どうやって私はあの究極の本、スーフィーの 「本(ザ・ブック)」 を忘れることができたのか。おそらく私が忘れたのは、あれがただ白紙のページだけで、中に何もないからだろう。1200年間の間スーフィーたちはこの上もない尊敬をこめて 「本」 を持ち運び、そのページを開いてはそれを学んでいる。彼らが何を学んでいるのか人は不思議に思う。長い間白紙のページに向かっていれば、人は自分自身に戻って来るほかはない。それこそが本当の研究----仕事(ワーク)だ。
どうして私に 「本」 を忘れることができたものか? 今となっては、誰が私を許すだろう? 「本」 は、最後にではなく最初に言及されるべき本だった。それは超えられることのない本だ。何も含んでいない本、そして無のメッセージを伝えている本以上の本をどうして創ることができる?
無(ナッシングネス)とは、お前のノートでは、デヴァギート、もの---ではない---こと(ノー・シング・ネス)、と書くべきだ。そうしないと無という言葉は消極的な意味に、空っぽの意味になってしまう。が、そうではない。その意味は「充実」だ。空っぽという言葉は、東洋ではまったく違った文脈を持っている・・・・シュンニャータだ。(中略)
東洋ではシュンニャータ----空----という言葉は、英語の「空っぽ」のことではない。それは充実、あふれるほどの充実のことだ。あまりに充実しすぎてそれ以上何も必要がないということだ。それがこの 「本」 のメッセージだ。どうかこれをリストの中にいれてもらいたい。
一番目は、 スーフィーの「本」 だ。 OSHO p16
英知の辞典<16> 沈黙 Silence 2009.01.13
狂人ノート<3> ミルダッドの書 2009.01.12
私が愛した本<29> 維摩経 ヴィマルキ… 2009.01.12
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