
photo;clareyuko
今日は2ヶ月に一度のミューズの会、
そして夜は青空禅フォーラムのひとときを過ごした。
伊東先生の誘導で、いつものように瞑想をしながら、うとうとしながら、私はぼんやりと考えていた。
今日のミューズの会で私がひいた女神カードはアイネだった。
「飛び立つんだけど、祐子ちゃんの場合は内側へ向うんだって、外に求めるのはもう終わり。」
ハイアーセルフからのメッセージをゆうちゃんが伝えてくれた。
私にはその言葉の意味がよくわかっていた。
人の言葉は自分の言葉ではない、という当たり前のことを最近痛いほど感じていたからだ。
ただし、ゆうちゃんは、「自分の闇の部分を受け容れるのは、つらいプロセスだよ」と付け加えた。
それはゆうちゃんの体験から出た言葉だったにちがいない。
そして私自身にも苦しみの果てに気づいた体験というものがあった。
人から見ればたいした苦しみではないかもしれない。
けれど、私にとっては、そのプロセスがなければ体験できなかった境地だった。
自分と向き合うということは、この先さらにそんなことが待ち受けているのかと、
少し戸惑う私がいた。
その上今日は胸の痛む出来事があった。
その悲しみが私の胸いっぱいに占領していた。
そんなことが重なって、真我との対話って、どういうことだろう、と
頭の中でイメージを始めていたのだった。
今日の伊東先生のお話は意識についてだった。
先生が言われる意識とはいわゆる純粋意識のことだ。
私は寝不足の頭で先生のお話をぼんやりと聴いていた。
そしていつものように先生に質問した。
「キリストだ、仏陀だ、光だと、概念としてのイメージで大いなる存在を見ると、
イメージした瞬間に純粋意識でなくなるような気がします。
大いなる存在をどんなふうに考えればいいのでしょうか。」
すると先生はまるで魔法のようにわかりやすくお話してくださった。
ここにあるグラスとお菓子、
在ると認識されたグラスとお菓子、
それがここに在るということを受け容れているのは何ですか?
何がそれを受け容れているのでしょうか?
答えは空間です。
グラスとお菓子が在るということを、空間が受け容れているのです。
空間とは、すなわち、純粋意識です。
あるがままを受け容れる、ただ、在るということを受け容れる、
そういうお話は聴いたことがあると思います。
それは、言い換えれば、
「あるがままにあることを既に受け容れていることに気づく」ということなのです。
つまり、もうすでに受けれいていることを、更に受けいれようと、心がそうするわけです。
けれど、心がそれをするのは大変なことなのです。
できた、と思う瞬間も確かにあるかもしれませんが、またすぐの出来ない心が表れます。
すでに、純粋意識という空間が受け容れているのです。
だから、それに気づくだけでいいのです。
深刻タイプの私は急に可笑しくさえ思えてきた。
みんなにあれこれ言われ、今日という日さえも、内側へと頑張ろうとしていた。
人の言葉だけではない、心という意識に囚われていた私だったのだ。
な~んだ、そうだったんだ。。。。
心は心。
心をないがしろにするつもりはないけれど、心に囚われる必要などまったくない。
心で自分を許そうとしていた。
心で自分を受け容れようとしていた。
ここにこうして在るということは、すべてがそのままで許されているから、そこに在るだけなんだ。
あなたも、私も、あらゆる感情や思考でさえも。
純粋意識が自分を在らしめているのだから、それでいいじゃん☆
体験は人それぞれだ。
苦しい体験を通り抜けなければならないなんて誰がきめたんだろう。
一足飛びに純粋意識にフォーカスしてなにが悪いの?
必要な体験がそのあとでまたやってきたなら、その時に見ていればいいだけじゃないの。
私の心はすっきり晴れやかになってきた。
いや、マインドや感情の雲も、もちろんいっぱいある。
でも、純粋意識の青空がそれでいいよって、
在りと在るすべてのものを受け容れているのだ。
それでいい。
ただ、それだけでいい。
それ以外のなにも必要ない。
心が苦しんだ時は、そっとその心を見守ってあげればいい。
そしてできるなら、優しい愛でつつんであげよう。
私の心も誰かの心も。 
会が終って外に出て思わず空を見上げた。
もう10時近い夜の四ツ谷の空は、晴れて雲が浮かんでいた。
青空だ!と思った。
私の意識が空とひとつにつながっていった。。。
9月2日(土)10時半から12時半
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