<第1期>ラスト9冊目
「こころの情報学」
西垣通 1999/06 筑摩書房 新書 236p
Vol.2 No.538 ★★★★★
★★★☆☆
★★★★★
著者の 本は、いまいちタイミングが合わなかった。 理由の ひとつは、彼が情報科学の専門家であり、一歩も二歩も前を歩いていて、こちらがようやく追いつく頃にはもっと先から社会を見つめていること。二つ目は、マルチタレントでありながら、徹底した科学者であること。合理性、理性を決して失わないこと。
三つ目は、二つ目の裏返しなのだが、彼は小説家でもあるのだ。どんな小説を書いているのかまだ読んだことはないが、左脳的な部分からだけアプローチしていただけではこの著者の全体像は見えない。右脳的な部分はキチンと分けている、というところが、私などからみるといかにも左脳的なひとなのだなぁ、と思ってしまうのである。
さらに、彼は国立大学の先生である。しかも学界をリードしなくてはならないような立場にある。そういう立場からの発言、ということが、彼の研究全体に影響があるのではないだろうか。つまり、クラスのいじめられっ子でもなければ、ちょっと不良な暴れん坊でもない。優等生の学級委員長的な立場なのだ。
どっちかといえば、不良なひょうきん役を買ってでている当ブログとしては、意見があわないというより、肌あいが今いちあわないのである。彼の意見は意見で素晴らしい。とくにこの本などはピカピカ光っている。出版された当時に読んでいれば、この本は、コンテナ、コンテンツ、コンシャスネスにおいて、すべて★5であったはずである。しかし、1999年当時、私はこのような本を読む余裕はなかった。問題意識も不足していた。
2009年になってこの本を読んでいるということは、彼は当ブログより10年先を行っている可能性がある。だから、彼の言説には耳を傾ける必要があり、今後も彼の動向をうかがい、すこしでもその距離を縮める作業が必要だ。しかし、お互いの立場の違いを理解して、適当な距離間をたもつ必要があるだろう。漫才だって、ボケとつっこみの役割分担がある。この人は、形としてはピン芸人風ではあるが、けっこう漫才派なのではないか。しかもボケ役として。
彼はある意味、先を読み過ぎてペシミスティクに陥りやすい。現在では、時代の潮向に警鐘を鳴らす役割を買っているかのようでもある。でもそれって、ちょっとジジ臭い。すでに還暦を迎えられた著者に向ってジジ臭いとは、ほめ言葉なのか、けなし言葉なのかわからないが、すくなくとも、科学は世の中をリードするものであるし、ましてやその先端技術としての情報科学などは、リードの最先端であるべきだ。こちらがそう最先端であるべきだ、と勝手に期待しているのだが。
登山隊の本当のリーダーは隊列の最後に位置するという。先頭を切るのは、サブリーダーだ。まん中には、私のようなビギナーや一般登山家が挟まれる。もし、現在のこのウェブ化の波を登山に例えるとしたら、彼は隊長にもなぞらえてしかるべき人物だと思う。しかし、惜しむらくは、彼は、隊列の先頭に立っていて、旗振りをしながら、ここは危ない、あそこは避けよ、目指すはあの頂上だが、その前に足元の岩場を見よ、と、あまりに能書きが多すぎるような気がする。だから、せっかくの道々の風景も見落としそうになる。
彼には隊長として、最後尾で、しっかりと隊列を見守ってほしい。登山隊全体を山の頂上まで運ぶには、彼の存在は絶対に必要だ。しかし、あまりしゃしゃりでないで、決めるところは決める、という男らしさを期待する。この文脈で言えば、先頭で旗振り役を買ってでているのは梅田望夫あたりか。彼のオプチミズムには、危なっかしいところがあって、実は大変危険なリーダーでもある。その副隊長をじっと最後尾で見守る本当の熟練した隊長、そのような役割に徹してほしい。この本を読んでいて、まずそんなことを感じていた。
さて、<情報>と<心>とは直観的にはどう結びつくのでしょうか。
まず断言できるのは、<心>の問題は情報化社会でもっとも大切なテーマだということです。情報化社会といえば、ヒトの<心>のまわりに構築されると、と言っても過言ではありません。
P11
<心>をテーマとする情報学においては、いわゆる<生命情報>の定義だけではあまりに広すぎるというものでしょう。
ふつうわれわれが考える<心>とは、何らかの<意識>にもとづく認知活動から生まれるものです。<心>というのは固定した実体ではありません。それは、たくさんの情報の織りなす一種の場(トポス)における<出来事>からつくられます。一連の出来事が流れていく一種の<プロセス>とも言えます。
p33
心を一種の「情報処理機械」とみなす見解は、現代社会ですでにかなりの支持を集めています。神秘主義を好む人たちは、物質科学では説明のつかない超自然的な何かが、<心>のなかに潜んでいるという見解を好みますが、少数派と言えるでしょう。
心が情報処理機械ならば、原理的にはこれを人工的に制作できるはずです。実際、現代コンピュータはきわめて高度な情報処理機械ですから、これで心をつくろうというヒリヒリした野望に燃える研究者が現れても不思議ありません。彼らはコンピュータで心の働きをシュミレートするプログラムを創作しようというわけです。
p44
たとえば「精神医学」といった概念も、大昔は存在しなかったのですが、多くの人々がそれを容認し、今では医者の治療行為についても社会的常識が成立しているわけです。患者がイライザ(注 )を精神分析医とみなし、それで悩みが解消するなら、中身のプログラムが張りぼて五流品であろうと、立派な道具と言えるかもしれません。そもそも「実体」などというのは、よく考えてみると雲をつかむように不分明なものではありませんか。 p50
情報化社会におけるヒトの心(これは本書ではとりあえず「サイバーな心」と呼ぶことにします)は、これまでのヒトの心とはかなり異なる特質をもっています。くわしくは次章で述べますが、このことは、コンピュータを中心とするデジタル情報技術が、アナログ情報技術とは違った多様なイメージの自由自在な操作を可能にするためです。とくにマルチメディア技術やヴァーチャル・リアリティ技術はこういう潮流と関わっています。 p132
1980年代の人工知能から1990年代のマルチメディア / インターネットというコンピュータ工学の流行の推移は、モダニズムの極点において「身体性の復権」という反転が生じたことを、みごとに象徴しています。マクルーハンの予言は的中したのです。
しかし、問題はこれからです。いったい、それらの新たな情報技術は、はたしてかつての聖なる身体性や共同性を真によみがえらせるのでしょうか。
p186
マルチメディアやインターネットで地球村ができ、世界市民が参加して全感覚をとりもどす、といった楽天主義を語る人々がいますが、彼らは、情報化社会が一面では近代化がいっそう進む抽象的な社会であるという点を度外視しているのです。 p189
1997年3月、米国カリフォルニア州でカルト宗教集団「天国の門」の信徒たち39人が集団自殺しました。彼らは全員、真新しいスニーカーをはき、衣類を旅行鞄につめ、旅立つような格好をしていたそうです。ヘールポップ彗星の尾のなかに隠れているUFOが、彼らを「より高い世界」につれていってくれるはずだったからです。
肝心なのは、自殺した信者たちが、科学技術とは縁のない生活をおくる迷信深い人々ではなかった、という点です。「天国の門」はインターネットを布教の手段として使っており、彼ら自身、ホープページ制作請負会社「ハイヤーソース」の有能な社員たちだったのです。教団のホームページには、青黒い巨大空間をただよう宇宙船や、プラスチックのような肌をもつ近未来人などの画像があり、天国についての黙示録風の文章も書かれていました。「この世の終わりに神の代理人である教祖が来臨し、選民の魂だけを宇宙船で天国へつれていく」といったものです。「天国の門」教祖のアップルホワイトの身体が何重にもかさなり、神秘のオーラをまとっているビデオもその後発見されました。
p202
考えてみると、「情報が多すぎる」とは言いますが、「知識が多すぎる」とはあまり言いませんし、まして「知恵が多すぎる」と言うことは決してありません。つまり、情報とは「事務的・機械的に処理するもの」であって、われわれの生活に深みを与えてくれるものとは受け止められていないのです。 p221
「サイバーな心」というと、すぐに脳神経にシリコンチップが直結されたサイボーグを思いうかべがちです。しかし、そのようなものを追求するのは空しいでしょう。むしろ急務なのは、ヒト特有の「言葉の力」を高めることなのです。 p223
国民国家が「国語」を独占できる時代は、過去のものになりつつあります。もちろん、21世紀にも国家がなくなることなどないでしょうが、その形態や機能は、絶対的な政治単位からゆるやかな国際連合体の要素という方向に変わっていくかもしれません。そういう潮流のなかで、いかに自分の言葉をとらえ直し、自分のアイディンティティを見つめ、地球上のコミュニケーションに参加していくか、それがいま、問われているのです。 p225
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