、本人がその薬を飲まなければ、けっして病気を治すことはできない。わたしたちの心も同じだ。無量の時間のあいだ、わたしたちは二元論的なあり方に条件づけられ、その限界に服するという深刻な病を抱えてきた。それを治す唯一の治療法は、さまざまな限界のわなに陥ることを避け、自己解脱の本然の境地を真の意味で理解することだ。 p207
道を尋ねても、その道を行く気持ちがないのであれば、最初から道を尋ねる資格はない、ということは、そのとおりだと思う。
マハームドラーやゾクチェンについてたくさんおしゃべりしたところで、本当は、細部にいたるまで、世俗八法のとおりにふるまう専門家になるだけのことだ。それは真実の慈悲がまだ生まれていないことをはっきり示している。そして、その根源は、覚醒と知恵が、自分の心の連続体に、いまだ真の意味で、生じていないという点にある。 p211
当ブログも、不注意なおしゃべりは無用だということを、肝に銘じておく必要がある。
いま、地球では、全体の交通の流動化の中で、新しい文明はどんなものでありうるのか、さまざまな模索が続いている。その基本的条件は、宇宙の発生や、生命の死の瞬間にかかわる、次元と、多様な生命のおりなす具体的領域とを、自由に往来する知性と生き方のスタイルを生み出せるか否かにかかわっている。一方で、心の本性について、自分の生体を実験室にして、現代の素粒子論と見まがうような精密な哲学を練り上げ、他方では、薬草の知識や民衆のアニミスティックな世界にも通暁し、日々の要求を満たしながら、生と死の薄い被膜をわたる、たわむれにみちた実存的自由の冒険をつづけてきたゾクチェンの伝統は、そんな新しい文明のあり方について考えるうえで、一つのモデルたりうるのではないか、と私は思う。 p240「訳者あとがき」永沢哲
この本が日本で最初に出されたのは1992年。当時と比べ、交通ばかりか、情報網としてのインターネットが爆発的に発達した21世紀の現在、この訳者の予感、直観は、ますます妥当性を持っているのではないだろうか。
悟りへの階梯 2008.10.27
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