モラルに体当たり記

モラルに体当たり記

July 7, 2007
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カテゴリ: 専門
スピヴァクの講演会@一橋に行ってきました。

以前書評を書いたこともあるけど、
スピヴァクは『サバルタンは語ることができるか』を書いた
インドの人文学者・哲学者。

ポストコロニアル批評の代表的な研究者で、
現代の最高の知性の一人といってもよいお方。

当日は、主催者側が見込んでいた200名を
はるかにオーバーした人数(たぶん600名程)が押し寄せ、
会場は大幅なキャパオーバーで大混乱。


メディアに宣伝しているわけでもないのに、
これだけの人を辺境・国立まで呼ぶことができるという所に、
現代におけるスピヴァクの影響力を感じ取れる。

それほどのお方ですもの。どんな方かと思いきや、、、
髪の毛がオレンジの五分刈りな、ファンキーなおばちゃんだった。

予想外の人数による会場の様々なトラブル・手際の悪さにも、
むっとすることなくユーモアで対応していて素敵☆
しかも、講演途中にインドからかかってきた妹の電話に出る
という暴挙っぷり(w。最高☆

でも、講演の内容は、ひとつひとつ、とっても深いな、と
感じさせる内容で、自分の研究についても、非常に考えさせられた。


それから、今回の講演では、通訳を担当した
東京経済大学の本橋先生の通訳が、本当にすばらしかった。
アカデミックの講演で普通の通訳を雇うと、
その分野の専門用語がうまく訳せないという問題があって、
聞いているこっちがイライラすることがよくあるのだけれど、

非常に的確な訳でした。

そのあと行われたレセプションは
信じられないくらい人が少なくて(30~40人くらいかなあ)、
スピヴァクに直接質問する機会もあり(!)、
その他にいらしていた第一線の先生方とお話しすることもでき、
実に有意義でしたよ。
(学生料金が4000円だったので、皆遠慮してしまったみたい。
もったいない!)

私は、2ショット写真まで撮ってしまいました☆イェーイ!
これだけでも4000円払った価値はあるわ!

さて、ここでは、いくつか印象に残った話を。
第一に、コサインの『排除されたものたち』という本について。

この本には冒頭にこんな言葉がある。
「私たちは幽閉されることにすっかり慣れきってしまった。
 そのため私たちは、幽閉されることに対しては、
 何の抵抗も感じない。
 (たとえば)女性漁師に
 「腐った魚の匂いはいい匂いですか?悪い匂いですか?」
 と聞いたとしても、彼女たちは答えられるだろうか?」

もちろん、女性漁師に腐った魚の匂いを聞くことは、メタファーである。

ここで言われていることは、
腐った魚とともに生活している者にとっては、
「腐った魚」は日常であり、与えられた現実であり、
それが、腐っているのかどうかすら判断する基準がない、
ということ。

私は、以前読んだある被差別部落出身の女性の話を思い出した。
その部落研究の中で、彼女は小さい頃の経験を思い出して、
こう語っている。

彼女には、友達の家に呼ばれないとか、
友達のお母さんが彼女に投げかけた言葉とか、
「なんとなく変だな」
と思うことが、記憶の中にいくつもある。

けれど、幼い頃の彼女には、
それは「なんとなく変なこと」というものでしかない。

その彼女は、大きくなって開放運動に足を踏み入れる。
そして、そこで様々な理論を学ぶことによって、はじめて、
小さい頃「なんとなく変だな」と感じた過去の様々な出来事が、
「ああ、あれは差別だったんだな」と、再度編みなおされた
と語っている。

このように、差別や抑圧を受けている当事者の多くは、
自分たちが置かれている状況を、差別的なものだとも思わず、
疑うことを知らず、ただ、受け入れているのである。

だから、「幽閉された」者たちに、
権利の声を上げるよう求めたって、それは無理な話だ。

かれらの日常には、権利の概念はない。
いや、たとえあったとしても、
その権利が受け入れられる素地がないなら、
誰がそれを主張するだろうか。

コサインの言葉を借りて言うなら、
「腐った魚なんて嫌だ」と言ったならば、
新鮮な魚を与えられるのではなく、
今持っている「腐った魚」すら、取り上げられてしまう状況にあれば、
「腐った魚は嫌だ」なんて言えるはずがないのである。

コサインの文を引用したあとに、スピヴァクは、
「体験的な判断」と、「理論的な判断」を
区別することが重要であるといっている。

上の被差別部落の女性の例で言うなら、
「なんとなく変だな」と感じたことは体験的な判断である。
それをその後「差別」だと認定したのは、理論的な判断。
この、二つを分けることの意味は、とても重要である。

人々にとって、抑圧された者の声なき声に耳を傾け、
彼らの現実・体験を知ることは大事なことであるが、
それと、理論的な判断とはまったく別のものでなくてはならない。

抑圧された者が
「別に不幸じゃありません、今のままでいいです」
と言ったからといって、それを鵜呑みにして、
「あ、そう。じゃあこのまんまでいいのね」
と放っておくというわけにはいかない。

だって、それは「知らない」がゆえの、
体験ベースの判断かもしれないのだから。

しかしながら、である。
ここで終わらなかったのがスピヴァクの素晴らしい点なのだが、
では、彼らの声を、研究者や活動家が、
掬い上げて、代弁すればそれでいいのだろうか?

否、である。
スピヴァクは、研究者や活動家が、単に、
声なき抑圧された者の声を「代弁」することへも警鐘を鳴らす。

『サバルタンは語ることができるか』で、
スピヴァクが提起した問題とは、
そのような代弁者たちが、「彼ら」を分類し、分析することで、
「彼ら」の実情とはかけ離れた虚構の「彼ら」を作り出し、
あたかも自分たちが「彼ら」の代表者であり、
「彼ら」のことを彼らよりもよく知る専門家である
ような顔をして語ることの権力性である。

声にならない声を聞こうとしつつも、
その聞いた声の代弁者にならないためには、一体どうしたらいいか、
という部分にスピヴァクはクリアーな答えは与えてはくれない。

たぶん、そこをもう一歩推し進めるのは、
スピヴァクにそういう疑問を投げつけられた私たちの役割だ。

体験的な判断と理論的な判断を分けること。
代弁者になることなく、彼らの声を拾うこと。

このことは、誰のために、何を研究するのか、という
私自身の根本的な問題に関わっていると思う。

この夏にでも、少し突き詰めて考えてみようと思う。

長くなったのでまずはこのへんで。





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Last updated  July 10, 2007 01:58:15 PM
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