■関東軍将兵の 肉弾に次ぐ肉弾による絶望的・悲壮的な勇戦敢闘 には素直に頭を垂れなければならないのである。「ソ連が満州に侵攻した夏」 半藤一利著・文集文庫 (P230-232)
実は、そこに問題が残った。会議決定は正午少し前であり、そのことが新京にいる邦人の一軒一軒に知らされるためには多くの時間がかかる。それとこのときになっても新京を離れたがらぬ人も多かったであろうし、また避難準備が手早くゆかない人もあったであろう。そこで、軍人の家族は緊急行動になれているし、警急集合が容易であるから、これをさきに動かして誘い水としようとした。軍の責任者はのちになってそう弁解する。
ところが、事実は、第一列車が小雨降るなかを出発したのは遅れに遅れて十一日の午前一時四十分なのである。避難民集合の不手際のためではなくて、列車編成と輸送ダイヤを組むのに時間がかかったからである。
(略)
ダイヤの組み直しに時間がかかったのもやむをえない。そうであるから、時間はたっぷりとあった。一般市民に決定をくまなく行き渡らせることもできたのではないか。
さらにいえば、軍人家族には、午後五時に忠霊塔広場に集合、の非常指示が早く伝えられている。これは当初予定の第一列車出発のわずか一時間前。輸送順序で軍人家族が最後であるというのなら、動かない市民を動かすための誘い水としても、あまりにも早すぎる呼集ではあるまいか。
そして会議で決まった避難順序がいつの間にか逆になるにつれて、今度は軍人家族の集結・出発を守る形で、ところどころに憲兵が立った。自分らも、と駅に集まった市民は、なぜか憲兵に追い払われるようになった。
こうして十一日の正午ごろまでに十八列車が新京駅を離れた。避難できたものは新京在住約十四万のうち約三万八千人。内訳は軍関係家族が二万三百十余人、大使館などの官の関係家族七百五十人、満鉄関係家族一万六千七百人。ほとんどないにひとしい残余が一般市民である。
(略)
こうした軍部とその家族、満鉄社員とその家族が、特権を利し列車を私した、と言う非難と責任追及の声は現在でも大きく叫ばれている。たいして少しは理のある弁明や言い訳もないではないが、およそ耳をかす人はなく、通用しないといっていい。悲劇の体験記のほとんどすべてにおいて、その事実が告発されている。
(略)
書いているとその卑劣さに反吐がでそうになってくる。
幸いに列車で新京をあとに国境を越えることができた人たちのその後に待ち受けていたのは、苦難な平壌での生活で、多くの家族が結局は飢えや病気や伝染病で死んだ。しかし、そんな不幸をのちに知ることがあっても、しばらくは誰も信じようとはしなかった。
(赤字は某S氏による)
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