なんだか一時のブログ熱が醒めて久しい。
でも、数年たったら何もかも忘れてしまいそうなので、
昨年したことや考えたことを書きつけておこうと思う。
1)仕事場
10年余過ごした北青山の事務所を閉じ、横浜の自宅へ「本店」を移転した。ただ都内の拠点がまったくないと困るので(東京へ出ていった日は終日ジプシー生活を強いられる)、湯島に仕事場を設けた。御茶ノ水駅聖橋口から徒歩6~7分。神田明神裏は、ちょっとした隠れ家で、住み心地がいい。
実は御茶ノ水は、出版社時代の懐かしい土地でもある。1976年から88年まで(23歳から36歳まで)、小川町の洋館風3階建てのオフィスへ通った。編集の仕事はそこそこ面白かったが、それよりも酒を飲むのが楽しくて仕方ない時期だった。
店舗やビルはすっかり変わったものの、御茶ノ水の地形は基本的に変わらない。外堀にかかる聖橋の上から、秋葉原・神田方面に抜ける広大な空間は、昔と変わらない。
2)お仕事
今年は、夏にかけて慌ただしく、秋は一時の静寂。晩秋より難しい案件が相次ぎ、桜の花が咲く頃までは、コツコツと問題解決の日々が続くはず。
2)原稿書き
『「幸せ」の戦後史』の次の本のために、原稿を書き継いだ。第1章から第4章まで、朝日新聞の「WEBRONZA」に連載していただいた。生まれてはじめての連載が、ネットのコンテンツになろうとは、思っていなかったが、面白い体験だった。
担当者の方が、毎回、朝日新聞のフォトライブラリーから記事に合いそうな写真を探して下さるのが、何よりの楽しみだった。
第4回の「舞い降りたバリケード」では、私の秘蔵写真(!)もご提供した。1969年12月9日、我が母校の中庭で開かれた生徒集会のワンカットである。学校新聞に掲載されたもので、著作権は私にはないけれど、乞ご容赦!
この連載は2月まで続き、3月初頭には新刊『「若者」の戦後史』として店頭に並ぶ予定である。
3)魚釣り
総じていえば、釣れない1年だった。
3月に下田須崎半島で、奇跡のような、乗っ込みメジナの爆釣を体験して(この前のブログで書いた通り)「運」を早々に使い果たし、不調の日々が続いた。
・石鯛ごっこは完敗(稲取黒根、須崎尾山)。
【黒根の「平床」】
【爪木崎の石垣鯛】
・両軸リールのカゴ釣りを始めるもバックラッシュを卒業できず、少数のサバとソウダ(宇久須、戸田、横須賀海浜釣り公園)
・タチウオ夜釣りを試すが、2時間に1回のアタリをモノにできず(横須賀海浜釣り公園、同うみかぜ公園)。
・晩秋、思いたって、ハンバブダイを狙って富戸・八幡野へ。T君はミヅガサキ(寺下)で、42センチ、1.5キロの大型をゲットするも当方は空振り。2回目のモズガネもダメ。暮れの3回目(墓下)でようやく25センチを釣り上げ、最小限の面目を保つ。
でも、ブダイ釣りはエコな雰囲気がいい。カニ、ハンバ、ヒジキの現地調達こそ、非ジモトの我々には難しいが、簡単な道具・仕掛けやのんびりウキを流す釣法は、メジナ釣りの忙しさとは別の味わいである。自作のウキで釣れたのも楽しかった。
【T君のブダイ】
【蓮着寺の「墓下」】
・沖釣りは回数が減った。ご近所のS師匠と走水のアジ・メバルなどを少々。早潮で、130号+30号のビシをうまく操れず、同船のベテランに叱咤激励された。指導に従って底立ちさえ取れれば、ちゃんとアジは釣れてくるのである。どの釣りも奥が深い…。
今年は戦後70年である。
おおた区民大学の「明日への梯~戦後70年、あなたは何を思うのか」で、第1回目のお話をさせていただくことになった(2月6日「明日への梯~豊さと幸せの度合い」)。
今日打合せにうかがったところ、ご担当の方が、戦後史を次世代にどう伝えるかが切実な課題だとおっしゃっていた。同感である。
我々は、戦後史を共有の「知財」にしてゆくために、「戦後体験」をそれぞれの視点で語り始める時期に差しかかっている、と思う。
戦後は、遠くなってなどいない。
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