chiro128

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萬吉さんのこと


しばらくしてから岐阜に行く用事があり、その機会に八幡町の萬吉さんの家を訊ねた。戒名は釈萬渓。あの人らしい名前だな、と思った。
萬吉さん。萬サ。八幡町きっての釣り師。もっとも竿を伸ばした姿というのを私は見たことがない。晩年は「長良川河口堰建設に反対する会」などでもその姿を拝見することがあった。頑なな、そして不思議な人生を送った人だった。生きながら彼はすでに伝説の釣り師だった。今では本当の伝説である。

萬吉さんは岐阜県の真ん中、八幡町のすぐ下流側にあたる美並村で生まれた。生家のすぐ向いに長良川があった。竹藪に囲まれ、川は力強くうねるように流れている。県道を渡れば、すぐそこが川だった。そこで萬吉さんは兄の金一さんと子どもの頃から釣りをし、網を張っていた。中学生になるともう一人前の川漁師だった。夏場に彼らが捕った鮎の量は相当なものだったらしく、当時の役場職員の月給を一日で稼いだと言う。家は村に一軒の鍛冶屋さんだった。田圃も畑もある。それはみな兄の金一さんが継いだ。萬吉さんは家の仕事にはあまり付き合わなかったらしい。その頃から毎日、川と向き合って暮らしていたに違いない。
中学を卒業すると、上流、八幡町に住む叔父さんの畑仕事を住み込みで手伝うようになった。でも、川が好きだったから(悪いことにその家も川のすぐ近くにあった。長良川の支流吉田川である。この辺りの谷はそう広くない。どの家も川が見える所にあるのだ)畑仕事なんて手に付かない。農繁期は魚の来る季節でもある。なんとかしなきゃいけない、家につなぎ止めるには、と考えて、叔父さんは近所から嫁を貰うことにした。何歳の頃のことか判らないけれど、それでも何年かはこうして納まっていたらしい。

こうした話を、かつて延々と萬吉さんから聞いたことがある。「萬サの一代記や」と言いながら、時に笑いながら、老釣り師は語り続けた。もちろん今、私が書いているのは、そのあらましである。家の炬燵に身体半分を入れたまま、萬吉さんは自らの人生を語り聞かせてくれたのだ。
何年か経って、このお嫁さんが亡くなった。子どももいたので、すぐに再婚した。釣りは実は止めていなかった。再婚して、また何年か経つと、太平洋戦争が始まった。戦場に行った。起つ前に離婚した。生きて帰るとは、欠片も思っていなかった。子どもは両親に預けた。
帰って来た。故郷の町は何も変わっていなかった。子どもたちは相変わらず川に飛び込んで魚を捕ったり、オオサンショウウオと並んで泳いだりしていた。竿もそのままだった。でも、精進しようと思った。ありったけの蓄えを使って(川釣りで充分な蓄えを作ってしまえる人だったのだ)再婚して、材木商をした。連れ子が両方にあった。さらに子どもが出来、七人の子どもの父となった。
商才はあった。切った木材は川を使って下流の町に送った。美濃市や関市、岐阜市。岐阜市には今もこの名残のように材木町という地名がある。人望も得たが、酒に浸るような暮らしだった。酒だって誰にも負けなかった。一升瓶なら、一夜で間違いなく空いていた。芸者遊びもした。贅沢三昧だった。
全然精進になってない。
止めた。材木商は止めた。どんなに儲けても、この有様じゃ仕方がない。川で釣りをした方が身体にもいいし、第一、釣りならもっと儲けが出る。そう思った。それは間違いなかった。

そうやって、気が付いたら八十になろうとしていた。子どもはみんな結婚し、親元を離れていった。家は長男の勲さん夫婦が同居。
肺を悪くした。入院した病院は川のすぐ袂にあった、病室から川と釣り人が見えた。病体は相当に悪かった。しかし快復。院長さんは信じられないと言う。萬吉さんは「川のおかげで治ったんや」と言う。家に帰るとまた川へ向かった。腕は鈍っていなかった。
その後、交通事故に遭う。足を痛めた。釣りに行けなくなった。三人目の奥さんは寝たきりになってしまった。その看病が萬吉さんの日課となった。萬吉さんは動いていい時間には決まって川を見て座っていた。長良川の本流が支流吉田川と出合う場所。かつて萬吉さんが主な釣り場としていた場所だ。人はその場所を、萬サの御漁場、と呼んだ。スクーターで動けば足の調子も関係ない。私は知り合ったのはこの頃で、萬吉さんに会うのは事前に約束してご自宅を伺うか、もっと簡単に川に行く、というのでよかった。

萬吉さんが亡くなったのは、彼の好きなアマゴ釣りの解禁日、二月一日の午前三時だった。その頃長良川では、沢山の釣り人たちがいい場所をとるために車の中で夜を明かしていたに違いない。
萬吉さんは微かな声で、川の空気が吸いたいと言った。お孫さんが川に走っていってビニール袋いっぱいの空気を運んできた。その空気を吸って、笑顔を取り戻した直後、息を引き取ったそうだ。あの人らしいな、何度となくそんな気持ちになった。
話が終わり、帰ろうとした所で、勲さんが思い出したように言った。
「あの頃の父の写真お持ちですよね、確か沢山撮っておられた」
「はい。ほとんどはあの出合いのところですけど」
「写真、戴けませんか?」
「私のでよろしければ」
「笑ってたでしょ、あそこでなら」
そこまで伺って、もう一度遺影を見る。頑固そうな写真だった。それも確かに萬吉さんなのだが。
「笑っている写真に取り代えてあげたいんです」
私の持っている萬吉さんの写真を一通りお譲りすることにした。

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