chiro128

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編集の持つ力をカット編集を基本に見てきたが、編集には様々な方法がある。
まず、もっとも古いのがフェードイン、フェードアウトだ。ひとつのシーンの始まりや終わりを意味するものとして使われ始め、映像の初期段階では視点の変化に対してもフェードによる処理が行なわれたりしていた。カット編集が一般的になる前はむしろ視点の変化は不自然なものであり、人の目にもっとも違和感のない方法としてフェードによる操作が行なわれてきた。

フェードを重ねて行なうことでクロスフェードが生まれた。今ではオーバーラップ、OLと呼ばれることが多いが、本来の意味からはずれている。オーバーラップはただの2重映しであり、ある人の記憶を描いたり、思いを馳せてる先の映像を重ねたりすることで映像を判りやすくするために生まれた手法である。クロスフェードは違う場所だが、同じ時間に起きている事件の先へシーンを変える時などに使われた。現在ではクロスフェードは更に自由な発想で使われている。ルーズショットからタイトショットへ同時間の映像をクロスフェードすることでその人に近づく、ある対象に近づく。ズームインと同じ意味合いの映像である。
かつて、オーバーラップやクロスフェードの映像は映像をスクリーンに投影し、それを撮影することで重ね合わせていた。これをオプティカル合成と呼ぶ。このため、オーバーラップの開始時、終了時に画像にショックが入ってしまう。左右や上下の位置(映像では位相と呼ぶ)が僅かながらずれるためだ。フィルムの長さによる制約がなくなってからはそのカットを跨ぐ全体をオプティカル合成することで、そうした継ぎ目をなくす努力がなされ、今日ではオプティカル合成でも位相のずれはなくなっている。
このオプティカル合成の技術が出来てから登場したのがワイプという技術である。スクリーンに投影する際に、ワイプのパターンを映像に重ねるようにして映像の一部をスクリーンに投影せず、もう一方の映像のみがそこに入るよう、そのパターンを補完するもうひとつのパターンをもう一つの映像に重ねることで、ワイプの効果が生まれる。
ワイプは新たなショックを与え、時間や場所の移動を明確に表現する手段となった。今日では古い表現と思われたりもするが、「スターウォーズ」シリーズでのワイプ効果はシーン展開に大きな効果を与えている。

現在、ワイプは3次元的な処理が行なえるようになり、更に複雑な合成が行なえるようになっている。複数の映像が同時に画面に出ていることで与える意味はその度ごとに違うと考えるべきである。ニュースのスタジオで、キャスターの肩にある映像はキャスターの読むキャッチを映像で表現しているものだ。まったく違う話へとキャスターのつなぎで進むという構造上、生まれた映像の工夫と言っていいだろう。(英語で言うアンカーマンという表現はまさにつなぐ人であって、その通りだ。)このショックをなくす、しかも次の内容を明示する、という効果は複数の映像が出ていることの効果としてはもっとも相乗効果の薄いものであろう。討論する2者の顔がワイプで入るという表現も分かりやすいが、直接的であり、効果という点で深いものではない。
意味を考えていく時、こうした合成は慎重にするべきであろう。そこには映像の制作者が意図する以上に複雑な意味が生まれてしまうからだ。主張のある表現である映画の中で複数映像の合成だけでなく、オーバーラップやワイプが少ないのも、自分の訴えたいイメージが明確にあるからだ。驚きと共に迎えられるこうした効果は避けるべきではないが、使用する際には明確な意図を持つことが大切だと言える。
ミュージックビデオやコマーシャルフィルムでは逆にこうした複雑な合成や多重映像が多用されている。それはより一層複雑でしかも洗練されたイメージを短い時間に与えるための工夫であり、驚きを与えることに苦慮した結果だと考えていい。しかし、それは音楽や製品の持っている多面性や表現の自由度を補うべく、行なわれているのであり、「かっこいい」などと言う安易な理由から採用すべきではない。

映像の編集を考える時、やはり根本にあるのはカット編集である。カット編集以外の編集を行なう点はなぜそうするのか、きちんと理由を求めるべきである。映像が要請している、などというのは理由にはならない。
ビム・ベンダースの映画(「パリ、テキサス」等)では主人公の視線を表すルーズショットの次に、やや時間がたった主人公の視線のルーズショットがカットで入ってくることがままある。これはクロスフェードしたら伝わらない時間の変化なのだ。主人公が気が付いたら別の場所にいる自分を発見した・・・その表現がカット編集を求めたのだ。逆にある長さの時間、さまよったことを言う場合は、クロスフェードをする。そこには映像自体が要求するものなどない。そうしなければ表現されない何物かがある。
コンサートの模様を撮影する際に、ルーズショットで演奏者を撮影しているところにタイトショットを重ねていくのは演奏の緊張の高まりと共に行なわれた時に心地よい。その緊張感は顔や手に強く現れており、それを発見するにはそれだけのタイトな映像が必要だからだ。同じ緊張感を表現するのにも、マーラーの重厚な音が押し寄せて来る時はオーケストラの全体ががっしり見えているショットが効果的だろう。その音がすっと消える瞬間は指揮者を煽り目に撮影したタイトショットへカットで行く。演奏が完全に終わった静けさの中で前のショットよりずっとルーズな観客席こみの全景へとクロスフェードする。今の静寂を味わっている全員を見せるために。答は沢山あるのだろうが、その中から効果的と考える方法をその時に応じて探す努力をする。それが映像制作者の基本的な態度である。

映像は歴史の中で様々な手法を身に付け、更にその意味を変容させて今日に至っている。映像のサイズから編集に至るまでその意味は変化し続けており、その中で映像の制作は行なわれている。映像制作者は作るたびにその変容の過程に参加しているのだ。

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