モラルに体当たり記

モラルに体当たり記

September 26, 2006
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カテゴリ: 書評
古典を読んどかねばと、古典講読にとりかかっているのだが、
これが、ちっとも進まない。

話の流れがある小説と違って、
学術書というのは何が書いてあるか予測がつかない。

なので、ちょっと油断すると、一瞬にして
話がわけわかんなくなるんである。

さらに、たとえ集中してたとしても、
文そのものがわかりにくいこともしばしばだ。

「もうちょっとわかり易く書いてくれよ、


と何回も思う。

しかし、これが、人生を重ねて経験を積んでいくと、
書かれていることに思い当たる節がたくさんあり、
「おおおお!なるほど!私が経験したことはそういうことだったのか」
と、すらすらと読めるようになるらしいのだ。
(ほんとかよ・・・涙)

逆に、早熟にしてこういう古典を読んだ人たちは、
様々な現実に触れるたびに、
「ああ、なるほど。あそこに書かれていたことはこういうことだったのか」
と、逆向きの追体験をするのだろう。

前者と後者では、疑問の溶解の方向が真逆なので、


私は間違いなく前者なので、
もし私が後者のような早熟な読書家だったら、
どんな人間になっていただろうか。
(私はこういう「もし私が●●だったら」という想像をするのが好きである)

とにかく、古典、すすまないんである。

古典講読の面白いところだ。

しかし、本(特に古典)というのは、読めば読むほど、
「上には上どころか、すっげーーーー上がいるもんだ」と、
自分の知識の浅さと、発想の貧しさに絶望的な気分になる。

(ああ、そういう意味で、「古典を読め」といわれるのは、
一種の戒めなのかも。
こんなの読んだら、いい気になんか絶対なれないもの。)

色々意義はあるのだろうけれど、
「古典を読む」ことの第一の意義は、
わからないけど読む、ということなんじゃないかと思う。

第一に、
わかっていることをわかるように書いたものを読んでも、
私たちの心の中に作られた常識という壁は崩せない。

自分を相対化して見るには、
自分の「当たり前」が通用しない、
「わけのわかんないもの」が必要なのである。

第二に、
「わけのわからないもの」を理解しようと努めることで、
自らの限界を乗り越えることが可能になる。
少しずつ、自らの限界を伸ばしていっていると、
突然、階段を上るようにわかる日が来るのではないか
(だといいなという妄想込み)。

というわけで、古典を読む際は、
「このおっさん、何言ってるか全然わっかんねえなー」
と思いながら読み、
99%わけがわからないままに終わる、
というのが、古典の正しい読み方なんじゃないかと思う。

決して、私の頭が悪い言い訳なわけじゃ・・な・・い・・・。





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Last updated  October 5, 2006 11:04:16 AM
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