オフィシャルブログに文字起こしがありました。
あちらのほうが読みやすいと思います。
http://888earth.net/staffblog/2011/05/youtube-1.html
http://www.youtube.com/watch?v=h3H2zjCkfeY
何か先ほど姜さんが直感というものが大事だとおっしゃいました。
だれしもが直感を持っているわけなんですけれども、でも、テレビに自分の好きなあこがれている、何か女優とか、男優が出てきて、「原発は安心で、CO2を出さないし、原発を何かいろいろ言う人がいるけれども、私は信頼しています」などと言うと、「あ、いいんだ」とみんな思うでしょう?
で、そういう直感というものが、それを私は原子力プロパガンダと呼んでいますが、東京電力なんか、年間270億円も使って、ありとあらゆる文化人、女優、俳優、タレントを使って、原発に関していいことしか言わない、テレビに出る人は原発の反対者は絶対出さないということをやり続けてきたので、皆さんの直感というものが「あ、こんな人たちがこんなことを言っているんだから」ということで簡単にどっかに行ってしまうんじゃないかと、情報操作をされているんじゃないかと思うんですね。実際、されてきたわけですし。
で、私もNHKで番組をつくっておりましたが、イラクで撮ってきたことを編集して、NHKのプロデューサーたちに見せたら、「アメリカと言っていることが違う」。
そのメディアをつくっている人たち自身が自分たち自身をそのプロパガンダ、自分たちがつくっているプロパガンダに染め上げていて、そこからはみ出そうとしないという大きな壁が存在しているんですね。
だから、もう1つ大きな困難というのは、そういうふうに情報操作が意図的に行われていて、それがあたかも非常に美しく、巧妙なやり方でやられているので、それに身をゆだねると、みんなそうだから、非常に心地がいいということがあるわけですよね。
で、その心地よさの中で、「ひょっとしたらこれはまずいんじゃないか」「これは危ないんじゃないか」「命にかかわることなんじゃないかな」「でも、そんなこと怖くて言えないよ。だって、みんなそうだって言ってるんだもん」という感じになるんだと思うんですよね。
もう1つは、じゃあ、そんな中で、「いや、やっぱり違うわ」と言うと、「あら、あの人、何か宗教でも始めたのかしら」、ほんとそうですよ。「原発やってる人は宗教よね」と、何かこうまたこれもものすごく巧妙に、「共産党じゃないかしら」とか、「ちょっと変わってるのよね」で、そして最終的には貧乏くじを引くんです。
原子力に対して、原子力という研究をする業界の中で、「それは危険をはらんでいることなんだ。だからこっちのほうに進めるべきではない」と言い続けてきた人たちは、すべて出世できていません。それは出世できないだけではなく、迫害されます。
立命館大学の平和研究所(国際平和ミュージアム?)にいらっしゃる安斎さんは、かつて東京大学で原子力の研究をしていらっしゃいました。彼は原子力は危ない、危険だ、だからそんなに進めるべきではなく、慎重にやらなければいけないみたいなことを言った途端に、彼の職場でだれひとりとして彼に口をきくということをしなくなりました。彼は11年間そこにいて、だれとも会話することがなくそこを辞めたんですね。
で、今、ちょっとテレビにも、ラジオとかにも意見を聞かれている小出先生は、私の「六ヶ所村ラプソディー」に出ていますけれども、彼もはっきりと原子力の危険というものをきちんと言っていらっしゃる方ですが、この方はもう60になろうとするのにいまだに助手で、助教授にすらなれていない。
つまり、私たちの日本社会の中で原子力に異を唱えるということは、まさしく経済的な貧乏くじを引くということに相当するわけですよ。何にも得にならないわけです。
それでも直感に従ってやりますかとなると、それはある一定の覚悟が必要になるんですよね。
だから、今、私たちに求められているのは、覚悟じゃないかなと思うんです。
じゃあ、その覚悟の中身って何なのかなと思うんですけど、私、姜さんが対談なさった森達也さんという映画監督とも仲がよくて、彼の作品をすごく尊敬していますし、ものすごくすばらしい作品だと思っています。
先ほどコーディネーターのオタニ(?)さんがおっしゃったシーンというのは、今、彼がおっしゃっているときに思い出したんですけど、あれは森達也さんが言っていたんじゃないかなと思うんですね。森達也さんの何かの文章で私は読んだのかもしれない、そしてそれを引用したのかもしれないと思うんですけれども、森さんは地下鉄サリン事件のオウムの映画をつくられた方なんです。
で、私、オウム真理教の彼のドキュメンタリーを見ている中で、ものすごく忘れられないシーンがあるんですね。今回の福島の事件でも、実はこのシーンを思い出したんですけど、私も1995年の3月20日にサリン事件が起きたときに、ちょうど霞ヶ関を、そのサリンがまかれる15分前に地下鉄に乗って通過したんです。危機一髪だったんですけれども、15分遅れていたら、私はサリンを吸って死んでいたかもしれないと思うんですが、そのシーンが、それはテレビのニュース映像を彼は使っているんですけど、サリンを吸って、その駅の通路で、あるいは階段で、苦しんだり、あるいはばたっと倒れたり、くの字になっている人を、次のサリンをまかれなかった電車がやってきて、ばーっとサラリーマンが出てきたら、そのサラリーマンは、「ちっ」とか言いながら、その倒れている人たちをまたいで仕事に急いで行ったんです。
つまり、善なるものというか、会社員として「遅刻してはいけない」ということが、そこに倒れている人に「どうしたんですか。大丈夫ですか」と言うよりも優先されている社会に自分は生きていて、これは恐ろしいことだなと。
続く
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