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2020.01.11
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カテゴリ: 宗教
Amazon kindle unlimitedで閲覧。


親鸞と聖徳太子 (角川新書) Kindle版島田 裕巳 (著)

1/11の朝のおつとめでは、聖徳太子の命日にちなんで、奉讃早引作法というお経を詠みました。
かねてから時代も違うし、聖徳太子が浄土真宗と縁が深いのを不思議に思っていましたので、ちょうどよい機会と思い、Amazon kindle unlimitedで検索したところ出てきたのが、島田 裕巳 先生の親鸞と聖徳太子です。島田先生らしく専門的な難しいことがわかりやすく解説されていました。

親鸞聖人が六角堂で受けた夢の中での聖徳太子のお告げの内容が、以前読んだ教科書ではぼかして書いてあったので、わかりませんでしたが、この本を読んで一発で分かりました。Wikipediaの意訳も抑え気味です。僧でなく4人の奥さんを持ちながら実質的に日本の仏教の礎となった聖徳太子を手本として、親鸞聖人が在家で非僧非俗の考えを実践されたとの解説はなるほどと思いました。

このほか、聖徳太子についても詳しく興味深い解説があり、楽しく読めました。聖徳太子を神格化するために作られた逸話も面白いです。キリスト教の処女懐胎説や、馬小屋で生れた話をベースにしたような逸話は、聖徳太子とキリスト教との関係を連想させ、かねてから気になっていた浄土真宗とキリスト教との関連性にも結び付きそうな気がします。

YouTubeにある奈良県が作ったアニメの「推古天皇と聖徳太子」はコンパクトに聖徳太子の生涯がまとめられていて、わかりやすいです。

聖徳太子の名前が歴史の教科書で数年前に変更されそうになっていたとのニュースにはびっくり。

20年前にNHKで聖徳太子のドラマをやったそうです、削除される前に見ておきたいです。
2020.2.23.削除により、日出づる処の天子より~聖徳太子、理想国家建設の夢~へ差し替え。




奉讃早引作法:本願寺出版社








■参考リンク
Wikipedia:親鸞
抜粋
六角夢告
建仁元年(1201年)の春頃、親鸞29歳の時に叡山と決別して下山し[注釈 11]、後世の祈念の為に聖徳太子の建立とされる六角堂(京都市中京区)へ百日参籠[注釈 12]を行う。そして95日目(同年4月5日)の暁の夢中に、聖徳太子が示現され(救世菩薩の化身が現れ)、
「行者宿報設女犯 我成玉女身被犯 一生之間能荘厳 臨終引導生極楽」
意訳 - 「修行者が前世の因縁によって[注釈 13]女性と一緒になるならば、私が女性となりましょう。そして清らかな生涯を全うし、命が終わるときは導いて極楽に生まれさせよう[11]。」
という偈句(「女犯偈」)に続けて、
「此は是我が誓願なり 善信この誓願の旨趣を宣説して一切群生にきかしむべし」
の告を得る。
この夢告に従い、夜明けとともに東山吉水(京都市東山区円山町)にある法然が住していた吉水草庵を訪ねる。(この時、法然は69歳。)そして岡崎の地(左京区岡崎天王町)に草庵[注釈 14]を結び、百日にわたり法然の元へ通い聴聞する[12]。

Wikipedia:聖徳太子
抜粋

以下は、聖徳太子にまつわる伝説的なエピソードのいくつかである。
なお、聖徳太子の事績や伝説については、それらが主に掲載されている古事記や日本書紀の編纂が既に死後1世紀近く経っていることや記紀成立の背景を反映して、脚色が加味されていると思われる。 そのため様々な研究・解釈が試みられている。平安時代に著された聖徳太子の伝記『聖徳太子伝暦』は、聖徳太子伝説の集大成として多数の伝説を伝えている[注釈 10]。
出生について
「厩の前で生まれた」、「母・間人皇女は西方の救世観音菩薩が皇女の口から胎内に入り、厩戸を身籠もった」(受胎告知)などの太子出生伝説に関して、「記紀編纂当時既に中国に伝来していた景教(キリスト教のネストリウス派)の福音書の内容などが日本に伝わり、その中からイエス・キリスト誕生の逸話が貴種出生譚として聖徳太子伝説に借用された」との可能性を唱える研究者(久米邦武が代表例)もいる[注釈 11]。
しかし、一般的には、当時の国際色豊かな中国の思想・文化が流入した影響と見なす説が主流である。ちなみに出生の西暦574年の干支は甲午(きのえうま)でいわゆる午年であるし、また古代中国にも観音や神仙により受胎するというモチーフが成立し得たと考えられている(イエスよりさらに昔の釈迦出生の際の逸話にも似ている)。出生地は橘寺、またはその付近とされる。橘寺はタヂマモリが垂仁天皇の御世に常世の国から持ち帰った橘の実の種を植えた場所といわれる。

ある時、厩戸皇子が人々の請願を聞く機会があった。我先にと口を開いた請願者の数は10人にも上ったが、皇子は全ての人が発した言葉を漏らさず一度で理解し、的確な答えを返したという。この故事に因み、これ以降皇子は豊聡耳(とよとみみ、とよさとみみ)とも呼ばれるようになった[注釈 12]。
『上宮聖徳法王帝説』、『聖徳太子伝暦』では8人であり、それゆえ厩戸豊聰八耳皇子と呼ばれるとしている。 『日本書紀』と『日本現報善悪霊異記』では10人である。また『聖徳太子伝暦』には11歳の時に子供36人の話を同時に聞き取れたと記されている。一方、「豊かな耳を持つ」=「人の話を聞き分けて理解することに優れている」=「頭がよい」という意味で豊聡耳という名が付けられてから上記の逸話が後付けされたとする説もあり、有り体に言えば「兎に角凄い方」程度に解釈すべきである。[要出典]。
兼知未然
『日本書紀』には「兼知未然(兼ねて未然を知ろしめす、兼ねて未だ然らざるを知ろしめす)」とある。この記述は後世に『未来記(日本国未来記、聖徳太子による予言)』の存在が噂される一因となった。『平家物語』巻第八に「聖徳太子の未来記にも、けふのことこそゆかしけれ」とある。また、『太平記』巻六「正成天王寺の未来記披見の事」には楠木正成が未来記を実見し、後醍醐天皇の復帰とその親政を読み取る様が記されている。これらの記述からも未来記の名が当時良く知られていたことがうかがわれる。しかし、過去に未来記が実在した証拠が無く、物語中の架空の書か風聞の域を出ないものとされている。江戸時代に発見された『先代旧事本紀大成経』(全72巻)の69巻目に記された『未然本記』が、『未来記』もしくはそれを模した書であるとされたが、人心を惑わす偽書であるとして江戸幕府により72巻全てが禁書とされ、編纂者の潮音らが処罰された。
南嶽慧思の生まれ変わり
「南嶽慧思後身説(慧思禅師後身説)」と呼ばれる説。聖徳太子は天台宗開祖の天台智顗の師の南嶽慧思(515年 - 577年)の生まれ変わりであるとする。『四天王寺障子伝(=『七代記』)』、『上宮皇太子菩薩伝』、『聖徳太子伝暦』などに記述があるかもしれない。
中国でも、「南嶽慧思後身説」は知られており鑑真渡日の動機となったとする説もある[8]。
飛翔伝説
『聖徳太子伝暦』や『扶桑略記』によれば、太子は推古天皇6年(598年)4月に諸国から良馬を貢上させ、献上された数百匹の中から四脚の白い甲斐の黒駒を神馬であると見抜き、舎人の調使麿に命じて飼養する。同年9月に太子が試乗すると馬は天高く飛び上がり、太子と調使麿を連れて東国へ赴き、富士山を越えて信濃国まで至ると、3日を経て都へ帰還したという。
片岡飢人(者)伝説
詳細は「片岡山伝説」を参照
『日本書紀』によると次のようなものである。
推古天皇21年12月庚午朔(613年)皇太子が片岡(片岡山)に遊行した時、飢えた人が道に臥していた。姓名を問われても答えない。太子はこれを見て飲み物と食物を与え、衣を脱いでその人を覆ってやり、「安らかに寝ていなさい」と語りかけた。太子は次の歌を詠んだ。
「斯那提流 箇多烏箇夜摩爾 伊比爾惠弖 許夜勢屡 諸能多比等阿波禮 於夜那斯爾 那禮奈理鷄迷夜 佐須陀氣能 枳彌波夜祗 伊比爾惠弖 許夜勢留 諸能多比等阿波禮」
しなてる 片岡山に 飯(いひ)に飢(ゑ)て 臥(こ)やせる その旅人(たびと)あはれ 親無しに 汝(なれ)生(な)りけめや さす竹の 君はや無き 飯に飢て臥せる その旅人あはれ
翌日、太子が使者にその人を見に行かせたところ、使者は戻って来て、「すでに死んでいました」と告げた。太子は大いに悲しんで、亡骸をその場所に埋葬してやり、墓を固く封じた。数日後、太子は近習の者を召して、「あの人は普通の者ではない。真人にちがいない」と語り、使者に見に行かせた。使者が戻って来て、「墓に行って見ましたが、動かした様子はありませんでした。しかし、棺を開いてみると屍も骨もありませんでした。ただ棺の上に衣服だけがたたんで置いてありました」と告げた。太子は再び使者を行かせて、その衣を持ち帰らせ、いつものように身に着けた。人々は大変不思議に思い、「聖(ひじり)は聖を知るというのは、真実だったのだ」と語って、ますます太子を畏敬した。
『万葉集』には上宮聖德皇子作として次の歌がある。
上宮聖德皇子出遊竹原井之時見龍田山死人悲傷御作歌一首
(小墾田宮御宇天皇代墾田宮御宇者豐御食炊屋姫天皇也諱額田諡推古)
「家有者 妹之手將纏 草枕 客爾臥有 此旅人𪫧怜」
[注釈 13]
家にあらば 妹(いも)が手纒(ま)かむ 草枕客(たび)に臥やせる この旅人あはれ
また、『拾遺和歌集』には聖徳太子作として次の歌がある[注釈 14]。
しなてるや片岡山に飯に飢ゑて臥せる旅人あはれ親なし
後世、この飢人は達磨大師であるとする信仰が生まれた。飢人の墓の地とされた北葛城郡王寺町に達磨寺が建立されている[注釈 15]。
箸の奨励について
隋へ派遣した小野妹子からの報告をきっかけに、宮中での箸の使用を奨励したという[9]。

聖徳太子の謎





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Last updated  2020.02.23 01:23:59


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