秋に咲くヒマワリ・・なのかもね。

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2025.08.23
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カテゴリ: 読書 Reading
全国を旅行していると山頭火の句碑によく出くわします。旭川のらーめん山頭火、宮崎の鵜戸神宮で見つけた句碑のをきっかけに山頭火をもう少し知りたくて、kindleアンリミテッドを調べたら旭丘光志さんが少年マガジンに連載された劇画を発見しました。

1冊でコンパクトに山頭火の人生をビジュアルに垣間見ることができてよかったです。子供の頃たまに漫画雑誌に、どう見てもこれは自分たち向きではないだろうと思うような作品がありましたが、こういった方たちが、なんとか子供にもわかりやすく理解させようと苦心されていたんだと知りました。山頭火に入るよいきっかけの本と思います。

1925年から断続的に15年も全国を旅して俳句を残すなんて自分ではできそうもありません。Wikipediaで観た代表作の一つ「貧しう住んでこれだけの菊を咲かせている」が好きです。絵筆の代わりに文字で情景を優しい目でスケッチしているようで、質素な家の庭一面に咲く菊の花が目に浮かびます。





宮崎の鵜戸神宮で見つけた句碑。

■参考リンク
Wikipedia:種田山頭火
種田 山頭火(たねだ さんとうか、本名:種田 正一(たねだ しょういち)[1]、1882年〈明治15年〉12月3日 - 1940年〈昭和15年〉10月11日)は、日本の自由律俳句の俳人。山頭火とだけ呼ばれることが多い[1]。
山口県佐波郡(現在の防府市)生まれ。『層雲』の荻原井泉水門下。1925年に熊本市の曹洞宗報恩寺で出家得度して耕畝(こうほ)と改名。各地を放浪しながら1万2000余りの句を詠んだ[1]。
略歴
1925年(大正15年、43歳) 寺を出て、雲水姿で西日本を中心に旅し句作を行い、旅先から『層雲』に投稿を続けた。

1936年(昭和11年、54歳) 雲水姿で山梨県小淵沢から長野県佐久までを歩き、数々の作品を残す[21]。その後も東北地方などを旅した。
1938年(昭和13年、56歳) 山口市湯田温泉街に「風来居」を結庵。
1939年(昭和14年) 愛媛県松山市に移住し「一草庵」を結庵。
1940年(昭和15年)10月11日午前4時、脳溢血のため一草庵で生涯を閉じた[22](心臓麻痺という説もある[13])。享年57。墓所は防府市の曹洞宗の護国寺にある[1]。

代表句
あるけばかつこういそげばかつこう
へうへうとして水を味ふ
一羽来て啼かない鳥である
うしろすがたのしぐれてゆくか
どうしようもない私が歩いている
生まれた家はあとかたもないほうたる

ゆうぜんとしてほろ酔へば雑草そよぐ
酔うてこほろぎと寝ていたよ
鴉啼いてわたしも一人
笠にとんぼをとまらせてあるく
笠も漏り出したか

この旅、果もない旅のつくつくぼうし
こころすなほに御飯がふいた
しずけさは死ぬるばかりの水ながれて(※1936年(昭和11年)9月9日、九州での托鉢の日の句。)
鈴をふりふりお四国の土になるべく
霧島は霧にかくれて赤とんぼ
母ようどんをそなへてわたくしもいただきます(※亡き母の位牌を頭陀袋の中に入れて歩いていた。)
貧しう住んでこれだけの菊を咲かせている
また一枚脱ぎ捨てる旅から旅
まつすぐな道でさみしい
ふるさとはあの山なみの雪のかがやく
すべつてころんで山がひつそり
また見ることもない山が遠ざかる
松はみな枝垂れて南無観是音
ぬいてもぬいても草の執着を抜く
分け入つても分け入つても青い山
鉄鉢の中へも霰
山へ空へ摩訶般若波羅密多心経
水音の絶えずして御仏とあり
てふてふひらひらいらかをこえた
ほろほろほろびゆくわたくしの秋
生死の中の雪ふりしきる
おちついて死ねそうな草萌ゆる
濁れる水の流れつつ澄む





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Last updated  2025.08.25 23:48:31


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