| 36歳の女学生(私の祖母) |
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今日は、母方の祖母が3年前に亡くなった命日、100歳でした。 結婚してからも、フルタイムで働いてきた私は、母が忙しい為、母の代わりにいつも祖母の世話になりました。 一番困ったのが、長男が小学校に上がる時です。 それまでは、夕方6時頃まで、子どもを保育所に預けて働いていたのですが、小学校に上がると、1年生は昼過ぎには下校し帰宅します。 気が優しく、甘えん坊で泣き虫の長男は、無人の家に帰り、一人で6時間も留守番はできない。 思い余って祖母に頼みました。 (当時、父母はまだ学生だった弟や妹のため、忙しく働いていて、私の子どもを見てもらう時間のゆとりはありませんでした。) 70歳を越えていた祖母は、2年間私の家で暮らしてくれました。 昼間は、よく散歩にでかけ、近所にお友達も沢山できて、私の知らない近所の噂話など教えてくれました。 ちょうどその頃、私は色々な役職が回ってきて、夜の会議も多く、下の子どもを保育所に迎えに行くのも、後れがちな日々でしたが、帰宅すると、家に灯りがついていて、「おかえりぃ~!お疲れさん」という祖母の声に、家庭のぬくもりを感じ、癒される心地でした。 おばあちゃんがいることで、落ち着いてきた子ども達の様子を見るにつけ、仕事を辞めて家庭に入った方がいいのだろうか・・悩んだ時期でした。 長男は、一人で留守番は無理だと判断しましたが、下の娘の方は、何時間も一人で本を読んだり遊んでいる事が多く、留守番は何とか出来そうでした。 祖母にもっとそばにいてほしかったのですが、約束の1年が経ち、2年目が過ぎて、祖母にとっては末っ子になる叔母が、いそいそと連れ戻しにきてしまい、無理はいえませんでした。 私は、祖母をとても尊敬しています。 祖母の両親は、屯田兵として、北海道の開拓に入った人ですが、その親、つまり祖母の祖母は、松平のお殿様の乳母をしていたそうです。小さい頃に私と遊んでくれたひいおじいちゃんは、殿様と乳兄弟だったと、聞かされました。 私の祖母が小さい頃は、お殿様が「ばば、達者か?」と、おばぁさんにお土産を持って来た事もあるそうです。自分の母は「これ、嫁女!」と呼ばれていたそうで、貧しくとも、大変、躾が厳しかったそうです。 祖母は、やがて教員である夫のもとに嫁いだのですが、子どもを4人残して夫に先立たれてしまいました。 着物の仕立てなどをして働いたのですが、それでは子供と食べていくのがやっとで、祖母は思い切って、小さい子どもを自分の母親に預け、助教諭の資格をとるべく、女学校に入りました。 36歳でした。 当時、子供たちの中で最年長であった(長女の)私の母は、教員になるため、青森の女子師範学校に行っていたのですが(北海道には、当時、女子の師範学校がなかった)体を壊したのと、経済的にも続けられなくなって、北海道に帰ってきていました。 その母と、祖母は旭川の女学校(助教諭の資格が取れる)に二人で入学し、自宅から汽車で通学したのです。 「ずいぶん、年を取った女学生だったのよね!」と祖母は笑います。 数学の宿題などは、娘である母に内緒で手伝って貰っているのが、ばれていたらしいけれど、先生は何も云わないでいてくれた事なども笑い話でした。 そして、二人とも助教諭ではあるが教職を得て、母は弟を連れ、祖母は他の子供をを連れ、それぞれ遠い田舎の学校に赴任して行きました。 やがて、母は結婚しましたので、とうとう家族が一緒に揃って生活する日は、きませんでした。 その祖母は、転勤を繰り返しながら、子供たちが全部巣立つまで教員をしていました。 晩年は、やはり教員をしていた末っ子の叔母と暮らしていましたが、90歳頃から足腰も弱り、叔母のうちのすぐ側の(歩いて15分)町の施設、特別養護老人ホームに入りました。 私の長男に子どもが生まれたのを喜び、「いまどき、やしゃ孫を持てる人もそういないでしょう」と、自慢していました。 頭が呆けることもなく、特大の拡大鏡で本を読んだり、折り紙細工を色々作り、教えてくれてもうまく出来ない私は、「K子は、不器用だね~、誰に似たんでしょう~!」といつも笑われていました。 が、このお正月で100歳になった3年前、風邪で入院し、良くなってきて退院間近という時、不意に逝きました。 夜は、叔母が側についていたのですが、寝ていると思った祖母が、軽く鼻歌を歌いだしたので、(歌の好きな祖母は童謡などよく小さな声で、次々と歌うのがクセである)「もう、遅いから寝ようね」と、叔母が言うと、「うん、あんたもお休み」と言い、まだ時々、かすかに唄っていたそうです。 子守唄のように、それをききながら、叔母は疲れてうとうととまどろみ、ふと、気がつくと、歌は止んでいたので、「あら、やっと寝たのね・・」と思い、電気を消そうとして祖母をみたら、すでに息が切れていたとのこと。 「ばあちゃんたら、歌を唄いながら、逝っちゃうなんて~!まったくなんて人なの~」」 と、叔母は、目を真っ赤にしながら、何度も何度も繰り返していました。 私と主人は、そんな事とは知らずに、年に1度の旅行中でした。バンコクでその知らせを聞きましたが、千歳に着いた時間にお葬式は終わっていました。 弟や妹に頼んで出かけた父の体の事が心配でしたが、父は驚くほどしっかりと、来客などの応対をしたとの事。 以前から、「おばあちゃんを送ってやるまでは、オレの仕事は終わらない」と言っていましたが、立派に勤めを果たしたのです。 だがその後、父は高熱を出し、足も立たなくなり、私は父を実家から我が家に連れてきて、今に至っています。 祖母が逝くと同時に、天国から私に「さぁ、出番だよ!K子」と言っているような気がしてならなりません。 我が家に連れてきた時、父は43Kgしかなく、私は、父を背負って軽々と階段を上がりました。 その後、父はすっかり元気になり、体重も4年かかって53Kgまで戻り、手を引けば歩く事も出来るようになりました。 やがて、父の部屋を増築して、ベッド脇に作った水洗トイレも、手探りしながら一人で使えるようになりました。 盲人図書のテープを借りて、何時間も夢中で聞いたり、ラジオで野球や相撲を楽しむ事ができるようになりました。 負ぶわれて上がった玄関の階段も、手すりにつかまり、足で探りながら自分で下りられ、手探りで車椅子に乗ってくれるので、父を連れて、公園に散歩も行けました。 もう、重くて背負うことはできないね、と笑っていた矢先、父は2度目の発作を起こしました。 再発作後、半身麻痺、痴呆、食事が飲み込めないなどで、ついに1ヶ月前に入院し、点滴だけになり、やっと太くなってきていた腕も足も、また細くなってきています。 願わくは、天国のおばあちゃん、お願いだから、私の出番はまだ終わらせないで下さい。 |