それぞれの愛(二話) |
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「テツヤの安楽死」 我が家では長年猫を飼っていました。 結婚した時、主人の母と、祖母と一緒に住んでいた古い家は、何度も改築をしましたが、ネズミが出るので困りました。 ネコイラズをいくら置いても、バカにしたように、部屋の中央に運んで並べてあります。 ネズミ穴に、チカチカして触ると痛いグラスウールを詰めても、跳ね飛ばして通路の確保。 台所にうっかり置いた酢豚の肉だけ取り出して、ガス台の下にズラリと並べてあるのをみて、ついに私はキレました。 実家にいた、ネズミ捕り名ハンターの「チビタ」をしばらく借りることにした。 チビタは、実はメスです。 最初はチビと呼んでいましたが、次第に太り5Kgを越える大きな猫になり、「チビ太」になりました。 車で30分かかって、連れてきたのですが、借りた猫のたとえを無視して、きた途端にすぐねずみを捕まえてきました。 夕食を取っている私たちのところへ、得意げに持ってきて、目の前で食べ始め、みんな、げんなりしたものです。 恋の季節になると、近所のオス猫達のラブコールは凄かったのに、チビタは、一番ブサイクなボス猫を選び、オス猫「コチビ」が生まれました。 やはり、6Kgを越えるデブになり、コチビとはいえなくなりました。 何故か、チビタは1~2匹しか産まず、育てるのが下手で、気が付くと死なせている事が多かったので、子供は少なかったのです。 我が家の二人の子ども達は、猫たちを大変可愛がっていました。 が、その「コチビ」が、車にはねられて死んでから、可愛がり方が、長男と長女で対照的に変わりました。 長男は、「車に、轢かれたら可哀想だから、猫を外に出してはいけない」と言って、猫が外に出ていると出した人を怒り、心配して何時間も探して歩きます。 長女は、「今まで自由に生きてきたのに、家の中に閉じ込める事は、事故に会うより可哀想だ」と、言います。 どちらも、私には分かります。 昼間無人になる我が家から、猫は通路を通って、外へ出入りできるようにしてありましたが、帰宅後真っ先に心配するのは、猫の無事でした。 でも、親猫「チビタ」は、道路を渡るときも、右見て左見て、又、右を見る猫でした。 やがて、又、1匹生まれた子をメスだと思い、「小冬」と名付けたのに、そのうち見事なタマタマが・・オスでした。 そのあと、2匹生まれたのですが、1匹貰われていき、小室哲哉のファンの娘が「哲哉」と名付けたオスが残りました。 「テツ」とよんでいました。 自由に出歩く親の「チビタ」に倣い、どの猫も自由に出て歩くのを好みました。 家の中にいない時は、いつも心配して、猫達の名を呼んでは捜し歩く子ども達でした。 探してもなかなか見つからない時、特に長男は心配で怒り出し、「だから出すなと言ってるのに」と、必死でした。 ある朝、まだ手のひらに乗るくらい小さかった、「テツ」が、向かいの家に向かって道路を走って横断し、車に轢かれそうになりました。 と、そのとき、そばにいた「チビタ」が、猛然と「テツ」の後を追い、「テツ」は渡りきったのに、「チビタ」は、車に5M程、撥ね飛ばされてしまったのです。 玄関掃除をしていて、一部始終を見ていた向かいのおばさんが、息せき切って、ウチに飛び込んできて教えてくれました。 すぐ、私の車に乗せ、獣医に運びましたが、その途中、娘の膝の上で息を引き取りました。 いつまでも亡骸を抱いて泣いている娘に、主人は黙って何も言わず、庭に大きな穴を掘りました。 大きなあじさいが咲いているそこは、数年前、「コチビ」が眠った隣です。 娘は、暗くなるまで庭にいましたが、泣きはらした顔で戻り、夕食を少し食べました。 そして、「お兄ちゃんに知らせるべきか・・・まだ言わない方がいいのでは?・・」と言います。 息子なら、こんな時食事は取れまい・・と思いつつ、私は「うん」と頷きました。 以前、「コチビ」が死んだとき、部屋に閉じこもり、一晩中、ふとんを叩き、号泣していたのを思い出します。 「チビタ」の死から数日置いて、当時、予備校にいっていた息子に、その事を手紙で知らせました。 それから、8年後、すでに息子は結婚し、別に住んでいました。 娘は大学を卒業し、家に戻って自宅からテレビ局に勤めていました。 それまでの、2人の子供たちが、家から離れている間、帰省の目的は、もっぱら猫たちに会いたいか、お小遣い目的でした。 もう、我が家には、「チビタ」の子供の「子冬」と、その弟猫の「テツ」の2匹しかいませんでした。 「テツ」が病気になりました。 かかりつけの獣医も手のほどこしようのない病気です。 毎日点滴に通い、胸水もたまり始め、肺が圧迫され何回か抜きました。 好物も食べなくなり、8Kgあった体重が5Kgを切ってしまい、苦しそうな息遣いの日が続きました。 重苦しい雰囲気で、夕食を食べている時、不意に主人がいいました。 「もう、早くラクにしてやった方がいい」 子ども達と私は、いつも猫のことでは主人と喧嘩していました。 新築したばかりの我が家で、「壁でツメを磨いだ!」とか、「スーツに猫の毛が付く」「ネコトイレの砂を飛ばしている・・」など。 いつも猫の事で、主人に文句を言われる事が多かったのです。 「しつけの悪い猫は、捨ててくる!」と言っては常に脅すので、子ども達も父親は「猫嫌い」と思っていました。 その主人が言う事なので、「邪魔者が1匹片付く」と喜んでいるのかと、私と娘はひねくれました。 主人に反発しながら、私も、「テツ」の苦しみを見るに見かねて、密かに安楽死の思いはよぎります。 でも、後少し、もう少し一緒にいたい・・・ 踏み切れませんでした。 心を決められない内にも、「テツ」の大きくて綺麗だった片目はつぶれてしまい、呼吸も苦しげに・・・。 無残で哀れでした。 決断したのは、娘でした。 獣医のもとへ、安楽死させる為、連れて行く事、平静にクルマを運転できる自信は、私にも娘にもとうていありません。 大嫌いな病院に連れて行かれ、そこで息を引き取る事は、あまりにも可哀想すぎます。 獣医さんに頼み、手が空いた時に自宅に来て貰う事にしました。 やがて、「1時間半後にお伺いします」と獣医からの電話がきました。 「時間が止まってほしい」と思いました。 娘は、「テツ」を抱いて自分のベッドに入りました。 いつものように、娘のうでまくらに頭をのせて、「テツ」は苦しげだが安心したように抱かれています。 2階の娘の部屋に先生を案内しつつ、私の足は震えていました。 先生が、注射を1回しました。 目を閉じてテツは静かに眠り始めます。呼吸もこころなしか静かです。 5分ほどして、「では・・いいですか?」と獣医はもう1本の注射を出しました。 涙をポロポロこぼしながら、娘は黙ってしっかりうなずきました。 娘にしっかり抱かれて、「テツ」の鼓動はだんだん小さくなりそして消えました。 獣医は、聴診器を当て、頷くと、そっと部屋を出て行きました。 私が、獣医を送って、部屋に戻ると、娘はベッドの中で、テツを抱きしめたまま「テツ!ごめんねぇ・・テツゥ!!」と小さく嗚咽していました。 が、1時間後、テツを大きなタオルに包むと、ベッドに寝かせ、娘は涙を拭いて、昼からのテレビ局の取材の仕事に出かけていきました。 ペット霊園に火葬にいくため、夕方、仕事から帰ってきた娘と準備していました。(冬のため、庭は雪が深く積もり、母猫の眠る庭には埋葬出来ませんでした。) すると、主人が言いました。 「お前達、そんな状態では車の運転が心配だから、俺が運転していくぞ」 火葬場まで30分、ずっと車の中で、無言の私たちに、運転しながら主人が言いました。 「こんなに可愛がって貰って、テツほど幸せな猫は、そういるもんじゃないよ。テツだって、きっとそう思っているさ」 声が湿っています。 はっとして見たら、こわばったような表情の主人の横顔に涙が・・ (え?) そういえば、前にもこんな顔していた事が・・・・ そう、黙ってチビタの穴を掘ってくれていた時の表情と同じでした。 息子の愛し方、娘の愛し方が対照的に違うと思ったけど、人にはそれぞれみんな違う愛しかたがあるんですね。 「それぞれの愛し方」 昨日の日記を書きながら、私は娘の強さに思いを馳せていました。 「お嫁に行く時は、このコを必ず連れていく」とまで可愛がっていた「テツ」を、いくら哀れに思ったからとはいえ、自分の胸に抱いて、自ら息の根を止めてやる事ができるとは・・・。 息子にはとうていできないことでしょう。 女性の方が、男性より逞しいということなのでしょうか・・? そして、あることを思い出しました。 私の父と母の話です。 私の足の股関節脱臼は、歩き始めてビッコをひくので分かった時は、すでに当時の医学では、ほとんど手遅れでした。(今は、3ヶ月検診で早期発見、矯正も簡単です) 旭川の病院で最初の治療を受け、失敗、そして最終的に小樽の病院で治ることが出来たのですが、これは最初の病院での話しです。 病院へ私を連れて行き、何とか治してほしいと頼む父母に、医師は「この年齢では矯正は難しいでしょう。つらい思いをして無駄な事をするより、手に職をつけさせて独りで生きていけるように考えてやる方がこの子のためです」と言いました。 それは、暗に、不具者では結婚も出来ないだろうから、一人で食べていけるように・・ということでした。 やって駄目なら諦めるから、なんとか矯正をしてみてと懇願する父母に、「お子さんには相当の苦痛がありますよ。泣いたり暴れたりしますが、親子共に、我慢していただかなくては」と医師は釘を刺しました。 足を、ハの字に開いて外れている股関節を正常な位置に戻し、固定する処置です。 大きな病院でも、麻酔はなかなか手に入りにくかったそうです。 麻酔もなしに、股関節をずらすのは大人でも気絶するくらい痛い。 処置室の外で待っている父母に、私の悲鳴が聞こえてきます。 悪い事をしてお仕置きだと思ったらしく、「痛いよ~~!止めて!ああちゃ~ん!ごめんなさい!」と、謝っている私の声が聞こえていましたが、そのうち人間のものとは思えない悲鳴になったとのこと。 父も母も、泣きながら廊下で耐えていました。 やがて、父は耐え切れず、「もういい!止めてくれ~!カタワでもいい!頼むから止めてくれ~!」と泣きながら怒鳴り、ドアを開けようとしました。 が、ドアには鍵が掛かっていました。 ドアに体当たりする父を、母は泣きながら止めたと言います。 1歳半の私は、二人の医師と二人の看護師の大人4人を跳ね飛ばし暴れたそうです。 その力はとうてい赤ちゃんとは思えなく、処置は困難を極めたと、看護師が後で親たちに言ったそうです。 けれど、そんな思いをして、はめた筈の私の足は、3ヶ月たってギプスを外してみると不成功でした。 その上、固定で固くなってしまった足の膝も足首も関節をほぐすため、それから3ヶ月、汽車に乗って通院しなければなりませんでした。 その通院の汽車の中で、私の運命を大きく変える出会いがあり、父母の死闘ともいえる10年が始まり、私の目茶目茶になった足は治ることになるのですが、それは又の機会に。 (上の「歩かせたい」にあります) 自分に助けを求める悲鳴に耐え切れず、治療を断念して、ドアに体当たりした父。 泣きながらそれを止めた母。 どちらも、子供を愛する強さに優劣はありません。 「テツヤの安楽死」を読み返してみると、私の父と母の姿もだぶってきます。 女性の方が強いのか・・そういうコメントもいただきましたけれど、そうではないと思います。 ただ、ストレスに強いのは男性よりも女性である事は、医学上も証明されています。 妊娠・出産・育児というストレスに耐えられるよう、神がそうお創りになったとか。 もし、男性が妊娠・出産を経験するら、とうていそのストレスには耐えられないでしょうと、医学博士が言っているのを聞いたことがあります。 |