世界で一番愛する人と国際結婚

逃亡~ミラノへ





「何を言ってるの。冗談でしょう?」

私はできる限り冷静に、作り笑いをしながら立ち上がった。


彼は、包丁を自分のほうに向けた。
頬にはいくすじもの涙が流れてぐしゃぐしゃだったが、
恐ろしく真剣な顔をしていた。


「やめて!」


私は窓の側に駆け寄り、ノアールの手首をつかんだ。

ノアールが包丁を持ったままの姿勢で、私は彼の手首を
強くおさえつけ、必死になって彼をなだめた。


刃物が私のすぐ目の前に迫った。


『駄目だ。殺される?』


その瞬間、彼は刃物を自分のほうに向け直した。
そして、本当に自分を刺そうとしたのだ。


私は満身の力をこめて、刃物を持つ彼の手を外に向けて放り投げた。


刃物は彼の手を離れて、窓の外に消えた。



私達は無傷だった。


だが、私は頭に血が上って、ぜえぜえ息をしていた。


窓の下に落ちた包丁のことを思い出して、はっとした。


人通りが少ない場所で、夜も更けていた。
幸い、下には誰もいなかった。


外に包丁を拾いに行って、それをゴミ箱に捨てた時、
自分の手が震えているのが分かった。

今すぐにこの場から逃げ出したかった。


だが、自分の荷物が部屋にあることを思い出し、
仕方なく振り返った。


彼も入り口のところまで降りてきて、後ろに立っていた。


「僕が悪かった。お願いだから、出ていかないでくれ。
愛している。君がいないと生きていけない。」


私は、強行手段をとらないと彼と別れるのは無理だと思った。

黙ってここを出よう。



私をベッドで寝かせ、リビングのソファで寝ていたノアールは
一睡もできなかったらしい。翌朝、私と離れたがらないノアールを
無視して会社に行かせ、メトロに乗る彼を見届けた瞬間、
私は大急ぎでタクシーを呼んだ。


タクシーを下に待たせ、

現金、クレジットカード、パスポートをしっかり身につけ、
スーツケース2つとバックパックに入る荷物だけを運びだした後、
入りきらなかった服や本は、もう諦めることにした。


そうして、


私はノアールに短いお別れのメモを書き、アパルトマンの合鍵と、
彼のお母さんにいただいた、古いダイアモンドの指輪を封筒に入れ、
郵便受けに入れた。



夕方、帰った時に、この封筒を見つけたノアールの、
気が狂う姿が目に浮かんだ。


私は怖くなった。


その日は確か、8月の半ば頃だったと思う。
冷房のないアパルトマンは、かなり暑かったのを覚えている。



荷物を置かせてもらっている、パリで知り合った日本人の友人の
家で話を聞いてもらっているうちに、夜になった。


夜になると、また恐怖心が増す。


パリにはいたくない。


突然私達は、南仏に行こうと思い立った。


ただし、バカンスシーズンのパリのリヨン駅は、
ものすごい人でごった返していた。


今さっき思い立った私達が、南仏方面の指定席券を取るのは
無理だった。自由席はまるで戦場列車だった。


ずっと立ちっぱなしでもいいので、私は何としてでも電車に乗ろうと
したが、あまりの人でドアに近づくことすらできなかった。


もう、どこでもいい。パリを離れられるのならば。


今夜中に出発ができる行き先はないかと、窓口で訪ねた。


「ミラノ行きの夜行列車なら、寝台車が2席だけ空いています。
でも、もう5分で出発ですよ。」


私達は、迷わず、パリ発ミラノ行きの夜行列車に飛び乗った。
そして私はその日から1ヶ月以上、パリを離れてさまようことになる。


つづく



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